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弘田川とその上流の善通寺五岳山

善通寺と多度津は、古代から密接な関係がありました。内陸の善通寺に対して、その外港の機能を果たしていたのが多度津のようです。多度津は、その港の位置を時代と共に次のように変えてきたようです。
古代 弘田川河口の白方
中世 金倉川河口の潟湖の堀江
近世 桜川河口の多度津
それぞれの時代の港の様子を見ていくことにします。テキストは「 庄八尺遺跡調査報告書 遺跡の立地と環境」香川県教育委員会です
白方 弘田川
丸亀平野の弥生時代遺跡分布
古墳時代の弘田川と白方
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弘田川と五岳

善通寺の誕生院の裏を流れる弘田川は、金倉川や土器川までが弘田川に流れ込んでいた痕跡が残っています。そのため、弘田川は古代には善通寺と白方を結ぶ「運河」の役割も果たしていました。それを示すかのように誕生院の西側の水路からは、古代の舟の櫂も出土しています。ここからは、善通寺王国と白方は、弘田川で結ばれていたことがうかがえます。そして、弘田川河口の白方には、瀬戸内海交易ルートに加わっていた海上勢力の首長達の古墳が点在しています。
白方 古墳分布
多度津町奧白方の古墳分布図
その古墳群を見ていくことにします。
①舶載三角縁四神四獣鏡が出土 した西山古墳 (消滅)
②全長 30mの 前方後円墳である黒藤山 4号墳、
③同 48mの御産盟山古墳
④多度津山西麓の鳥打古墳、葺石が散在し、埴輪が出土
など、前期を通じて首長墓墳が継続して築造されます。

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現在の弘田川河口 沖には高見島

これだけの初期前方後円墳が、白方に集中する背景をどう考えればいいのでしょうか。
まずいつものように地形復元を行いましょう。
弘田川河口部は、古代においては南に大きく入り込んで、現在の白方小学校の丘あたりまで入江であったようです。そして、入江の西北にある経尾山 (標高 138m)や 黒藤山 (同 122m)が 「やまじ」や「わいた」と呼ばれた季節風を遮る役割を果たし、天然の良港になっていました。そのため入江の奥に港が作られ、流通拠点の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。現在の標高5mあたりまでは海の下だったとしると、安定した微高地は周囲の山の縁辺や山階地区の南の内陸部に求めなければなりません。
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バイパスが延びる現在の白方

 耕地が少ない白方に、前期古墳が集中している要因は津田古墳群と同じように、瀬戸内海の海上交通との関係が考えられます。

海岸寺の奥の院の上の稜線に作られた御産盟山古墳等は、備讃瀬戸を航行する船のランドマークとなったでしょう。白方エリアは、海上交易活動の拠点でもあり、早くから近畿勢力と協調関係に入ったことがうかがえます。同時に、弘田川背後の旧練兵場遺跡を拠点とする善通寺勢力とも協調関係にあったようです。白方は善通寺勢力の外港としても機能していきます。

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白方方面から望む五岳

 一方で、桜川・金倉川下流域には、前期古墳は見当たりません。古代の多度津の港は白方だったと研究者は考えているようです。

弘田川下流域の優位性は、古墳時代中期にも継続します。

盛土山古墳
盛土山古墳(多度津町白方) 背後は天霧山

 前期の首長墓の系列と一旦は断絶するようですが、中期になると約42mで二段築成の円墳、盛土山古墳が港の近くに姿をみせます。埋葬施設は組合せ式石棺とされ、大正4 (1915)年に、舶載画文帯環状乳神獣鏡 1、 鉄刀1、 璃瑠勾玉1、硬玉勾玉2、銅鈴1などが出土しています。最近の調査では、二重周溝が確認され、円筒・蓋等の埴輪も出てきているようです。 出土した埴輪等から 5世紀中頃の築造とされるようになりました。
 この盛土山古墳から西へ約60mの所に、一辺約10mの方墳、中東1号墳が発掘されました。周溝から円筒・朝顔形埴輪が出てきたので、盛土山古墳とほぼ同時期に築造と分かり、その陪家的な古墳とされているようです。
 この他にも北浦山古墳からは、箱式石棺から傍製捩文鏡や勾玉が出土し、西白方瓦谷遺跡では、数基の小規模な円墳に伴う周溝が検出され、須恵器等が出土しています。

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弘田川と天霧山

後期古墳も、弘田川流域を中心に展開します。
天霧山北東麓に向井原古墳、
黒藤山南麓に北ノ前古墳、
多度津山南西麓に宿地古墳
同北西麓に向山古墳
などが作られ続けます。これらは6世紀後半期~7世紀前半期の横穴式石室を埋葬施設とします。この中で葡萄畑の中にある向井原古墳は、一墳丘に二石室を有する古墳です。

白方 向原古墳
向井原古墳
善通寺の北原2号墳も二つの石室を持ちます。これは紀伊半島の紀伊氏に特有な墓制だと指摘する研究者もいます。そうだとすれば、白方、善通寺は紀伊氏の下で瀬戸内海航路の管理にあたり、対外的には鉄を求めて朝鮮半島への交易や経営に加わっていたのかもしれません。当時の紀伊氏のバックには台頭する葛城氏がいたようです。
 後期の古墳は、玄室長約3,88mの宿地古墳が最大で、それほど大きな石室ではありません。
多度津町
宿地古墳
同時代の善通寺の有岡エリアには、王墓山古墳、菊塚古墳、宮が尾古墳、大塚池古墳などの首長墓が築かれていますので、その組織下にあったようです。想像を働かせるのなら善通寺勢力の水軍部隊が白方勢力と言えるのかもしれません。

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宿地古墳からのぞむ大麻山と五岳

 善通寺勢力の王家の谷「有岡」に築かれた王墓山古墳は、横穴式石室を持つ前方後円墳で、九州系の石屋形が採用されています。紀伊氏と共に連合関係にあった九州勢力の姿が見え隠れします。

 多度郡の郡衛は善通寺にあったと考えられています。
そして、古墳時代以来、この地を支配する佐伯氏が郡司を勤め、氏寺の仲村廃寺や善通寺を建立したようです。同時に、東から伸びてきた南海道を整備し、それを基準に条里制を整えていきます。いわゆる奈良時代の律令体制下の多度郡の時代を迎えます。白方も多度郡に属し、8郷のうちの三井郷に含まれていました。
 多度郡の郡司には、先ほど述べたように
①国造級豪族 として佐伯直氏が
②中・下級豪族 として伴良田連氏
が、『類衆国史』等の史料に見えます。郡司層ではありませんが『 日本三代実録』にみえる因支首氏も、多度郡の中小豪族です。彼らは多度郡南部を基盤とする豪族されます。
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白方から見た津島と庄内半島

 奥白方中落遺跡からは、8世紀代の掘立柱建物跡6棟が検出され、周辺から皇朝十二銭のひとつ「隆平永費」 10枚 が重ねられて出土しています。何らかの祭祀儀礼に使用されたと研究者は考えているようです。また、近くの奥白方南原遺跡では、高価な緑釉陶器碗が出土しているので、周辺に下級官人か富農層の館があったのかもしれません。港湾施設の管理者としておきましょう。
白方周辺には、南北方向の約 30° 西に偏 した一町方格の条里型地割が見られます。

白方 丸亀平野条里制
丸亀平野の条里制 
こうした地割は、古代の土地表示システムに基づくものです。しかし、以前にお話ししたように、条里制が同時期に施工されたものでもないことも、最近の発掘調査から分かってきています。実際の施行は、中世になってからというエリアも多々あるようです。
例えば
①白方の東の庄八釈遺跡では、施工は9世紀代
②段丘上にある奥白方南原遺跡では、多度郡七条13里内部の坪界溝が検出され、溝より出土した最も古い遺物の一群は12世紀
③その約500m西に位置する奥白方中落遺跡の8世紀中頃の掘立柱建物跡は 、地割の方向と合致するので、8世紀施行
ここから②の南原遺跡の坪界溝は、中世になって改修されたものと研究者は考えているようです。このように近接したエリアでも条里制の施工時期には時間差があるようです。

古代南海道の位置について

金倉川 善通寺条里制
古代条里制と南海道
那珂郡の推定ラインを西へ直線的に伸ばして、多度郡の6里 と7里の里界線を南海道とする仮説が出されていました。那珂郡における南海道の推定には、余剰帯の存在が大きな根拠とされています。また、善通寺文書の宝治3(1249)年の讃岐国司庁宣には
「北限善通寺領 五嶽山南麓 大道」
とあり「五嶽山」を香色山・筆の山、我拝師山とすると、推定南海道のライン上に「大道」が通過することになり、その有力な仮説とされてきました。
 考古学の立場からは、善通寺市の四国学院大学図書館建設の際の発掘で出てきた7世紀代の直線溝を、南海道の側溝とする報告書が出ています。さらに、多度郡の6里と7里の延長上の飯山町岸の上遺跡からも側溝が見つかりました。この結果、この余剰帯が南海道であると考える研究者が増えているようです。どちらにしても南海道は、かつて云われていたように鳥坂峠を通過する伊予街道ではなかったようです。

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「白方湾」から見上げる天霧山

 空海が平城京に上っていった時に、白方からの舟で難波に向かったのでしょうか、それとも南海道を陸路辿り、紀州から北上したのでしょうか。興味ある所です。また、以前お話ししたように、空海の父は、瀬戸内海交易を手がけ大きな富を手にしていたのではないかという説が出ています。
そのため自船で、難波の住之江と頻繁に行き来していたのではないか。それが難波と平城京を結ぶ運河の管理権に関わる阿刀氏との交流を深め、その娘を娶ることになったのではないかという「新設」も出ていることも以前にお話しした通りです。そうだとすれば、まさに白方港は佐伯氏にとっては「金を産む港」だったことになります。多くの舟が出入りしていたことが考えられます。
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弘田川と天霧山 このあたりまでは入江だった

 多度津の港津としての機能は、中世にも維持されます。しかし、白方ではありません。
 道隆寺や多度津 (本台山)城跡が海に面した位置に立地するのは、古代以来の備讃瀬戸の海上拠点の掌握を狙ったものだったのでしょう。細川家文書にある正安3(1301)年の沙弥孝忍奉書に「堀江庄」が出てきます。鎌倉幕府地頭の補任地だったようです。その荘域には「堀江津」を含み、幕府の強い影響下に置かれていたようです。中世には、この「堀江津」が多度郡の中心的な港津として機能していたと研究者は考えているようです。

古代までは、弘田川下流域の白方でしたが、中世にはその役割が金倉川下流域に移動したようです。
白方が史料に登場しなくなります。その理由は、古代末以降の完新世段丘の形成で、弘田川河口部の埋積が進行し、港としての機能が維持できなくなったようです。
  一方、金倉川下流域では、堆積された土砂で砂州・潟の形成が進み、内陸部に港津が形成されます。

道隆寺 堀越津地図
「堀江」復元図と道隆寺
「堀江津」が具体的にどこにあったのかは分かりません。しかし、金倉川の河口付近の西岸に、「堀江」の地名があり、ここが「堀江津」だとされます。旧地形の復元図では、多度津山より砂州が北東方向に長く延び、一部途切れているもののその東端は、金倉川西岸にまで達します。この砂州の南側は、海水が流入して潟となっています。そして、桜川が緩やかに流入します。この内陸部側に港湾施設が設けられ「堀江津」と呼ばれていたと研究者は考えているようです。そして、内陸北端に道隆寺は建立されます。
 港には、それを管理する拠点と人材が必要です。中世にそれを担うのは僧侶達です。道隆寺は、備讃瀬戸を行き来する舟からのランドマークとしての機能と、港津の管理施設としての機能を兼ね備えた施設だったのでしょう。
 以前にも見たように、道隆寺は塩飽諸島から、庄内半島にかけての有力寺社を末寺として配下に納め、活発な宗教活動を展開すると同時に、交易活動の拠点でもあったようです。そして、そこを拠点とした僧侶たちは真言密教系の修験者の影がうかがえます。 道隆寺から南に伸びる町道は、鴨神社 ・金倉寺・善通寺を経て、中世南海道にアクセスしていたのです。

道隆寺山門

道隆寺には、開創から貞享 3年 までの寺歴を記 した「道隆寺温故記」があります。
これは天正16年頃に、古記録をもとに、住持良田が記されたものとされます。これによると、創建は平安時代初期に遡るとします。しかし、史料的にたどれるのは寺に伝わる鎌倉時代作とされる絹本着色星曼荼羅図からで、中世前期の建立と研究者は考えているようです。「堀江津」の成立と道隆寺の創建(再興?)は密接な関係があるようです。これについても以前にお話ししましたので省略します。

貞治 4(1365)年讃岐守護細川頼之に宛てた足利義詮御教書に次のように記されます
「讃岐国葛原庄、堀江津 両所公文職 云々」
ここからは、葛原庄と堀江津の公文職が兼務されていたことが分かります。葛原庄は賀茂神社領 となっていました。両所の公文職が兼務されていたことは、鎌倉幕府滅亡後は、堀江津が賀茂社の管理下に置かれていたことを意味します。
鴨脚文書「賀茂社社領 目録」の寛治4(1090)年 7月 13日 官符には、讃岐國葛原庄田地 60町が御供田として寄進されたことが見えます。以後弘安9(1286)年の鴨御祖大神宮政所下文の頃までには、現在の北鴨・南鴨の一帯は、賀茂社領葛原庄 として立庄されていたと研究者は考えているようです。
香川県多度津町 : 四国観光スポットblog
南鴨の鴨神社

南鴨にある鴨神社からは、鎌倉時代の亀山焼巴文軒丸瓦が出土しているほか、室町期以前の紙本大般若波羅蜜多経も所蔵されています。さらに、昭和22(1947)年には、本殿北側の老松の根元から 5,898枚 の銅銭が出てきました。この中には、漢の五鉄銭を最古銭とし、開元通宝や北宋~元銭が含まれていました。鎌倉時代終末期~室町時代前期の中世埋蔵銭の一例です。これだけの銭を「貯金(秘蔵)」勢力が、付近にはいたことを示します。
 南鴨の三宝荒神境内には、文安2 (1445)年の銘のある砂岩製の宝筐印塔があります。これは鴨神社の神宮寺とされる法泉寺のものだった伝えられます。
 以上のような「状況証拠」から鴨神社の創祀が鎌倉時代に遡ることは間違いと研究者は考えているようです。
 さらに鴨神社の勧進が、賀茂社領荘園の成立と無縁ではないこともうかがえます。その後、長亨2(1488)年賀茂社祝鴨秀顕当知行分所々注文案に至るまで、賀茂社による当庄の支配が続いていたようです。
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東白方の熊手八幡宮

 安楽寿院は、鳥羽法皇が離宮の東殿を寺 として、荘園 14箇 所を寄進して成立しました。その荘園のなかに「多度庄」があります。
多度庄の位置は、康治2(1143)年 の太政官牒をもとに
「三井郷の内の、大字三井の大部分を除いた地域全体」

とされます。この荘域は、東白方の熊手八幡宮の氏子の範囲と一致すると多度津町史は記します。
 現在、西白方の仏母院の境内には、熊手八幡宮境内から移転してきたと伝えられる嘉暦元(1326)年銘の凝灰岩製五重石塔があります。これから熊手八幡宮の創祀が、鎌倉時代以前に遡ることがうかがえます。12世紀後半には荘園の鎮守社が史料上に見られるようになります。荘民の精神的支柱 として熊手八幡宮が多度庄の鎮守社に取り込まれたのかもしれません。
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熊手八幡宮とその向こうに広がる備讃瀬戸 

その後「多度庄」は、高野山文書の天福2(1234)年の多度荘所当米請文などにみえ、鎌倉時代後期までは存続したようです。しかし、室町時代には「伝領不詳」となり、15世紀前半には、史料上から姿を消します。どこへ行ったのでしょうか

その犯人は、天霧城の主である香川氏が最も有力なようです。
 15世紀末からの内部抗争で讃岐守護細川京兆家が衰退していくのを契機に、守護料所の押領・所領化を勧めます。そして三野の秋山氏などの国人領主層の被官化等を進め、戦国大名化への道を歩み出します。多度庄や葛原庄が史料上から姿を消していく時期と、香川氏の伸張時期は重なります。天霧城周辺の荘園は、香川氏によって「押領」されたとする証拠は充分のようです。
現在の天霧城跡のアウトラインも、この頃に成立したようです。
天霧城 - お城散歩

本城跡の各曲輪には、堀や土塁、石塁、井戸、枡形虎口等の多数の防御施設が確認されています。これらの施設は、永禄6(1563)年頃の阿波守護三好氏や天正元 (1573)年 の金倉氏、天正 6(1578)年頃の土佐守護長宗我部元親らとの合戦への備えとして、増設されたものなのでしょう。

 一方、香川氏の居館は多度津城跡とされます。
多度津陣屋 多度津城 天霧城 余湖

 ここは桃陵公園として発掘されないままに開発されたので遺構が残っていません。香川氏が海浜部に居館を築いた理由として、港津である多度津を掌握し、過書船による利益の獲得が大きな目的だったとされます。香西氏や安富氏と同じく海上交易からの利益が香川氏の勢力伸張の元になっていたのでしょう。多度津の築城時期はわかりませんが、守護代として西讃を領有した14世紀終末期には築城されていたのではないでしょうか。
 この頃には、また賀茂社による葛原庄の支配は継続していました。そして堀江津が多度郡内の港津機能の大きな部分を担っていたようです。それが香川氏の勢力が伸びてくる15世紀末以降に、多度津城の下の桜川河口に港津機能は移動したと研究者は考えているようです。それは『兵庫北関入船納帳』に「堀江津」ではなく、「多々津」 と記載されるようになったことからもうかがえます。

以上、古代から中世にかけての多度津の港湾の移動と、その背景勢力について見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献