曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)
曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立」
ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。
1118(元永元)年の「高野大師御広伝」
「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」
意訳変換しておくと
「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、 これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」
1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』
讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」
これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。
「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」
以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。
東寺百合文書
私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
意訳変換しておくと
曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。
ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。
この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……
意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました
さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、
意訳変換しておくと
怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。
ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺」
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。
以上をまとめておきます。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺」
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場
以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年