瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺

曼荼羅寺 第三巻所収画像000007
曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。

  1118(元永元)年の「高野大師御広伝」

「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」

意訳変換しておくと

「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、  これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」

1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』

讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」

これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。

一円保絵図の旧練兵場遺跡
善通寺一円保図
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。

「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」

以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。
② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。
③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。
④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。

東寺百合文書
東寺百合文書

 私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。

曼荼羅寺文書
東寺百合文書の中の曼荼羅寺関係文書一覧
曼荼羅寺再建は、だれが、どのような方法で行ったのか?
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
   善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。
ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
 つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
 彼は、廻国の山林修行僧だったことを押さえておきます。正式の僧侶ではないのです。
一円保絵図 中央部
善通寺一円保絵図(拡大) 我拝師山ふもとに曼荼羅寺が見える

この他にも、次のような修験者や聖がいたことが記されています。

件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
 
意訳変換しておくと

曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。

ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
 以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。 
 この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
弘法大師信仰と勧進聖

 彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……

意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました

さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、

  意訳変換しておくと

怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。

ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
曼荼羅寺
曼荼羅寺周辺遺跡図
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
 ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。

出釈迦寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場


 以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

DSC02611
空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

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出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
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善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
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参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
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1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

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善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

1 善通寺本尊3

 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
2善女龍王 神泉苑g
空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。ここまで見てきて感じるのは、古代の美馬には忌部氏の痕跡がないことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

  善通寺の僧侶たちにとっての課題は、自前の寺領を確保し、本寺である随心院から自立していくことでした。
それが実現するのは、南北朝末期の明徳4年(1392)のことでした。善通寺誕生院が、本寺随心院によって善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職に補任されたのです。その補任を守護細川頼元が安堵した文書には、次のように記されています。
讃岐國善通寺奉行并びに弘田郷所務職、同院主職以下の事、本所随心院の捕任等に任せ領状相違有る可からずの状件の如し。
明徳四年二月廿一日              右京大夫在判(守護細川頼元)
誕生院法印御房                     
文中にある「善通寺奉行」の具体的内容については分かりませんが、誕生院の有快譲状に「当寺一円奉行別当代事」とあります。ここからは、善通寺一円保と境内を含む別当代官のことのようです。この補任によって善通寺が得たものは次のようなものでした。
①本寺から派遣された別当の下にあった管理運営権が、代官としての地元誕生院の手に委任されたこと、
②年貢徴収などの権利が委ねられたことで、実質的支配権を誕生院が行使できるようになったこと
これは誕生院にとってだけでなく、善通寺の歴史の上でも、画期的な出来事と研究者は評価します。

それから約20年後の応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定されます。
請所というのは荘園領主(随心院)に対して毎年一定の額の年貢の納入を請負うかわりに、荘園管理を全面的に委任される制度です。鎌倉幕府は、平家方についた没収官領に御家人を恩賞として地頭に補任して請所を行わせる地頭請所(地頭請)を進めます。請所の請料は、作柄の豊凶に関わらず毎年一定とされたので、請負者が納入の約束を果たす限りは、領主側も確実な収入確保が見込めるので都合が良い仕組でした。しかし、時が経つに随って、請負者の未進や不正が発生し、領主との間に訴訟などのトラブルが多発するようになります。

誕生院が随心院の善通寺領請所に指定された時の請文(うけぶみ=誓約書)を見ておきましょう。
請け申す。善通寺御年貢の事
右、明年十卯自り、毎年三十五貰文分、早水損に依らず、堅く備進せしむ可し。此内五貫文に於ては、二月中其沙汰致す可し。残り三十貫文、十二月中所の如く運送仕り候。若し此の請文の旨に背き、或は損凶と云い、或は未進(と云い)、絆を左右に寄せ(いろいろ理由をつけて)不法の義を致さば、不日(やがて)所務職を召放たるるの日、此の未済分、欺き申すに依って閣かると雖も、不義に至りては、悉く員数(そのたか)に任せて御譴責に頂る可く、其時一言の子細中す可からず。乃って請文の状件の如し。
応永十七(1410)年十二月十七日                        
                  椎律師宥快
意訳変換しておくと

来年の応永18年から年貢として、毎年銭35貫文を、たとえ日照り、水損で収穫がないことがあっても確実に納入する。35貫目の内で5貫文は、2月中に運上し、残り30貫文は12月中に送付する。もしこの請文の内容に背いたり、自然災害を理由に年貢を納めないときには、所務職を解任された時に未納額に応じて責任を追及されても不服は云わない。

 こうして随心院は、年貢35貫文の確保とひきかえに現地から手を引き、かわって誕生院が寺領支配権を手に入れました。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
新宮小法師丸(五代宥栄僧正)に譲与する誕生院住持職

そして善通寺所領として、従来からの櫛無地頭職、萱原村領家職の次に次の2つが追加されています。
一所 当寺院主職事                                                  
一所 弘田郷領家職事         
これは請所となった寺領が誕生院住持の相伝所領なっていたことを示すと研究者は指摘します。また善通寺奉行についても、次のように記されています。
一 当寺一円奉行別当代の事、本所の計として契約する所也。

ここからは、善通寺の別当代官に誕生院が任ぜられていることが裏付けられます。相伝所領のなかには、櫛無地頭職のように有名無実のものもありましたが、宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、この宥快の時に確立したと研究者は評価します。

ところが、誕生院の在地領主と地位は長くは続かなかったようです。
応永29年(1422)本寺随心院は、弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、それまでの誕生院から一方的に天霧城の香川美作入道に換えています。これを見ておきましょう。
讃岐國善通寺弘田郷領家職并びに一円保所務職、寺家別当奉行等の事 仰せ付けられるの上は、寺役以下先例に任せて遅滞なく其沙汰致す可し。殊に内外の秘計を廻らし、興隆を専らに可く、緩怠私曲有る可からず。将に亦、御年貢早水損を謂はず、毎年四十貫文憚怠無く沙汰致す可し。其中伍貫文に於ては二月中に運上せしむ可し。残り5貫文は、十二月中運上す可し。万一不法仰怠の儀出来せば不日召放さる可し。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                                沙弥道貞判
随心院政所殿
意訳変換しておくと
讃岐國善通寺弘田郷領家職・一円保所務職、寺家別当奉行等の事に任じられた上は、寺役以下先例のように遅滞なく役目を果たします。寺領運営については、内外の運営方法を参考にして、スムーズな運営ができるように務め、遅漏や私利私欲のないようにします。また旱魃や日照りになろうとも、約束した毎年40貫文は憚怠無く納めます。その内、5貫文については二月中に運上し、せしむ可し。残り35貫文は、12月中に納入します。万一これを破るようなことがあれば、契約解消されても文句は言いません。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                       沙弥道貞判(香川入道)
随心院政所殿
この請書と応永17(1410)年に、誕生院の宥快が随心院と結んだものを比べて見ると次のようなことが分かります。
①年貢の請負額が、誕生院が毎年35貫文であったのに対し、香川美作入道は40貫文
②請所が弘田郷領家職だけでなく一円保所務職が加わっていること
一円保は、善通寺の寺領としては最重要の寺領です。一円保が加わって五貫文の増加では、あまりにも少なすぎる感じがします。わずか五貫文の請負額の差で、誕生院はながい苦労のすえにやっと獲得した寺領管理の地位を、在地武士(香川入道道貞)に奪われてしまったことになります。武士たちが請所になると、時を経るに従って約束された請負額も納めなくなり、横領されるのが時の流れでした。それが分かっていながら本所の随心院は、香川入道に切り替えたようです。地侍たちの「押領」が、どうにもならない所まできていたことがうかがえます。
この出来事から4か月後の応永29年5月14日の日付の善通寺に伝わる文書を見ておきましょう。
細川右京大夫(讃岐守護細川満元)
讃岐國善通寺領弘田郷領家職并一円保所務、西山安養院井びに寺家別富奉行の事、今年二月十二日随心院補任の旨に任せて領掌相違有る可からずの状、件の如し。
應永廿九年五月十四日         沙弥判(讃岐守護細川満元)
随(誕?)生院御房
冒頭に記された細川右京大夫とは、讃岐守護細川満元です。差出人の沙弥も満元のことでで、受取ったものが心覚えに袖に名前を記しておいたと研究者は推測します。文書の内容を意訳変換しておくと
善通寺領弘田郷領家職と一円保以下の所職を、2月12日の随心院の補任に任せて、随生院御房に安堵する

さて、この文書をどう解したらよいのでしょうか。弘田郷領家職は、先ほど見たようにすでに正月16日に、香川美作入道が補任されたばかりです。また受取り側の随生院御房とは、一体誰のことなのでしょうか。「随生院御房」は、善通寺や弘田郷の管領を委ねられたのだから、在地の僧のようです。そうとすれば、これは「誕生院御房」の誤字では?と研究者は疑います。その仮定の上に研究者は物語を次のように展開します。
①突然に思いがけず相伝の所職を随心院に召し上げられ、香川美作入道に奪われた誕生院は、驚いて本寺随心院に再任を訴えでた。
②その際に、請負額を美作入道同じ額の40貫文にあげてよいと契約条件の見直しを提示する一方、在地武士の請所によって、所領が押領される危険性を随心院に強調した
③善通寺の指摘に随心院は、あわてて所領を香川入道から取り返し、善通寺に返そうとした。
④ しかし、香川美作入道はいったん手に入れた有利な権利を手放すはずがない。
⑤そこで誕生院は、美作入道の主君である細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けたようです。
5月14日の文書の請所のなかに「西山安養院」の事が付け加えられています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
一当寺安養院坊数名田畠等事

ここからはこの時期には、安養院は誕生院の管理下にあったことが分かります。安養院は、徳治の絵図の香色山の麓に描かれている小院です。誕生院は弘田郷その他の請負が香川氏の手に渡ったとき、この寺の管理権も失ったことになります。ここからは香川入道が善通寺の小院の支配権を握っていたことがうかがえます。以前に見たように、中世の善通寺の院の中には武装化する者や、武士たちの拠点となっているところがあり、境内では乗馬訓練も行われていたことを見ました。この史料からも、中世善通寺が武士たちの軍事拠点としても帰農していたことが裏付けられます。

こうして香川美作入道は、善通寺の別当奉行および弘田郷・一円保などの請所を握るようになります。
彼は最初のうちはともかく、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなったようです。これは美作人道に限ったことではなく、武士の請所になった荘園はどこも似たり寄ったりの状態でした。あまりの年貢末進にたまりかねた随心院は、幕府などにも助けを求めています。そして、文明5年(1472)のころには、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げています。東西両軍の総大将であった細川勝元、山名持豊が相次いで没し、応仁の乱もようやく終りの兆がみえてきた時期です。しかし数十年の長期間にわたって請負代官の地位を利用して寺領内に根をはってきた香川氏の勢力が簡単に排除できるはずがありません。
 文明6年(1473)年2月の室町幕府奉行人の奉書に「同じく帯刀左衛門尉競望未だ休まず」と、随心院の訴えが載せられています。
香川美作を解任したものの、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めてやまないというのです。これは、「希望している」ということではなく、実際には帯刀左衛門尉が実力で現地を抑えていたと研究者は推測します。そして彼は故美作入道とつながりのある人物だったのでしょう。文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について語っている史料はないようです。ないと云うことは、随心院の力が及ばなくなったということです。

香川美作入道の請所となった一円保は、どうなったのでしょうか。
彼の請所が成立した年から8年後の永享2年(1430)頃ろ、善通寺雑掌から「同所田所職并得一名」を寺家に返付してほしいという訴えが出されます。同年12月25日にその返付を実施して雑掌に沙汰するように善昌という人物が香河(川)下野入道に命じています。善昌は讃岐守護の家臣であり、守護の命令を奉じて香川下野に伝えたようです。田所職とは、荘官の一人である田所に属した所領です。これと得一名田とがどこにあったのかは分かりません。
 「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
応仁の乱の間、善通寺一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていました。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
随心院御門跡領讃岐國善通寺寺務領一円保領家職の事、一乱中兵粮料所と為て預下され候と雖も、御門跡と為て子細候之間御返渡し申し候。然らば当年貢自り御知行有る可きの状件の如し。
文明十六年正月二十三日            高松四郎左衛門   文知判
雑掌宮野殿
兵糧料所であった間、 一円保から上る年貢は、兵糧米として武士に給与されていたようです。おそらく守護は有力家臣に預けて保の支配をさせたはずです。その有力家臣として考えられるのは、西讃守護の香川氏です。寺領の返却が書状の命令通りに実行されたかどうかも分かりません。それは、この書状が随心院領一円保の名がみえる最後の文書だからです。 一円保も、香川氏など周辺の武士の争奪のうちに、善通寺の手を離れていったようです。

時代の形勢は、地方の一寺院が独力で所領を確保できるような状態ではなくなっていました。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。働て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
預り状として一応契約のかたちをとっているものの 年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用するとあります。所領を預かる期間も、五年間と定めてはありますが、不法のことがなければ、「年月を申し定め候とも、尚々も御あつけあるへく候」とあって、実質的には無期限と同じ契約内容です。これでは契約の意味はありません。誕生院領萱原村は、滝宮氏の手に渡ってしまったことを暗示する内容です。
善通寺の所領、良田郷領家職、生野郷内修理免などは、弘田郷や一円保以上に不安定な要素をかかえていました。これらの所領もまた、一円保や萱原村などと同じ道を、それらよりももっと早くたどつていったと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①南北朝末期の明徳4年(1392)に、善通寺誕生院は本寺随心院から善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職を得て、経済的自立への路のゴールに近づいた。
②応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定された。
③こうして宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、宥快の時に確立した。
④しかし、応永29年(1422)本寺随心院は、誕生院の領主的地位の基盤であった弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、一方的に香川美作入道に換えてしまった。
⑤そこで誕生院は、讃岐守護の細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
⑥この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けた。
⑦美作入道は、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなった。
⑧そこで文明5年(1472)には、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げた。⑨文明6年(1473)年2月には、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めた。
文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について記された史料はなく、随心院の力が及ばなくなったことがうかがえる。善通寺領は西讃守護代の香川氏やその一族によって横領されたようだ。このような押領を繰り返しながら、香川氏は戦国大名の道を歩み始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川氏の善通寺領侵略 善通寺市史566P


前回は鎌倉時代初期の承元三年(1209)8月に、左大臣で讃岐国守でもある藤原公継(徳大寺公継)が善通寺に、生野郷内の「重光名見作田六町」を善通寺御影堂に納めよという指示を讃岐留守所に出していることをみました。この名田からの収入は、御影堂のためだけに使用せよとの命で、善通寺にとって数少ない自前の収入源になります。これが生野修理免のはじまりです。 それから40年後の宝治3年(1249)2月のことです。
九条道家
九条道家
善通寺にとって大きな意味を持つ寄進が、九条道家によっておこなわれます。
九条道家は4代鎌倉将軍藤原頼経の父親にあたり、当時の朝廷の最大実力者でもあったようです。まずは道家が何者であったのかを彼の事績を年表化して見ておきましょう。

九条道家系図

   九条道家は、第4代将軍藤原頼経の実父です。
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺。次期将軍に道家の三男・三寅(当時2歳・後の藤原頼経)
1221年 承久の乱で朝廷方敗北。道家も摂政罷免される。
1225年 北条政子死去。道家の子・頼経が正式に征夷大将軍に任命。
承久の乱後の朝廷では、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨。
1228年 岳父西園寺公経の信任を受けて関白就任。
1229年 道長の長女(藻璧門院)を後堀河天皇の入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)出産。
1232年 後堀河天皇が即位し、道家は外祖父として実権を完全掌握。長男の教実は摂政となっり、九条家は朝廷の最大有力家として君臨
1238年 鎌倉の頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会。慈源がわずか20歳で天台座主就任。道家は叔父の大僧正良快を戒師として出家。法名は行恵。「禅閤」として権勢を誇る。
  こうしてみると、九条道家は岳父の西園寺公経のポストを引き継いだ最重要人物であることが分かります。同時に、讃岐国守も引き就いています。そして、岳父の西園寺公経は、弘法大師御影信仰を持ち、善通寺に生野修理免を寄進した人物だったのです。これも引き継いだようです。
 九条道家は、権勢が絶頂にあった宝治3年(1249)2月、讃岐留守所に次のような庁宣は発しています。
庁宣は、次の2つの内容からなります。その第一の部分を意訳で見ておきましょう。
寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、しばしば猪や鹿が追われて寺の霊場内に逃げこみ、そこで命を落すことがある。浄界に血を流すことは罪業の至りであり、まして寺の近くでの殺生は法によってもとどめられていることである。よって生野郷西畔を、普通寺領に準じ、四至を定めてその内での殺生を禁止する。

 四至とは東西南北四方の境界のことで、殺生禁断が定められた境界は、次の通りです。
東は善通寺南大門の作道を限り、
西は多度三野両郡の境の頸峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南舵の大道(南海道?)を限る
これを地図で示してみる以下のようになります。
善通寺生野修理免2
善通寺生野郷修理免

もちろんこの地域が普通寺の所領になったわけではありませんが、「殺生禁断」エリアという形で寺の支配力を拡げていくための重要アイテムになります。
国司庁宣の2番目の内容は次のようなものです。

善通寺は大師降誕の霊場であるにもかかわらず、年を経て荒れている。そのため殺生禁断を定めた境界内の公田(国所有田)のうち12町を寺の修造料にあてることにする。
 ただし、この地域には、他人に与えられた給田、除田(租税免除の田)などがあるから、それを寺領に混入してはならない。また施人された一二町以外の郷田に対して寺が手を出してはいけない。 一方修理料にあてられた田地に対しては、国衙も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為て、其沙汰致さしむべし」。
 
 ここからは善通寺伽藍修繕のために、生野郷の国衙領12町を善通寺の管理・支配にまかせるとあります。庁宣によると、この寄進は「禅定太閤=出家後の九条道家」の意向であることが分かります。
こうして善通寺は、九条道長によって、生野郷に次の二つの権益を確保することができました。
①国衛領である生野郷内で新しく12町の田地を寺領とすることができたこと。
②生野郷西部に殺生禁断エリアを認められ、寺の支配を拡げていく基盤を獲得したこと。
善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領

しかし、生野修理免は大きな問題を抱えていました。下文には次のように記されています。
但し、①地頭土居給并に②御厩名等は、寺家之を相綺うべからず。

①「地頭土居」というのは、堀内とも呼ばれる地頭の屋敷地です。「土居給」は、その屋敷地に附属して課役が免除された田地で、一般には地頭の支配がもっとも強く及んでいるとされます。ここからは、生野修理免には地頭の屋敷や直営地があったことが分かります。これが善通寺の紛争の相手となります。
 また②「御厩名」は、国衛留守所の役所の一つである御厩の役人の給名田です。これも地頭が兼帯していたようです。このような武士の所領が寺領エリアの中にあったことになります。それに対して「寺家相綺うべからず」と、寺が干渉してはならない治外法権の地とされたのです。
 彼らは国衙領の有力武士であって、寺の支配下にはありません。さらに、地域の豪族として寺領化以前から土地や農民に根強い勢力をもっていたはずです。それまで生野郷を事実上の領地としてきた郷司・地頭にとっては、今回の寄進は、結果的には自分の支配エリアを善通寺に削られたことになります。そのため善通寺に対して、いろいろな示威行為を繰り返したようです。
 これに対して善通寺が頼みにできるのは、寺の領知権を認めた国衛のいわば「お墨付」だけなのです。
しかし、国衛の実質的な支配者は、郷司らの仲間の留守所役人=在庁官人です。具体的には綾氏につながる讃岐藤原氏が大きな力を持ち、生野郷の地頭もその一員だったかもしれません。これでは国衙の保証もあてにはできません。
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
 例えば善通寺側では、正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇に願って「生野郷免田相違あるべからず」という次のような国司あての院宣をだしてもらっています。
当國善通寺申す生野郷免田事、代々の國司庁宣に任せ、向後相違有るべからずの由、早く下知せらるべし者、院御気色此の如し、乃執達件の如し
十二月廿四日                                     宮内卿
讃岐守殿
しかし、この院宣もあまり効果はなかったようで、その後も郷司の侵害は続きます。
弘長三年(1263)年12月になって、国司の調停で、寺と郷司との間で「和与(わよ)」で相方の譲り合いによる和解が成立します。
和与条件をとりきめた留守所下文には次のように記されています。
「且は郷司和与状に任せ、 向後の違乱を停止すべき、 生野郷内善通寺免田山林荒野開資寺領の事」
「宝治二年施人の際の四至を示し、四至の内側になる南大門作道通の西側では、寺領免田はもとより、さきに寺領の内に混じてはならないとされていた他人の給田である社免人土居田等まで「寺家一向進退すべし」として寺の支配下に入れること、
意訳変換しておくと
四至の外側にあたる作道以東に存在する寺の免田(承元二年に施入された田地?)は、四至内の公田ととりかえ(相博)て寺領にまとめること。

このとりきめは結果として、善通寺側に、多くのものをもたらします。その上に以下のようにもあります。
「自今以後、此旨を存し、國使人部丼びに本寺の妨を停止」

ここからは、租税の徴収などのため国の役人が寺領内に入ることや、本寺随心院の干渉をやめさせることが定められたことが分かります。いわゆる不輸不入権を手に入れています。これは寺領発展の大きな武器になります。
生野修理免についての今までの流れを年表化しておきましょう。
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④有岡大池の完成 一円保絵図の作成
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出
上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
DSC01108
有岡大池と大麻山

 有岡大池の築造時期を、もう少し詳しく紋りこんでおきましょう。
②で免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。
それが14世紀初頭に描かれた⑤の一円保絵図には、誇らしげに描き込まれています。
一円保絵図 有岡大池
一円保絵図に描かれた有岡大池

しかし、不輸不入権を得た生野修理免は、それ以後の文書の中には登場しません。史料がないことは、寺領が寺の手をはなれていったことだと研究者は推測します。善通寺の生野郷修理免の支配は、南北朝動乱のうちに周辺武士たちの押領や侵入で有名無実となっていったようです。
一円保絵図 東部
善通寺一円保絵図
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善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領
国衙によって集められた随心院の善通寺領一円保は、善通寺と曼荼羅寺の2ヶ所に分かれていました。これは郷でいうと、多度郡の弘田、仲村・良(吉)原の三郷にまたがっていたことになります。そのうち弘田郷から一円保を除いた残りの部分は、藤原定家の所領だったようです。
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藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。

東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 明月記(めいげつき)
明月記
定家の日記「明月記」には、寛喜二年(1230)閣正月12日に次のように記されています。
讃州弘田郷の事、彼郷公文男左衛門尉信綱請く可き由申す。何事在る哉の由相門の命有り。左右只厳旨に随うの由答え申しおはん了ぬ。

意訳変換しておくと
讃岐弘田郷の公文の息子左衛門尉信綱が弘田郷の請所を希望しています。どう思うかと相門からきかれたので、相円の意向に随う由を答えた

ここでの登場人物は、「讃岐の信綱・藤原定家・相門」の3人です。「信綱」は弘田郷の請所を希望しています。請所というのは荘園の役人などが領主に対して一定の年貢納入を請負う代りに、領地の管理を任される制度です。信綱は弘田郷の在地武士であることが分かります。
  それでは、定家に相談してきた「相門」とは誰なのでしょうか」

相門とは、貞応2年(1323)まで太政大臣だった西園寺公経のことのようです。公経は、源頼朝の姪を妻にもち、鎌倉幕府と緊密な関係にありました。承久の乱後に幕府の勢力が朝廷でも強まるようになると、太政大臣に任ぜられ権勢をふるうようになります。定家は、公経と姻戚関係にあった上に、短歌を通じたサロン仲間でもあり、その庇護をうけていたことがこの史料からは分かります。

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり - たけじいの気まぐれブログ
           西園寺公経=相門

 定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
地頭請所

 当時は、請所になると次第に請負った年貢を納めなくなり、実質的に領地を奪ってしまう「悪党」が増えてきた時代です。
ところが信綱は、約束に忠実だったようです。翌年の寛喜三(1231)年正月19日の「明月記」に次のように記されています。

此男相門自り命ぜらるる後、弘田事虚言末済無し。田舎に於ては存外の事歎。                  

意訳変換しておくと
(弘田郷公文の息子信綱)は、相門から請所を命ぜられた後、弘田郷の事に関して虚言なく行っている。田舎においては近頃珍しい人物だ。                  

定家は他の所領で在地武士の押領に手をやいていたようです。讃岐の信綱が約束を守ることに驚いているようにも思えます。弘田郷公文の信綱は、もう一度明月記に登場してきます。

明月記」の寛喜二(1230)年10月14日に、次のように記されています。
  讃岐佛田一村國検を免ぜらる可きの由信綱懇望すと云々。昨今相門に申す。行兼を仰せ遣わし許し了ぬ由御返事有り。

意訳変換しておくと

  讃岐の弘田郷の佛田一村での国衙による検注を免除していただきたいとの願いが請所の信綱からあったので、相門(西園寺公経)に伝えた。行兼を派遣して免除することになったという返事を後ほど頂いた。

 この年の10月に請所となった信綱からの「検注免除」依頼を、西園寺公経に取り次いだところ、早速に免除完了の報告を得ています。「鶴の一声」というやつでしょうか、こういう口利きが支持者を増やすのは、この国の国会議員がよくご存じのことです。
 ここからは弘田郷は、この時点では国衛領であったことが分かります。その国検を免じることができる立場にあった公経は、当時讃岐国の知行国主だったと研究者は推測します。そうすると定家は、知行国主の公経(あるいは道家)から弘田郷を俸禄的に給与されていたことになります。つまり彼の弘田郷領主としての支配権は強いものではなく、現地の信綱から送ってくる郷年貢の一部を受取るだけの立場だったことになります。そのため讃岐の信綱の公文職や請所の任命も、実際は公経が行っていたのです。藤原定家が世襲できるものではなかったのです。定家の弘田郷領主の地位も一時的なもので、長続きするものではなかったと研究者は考えています。

弘田町
善通寺弘田町
以上をまとめておくと
①定家の日記「明月記」の1230年正月の記録には、弘田郷領下職領の請所の任命の記事がある。
②そこからは定家が弘田郷の領下職を持っていたことが分かる。
③しかし、その権利は永続的なものではなく当寺の讃岐国主の西園寺公経から定家が俸給的に一時的に与えられたもので、永続的なものではなかった。
④請所に任じられた弘田郷信綱は信綱は、年貢をきちんと納める一方、国衙の検注免除も願いでて実現させている
承久の乱後に地頭による押領が進む中で、都の貴族たちが年貢徴収に苦労していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

細川頼之 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

貞治元年(1362)細川頼之は南朝の細川清氏を白峰合戦で破り、讃岐の領国支配を着々と進めていきます。
それまでの頼之は、中国管領として中国地方を幕府の支配下に治めることが第1の課題でした。ところが白峰合戦の翌年の貞治二年に、頼之は中国管領の職を解かれ、以後四国管領を命じられます。そして貞治4(1365)年ごろには、従来の分国である阿波・伊予に讃岐・土佐を加えた四国全域の守護となり、分国経営を強化していきます。その際の有力なアイテムとなったのが、足利尊氏から認められた次のような権限でした。
①武士同士の所領争いの裁決を現地で執行する権限(使節運行)
②敵方所領の没収地を国内の武士に預け置く権限
③半済といって寺社本所領の年貢の半分を兵粮料として取り上げ、それを配下の武士に宛がう権限
これの権限を行使することで讃岐武士団の家臣化は進められます。
それを年表化して見ておきましょう。
1365年4月 香川郡由佐村の国人山佐弥次郎に、安原城における合戦の軍忠を賞す。
1366年12月 山佐氏の一族の由佐又六に井原庄内の御寺方半分を預け置く
由佐氏は、以前に顕氏から感状を与えられているので、顕氏の被官でした。それが改めて頼之の被官となっています。『全讃史』によると清氏討代後、頼之は安富盛長・香川景房・奈良元安などの有力被官を外から呼び寄せ、讃岐に配置したとされます。
また頼之は、讃岐の寺社保護と引き替えに、これらを統制下に置いていきます。
1363年4月 宇多津の西光寺への禁制発令
     9月 宇多津の歓喜寺に土器保田所職を安堵
1364年3月 寒川郡長尾の八幡池築造し、寺社領用水確保
 このように協力的な有力寺社については、保護と安堵をあたえ、国内の安定化を図ります。こうして貞治年間には讃岐の国人・寺社は、細川頼之に属するようになります。その結果、白峰合戦以後は、讃岐の南朝方が全く姿を消し、讃岐は細川氏の勢力の基盤となります。
 頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となります。
そのため、義満の政治を補佐するために上京し、讃岐を不在にすることになります。讃岐を離れる一ケ月前に頼之の弟頼基(のちの頼元)は、善通寺に対して規式を定め、諸堂の勤行、鎮守の祭礼、寺僧の行儀などを励行させ、軍勢の寄宿、寺領の押領、境内の殺生などを禁じたりして、細川氏の讃岐の寺院支配の方針を示しています。それが貞治6年(1367)7月に出された「善通寺興行条々」(9ヶ条)で、次のように記されています。
一 寺内坊中軍勢甲乙人(誰彼の人)寄宿有るべからざる事。
一 寺僧弓箭兵杖を帯ぶるの條、向後一切停止せしむる事。
一 寺領并に免田等、地頭御家人甲乙人等押領を停止し、寺用を全うすべし。
一 同寺領以下諸方免田等の事、縦え相博為りと雖も、 寺中に居住せしめず俗鉢と為て管領せしなる事、固く停止する所也。向後に於いては、寺領免田等の内知行の輩の事、俗を止めて綺いせしめ、寺家に居住すべき也。  
一 罪科人跡と号し、恩賞に宛て贈ると稀し、寺領井びに寺僧供僧免田等相混えて知行せらるるの段、向後に於ては、縦え共身に至りては罪科有りと雖も、所帯に於ては、寺領為るの上は、寺中の計所として沙汰致すべし。
一 寺務の仁、寺川を抑留せず、勧行并びに修造を守るべし。
一 寺内栞馬の事、今自り以後停止せしむべし。
一 寺領の境内、殺生先例に任せて停止せしむべし、次いで山林竹木雅意に任せ(勝手に)伐り取る亨、子細同前。
一 守護使先例に任せ、寺領に人部せしむべからざる事。
  意訳変換しておくと
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
②寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、例え相伝されたものでも、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。
⑤ 罪科人の跡とか恩賞地とか称して、武士が寺領や寺僧の免田を知行するようになれば、前条の趣旨に反することになるので、寺領や寺僧免田の場合は、たとえ所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと、寺中の計らいとする
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生は先例通り禁止とする。また、山林竹木を勝手に伐り取ることも禁止する
⑨徴税などのために守護使はこれまで通り、寺領に入らせない。
「法令で禁止令が出されるのは、現実にはそのような行為が行われていたから」と考えるのが、歴史学の基本的セオリーです。禁止されている行為を見ていくことにします。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿」していたことがうかがえます。これらが入道化した棟梁が率いる武士集団だったのかもしれません。
②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化していたことがうかがえます。また⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたようです。以上からは、南北時代の善通寺には軍事集団が駐屯し、武装化していたことがうかがえます。比叡山のように、僧兵を擁し、武士たちが入り込み、軍事的な拠点となっていたと私は考えています。
①②⑦は、それらの軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。
③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。
③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
④は、寺の名で年貢免除の特権を認められている土地は、先祖伝来と称していても、寺に居住していない俗人や武士が持つことを認めない。それを所有するのは、寺家に居住する僧に限るとしています。ここからも善通寺が武士(俗人)の拠点となっていたことがうかがえます。
⑤は、武士が寺領や寺僧の免田を知行しないようにすること。そのために、寺領や寺僧免田の場合は、所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと。
これらは、実行されたかどうかは別にして、寺側の打ちだした「寺領から武士の勢力を排除して寺僧の一円支配を強化する」という方針を、守護としても認めて協力することを示したものと研究者は考えています。ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。
また「条々」からは、善通寺には寺領とならんで「寺僧供僧免田」があったことが分かります。
例えば宥範譲状の中の、次のものがそれにあたるようです。
一 良田郷内学頭田二町内壱町円明院(第三条)
一 良田郷郷大勧進国二町(第四条)
第四条の良田郷大勧進田二町は、真恵によって大勧進給免として設定されたものです。善通寺内の院や坊が自分の所領免田を持っていたのは誕生院だけではないようです。宥範譲状でも良田郷内学頭田のうち一町は円明院(赤門筋の北側にあった)の所領だといっています。
次の文書は、勧学院領に対する院主・別当の干捗を止めて勧学院の領掌を保証した守護細川満元の書状です。
讃岐国善通寺誕生院内勧学院領の事、早く寄進状の旨に任せ、所職名田出等院主別営の綺いを停止せしめ、先規に任せ領掌相違有る可からずの状件の如し。
應永七(1400)年七月十二日      右京大夫(花押)
誕生院兵部卿法印御房
院主というのは誕生院主、別当は善通寺別当のことのようです。勧学院は誕生院内にありながら(観智院の横にその跡がある)、誕生院からも、また善通寺別当の支配からもある程度自立した所領を寄進されていたことが分かります。こうしてみると南北朝以後室町のころになると、誕生院にせよ、他の寺内の小院や僧坊にせよ、それぞれ所領を持ち、在地領主的性格を強くしていたことがうかがえます。そして、それらの主の中には、周辺の武士団の一族出身者もいて、強いつながりがあったことがうかがえます。宥範と岩崎氏にも、強いつながりがあったとしても不思議ではありません。
以上をまとめておくと
①南北朝時代の動乱期に、讃岐武士たちは細川頼之によって束ねられ家臣団化された
②讃岐の組織化された家臣団は、細川氏の中央における暴力装置としてよく機能した。
③細川頼之は讃岐の有力寺社にも安堵・保護を与えている
④その中の「善通寺興行条々」(9ヶ条)からは、保護のための条件としていろいろなことが記されている
⑤そのひとつが寺内の「非武装化」であり、俗人の寺内からの排除である。
⑥これを逆に見ると当寺の善通寺では、入道化した武士が寺内を拠点として、乗馬訓練などを行っていたことが分かる
⑦深読みすると、善通寺防衛のために武装集団を寺内に招き入れたり、僧兵集団の存在もうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 南北朝・室町時代の善通寺領559P

鎌倉時代の荘園は、つぎのふたつの耕地から成り立っていました。
①荘園領主の直営地
②名主の所有地である名田
このふたつの耕作地は、どのように耕作されていたのでしょうか?
これを善通寺一円保を見ながら考えていきたいと思います。
テキストは「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領409P」です。
一円保絵図 寺作と名田

善通寺一円保絵図

一円保絵図については、以前にお話ししましたので説明は省略します。
善通寺一円保 寺作地

一円保絵図 寺家作地

絵図には「寺家作」と記されている所が何カ所もあります。これが①の「領主の直属地」のようです。寺家作地は一箇所に集中しているのではなくいくつかの坪に分散しています。しかし、よく見ると「寺作」があるのは、絵図の左下に集まっています。
一円保絵図 現地比定拡大
一円保絵図を現在の地図に落としてみると、東南隅が①四国学院

このエリアは現在の②農事試験場から③こどもとおとなの病院のあたりで、弥生時代には善通寺王国の中心地であったことが発掘調査から明らかにされています。また、このエリアの首長墓として最初に造営される野田院古墳の埋葬者の拠点も、このあたりにあったと研究者は考えています。それを裏付けるように、7世紀後半に最初の古代寺院である仲村廃寺が建立されるのも⑥の当たりになります。ある意味では、この当たりは善通寺王国の穀倉地帯でもあった所です。
 ところが絵図をよく見ると、出水から導水された用水路は、このエリアまでは伸びてきていません
  水がなければ水田化はできません。研究者が一円保の水田分布状態を坪毎に示したのが次の表です。

一円保絵図 田畑分布図
一円保の水田化率
これを見ると、左下あたりは、用水路は未整備なのに水田化率が高いことがうかがえます。これはどうしてでしょうか?
農事試験場の出水
農事試験場周辺の古代流路と出水 黒い帯が旧流路
現在は農事試験場をぐるりと回り込むように中谷川は流れています。しかし、古代においては、中谷川には、金倉川も流れ込んだこともあり、川筋は幾筋にも分かれて善通寺王国の中央部を流れていたようです。その流れの間の微高地に善通寺王国は成立していました。そのため現在も農事試験場内の北側には、大きな出水が3つほど残されています。

農事試験場 出水
農事試験場内に残る出水

 また、地元の農事試験場北側の農家の人に聞くと、中谷川周辺は湧水が豊富で、田んぼの水は湧水に頼っていたといいます。それを裏付けるように今でもポンプアップした水が灌漑に使われています。以上から、寺作地の集中する農事試験場周辺は、湧水地があり水には困らないエリアであったと私は考えています。つまり、一円保の中で「一等地」だったのではないでしょうか。そのために、寺家作を農事試験場周辺に集中させていたことを、押さえておきます。

開発領主、名主、田堵の違いを分かりやすく教えてください(;´Д`A10世紀... - Yahoo!知恵袋
名主と荘官・下人との関係
寺家作といっても寺僧たちが自分で鍬をふるい種子をまいて耕作していたのではなく、農民たちが請作していました。この寺家作にまじって「利友」、「末弘」、「国包」などと名が記されているのが名田です。絵図にはこのほか「光貞」、「宗光」、「是宗」、「朝順」、「重次」、「国定」、「吉末」のあわせて10の名田がみえます。しかし、西側の曼茶羅寺側の記載が略されているので、これが全部ではないようです。それぞれの名田も一つにまとまってあるのではなく、寺家作田と同じように分散しています。たとえば、「光貞」の名田は五つの坪に分散しています。
敦賀の中世
名主の位置
名主たちは一円保内で、どんな役割りをもっていたのでしょうか?。
前回見た弘安三年の随心院政所下知状には、その始めの方に次のように記されていました。
所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。

名田は名主の所有地であると云いましたが、これによれば名田は名主が自由に売ったり買ったりできるような私領ではないようです。その支配権はあくまで「本所御進止」、即ち荘園領主随心院の手にあったのです。
それでは名主と名田とは、どんな関係にあるのでしょうか?
下知状のなかほどに、次のように記されています。
本所役と言い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。
意訳変換しておくと
公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。

真恵は本所役ならびに寺家役という負担責任を果すことで、公文職に任ぜられたようです。これは荘官である公文職のことですが、名主についても同じことが云えるようです。つまり名主とは、基本的には一定地域の年貢および公事の納入責任者として荘園領主から任命されるものなのです。名主が納税の責任を負っている田畠が名田ということになります。名主は、彼の名田を、所有している下人などを使って直営耕作するのがふつうです。しかし、名田全体の耕作を行うのではなく、直営地以外は他の農民に請作させています。

第21回日本史講座まとめ①(鎌倉時代の農村) : 山武の世界史

 名主自身が別の名主の名田を請作している場合もあるようです。
そして、名主は名田内の年貢を取り集めて納入し、また名田単位に課せられる夫役を負担します。その責任を果すために、名田を直営したり、他の農民に割り宛てて請作させたり、名田の用水の使用などを管理したりしていたようです。名主の名田所有とは、こうした名田の経営、管理や、名田内の年貢・公事の徴収といった権限が彼の手にあるということで、土地所有権限までは及んでいなかったことを押さえておきます。
ブログ猫間障子

一円保の耕作者には次の3階層の農民たちがいました。
①名主
②名主に所属する下人
③寺家作地や名田を請作する農民=小百姓
③の小百姓は、下人のように直接名主に隷属していませんが、名田請作や年貢徴収などを通じて名主の支配下にありました。名主は、有力農民が領主によって指名される上層身分です。
名田と名主
国司の徴税請負人化と名田・名主の出現

名主は、 どのようにして生まれたのでしょうか
直接それを明らかにする史料はありませんが、研究者は次のように推測します。
①名主は、もともとは国衛領を請作していた請作農民の流れをくむ
②しかし、請作農民たち全てが名主になった訳ではない。
③名主の先祖は、寺領指定地内に住居を持ち、寺に対して在家役を負担していた農民たちの中で、地位を上昇させた者達である。
国司徴税請負人化

一円保の寺領化について、そこに住んでいた農民たちは、どんな態度をとったのでしょうか?  
①平安時代後期になると、在庁官人などの主導する国衙支配が次第に厳しくなった。
②郡や郷は、郡司・郷司の徴税請負で彼らの所領化となり、そこでの課役、夫役の徴収はますます強化され、農民たちにとっては耐え難いものとなった。
③そこで農民たちは圧政から逃れるために、国衙直営地から支配や負担のゆるやかな荘園に逃げ込んで荘民となった。
このような状況が進む中では、一円保となった所に住んでいた農民たちは、これを国衙支配から脱する好機としてとらえたと研究者は推測します。多度津郡司の綾貞方は、在地領主権を進める上で有利と見て、一円寺領化に協力したことを前回は見ました。同じように農民たちも負担の軽減と地位安定を求めて、東寺―荘園領主側に協力的だったと研究者は推測します。
荘園公領制
荘園公領制
 一方荘園領主である随心院も、有力で協力的な農民を名主に任じ、他の農民たちより優越した身分を与え、荘園支配体制を築こうとしたことが考えられます。このようにみてくると、名主は一円保成立の当初からその内に生活してきた農民たちということになります。
 用水配分に関して本寺の随心院に列参して絵図を提出し、自分たちの要求を訴えた百姓たちの中心も彼らであったのかもしれません。一円保には、名主たちを基本的構成員としてまとまり、共同体があったと研究者は考えています。
一円保絵図 中央部

絵図のなかには、次のような荘官の名も見えます。
①東南部三条七里一〇坪のところにある「田ところ(田所)」
②曼荼羅寺の近くの「そうついふくし(惣追捕使)のりやう所」
 荘官には名主のなかでも特に有力なものが任ぜられます。そして名田には年貢や公事の免除や軽減の特権が与えられていました。彼らの中から在地領主に成長して行く者も現れます。

寄進系荘園

 しかし、善通寺の弘安の政所下知状にみる公文の場合には、その名田畠には本所役、寺家役が課せられていて特権をもっていたようにはみえません。また在地領主として発展している様子もありません。それどころか名田畠を売払い、質に入れて没落していく姿が写ります。公文綾貞方とその子孫たちは、 一円保寺領化のなかで在地領主として成長を目指したのかも知れませんが、それはうまくは行かなかったようです。その前に障害となったのが、在地領主権力(公文綾貞方)が強くなることをきらう本所(荘園領主随心院)と一般名主たちの勢力たちだったのかもしれません。田所や惣追捕使などの実態はよく分かりませんが、彼らも同じような状態に低迷していたと研究者は考えています。名田は、名主の所有地ではなく管理地にすぎないことを押さえてきました。

 年貢滞納などの余程のことがなければ、名主の地位を追われることはないし、子孫相伝も認められます。そうすると次第に私領的性格が強くなって、公文覚願のように名田を売ったり質入れしたりするものもでてきます。このような状態が進めば、 一方で名田を失って没落する名主もふえ、他方では名田を買い集め強大になる名主もでてきてきます。名主層の「不均衡発展と階層分化」の進展です。
 鎌倉時代後期以後、この名主層の両極分解と小百姓の自立化によって、荘園支配体制が解体していきます。随心院領一円保では、政所下知状の終りのところでは、次のように記されています。
今自り以後沙汰人百姓等の名田出等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科為る可き也。

ここには、名田の買い集めを禁止してあくまでも従来の支配体制を維持しようとしています。これに対して、在地領主への道をめざす有力名主のなかには、それに反対するものも現われてきます。

文書の端裏に永仁二年(1294)に注記がある伏見天皇のだした綸旨には、次のように記されています。
讃岐國善通寺々僧等申す。当寺住人基綱 院宣に違背し佛聖以下を抑留せるの由、聞し食され候間、厳密仰せ下さるの処、猶綸旨に拘わらず弥以って張行すと云々、自由の企太だ然る可からず候。寺内経廻を停止せらる可き欺、計御下知有る可きの由、天氣候所也。此旨を以って洩申さしめ給う可し。乃って執達件の如し。
六月十二日
少納言法印御房
左大排(花押)
意訳変換しておくと
 善通寺の寺僧たちが、善通寺一円保の住人基綱が、仏に捧げるべき年貢を抑留し、ご祈祷を打ち止めていると訴えてきた。基綱の「自由の企て(勝手な振舞)」は許されないので「寺内の経廻(立ち廻り)」禁止し、寺領から追放せよという綸旨を発した。国衙役人は、ただちにこの綸旨を実行するように

綸旨に「当寺住人基綱」とあるので 、基綱は御家人武士ではありません。おそらく新しく台頭してきた一円保内の有力者でしょう。
 買い集めてきた田畠が随心院の命令で半値で取り返され、発展の道を失った不満が年貢の掠奪や勝手な振舞となって現れたのかもしれません。支配者側から見れば、基綱はまさに悪党とよばれるべき存在です。善通寺から綸旨を示された讃岐守護は、兵を差し向けて基綱を領外に追い払ったことでしょう。
   領主と幕府から追い立てられて行き場を失った悪党たちのなかには、山に入って山賊となり、海に入って海賊となるものが多くいました。正和年中(1313~17)に、讃岐の悪党海賊井上五郎左衛門らが数百騎で東寺領伊予国弓削島荘に討ち入り、合戦をしています。基綱もあるいはその仲間のうちにいたかもしれません。
 鎌倉時代の末期には、中小御家人の窮乏、悪党の活動などで社会は不安と不満にあふれ、一方幕府内では、貞時・高時など得宗とよばれる北条氏の家督相続者に権力が集中し、得宗直臣の御内人と有力御家人との対立が深まって権力闘争が渦巻いていました。そして京都では後醍醐天皇が倒幕の計画を着々と進めていたのです。こうして鎌倉時代の荘園秩序は、次の勢力から大きく揺さぶられるようになります。
①地頭など武士領主の押領
②悪党の活動
③年貢減免などの要求をかかげて闘争する農民
終りに一円保における善通・曼奈羅寺の地位を見ておきましょう。
 一円保は本所随心院の支配が荘官・名主にまでおよんでいたのは、見てきた通りです。そのため善通・曼茶羅寺の一円保支配権(荘務権)は限られたものだったと研究者は考えています。領内の用水管理や国衙や他領との折衝などは善通寺が行っていますが、それも本所である随心院の指導下においてのことのようです。
 弘安の政所下知状によると、保の名田には本所役と寺家役の二種の課役が課せられていますが、本所役は随心院、寺家役は善通・曼荼羅寺に納められたようです。この比率は2:1程度だったと研究者は推測します。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。

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まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。

別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
 
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」

元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度
②寛文10(1670)年  高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く
③元禄4(1691)年  5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。

延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。

ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
           善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで   
            播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
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善通寺江戸開帳の「元禄目録」
 江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。

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元禄開帳末尾

その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。

善通寺薬師如来像内納入文書 (2)
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている

 この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。

1 善通寺本尊2
善通寺本尊薬師如来像
 それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
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大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。
 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。

「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」

 江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
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円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。
そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
次の光歓は円龍の念持仏を開眼した浄厳弟子の蓮体について新安祥寺流を受け、白峯寺等空法印からも同法を授かった人物です。

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善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える

光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。

慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年

密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視しますから、師から弟子に教えが受けつがれると血脈という系図のようなものが与えられます。真言宗におけるある流派の教えが受け継がれていった法脈がこうして形成されていきます。そして、その証として肖像画が作られていくことになります。

こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。


以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」

古代や中世の職人は一か所に定住せず、流浪の民でした。
鎌倉時代から手工業技術の進歩にともない、さまざまな職人が登場するようになります。室町時代になると、技術が一層発達し、社会的分業が進むにつれて、技術の担い手としてさまざまな職人が現れます。その職人の姿を紹介したのが「職人歌合」で、絵画史料として職人たちのいきいきとした姿を私たちに伝えてくれます。

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15世紀に作成された「三十二番職人歌合』では、登場する職人は32種でしたが、室町時代末期の『七十一番職人歌合』では142種にまで増えています。ここからも技術の発展ととともに、社会分業がすすんでいることがうかがえます。

建保職人歌合 鋳物師
 建保職人歌合 鋳物師
 例えば工匠の場合には15世紀後半から、鋳物師は16世紀になると特定地域に定住して営業を行うようになります。それまで遍歴をしていた職人たちが定着化して、職人集団を形成し「産地」となっていきます。そのような中で、讃岐にも職人たちが登場してくるようになります。
そこで史料に出てくる「中世讃岐の職人」たちを追いかけて見ようと思います。今回は絵師を見ていくことにします。
 保元の乱に破れた崇徳上皇が讃岐に流されてくる8年前の宝治2年(1148)2月のことです。弘法大師信仰の高まりを受けて、高野二品親上が善通寺の大師御影の模写を依頼してきます。しかし、讃岐には受戒した浄行の仏師がいないため、京都から仏師鏡明房成祐を招き模写させています。つまり平安末期の讃岐では、絵師がいなかったのです。

建保職人歌合 中世の職業・職人・商人 仏師
建保職人歌合 仏師
 ところが鎌倉時代末期になると、讃岐にも絵師がいたことが史料から分かります。
四国霊場の本山寺の本堂は、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に次のような墨書銘が書かれていることが発見されました。
「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」(1300年)

ここから、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かり、国宝に指定されています。本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立され、そこに二天像が収められます。

イメージ 5
本山寺二天門の二天王像
その像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は大見の住人と記されています。
大見は三野郡下高瀬郷に属し、西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。三野湾は、中世には本門寺辺りまで入り込んできていて、その浜では秋山氏によって塩浜が開発され、西浜・東浜では製塩が行われていました。作られた塩は、宇多津や平山(宇多津)・多度津などの輸送船がやってきて畿内に運んでいたことが兵庫北関入船納帳から分かります。三野湾沿岸は、それらの輸送船が行き交う瀬戸内海に開かれたエリアで、外部からも多くの中世仏像がもたらされていることは以前にお話ししました。そのような大見に、仏師・下総法橋がいたことになります。

c_iyataniji弥谷寺全図
弥谷寺
大見の東に位置する天霧山の山中には、山岳寺院として多くの修験者や高野聖等が活動していた弥谷寺があります。弥谷寺は廻国行者や高野聖など活動拠点で、山門周辺には彼ら庵がいくつも点在していたことが絵図から分かります。また、周辺には阿弥陀信仰の拡がりをしめす石造物がいくつかあります。ここを拠点に高野聖たちは、大見への「布教活動」を行っていたようです。そのような高野の聖たちの中に仏師・下総法橋の姿もあったのかもしれないと私は考えています。そして、本山寺などの求めがあれば、仏像を制作していたのでしょう。彼の作った仏像が、まだまだ讃岐のどこかには残されているのかも知れません。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年
弥谷寺(四国遍礼名所図会)

②には「絵師、善通寺正覚法橋」とあります。正覚法橋は善通寺のどこに住んでいたのでしょうか。
そのヒントを与えてくれる史料が善通寺には残されています。
善通寺一円保絵図 1

善通寺一円保絵図 原図
「讃岐国善通寺近傍絵図」で「一円保絵図」と呼ばれています。幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図で、墨で書かれたものです。この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れると研究者は指摘します。素人の農民が書いたものではないようです。これだけの絵図を書ける絵師が善通寺にはいたのです。それでは誰が描いたのでしょうか。
一円保絵図 全体
善通寺一円保絵図(トレス図)

表紙をあけたところに、次のように記されています。
「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

差図(指図)とは絵図面のことです。ここからは、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に、善通寺寺領の農民たちが京都の随心院に「烈参(列参)」した時に提出したものであることがわかります。これは、本山寺の二天王像の彩色を絵師・正覚法橋が行った6年前のことになります。以上を考え合わせると、善通寺が一円保絵図を書かせて、それを百姓たちが京都の本山・随心院への陳情時に持参させた、その一円保絵図を書いた絵師も、正覚法橋であったとことが考えられます。
 一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。そのために善通寺は、配下の絵師に「一円保絵図」の作成を命じたとしていおきましょう。

史料からは、中世の善通寺には次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。  (数字は、絵図上の場所)
 善通寺については平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあります。現在の赤門前周辺が寺院関係者の住居が集まっていたようです。これに対して、下側(北側)が、百姓の家々ということになります。それを絵図上で拾っていくと、次のような表記があります。

一円保絵図 中央部
善通寺一円保の僧侶の居住地点

寺僧以上が           (地図上の番号と一致)
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」 (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」          (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
 残念ながら「あわのほけう(阿波法橋)」はありますが「絵師・正覚法橋」の表記はないようです。正覚法師は出てきませんが、彼も善通寺の東院周辺に庵を構えて生活していたことが見えてきます。
 僧侶の房の位置から分かることは、位の高い寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいることです。東院からの距離が、僧侶間の身分・階層関係を空間的にも示していると研究者は指摘します。その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性はあります。例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師などの職人が善通寺周辺にいたのです。

善通寺一円保絵図
西院と東院

 現在の善通寺の院房は、東院と西院の間に密集して並んでいます。
これが見慣れた景観なので、昔からそうだったのだろうと私は思っていました。しかし、西院が姿を現し、善通寺の中核を占めるようになるのは中世の後半になってからのことです。中世以前までは東院が中心で、その東側の赤門前に、僧侶たちは生活していたことを一円保絵図は教えてくれます。

   以上をまとめておくと
①平安末期の宝治2年(1148)2月には、善通寺の大師御影の模写のために京都から仏師鏡明房成祐が招かれているので、讃岐には絵師がいなかったこと
②徳治二(1307)年の「善通寺一円保絵図差図」は、大和絵の技法が見られプロの絵師によってかかれていること。
③その6年後1313年に、本山寺の二天王像の彩色を「絵師、善通寺正覚法橋」がおこなっていること
④ここからは鎌倉末期の14世紀初頭の善通寺には絵師がいたこと
⑤絵師は、他の僧侶たちと同じように善通寺東院の東側の赤門周辺で、他の僧侶集団の中で生活していたこと。
⑥同時期に三野の近江には仏師がいたこと。その背景には三野湾の交易と弥谷寺の僧侶集団の形成があったこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) | 和三郎, 若松 |本 | 通販 | Amazon

 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   古代律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の職務の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは9世紀から10世紀にかけては、古代集落史において、かなり大きな変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか
これは逆の視点から見れば中世に続く集落の多くは、平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、そそ律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙の姿があったのは7世紀初頭から10世紀の間ということになります。
律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。この背景には、郡司をとりまく情勢に大きな変化があったようです。その変化のために郡衛(郡家)は衰退・消滅したようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたことになります。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって、その理念は次のようなものでした。

「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったと云えます。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうようになります。そうなると倉庫群の必要はなくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司制度の改変・哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下します。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったことをここでは押さえておきます。

その変化を生み出したのが受領国司の登場です。
 それまでの律令国家の地方行政は、都から派遣された国司によって運営されていました。国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官で、この連帯責任制によって運営されました。
 
 ところが、9世紀後半になると、国司のなかの最上席の者に権限と責任が集中するようになります。この最上席の国司が受領(ずりょう)と呼ばれ、受領が中央政府に対して各国の租税納入の全責任を負う体制が確立します。
 そして徴収は、これまでの郡司にかわって、受領国司が請け負うことになります。その見返りとして政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った受領国司は、有力農民である田堵を利用します。
 10世紀になると、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名」にして、租税の納入を請け負わせます。このような徴税の仕組みを「負名体制」と呼びますす。
受領国司

田堵が請け負った田地は、田堵の名前をとって名(みょう)とか名田と呼ばれました。太郎丸が請け負えば太郎丸名、次郎兵が請け負えば次郎兵名になります。このように田堵は名の耕作・経営を請け負っていますから、負名とも呼ばれるわけです。
 田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。

田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 それが負名体制の成立によって、郡司に頼らずに、受領が有力農民(名主)を直接把握する徴税体制ができあがったことになります。

つまり郡司の存在意義がなくなったのす。その結果、郡司の執務場所である郡家(ぐうけ)が衰退し、受領の執務場所である国衛の重要性が増していきます。受領は、田所・税所・調所など、国衛行政を部門ごとに担当する「所」という機関を設け、それを統轄する目代(もくだい)に郎等をあて、行政の実務を担わせるようになります。このような体制が出来上がると、官物・臨時雑役という新たな租税が徴収できるようになります。
 一方受領国司は、臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。
これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。
こうなるとますます郡司の出る幕がなくなります。受領にとって、郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 こうして地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力は、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海の生家の佐伯直氏との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。

1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。
 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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     一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


 寺や神社の文化財を調査する時に、役に立つのが「宝物目録」のようです。今ある宝物と、過去に「宝物目録」のリストに挙げられたものを比べれば、その目録が作られた時に、どんな文化財があったか分かります。そして、うまくいけば宝物がどのような場所に安置されていたのかも分かります。さらに、それがどんな由来で、伝来したのかも見ることができます。寺社調査の「有力史料」が、宝物目録と云われる所以です。今回は、善通寺の宝物リストを見ていきましょう。
   テキストは 渋谷 啓一 「 善通寺出開帳記録から見る「宝物」の形成  」 香川県歴博調査報告書2009年  です。

第11回先達車遍路 in 善通寺♪ : 四国八十八ヶ所お遍路日記
瞬目大師

 善通寺にはいくつかの寺宝目録があるようです。
その多くは、寺の縁起や由緒を語る『多度郡屏風浦善通寺之記』などと同じ木箱に納められています。なかでもいちばん規模の大きな目録は近代、大正五(1916)年に作成された目録で、動産登録的な意味合いがあるようです。これを見ると、善通寺が所有する当時の宝物・文化財が一目で分かります。
 一方、江戸時代に作成された寺宝目録としては、ご開帳の時に出品した宝物を載せたものがあります。
 今回とりあげる寺宝目録は、
①元禄九年(1696)の「霊仏宝物之目録」
②宝暦九年(1759)の「霊像宝物目録」
のふたつです。①を元禄版、②を宝暦版としておきます。どちらも出開帳の時の目録ですので、当時の善通寺の宝物の全部を含んでいるとは限りません。しかし、それだけに選りすぐれの宝物たちが選ばれています。それを見ることによって、当時の善通寺当局の自らの宝物への意識がうかがえるというのが研究者の思惑です。
目録を見る前に、善通寺の出開帳の様子と、再建への動きを見ておくことにしましょう
 江戸時代になり天下泰平の世の中になり、戦国の時代が遠くなる17世紀半ばになると江戸や大坂、京都などで各寺院の秘仏を公開する出開帳が盛んに行われるようになります。
 その目的は、都市の住人の参詣を催し、収益をあげることでした。寺院の中には、戦乱の中で伽藍を失った所が数多くありました。しかし、寺領を失った寺院は経済的困窮から伽藍再建が進まなかったようです。そんな中で、次のような有力寺院が開帳による復興費用工面という手法を取り始めます。
東日本大震災復幸支縁「信州善光寺出開帳両国回向院」(平成25年4月27 ...
延宝四年(1676) 石山寺が、江戸で行った出開帳
元禄五年(1692) 善光寺の出開帳
元禄七年(1693) 法隆寺の江戸出開帳
 法隆寺は聖徳太子信仰の中心地で、この出開帳でも聖徳太子信仰を中心に出品宝物が選ばれ、多くの信者が訪れ、期待してた以上の収益をあげ、堂宇復興に成功します。このような動きを見て、善通寺も動き始めます。
回向院 出開帳
         「江戸名所図会」の回向院開帳の様子
 中世以来、聖徳太子信仰と弘法大師信仰は「太子信仰」として一連のもののように広まっていました。法隆寺の出開帳が聖徳太子なら、善通寺は「弘法大師誕生の地」として、弘法大師信仰を目玉に据えます。今まで進まなかった金堂復興資金を、江戸や上方での出開帳でまかなおうとしたのです。
情報紙「有鄰」560号|出版物|有隣堂 - Part 2
元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年に江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
          善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
          播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
 結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。

 さて、残る課題は五重塔です。
 再建の動きは、金堂が復興した直後から始まりますが、今度は順調には進みません。その動きは「善通寺大塔再興雑記」に、詳しく記されています。最初、住職の光胤は多宝塔での再建を目指したようです。それが三重塔に変更され、光国が住職になると五重塔での再建計画にグレードアップされていきます。そのため当初予定した建設資金よりも大幅にふくれあがります。
 そのような中で宝暦12年(1762)に、桃園天皇から五重塔再建にむけての許可が下ります。再建工事は進み、天明八年(1788)に上棟、文化元年(1804)に入仏供養をおこない完成という形で進みます。
この五重塔の再建でも、善通寺は出開帳をおこなっています。
①元文5(1740)年 江戸・京・大坂での出開帳
②宝暦5(1755)年 善通寺での開帳
②宝暦6(1756)年 網子での出開帳
  多くの人々が住む都市へ出かけていって開催される出開帳は、いろいろなリスクをともないます。宝物輸送や管理・警護、開催準備、など、ややもすれば出費がかさみ、時には赤字に終わる場合もあったようです。出開帳の場合、成功(=教線拡大と収益確保)するためには、多くの人々が共鳴し賛同してくれるような「大義名分」が必要です。そのためには開帳趣旨をはっきりとさせて、そのねらいにあった出品宝物を選ぶことが求められます。
高野山・奥之院(その6)・・・大師入定信仰: 倫敦巴里

 善通寺の場合は、弘法大師信仰が売りです。

弘法大師空海が誕生した善通寺の復興が趣旨です。具体的には第一期は金堂の復興、第二期は五重塔復興ということになるのでしょう。そのためには「弘法大師空身誕生の地にふさわしい出品リスト」が必要になります。具体的に云えば、次のようなものが宝物(展示品)が欲しいところです。
①空海幼少期の姿
②父母の姿
③幼少期の事績にまつわる霊宝
④誕生地ゆえの信仰資料(後世の優れた作品など)
 つまり、このようなねらいのもとに、どんな宝物がそろえられたのか、そこに善通寺当局の主張や意識が見えてくると研究者は考えているようです。

残された「元禄目録」のデザインを見てみましょう

DSC04184

 寸法は、縦約30㎝ 横172㎝の折本装で、表紙には紺紙を用い銀で秋草が描かれています。表紙中央やや上に標題「霊仏宝物之目録」を打ちつけています。本文の料紙は雲母入りの紙が使われます。
 首題は
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、

末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。
DSC04188

ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の御覧に際し作成された目録のようです。
うだ記紀・万葉/桂昌院
桂昌院(家光側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の実権者

 桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、出開帳出品についても吟味が十分なされたことがうかがえます。料紙に薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれの宝物についての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 次に宝暦目録をみてみましょう。
 こちらは善通寺の手控えとして書き出されたものです。
表紙には標題が「善通寺誕生院霊像宝物之記」と墨書されています。
冒頭は「勅願所讃岐国屏風浦五岳山功位大領佐伯善通之寺 御誕生院霊一宝警目録」と書かれています。裏表紙見返り部分に。次のように記されます。
「右九番之縁起ハ、宝暦六子年於播州網干津ノ宮開帳ノ時、筆記シテ示之。
 宝暦五亥年於寺門開帳之時ハ十四番トセリ。木像大師護摩堂並毘沙門・吉祥天・渡唐天神右五ヶ所二分ツ故ナリ。散失センコトヲ恐レテ令浄書之一帖トスルナリ
 宝暦九己卯年十月 日 権僧正光国識
            右筆 宇佐宮僧真境
別表に掲げた四十六件の宝物を、1番から9番までのグループ(輸送時の収納櫃のグループ)ごとに記し、注記を宝物名称の後に付けています。第三番のグループの末尾には
「各々善通寺奥院七種宝物なり」
とあり、初めて「七種宝物」という呼び方が登場します。善通寺にとって重要な意味をもつ宝物という意味なのか、いくつかの宝物名の右上に墨色の「○」印が記されています。

 掲載されている宝物リストについてみてみましょう。
善通寺宝物リスト
左側の元禄目録は、
1~6までは彫刻
7~18までは書画
19に「稚児大師像」があるものの
20~24は工芸品、
25~34は経典(書跡)
35・36は古文書・絵図
と全部で36です。それがジャンル別に区分されて並べられています。各ジャンル内では「大師作」と伝わるものをまず最初に持ってきて、その後の配列は年代順です。
 彫刻については、幼少期の空海像・空海の請来品を、メイン宝物と考えていたようです。この目録からは、ジャンル別に配列されたはいますが、誕生地にまつわる「大師作」ものを選定の第一基準としてリストアップしていたことが分かります。
 選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
 次に、約半世紀後の宝暦目録をみてみましょう。
 宝暦目録は奥書にあるように網干の出開帳時の梱包リストです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
 しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
 また、先に述べた「○」印の宝物は、10・14・15・16・17・18・37・42・43で、
①出開帳の主軸となる一群
②後半に配置された善通寺創建時の資料
③中世の盛時を物語る資料(亀山院の寄進と伝える紺紙金泥法華経)
になります。元禄期の第一基準であった「大師作」の宝物は、振り分けられており、重要度の基準が変わってきたようです。
 両者のリストをつき合わせて、元禄期になかったものが、宝暦期には選ばれた宝物を研究者は探します。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
一字一仏法華経序品
 一字一仏法華経序品

次に研究者が注目するのは「七種宝物」という言葉の登場です。
 現在の弘法大師空海ゆかりの「七種霊宝」は、
①一字一仏法華経序品
②金銅錫杖頭(いずれも国宝指定)
③仏舎利
④袈裟
⑤水瓶
⑥鉢
⑦泥塔
の七件だそうです。ところが宝暦目録の「七種宝物」と、現在のものとはちがうっているものがあるようです。⑥の鉢はリストになく、幼少期の空海が作ったといわれる⑦泥塔は、両目録ともに、他の「七種宝物」から離れて配置されています。ここからは「七種宝物」は、江戸時代にはまだ特定化していなかったと研究者は考えているようです。
金銅錫杖頭2
 宝暦の第二期出開帳にあたり、江戸や上方の都市住民に「弘法大師誕地」をアピールするためのプロモート戦略として「七種宝物」という概念が新たに作り出されたのかもしれません。それは、瞬目大師に続く新しいアピールポイントになっていきます。
金銅錫杖頭

 以上をまとめておくと
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①父善通のために空海が建立した寺が善通寺
②空海の母は、玉依御前
 これも出開帳のアピールの中で生まれ、高揚した意識かもしれないと思うようになりました。
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成 
    香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年

 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

i-img1200x900-1566005579vokaui1536142

金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
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本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

一円保絵図 原図
一円保絵図
善通寺宝物館には、一円保絵図と云われる絵図があります。

一円保絵図 東部
一円保絵図トレス図

寺の伽藍と背後の五岳山、周辺に広がる寺領を描いた縦約80㎝横約160㎝の絵図です。もともとは善通寺の本寺であった京都山階の随心院に保管されていたようです。それが明治40年(1907)に善通寺に持ち帰えられ、現在では重要文化財に指定されています。絵図は小さくたたんで表紙がつけてあり、表紙をあけたところに、次のように記されています。

「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

「差図(指図)」とは絵図面のことです。
この記入から、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に善通寺寺領の農民たちが京都に上り、随心院に提出したものであることがわかります。この地図がどうしてつくられ、京都の本寺に保管されていたのでしょうか?この絵図を見ていくことにします。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

まずこの絵図に描かれている鎌倉時代末期の善通寺の伽藍をみてみましょう。

一円保絵図 中央部

 絵図は普通の地図とは異なって南が上になっていて、北から南を見る形になります。
右が西、左が東です。絵図の東より、やや南側(上側)に善通寺の伽藍が描かれています。ちなみに、絵図の方形は106㍍×106㍍で一坪にあたります。青く塗られているのは、川や用水路のようです。詳しく描かれています。制作意図と関係があるようです。
まずは善通寺の伽藍にズームインしてみましょう
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図 

①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。二つめの四角は(K)五重塔の基壇で、まん中の点は(J)塔の心礎のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されていないようです。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。

zentuji128一円保差図
善通寺一円保絵図 善通寺伽藍部分
一円保絵図 善通寺伽藍

⑤金堂の下にあるのは(E)講堂で、『流浪記』に破壊して後、「今新に造営された」と記されている建物です。
⑥絵図でみると、善通寺の伽藍配置は門・塔・金堂・講堂とならびますので四天王寺式の配置であったことが分かります。
⑦金堂の右下にみえるのは(F)常行堂で、塔と同じく延久の大風で倒壊しましたが、道範が訪れた時には新しく造営されていました。
⑧『流浪記』には、金堂の左下に描かれている二重の宝塔に、大師の御影が納められているとあります。その後御影を安置する(B)御影堂が建てられました。金堂の左に見える建物がそれです。⑨宝塔は、寛文の絵図では法花(華)堂となっています。
⑩講堂の左にあるのは(C)護摩堂、右にあるのは閻魔堂で、境内の右上隅に柴垣様のもので囲まれているのは(M)鎮守五社明神、その下に(L)鐘楼がみえます。

17 世紀の讃岐国善通寺における西院伽藍の変遷について4

⑪伽藍の右(西側)中央から直線の道がのびており、その先にあるのが(I)誕生所です。
⑫左右に囲む塀のある門を入ると三方に柴垣を廻らせた境内があり、中央に御堂が建っています。道範が鎮壇法を修して造営し、木彫の大師像が安置された御堂でしょう。左に小堂、右に石塔が二基描かれています。
⑬誕生院の裏の小山は八幡山で、山上には弘法大師の出身氏族である佐伯氏の祖先をまつる祖廟堂があり、遊園地が設けられて、家族連れのピクニックなどに最適の地でした。今は、削られて駐車場になっています。
⑭八幡山のうしろの山が香色山で、麓の安養院は善通寺の子院の一つです。
⑮香色山のうしろの山は筆ノ山、そのうしろの山は行道所のある我拝師山で、他の山々は略されているようです。
一円保絵図 有岡大池
善通寺一円保絵図
 次に善通寺の周囲の一円保寺領を見てみましょう。
 絵図に引かれている縦横の線は条里の区画です。これを前回に示した寺領条里図とくらべると、ほとんど一致します。ここからは12世紀に国司藤原経高によって善通寺の周辺に集められた一円化寺領が、そのまま一円保になったことがうかがえます。
3善通寺HPTIMAGE
善通寺一円寺領坪付図

 よく見ると善通寺周辺の寺領は詳しく描かれていて、境内の東側の地域(現赤門筋)には、特に家が多く描かれています。この辺りは現在でも市の中心地で、早くから住居地として発展していたようです。

善通寺一円保の位置

この地域と境内周辺の地名を見ると
「そうしゃう(僧正)」
「そうつ(僧都)」
「くないあしやり(宮内阿閣梨)」
「ししう(侍従)」
「あわのほけう(阿波法橋)」
などの僧名を思わせる注記が見えます。
一円保絵図 北東部

そこに住んでいる僧侶の房があったのではないかと研究者は考えているようです。善通寺には「安養院、玉泉院など四九の子院が寺領内にあった」と伝えられています。子院は有力な僧の住房から発展したものが多く、絵図の僧房の中にも、のちに子院になったところがあるかもしれません。

 「行政機関」を探してみましょう
絵図の左上のところに「田ところ」とあります。これは田所で、寺領の田地を管理する役人です。絵図の右下の曼荼羅寺の上には「そうついふくし(惣追捕使)のりよう所(領所)」という記載があります。惣追捕使も寺領役人で、領内の治安を担当します。
 公文とあれば、そこが年貢収納などに当る公文という役人がいたところで、寺領役人の中心地だったことが分かるのですが、この絵図では公文は見当たらないようです。
  絵図左下のまん中あたりに石塔が描かれています。
これは遊塚(ゆうづか)と呼ばれていました。空海が真魚と呼ばれた子供の頃よく遊んだところで、仙遊原と名付けられ、その古蹟を伝えるために建てられた塔です。伽藍の左上にみえる「くらのまち(倉の町)」は年貢類を納める倉のあったところ、左端の木が描かれている坪の下にある「とうし くらのまちりよう(当寺倉の町領)」は、倉の維持に必要な費用を出す領地のようです。


  絵図の左側下半分に、宗光、光貞、利友、重次など人名のような記載があります。
これは名田で、年貢・公事(雑税・労役)の割り付け単位になったようです。名田につけられた名前は名田からの年貢・公事の納入責任者で、名主といいます。名田が成立したころ(平安末、鎌倉初期)には、実際にその名の名主が年貢の納入責任を負い、名田の管理経営も行っていたようです。しかし、時代が経つにつれて名主の名前も変わり、田地も切り売りされたり、質入れされたりして所有者がばらばらになって、次第に名田の名前はただの地名のようになっていきます。
 それでも、旧名田からの租税は名主の家柄のものがとりまとめて納めていたようです。彼らは当時も、村落の中心的地位にいたようです。この絵図は周辺の荘園との水争の解決を本寺に求めて上京する際に作成されたものと研究者は考えています。絵図を持って上京し、随心院に列参したのも彼ら名主だったのかもしれません。
 絵図の同じ部分に寺家作と記されているところは寺の直属地です。といっても善通寺が下人などを使って直接経営しているのではないようです。寺領内の小農民(小百姓)に土地を貸し小作化していたようです。名田内の田畠も小百姓によって小作されていたところが多かったようです。
1087壱岐湧
「壱岐湧」

 善通寺周辺の田畠は2つの水源から流れ出る水によってうるおされています。
 一円保絵図 有岡大池

水源の一つは図の右上に①「ありを口(か)」と記されている池で、この周辺は「古代善通寺王国の王家の谷」でいくつもの前方後円墳がならぶ聖域です。大墓山古墳と菊塚古墳の間の谷を流れる弘田川の源流をせき止めた池が有岡大池です。この池が古くから造られていたことが分かります。ここから流れ出す②弘田川は、現在でも誕生所の裏を通って、多度津の白方で瀬戸内海に流れ出ています。

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二頭出水
 もうひとつの水源は、絵図の左上(東)にみえる3つの出水(湧水)です。

一円保絵図 北東部

「をきとの」
とみえるのは、生野町木熊野神社の南側にある「壱岐湧」とよばれている出水です。その東は字がかすれていて読めませんが「柿俣の井」で、磨臼山の東麓にある出水のようです。3つ目は名前は記されていませんが、現在の②二頭出水だといわれます。絵図からは、水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。四国学院の図書館建設に伴う発掘調査からは、北流して旧練兵場方面に導水されていたことを推測させる弥生後期の用水路跡もでてきています。これらの湧水が弥生時代以来の善通寺周辺の水田の重要な水源であったことが分かります。古代善通寺の発展の原動力となった湧水群です。

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 五岳の我拝師山
善通寺文書のなかに、善通寺の住僧たちの訴えを裁いた国司庁宣があります。
その第三条に、善通寺の寺領の用水は生野郷の「興殿と柿俣」の出水に頼っていて、もしこの出水からの用水が来なかったら寺領の田んぼは干上がってしまうという訴えがあります。ここからは、出水周辺の勢力からの供水妨害があったことがうかがえます。善通寺の管理権は、東の出水付近までは及んでいなかったようです。

一円保絵図 現地比定
善通寺一円保の範囲

3つの出水は寺領の外、国司支配下の公領生野郷にあります。有岡の大池も国衛の築造でしょう。

そうすると用水の確保は讃岐国司との交渉になります。善通寺だけの交渉では相手にしてもらえず、本寺の随心院にのり出してもらわなければなりません。善通寺寺領の百姓の上京は、その請願陳情のためだったのではないかと研究者は考えているようです。そう考えれば、絵図に両水源とそれからの用水の流れが丁寧に描かれている理由が見えてきます。絵図は、説明資料として作成されて京都に持参され、これに基づいて状況説明が京都の本寺に行われたのではないでしょうか。善通寺周辺が詳しく書かれているのに、曼荼羅寺周辺の寺領の描き方が簡単なのは、両水源からの水掛りに無関係だったからと考えれば、納得がいきます。
1善通寺
江戸時代の善通寺伽藍と五岳
 善通寺一円保絵図は、誰が書いたのか?
 この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れます。これは素人の農民の絵ではありません。それでは誰が描いたのでしょうか。研究者は「絵図の作成には善通寺が関わっていた」と考えているようです。例えば、この京都陳情から6年後の正和二年(1313)に作られた豊中町本山寺の二天王像の彩色は善通寺の絵師正覚法橋が行っています。善通寺には、専属の絵師がいたのです。それだけの要員と組織があったことが分かります。

一円保絵図 現地比定拡大
善通寺一円保の比定図拡大

 また、一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。

   こうして、11世紀後半からの末法の時代に入り、本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた善通寺に、反転の機会が訪れます。それは一円保という形で寺の周辺に寺領が定着していくのと足並みを揃えるかのように始まります。
参考文献 鎌倉時代の善通寺 善通寺史所収


            
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善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。

3つの善通寺創建説
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状には、次のように記します。
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」

ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。

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第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に、次のように記します。

「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」

また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したとされる『弘法大師御伝』にも次のように記します。

「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」

   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、次のように記されています。

「佐伯善通建立の道場なり」

 以上、善通寺に残る一番番古い文書には大師建立説がみられました。しかし、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことを押さえておきます。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。善通を空海の父とするようになるのは、近世になってからのことです。

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 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の「先祖の建立、大師再建説」です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、高野山の山内抗争に巻き込まれ、讃岐に配流された学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、次のように記されています。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと

そもそも善道寺は、弘法大師のご先祖の俗名を寺の名としたと言われる。退転していたのを、大師が修造したときに時に、本の名前が改められなかったのであろう。

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。それと、善通寺には中世には一時的に「退転」していたことを押さえておきます。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。

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善通寺五重塔(明治建立)
そして、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には、建立の年次が次のように明記されるようになります。

 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
 
 ここで弘仁四年(813)の落成が伝えられています。ここで注意しておきたいのは、空海の父は田君(公)で、その法名が善通とされていることです。「田公=善通・法名説」が登場します。そして父の法名にもとづいた命名であったとを記します。この『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通(=田公の法名)=空海の父」と記されることになります。

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 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。

空海 太政官符2
空海の出家記録 戸主佐伯直道長の戸口同姓真魚(空海幼名)
第一には、空海が31歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。当時の戸籍には一戸あたり何十人もの人数が記されていて、何家族かが一緒にされていました。戸主とされている道長は、お祖父さんの名前か、一族の長だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。

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善通寺金堂(東院)
第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。

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  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期の寺院が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。ここからも退転状態だったことがうかがえます。

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善通寺東院の金堂土台 古代の礎石が積まれている

 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていました。それが再建されるのは鎌倉時代初期になってからです。ところが、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には、次のように記されています。
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ

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善通寺金堂 元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
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                善通寺金堂の古代寺院礎石

この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。

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善通寺金堂の古代寺院礎石

 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
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 元禄11年に再建された際には、大きな土製仏頭が出てきました。それが宝物館に展示されています。目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。

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   以上をまとめると

善通寺伽藍の歴史2
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
230
①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
DSC01390善通寺
五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

IMG_8067善通寺
 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
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 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
DSC01193

この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
関連記事は
参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

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丸亀の宿は船頭の旅籠 
 順風に恵まれて弥次・北を乗せた金毘羅船は、三日目の夕方には東汐入川の旧港に入港します。前回に話したとおり、大坂の船宿に申し込むと、船から讃岐側の宿まで全て手配されるというシステムですので、上陸して宿を探す必要がありません。船頭が丸亀の宿まで案内してくれます。弥次・北の宿は、船頭が経営する旅籠ですからその心配すらありません。安心して船頭に任せっきりです。
DSC01089丸亀旧港
 福島湛甫完成以前の丸亀港の様子が分かる絵図 東汐入川河口が港
旅館までの足取りを見てみましょう
 
 讃岐丸亀の名は諸国に広がりて、ここも買船入津の一都会なれば、繁昌ことに言うべくもあらず。町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり。弥次郎兵衛・北八は、船頭の案内(あない)に連れて大物屋というに入り来るに、女ども出で向かい、
女ども「コレハようお出でなさんした。サアこちお上がりなさんせ。」
弥次郎兵衛「アイ、お世話になりやしょう。」
 と、上へ上がる。このうちは船頭の宅なれば、母親らしきが走り出で、
母親らしき「親方ち殿戻らんたか。アノネヤ昨日ぶりの大あなぜナァ。たまがった(仰天)じゃあろナァ。」
  と讃岐弁で一昨日の大嵐のことを心配し、宿に導き入れます。
1丸亀金毘羅案内図1
丸亀から金毘羅までの街道が示された案内図

そして風呂に入るところで一騒動です。
弥次郎兵衛「どうだ北八、早くあがらねぇか。」
北八「コレコレ弥次さん、ちょっと見ねぇ。コノ風呂はなんだろうテ。」
 と、言うゆえ弥次風呂場へ入りて見れば、素焼きの瓶を据え風呂にしたるなり。すべてこの辺の習いにて、風呂桶の代わりに素焼きの瓶を用ゆ。そこより少し上のかたに三所四所、焼き付けたる土のあるにもたせて下(げ)す板を置く。京大坂などにいう五右衛門風呂というに等し。詳しくは図に表すがごとし。金毘羅参詣の人は皆よく知るところなりとぞ。
弥次郎兵衛「ハハハハ、なるほどこいつは珍しい。」
 と絵図入りで丸亀の風呂を紹介します。それによると風呂桶の代わりに素焼きの瓶を使った五右衛門風呂風の風呂だったようです。これが当時の丸亀の一般的なお風呂だったのかどうかは、私には分かりません。
  風呂から上がり、夕食も済ませると、一昨日の厄払いに一杯飲もうということになります。
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そこで酒の肴の話になるのですが「讃岐ことば」が分からずに、右往左往します。
弥次郎兵衛「おかげで今夜こそは大船に乗ったような心持さ。ヤ時にこの海上無難に着いた祝いに一杯やろうか。モシ何ぞおめぇの所に肴はありやせんか。」
船頭「エイ茶袋とな、“どうびん”ノウありおったネヤ、どうばりとも煮付けてなどあげましょかいネヤ。」
北八「茶袋と土瓶を煮付ける。こいつはとんだ話だ。そんなものが食われるものか。」
船頭「そしたらナ、とっぱこ(鯵)のお汁はどうじゃいなァ。」
弥次郎兵衛「とっぱこいやろか。三番叟の吸いもので外へはやらじと、俺ばかり呑もうか、ハハハハ。何でもいいから早く酒を出してくんなせぇ。」
北八「モシモシその茶袋や土瓶の後で、鉄瓶を刺身にして薬鑵のころいり、鍋釜の潮(うしお)煮なんぞよかろうぜ。」
船頭「ハハハハハ、えらいひょうまづいて(きょくるということ)じゃ。ドレいんま一気にあげましょいネヤ。」
 と、勝手へ行く。ほどなく女盃を持ち出ると、やがて“うづわ”の煮付けたるを鉢に入れて、船頭持ち出づる。後より女房銚子と蛸のさくら煮を持ち来たり
船頭「“どうびん”の太いのじゃがな。あんじょら(味良く)とようたけ(煮)たわいなァ。サア一つおあがりなさんせ。」
北八「ハハァ、“どうびん”とは蛸のこと、茶袋というはこの“うづわ”のことだな。」
船頭「さよじゃ、サアろくに居ざなりなさんせ。わしさきへじょうらく(胡坐かく)も、お許しなされ。そのだいナアお方が“いんぎん袋”じゃネヤ、ハハハハ」
 “いんぎん袋”とは、袴のことなり。女房が前垂れしているを洒落て、かくは言うとみえたり。
弥次郎兵衛「おとし役においらから始めやしょう。オトトトありますあります」
 と、一杯ぐっと呑みて北八へさす。
北八「おっと、いただきのわたせるはしにか、ありがてぇの」
弥次喜多の旅は、滑稽と駄洒落が軽快に飛び交い、軽く、他愛がないものです。
 土地の言葉が通じないすれ違いのおかしさと珍しさが、この場の狙い目なのでしょう。作者の一九は讃岐の言葉や風呂桶などに解説を加えています。これは江戸の読者の「旅心」をくすぐり、関心を煽るような「ネタ」になっているようです。
その後、寝静まってからの女中衆との艶っぽい話もあるのですが、それは残念ながら省略して・・
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 翌朝、船頭の道案内で金毘羅に向けての街道を歩きます。
金毘羅への道筋が「道中案内記」のように詳しく記されているのかと思いましたが「道案内」はありません。あくまでこの冊子は「滑稽本」なのだということを思い知らされます。
  例えば丸亀から餘木田(与北)までの記述は、以下の通りです。
早くも夜明けて起き出で支度整え、今日はお山に参るべしと、船頭を案内に頼み、この宿を立ち出で行くほどに、餘木田(与北)の郷といえるに至る。(丸亀より一里半)それより松が鼻というには、厄払いなりとて十歳餘りなる子供に獅子頭をかぶせ、太鼓打ち叩き銭を乞うものあり、
厄払い「サアサア旦那様方、お厄ノウ払いましょ。銭下んせネヤ。」
 トンチキ、トンチキ、トトトトトン、トトトトトン。
弥次郎兵衛「ナンダ厄払いだ。晦日に来さっし、払ってやろう。」
     節分の夜にはあらねど厄払い おもてに立る松が鼻かな
   以上です。与北の茶堂や灯籠などは一切出てきません。

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そして、次は榎井まで場面は一気に飛びます
 余木田の郷、松が鼻を過ぎ、さらに行くと旅寵屋・茶屋などの多い榎井村に入ります。ここには江戸の人の建てたという唐銅の鳥居があり、そのたもとの茶屋で一休みということになります。酒を断っている弥次郎兵衛が、餅を十個注文して、酒好きの北八が腐っている所へ、「大坂講中月参」と染め抜いた羽織を着た男が入ってきて酒五合を注文、グィと呷って二人にも振る舞おうとするのです。この場面も江戸者と大坂者、それに地元讃岐の茶屋女の間で交わされる方言の応酬が面白くテンポよく続きます。
 「讃岐 + 大坂 + 江戸」 それぞれのお国言葉の面白さ
 『東海道中膝栗毛』『金毘羅参詣続膝栗毛』も、十返舎一九の狙いのひとつは色々な土地の者がしゃべる方言の面白さにあると言われます。彼の方言への注目のきっかけは『膝栗毛』が出版される数年前に、江戸の俳諧師越谷吾山によって刊行された「本邦初の本格的方言辞典」と言われる『物類称呼』です。これを「教科書」にして、この物語の讃岐人のセリフは書かれたのでしょうか。しかし、ほとんど知らない讃岐の言葉を『物類称呼』だけでここまで書き込むことは無理です。一九は若いころに八年間、大坂で浄瑠璃作者として修行した経験を持っていますので、関西の地理・人の言葉には慣れていたはずです。とすれば、『続膝栗毛』に見られる讃岐者の言葉は、まず大坂の言葉で文の骨格を作り、そこに『物類称呼』などの書物から得た知識を加えて肉付けし、それらしく仕立て上げたと研究者は考えているようです。
222金毘羅山大権現 浮世絵 木版画

そして、いよいよ金毘羅参詣です。
 此所をたちいで五六丁ゆけば、こんぴらの町にいたる。丸亀より是まで三里なり。まちのなかほどにさやばしといふはしあり。上にやかたありて、いとめずらしきはしなり。上を覆ふ屋形のさやにおさまれる御代の刀のやうな反橋是より権現の宮山に登る。
麓より二三町ばかりのほどは、商家たちつづきて、地黄煎薬飴売る家多し。
弥次郎その商人の白髪なるを見て、
  うる人の頭の白髪大根はちとさし合ふか地黄煎見世 
頓て仁王門に入り、十五六町の坂をのぼりて御本社にいたる。
その荘厳いと尊く、拝殿は桧皮葺きにしていかめしく、華麗殊にいわんかたなし。先づ広前に額突き奉りて、
 露盤に達せし人も神徳のおもさはしれぬ象頭山かな
此の御山より海上の島々浦々里々、一望の中に見わたされて、風景いふも更なり。
さすが宝前は大真面目で、その点で前後とは色合いを異にしています。
しかし、金毘羅
参拝で触れられているのはこれだけです。鞘橋と地黄煎薬飴(こんぴら飴)と本社からの絶景など、気抜けするくらい簡単です。私は、もう少し分量を割いて筆を走らせるのかと思っていましたので、期待外れでした。しかも、金毘羅に一泊して精進落に金山寺の歓楽街に繰り出していくのかと思っていると、金毘羅には泊まらないのです。
 それは御参りが終わり石段を降りて行く大坂の女と父親に、よからぬ魂胆を抱いて近付き、道連になったからです。そして、女と父親が善通寺から弥谷寺に詣でると聞いて、下心からこの二人に同行することになるのです。こうして、参拝が終わると精進落としもせずに、多度津街道を善通寺方面に向かうのです。
DSC01390善通寺
善通寺 後の五岳山
  さて善通寺参りの場面をのぞいて見ましょう
このうちはや善通寺に至る。本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。ここに参詣して門前の茶屋に休まんと入る。
亭主「ようお出でなさんした。」
弥次郎兵衛「何ぞうめえものがあるかね。」
女「わしゃナいこひもじゅうてならんわいな。」
弥次郎兵衛「おめぇ飯にしなせぇ。コレコレ御亭主さん、何ぞうめえ肴でこの子に飯を出してくんなせぇ。」
北八「おいらは酒にしよう。」
弥次郎兵衛「酒はならねぇ。断ちものだ。」
  多度津街道の様子は何も触れられません。そして、善通寺への御参り場面はこれだけです。本堂の薬師如来には御参りしたようですが、誕生院まで行って朱印をもらったかどうかは分かりません。「花より団子」で、すぐ4人での昼飯場面に転換します。
女の大飯喰らいに驚いた弥次さんが
「イヤおめぇ顔に似合わぬ大食いだな、コリャおそれるおそれる。」
と、二人は肝ばかりつぶして見ているうち、女は委細かまわず、さっさと食いしまうと、かの親父もたらふく呑んでしまい、
親父「サア、えいぞ、えいぞ。もうお出でんかいな。」
弥次郎兵衛「いかさま出かけやしょう。ご亭主さん勘定はいくらだの。」
茶屋「エイエイ六百五十文おくれなさんせ。」
弥次郎兵衛「コリャえらいわ。北八半分出さっせぇ。」
北八「エエしかたがねえ。」
 と、不承不承に、このところの払いをなして立ち出で、曼陀羅寺へ参り、やがて弥谷寺の麓に至る。金毘羅よりこのところまで三里あり。
  と昼食後は曼荼羅寺まで飛びます。そして、夕刻前には弥谷寺の麓の旅籠に4人で泊まります。
230七箇所参り
絵図では丸亀の奥に、多度津、その奥に天霧山と弥谷寺が描かれる
  そして、事件発生です。夜になって同道した女の閨に忍び込んでいくと・
弥次郎時分はよしと。北八が寝息を考え、そっと起き出で、次の間の唐紙をそろそろと開きたるに、有明の灯火なければ、探り回りて女の頭に手がさわり、これこそとて布団を引きまくり入らんとするところ、女しきりに呻く様子に、弥次郎声を潜めて、
弥次郎「コウコウおめえどうぞしたか。」
女「誰じゃいな、オオ好かん何しいじゃぞいな。」
弥次郎「何をするものか。内々の咄があって来たものを、おめぇも承知であろうじゃァねえか。」
女「わしゃナ、先にから按配が悪いわいな。」
弥次郎「何としたのだ。」
女「アノナ持病の疝気がおこったわいな。」
弥次郎「イヤ悪じゃればかり言う。女に疝気があってつまるものか。」
女「ナンノイナ、わしゃ女じゃないわいな。」
弥次郎「女でなくてこんな美しい男が、どこにあるものだ。但し女か男かドレドレ見届けてやろう。」
 と、無理にこすりつきて、そこら探り回わせば、手足は毛だらけ、弥次郎とは相婿どし、角突き合いでもしようという様子に、弥次郎びっくりして、
弥次郎「ヤァヤァヤァヤァ、コリャ男だ、男だ。どうしておめぇが男だか俺にはさっぱりわからねぇ。但しはかど違えではねぇか。合点がいかねぇ。」
女「そじゃあろぞいな。わしゃ赤村鼻之助というてナ、道頓堀の舞台子じゃわいな。去年えろう痔を煩ろうてナ、もう死ぬかと思うた程のこっちゃあったがナ、このととさんは、わし一人頼りにしてじゃさかい、金毘羅様へ願かけしてじゃあったが、そのお影やらしてとんとようなったさかい、それでお礼参りに参じたのじゃわいな。したが船でえろう冷えたせいかして、また先にから痔が痛うて、それに持病の疝気があるさかい、一時に起こって、おお痛おお痛、どうぞ腰さすっておくれいな。オオ痛やの痛やの。」
弥次郎「ハァそれでさっぱり分かったが、おいらぁとんだつまらなくなった。」
鼻之助「そないなこと言わんせずと、ちとの間じゃ、ここさすっておくれんかいな。」
弥次郎「おいらぁもうおめぇを女だと思いつめて、とんだ余計なことをした。ホンニこの疝気の看病をしようとは夢にも知らなんだ。ソレここかここか。」
鼻之助「アイお嬉しいこっちゃ。どうやらちとようなった。もう行てお休みなされ。」
弥次郎「アイ大きにお世話、休もうと休めぇと、コリャァねっからうまらねぇこった。」
 と、ぶつぶつ、小言言いながらわが寝所へ帰り、思えば思えば馬鹿馬鹿しい目に遭った。こいつ俺ばかり恥をかくこともねえ、北八をも勧めてやらんと心に頷(うなず)き、よく寝入りいるをゆすり起こして、     
弥次郎「コリャ北八、北八、ちと起きさっせえ。」
女は道頓堀の役者男(オカマ)だったのです。そしてまたドタバタ劇が始まります。
DSC06665
弥谷寺 空海の学問所とされていた
さて、一夜明けて翌日の弥次・北の道のりを見てみましょう
 弥次郎・北八二人のみ先へ出掛けて、かの男を女と思い違いせし話など、語り興じて弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠を打ち越えて、屏風ヶ浦というに下り立つ。
    薄墨に隈どる霞ひきわたす 屏風ヶ浦の春の景色
 それより弘法大師の誕生し給うという垂迹の御堂を過ぎて十四津橋を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。
弥谷寺 → 海岸寺 → 多度津 という行程を歩いています。
地元讃岐では、戦前では「七ケ所参り」という御札巡りが地元の人たちに、よく歩かれていました。それは
「善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺」という6つの四国霊場札所と海岸寺を加えたものです。神仏分離以前の江戸時代には、これに金毘羅大権現も加えられて「一日巡礼」で、多くの人がこの道を歩いて御参りしていたようです。

DSC01386多度津街道1
多度津より金毘羅への道 多度津街道の案内図
 そして、各地からやってきた参拝客も金毘羅山だけを御参りしたのではないようです。
例えば、大坂の船宿が利用者に無料で配った参拝案内図の表題は「金毘羅案内図」ではありません。「金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図」なのです。そこには、丸亀から金毘羅への丸亀街道と、金毘羅から多度津への多度津街道の二本の街道を中心に参拝地として金毘羅・善通寺・弥谷寺が描かれています。当時の旅行記を見ても、善通寺から弥谷寺に足を伸ばしているのが分かります。金毘羅山に御参りして、丸亀街道を往復というパターンは少なかったようです。

IMG_8067善通寺
善通寺
なぜ、善通寺や弥谷寺までに足を伸ばしたのでしょうか?
善通寺は空海=お大師(おだいし)さんの誕生地です。
弥谷寺は、お大師さんの「学問所」です。
つまり、善通寺周辺は弘法大師伝説=太子伝説の聖地でもあるのです。
それを、江戸時代の人々は金毘羅大権現とともに御参りしていたようです。
今からの視点からすると「弥谷寺」の健闘が光ります。弥谷寺は金比羅詣でにやって来た参拝客の多くを惹きつけていたのです。そして、天霧山を越えた海岸寺も「空海生誕地伝説」が流布された時期があります。
こうして「金毘羅大権現 + 太子伝説の聖地」を巡礼して、多度津から丸亀に戻っていきます。
どうして多度津港から大坂行きの金比羅舟に乗らないのでしょうか?
  丸亀の宿に、荷物を預けていたようです。江戸からの参拝客は、荷物を丸亀の宿に預けて身軽になって金毘羅さんや善通寺・弥谷寺に御参りして、出発点の丸亀に帰って行く人が多かったようです。そして、馴染みとなった船宿の船に乗って大坂への帰路に着いたのです。
 また、多度津に新港が開かれ参拝客が急増するのは、これから後のことになります。
DSC01166

新港完成前の多度津港
さて、北さんが多度津で歯が痛くなったようです。
弥次郎兵衛「チトそこらで休もうか北八手めぇどうぞしたか。とんだ顔つきがなまけてきた。」
北八「イヤ今朝からどうしてか、虫歯が痛くてならねぇ。久しくこんなことはなかったが、アアこたえられなく痛んできた。」
弥次郎兵衛「ソリャわりいの。金毘羅様へ願をかけるがいい。
北八「酒を断ってか。そうはいかねぇ。」
弥次郎兵衛「イヤ幸い向こうに、アレ金毘羅御夢想虫歯の薬という看板がある。買ってつけて見さっせえ。」
北八「ドレドレあんまり痛い。買ってみようか。」

 北八が虫歯の歯痛をこらえかねて立ち寄った歯医者が、実は下駄の歯入れ屋でした。虫歯の隣の歯を抜かれて散々の挙げ句、頬を抱えながら、未の刻(午後三時)過ぎに、丸亀の宿大物屋にたどり着くところで、この話は終わります。
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 讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、弘法大師=太子伝説あり、金毘羅あり、の「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした案内絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。それを支える航路や街道、旅籠なども整備され、旅行案内本や地図も用意されていたようです。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族だったようです。

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。


片田舎の善通寺に師団がやって来たのはどうして?

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赤煉瓦の旧11師団倉庫と善通寺五重塔

日清戦争で得た賠償金は3億6000万円は、当時の国家予算の3年分にあたるものでした。その約84%は軍事費に使われたと言われます。その使用用途のひとつが次の戦争に備えての師団増設でした。師団空白地帯だった四国については善通寺が選ばれます。それまで城下町に設置されていた師団が、四国では田舎町に設置されることになります。
なぜ善通寺が選ばれたのでしょう。そして、善通寺はどのように変化していったのでしょう?
善通寺村略図2 明治
明治の善通寺村略図(善通寺の周りに市街地はない)

それまでの善通寺は片田舎?

 江戸時代の善通寺村は、真言宗善通寺の小さな門前町として成立し、四国八十八カ所巡礼や金比羅参りの宿場町として栄えてきたといわれます。それではいったいどのくらいの規模の「町」だったのでしょうか。1890(明治23)年の人口は、
善通寺村 3,099人、戸数637
竜川村  3,737人、戸数799
また、善通寺境内周辺の戸数は約250程度で、主な建造物も善通寺以外に見当たりません。 善通寺村の当時の閑散とした様子がうかがえます。宿場街とは言えないようです。

善通寺村略図拡大
明治の善通寺周辺拡大図

なぜ、お城のある高松や丸亀に置かれなかったかのでしょう?
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
それまでの師団司令部は、県庁所在地などに設置されてきました。城下町でもない片田舎の善通寺村への設置決定は異例でした。なぜ、高松や丸亀に置かれなかったのでしょうか
「師団選定二関スル方針」によると、
(1)多度津・詫間等の港湾が近い
(2)湧き水などの地下水源が豊富
(3)大麻山、五岳山の周辺環境が、演習時の軍事訓練に最適
(4)松山・高知・徳島の各連隊への運輸交通手段の便利
確かに丸亀・高松はお城はありますが、師団設置が出来るほどの広さを確保することは難しかったようです。また、多度津港は当時は香川県NO1の港湾施設を有していましたし、そこと鉄道で結ばれていると言うことは何かと便利でした。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口の工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれたそうです。大陸で起きるであろう次の戦争への出征を考えても、処理能力のある港湾施設は必須です。
 それと日清戦争の経験から次の日露戦争にむけて考えなければならないのは、重火器・騎兵の整備・訓練や医療設備の充実などです。そうすると野砲が撃てる射撃場や訓練所が必要になってきます。広い練兵場や周辺には山砲射撃場も必要です。そうすると丸亀で手狭になります。善通寺は背後の大麻山が射撃場として使用できます。そんな思惑もあったようです。

 
11師団司令部開庁通知

11師団司令部開庁通知

師団開設が決定した翌年に、隣の吉田村では次のような文書が作成されています。
「師団新設ノ結果、戸数ノ繁殖多大ナル今日ニシテ、数年ヲ出デズ大都市トモナルベキ有望ノ地二付」
意訳変換しておくと
「師団新設の結果、人口や戸数が大幅に増加し、数年のうちに大都市に成長する有望な地」

ここには、
師団開設によって営舎・施設建設、将校兵の増加などで、急速に都市化して、将来的に有望な地域に発展していく予想と、大きな期待が寄せられています。 
 こうして1898(明治31)年12月1日、第十一師団は善通寺に開庁されます。
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師団設置決定は、善通寺に地価上昇をもたらします。

香川新報(四国新聞の前身)には、第11師団の用地の総買収面積について「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991ヘクタール)と報じ、善通寺村の地価について次のように報じています。
「一反歩七十圓位の地は三百圓位に上騰せる様報し置きたる庭、昨今の虚にては一反歩六百圓或は七百圓と云う有様にて殆と手を兼る向も少なからす」
意訳変換しておくと

もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様であると、

そして、地主による地上げの横暴さを伝えています。さらに地価は1898(明治31)年には約2.5倍の1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らが新たな商売に進出し、連隊前に店を構えるようになります。
 師団用地の買収については最初は、地主が小作への償金を一反歩につき三十円交付する取り決めでした。ところが手数料と称し七円を差し引き二十三円しか支払わない事件が起きています。これに対して小作者は訴訟しています。

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1897(明治30)年、第一期工事として、次の各営舎が完成します。
騎兵第十一連隊
歩兵第四十三連隊
山砲兵及び歩兵第二十二旅団司令部
1898(明治31)年には、第二期工事として次の各営舎が完成します。
輜重兵第十一大隊
工兵第十一大隊
第十一師団司令部の各営舎
この工事期間中、善通寺には工事関係者が2000~3000人近く流入しました。120年前の善通寺は大建築ラッシュで、それまで田んぼが造成されて、軍関係の大きな建物が次々と建ち並んでいき、駅前通は大変貌していたようです。

十一師団建築物供用年一覧
11師団各建築物の供用開始年一覧

軍都善通寺の道路整備は、どうすすめられたのでしょうか?

大正期の善通寺では、各種インフラ整備が進められます。
例えば市内の道路整備が進められますが、特徴的なのは道路の広さです。大規模な軍事輸送に耐えれる道路整備が求められた結果、市街地を縦横に貫く広く整然とした道が伸びていきます。

善通寺航空写真(戦後)
一直線に伸びる広い善通寺の道路

 1922(大正11)年には、善通寺駅から善通寺境内五重塔南までの直線道路は約1.2kmが完成します。そして整備された道を人力車や馬車が走り出します。
 師団で廃用となった馬を払い下げてもらい乗合馬車が走行します。
当時の乗合馬車は箱型・鉄輪の四輪車で、馬一頭のタイプと二頭のタイプがあり、馬一頭の馬車は定員が10名程度でした。その後は乗合自動車(バス)、タクシーなどが行き交うようになり、師団の入隊や除隊者で利用者も多かったようです。

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 しかし、道路面積が広がると維持費が増えます。
当時の里道・県道は、赤土に砂利を入れて固める整備方法でした。そのため台風や大雨に弱く、補修のための支出が耐えませんでした。激しい軍事輸送のため莫大な復旧費を必要とし。善通寺町の土木財政状況は常に火の車でした。
陸軍特別大演習で整備されたのは何か?
1922(大正11)年に、当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が善通寺で行われます。これを前に、建築物や輸送手段が一新されることになります。特に生活環境を大きく変化させたのは琴平参宮電鉄の開通です。
 すでに讃岐鐡道は1889(明治22)年に多度津を起点とし、丸亀一琴平間で営業を始めていました。善通寺に師団が置かれた理由の一つが鉄道で多度津と結ばれていることでした。開業当時の客車は俗に「マッチ箱」と呼ばれる定員20名の小型のもので、善通寺駅も金比羅参りの通過地点として小ぶりなものでした。

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 陸軍特別大演習とは

西軍(第五師団・広島)と東軍(第十一師団)によって三豊郡と仲多度郡において3日間の模擬戦闘が行われたものです。それに、当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来ることになります。

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皇太子(後の昭和天皇)の讃岐での演習視察
そのため様々な記念事業が行わます。その一つとして讃岐鉄道の善通寺駅が改修されたのです。それまでの善通寺駅は大変狭く、師団の大移動時などに限界がありましたので、これを機に改修がなされます。

善通寺駅 初代
初代善通寺駅
 当時の「香川新報」では「善通寺新駅の美観大改修を加えて面目一新す」との見出しにより、次のような記事を掲載しています。
本驛舎は切破風を造り平屋建にて建坪八十坪五合にて正面に車寄せ新設し 此表面三間横二間一尺にて待合所は十間に五間南手にある。二等待ち合所は二間半四方。驛長室は二間半四方出札室は三間半四方北手にある小荷物室は二間半歩廊は幅二十一尺延長六百尺下り歩廊は幅六百尺延長十八尺線路の階段をアスファルト塗とし歩廊屋根を新に葺くなど何れも新築同様に面目一新した」
jnrzentsuji善通寺駅
現在の善通寺駅(1960年代頃)

新しく近代的駅舎として生まれ変わった善通寺駅は、新たな善通寺の名所になります。また、それまでの定員80名という客車の輸送能力アップと共に都市的な生活環境への変化を感じさせるものとなったようです。
 さらに大演習の記念事業の一つとして挙げられるのが琴平参宮電鉄(琴参:路面電車)の開業です。琴参の計画案を見ると善通寺駅逓は現JR駅の前にあるのです。私の記憶では、赤門前を通って琴平へ抜けていたはずなのですが・・・
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大麻付近を走る琴参電車 向こう側に土讃線と四国新道

琴平参宮電鉄の路線が変更された理由は?

11師団配置図

この鉄道の善通寺の終点は、計画では現善通寺駅前でした。そして琴平への路線は拡張整備された駅前通りを真っ直ぐに西進して、善通寺南門まで進みます。そこから直角に南に曲がって、師団本部前を通って琴平まで延長する計画でした。まさに、師団の各隊を縫うように路線は考えられていいました。ところが、この路線は実現しませんでした。その理由は、騎兵第十一大隊から次のようなクレームがでたからです。
「電車の騒音が軍馬の訓練教育上支障を来す」
確かに騎兵隊は現在の四国学院にありました。「その前を電車が通ると、騒音で軍馬の育成に支障がでる」というのです。

善通寺地図明治34年
明治34年の善通寺

これに対して琴参側は「善通寺への参拝客や師団の軍人や家族の面会人の利便性のために・・」と計画案を計7回申請しています。しかし、当局に聞き入れられることはありませんでした。2本北側の赤門通り前を左折し、本郷通りを通るルートに変更されたのです。

DSC02304琴参電車 善通寺本郷通り1957年
          本郷通りを走る琴参電車
このため駅前通りに琴参電車が走ることはなくなりました。確かに、土讃線善通寺駅で降りて、そこにある琴参駅で乗り換えられた方が利便性は高かったはずです。今の私からすると、当時の軍隊の尊大さや事大主義を感じますが、当時は軍隊は何より強い存在でした。

善通寺駅/土讃本線―1964-12-27

琴参電車が走る予定だった善通寺駅前通(1964年)
こうして師団勤務の軍人9000人 家族も入れると一万人を越える人々がこの地で生活するようになります。その人々への衣食住の需要をみたす施設や商店が整備された駅前通の北側に並ぶことになります。そして南側には、軍施設が連続して配置されます。駅前の北と南では対照的な風景が軍都善通寺の特色となりました。

白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
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善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
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讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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