瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺の古墳

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古代人には、次のような死生観があったと民俗学者たちは云います。

祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、
死後はその霊山に帰り御霊となる

御霊となって霊山に帰る前の死霊は、霊山の麓の谷に漂うとかんがえたようです。また、稲作に必用な水は霊山から流れ出してきます。その源は祖先神が御霊となった水主神が守ってくれると信じていました。
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五岳の南側麓の有岡地区
 練兵場遺跡群から南西に伸びる香色山・筆ノ山・我拝師山の五岳と、その南の大麻山にはさまれた弘田川流域を「有岡」と呼んでいます。このエリアからは住居跡など生活の痕跡があまり出てきません。それに比べて、多くの古墳や祭祀遺跡が残されています。ここからは霊山に囲まれた有岡エリアは、古くから聖域視されていたことがうかがえます。古代善通寺王国の首長達にとって、自分が帰るべき霊山は大麻山と五岳だったようです。そして、ふたつの霊山に囲まれた有岡の谷は「善通寺王国の王家の谷」で聖域だったと、私は解釈しています。
1善通寺有岡古墳群地図
 善通寺王国の王家の谷に築かれた前方後円墳群
 有岡地区には弥生時代の船形石棺に続き、7世紀まで数多くの古墳が築かれ続けます。大麻山の頂上付近に天から降り立ったかのように現れた野田院古墳の後継者たちの前方後円墳は、以後は有岡の谷に下りてきます。そして、東から西に向かってほぼ直線上に造営されていきます。それを順番に並べると次のようになります。
①生野錐子塚古墳(消滅)
②磨臼山古墳
③鶴が峰二号墳(消滅)
④鶴が峰四号墳
⑤丸山古墳
⑥王墓山古墳
⑦菊塚古墳
地図で確認すると先行する古墳をリスペクトするように、ほぼ直線上に並んでいるので、「同一系譜上の首長墓群」と研究者は考えているようです。この中でも有岡の真ん中の丘の上に築かれた王墓山古墳は、整備も進んで一際目を引くスター的な存在です。

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王墓山古墳
 王墓山古墳は、古くから古代の豪族の墓と地元では伝えられてきました。
そのため山全体が王(大)墓山と呼ばれていたようです。大きさは全長が46m、後円部の直径約28mと小型の前方後円墳です。大正時代には国によって現地調査が行われ、昭和8年に刊行された「史蹟名勝天然記念物調査報告」に国内を代表する古墳として紹介されています。
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王墓山古墳の横穴部 

この古墳の最初の発掘調査は、1972年度に実施されました。当時は、墳墓全体がミカン畑で、所有者が宅地造成を計画したために記録保存を目的として調査が実施されたようです。ところが開けてみてびっくり! その内容をまとめておくと
①構築は古墳時代後期(六世紀後半)
②全国的に前方後円墳が造られなくなる時期、つまり県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→九州色濃厚
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「石屋形」というのは、当時の私は初めて耳にする用語でした。
これは石室内部を板石で仕切り、被葬者を安置するための構造物だそうです。熊本を中心に多く分布するようですが、四国では初めての発見でした。石室構造は九州から影響を受けたものです。ここに葬られた人物は、ヤマトと同じように九州熊本との関係が深かったことがうかがえます。埋葬された首長を考える上で、重要な資料となると研究者は考えているようです。
 王墓山古墳は盗掘を受けていたにもかかわらず、石室内部には数多くの副葬品が残されていました。その副葬品は、赤門筋の郷土博物館に展示されています。 
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ここの展示品で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴ででした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだったようです。しかし、出土時には、その縁を揃えて平らに潰して再使用ができないような状態で副葬されていました。権力の象徴である冠は、その持ち主が亡くなると、伝世することなく使用できないようにして埋葬するというのが当時の流儀だったようです。
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善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少なく、これを手に入れる立場にこの被葬者はいたことがわかります。
 6世紀後半、中央では蘇我氏が台頭してくる時代に有岡の谷にニューモデルの横穴式前方後円墳を造り、中央の豪族に匹敵する豪華な副葬品を石室に納めることのできる人物とは、どんな人だったのでしょうか。
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 「この人物は、後に空海を世に送り出す佐伯氏の先祖だ」

と研究者の多くは考えているようです。
 大墓山古墳と奈良斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性を研究者は次のように指摘します。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
ロマンの広がる話ではありますが、大墓山はこのくらいにして・・・

王墓山ほどに注目はされていませんが、発掘で重要性ポイントがぐーんとあがった古墳があります。

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 それが菊塚古墳です-もうひとつの佐伯氏の墓?
この古墳は、有岡大池の下側にあり、後円部に小さな神社が鎮座しますが、原型はほとんどとどめていません。これが古墳であるとは、誰もが思わないでしょう。しかし、築造当時は、弘田川をはさんで王墓山古墳と対峙する関係にあったようです。全長約55mの前方後円墳で、後円部の直径は約35m、更に周囲に平らな周庭帯を持つため、これを含めると全長約90m、幅は最大で約70mという大きさで、大墓山より一回り大きく「丸亀平野で一番大きな古墳」だということが分かりました。
 発掘前は、その形状から古墳時代中期の構築ではないかと考えられていたようです。しかし、後円部に露出した巨大な石材の存在や埴輪を持たない点などから、王墓山古墳よりやや後に作られた古墳であることが分かりました。そして平成10年の発掘調査によって、王墓山古墳と同じ横穴式石室で、その中に「石屋形」も見つかりました。
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一番右側が「石屋形」
 石室上部は盗掘の際に壊されて、石室内部も多くの副葬品が持ち去られていました。しかし、副葬品の内容や石室の規模・構造などから、王墓山古墳と同様に首長クラスの人物の墓とされています。さらに石室や副葬品の内容を検討したところ、ふたつの古墳が築かれた時期は非常に近いことが分かりました。ここから大墓山と菊塚に葬られた人物は、6世紀後半の蘇我氏が台頭してくる時代に活躍した佐伯一族の家族の首長ではないかと研究者は考えているようです。

1菊塚古墳

 有岡の小さな谷を挟んで対峙するこの二基の古墳を比較すると、墳丘や石室の規模は菊塚が一回り大きいようです。それが両者の一族内での関係、つまり「父と子」の関係か、兄弟の関係なのか興味深いところです。
 有岡の谷に前方後円墳が造営されるのは、菊塚が最後となります。そして、その子孫達は百年後には仏教寺院を建立し始めます。その主体が、佐伯氏になります。大墓山や菊塚に眠る首長が国造となり、律令時代には地方や区人である多度郡の郡司となり、善通寺を建立したと研究者は考えているようです。つまり、ここに眠る被葬者は、弘法大師空海の祖先である可能性が高いようです。

参考文献 国島浩正 原始古代の善通寺 善通寺史所収


   
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  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
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まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
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 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
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『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

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この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

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 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

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 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

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大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

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    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

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野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
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野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


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