瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺中興の祖宥範


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櫛梨神社が鎮座する櫛梨山
 
  櫛梨神社と宥範の関係については、以前にお話ししました。
今回は、その話しにもとづいて宥範の里を歩いてみようと思います。まずは、その生誕地とお墓を訪れてみましょう。丸亀平野を南北に区切るのが如意山です。その西側の頂が櫛梨山で、ここには麓に櫛梨神社があります。その背後には、毛利方が西讃岐支判の拠点とした櫛梨山城があります。

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 櫛梨山からの眺めは抜群で、南には丸亀平野が拡がり、その向こうに阿讃山脈が東西に低く連なります。目を落とすと眼下に見える鎮守の森が大歳神社です。大歳神社は櫛梨神社の御旅所ともされ、その周辺に宥範の生家岩野家はあったとされます。
 ある研究者は、宥範の生家と大歳神社の関係について、次のように記します。

大歳神社の北に「小路」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

ここからは次のようなことが類推できることが分かります。
①大歳神社の北に「小路」の地字が残ること。
②「小路」から櫛梨保が荘園化して荘司がいたこと
③鎌倉時代以降も、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立されたこと
さっそく「小路」に行ってみましょう。
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  コミュニティーバスの停留所名に「小路(しょうじ)」とあります。「しょうじ」という地名が出てくれば、研究者はすぐに「庄司」と頭の中で変換して、中世の荘園機構の一部があったところと推察します。ちなみに、この集落の背後の鎮守の森が大歳神社です。そして、すぐ後が「小路」集落の墓地になります。中世にはここに寺院もあったようですが、今は墓地だけが残っています。この墓地に宥範の墓はあるようです。

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「宥範墓所の由来」碑

 ここには 大麻山(象頭山)を背景に「宥範墓所の由来」碑があり、次のように記されています
「宥範増上は今から700年ほど前に、この上櫛梨の地に生まれ、若き日に大歳の社に参籠し、心願を念じ、その大願を達せられんことを祈った。」

と宥範縁起を要約した内容です。宥範縁起は、応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源が書いたもので正式には『贈僧正宥範発心求法縁起』と呼ばれるようです。

少し長いですが「宥範縁起」を意訳変換しておきます
宥範僧正は文永七年(1270)に那珂郡櫛梨郷で生まれ、幼い頃に櫛梨郷の北に釜える標高158mの如意山の麓にあった如意谷新善光寺に通って、上人から読み、書き及び経典を教わった。弘安十年(1287)17歳の時に出家して大式坊と名乗り、香河郡坂田郷にあった無量寿院の覚道上人について東密、特に金剛界のことを学んだ。翌年18歳の時に新善光寺の上人の勧めに従い、信濃国の善光寺で浄土教を学んだ。21歳の時帰国して、無量寿院で胎蔵界のことを学んだ。永仁元年(1293)4月24日無量寿院で三宝院実賢から潅頂を受け西三谷(飯山町三谷寺?)で倶舎を学んだ。水仁2年25歳の時に、備前国出身の観蔵坊と連れになり、高野山に修学のために行った。しかし、高野山は南北朝の内乱で荒れていて学問をするような状態ではなく、宥範は高野山を去ったが、観蔵坊は留まった。
 宥範は下野国の鶏足寺に行き、学頭頼尊から事相(実践修法面)教相(教義面)を学び、26歳の時に三宝院成賢方の灌頂を四人の僧と伴に受け、名を了賢坊と改めた。鶏足寺は東・台両密兼学の学問所だつたが、台密は捨てた。
 永仁五年28歳の時鶏足寺を出て衣寺に行き、妙祥上人から大日経の奥疏を学ぼうとしたが、妙祥上人は老齢の隠居の身であるとして宥範の申し出を断わり、奥州ミカキ郡の如法寺の道性房が大日経の奥疏の権威であると教えてくれた。下野国の赤塚寺の衆徒の浄乗坊も一緒に行くことになり、赤塚寺の寂静坊にあいさつに行くと途中で食べるようにといって大きな二連の串柿をくれた。この時天下は大早で、串柿や松の葉などを食べながらやつとの思いで如法寺に着くと道法房という人がいて、大日経の奥疏に詳しくはないというので暫く逗留して、下野国に帰ることにした。
 途中は大飢饉で、野山に自生する蕗をとって食べ、炎天下で肌は黒く焼け、食べるものもなくやせおとろえて鶏足寺に辿り着いた。その姿を見た妙祥上人は鶏足寺で、大日経の奥疏を学ぶことを許可してくれた。正安元年(1299)30歳の時に妙祥上人の伴をして武蔵国の広田寺と伊豆国走湯山の密厳院に行った。妙祥上人の勧めで一「妙印抄』を著すことになり、のちいつしか、三十五巻として完成させた。
 嘉元三年(1305)36歳の時に鎌倉殿に招かれて妙祥上人は鎌倉に行くことになり、宥範に伴をするようにいった。が、生まれ故部に帰って両親にから帰国するようにいった旨を上人に告げると、上人は密厳院の覚典を一人前の僧侶に育ててから帰国するようにと云った。
 覚典が一人前の僧侶に僧侶になったので、徳治死年(1306)36歳の時に、京都を経て西宮で船に乗ると順風に恵まれ、香河郡八輪島(屋島)観音堂前にあっという間に着いた。無量寿院の末寺の野原郷の常福寺にいた師の覚道上人と再会を果たした。徳治2年以後、櫛梨郷の正覚寺にたびたび通って両親に孝行をし、また、善通寺に度々通って終に寂園坊に住んだ。覚道上人に隠遁の志を告げると、常福寺の傍らに草庵をつくつて住むようにいった。この草庵に野原草堂という名前をつけた。
徳治二年に善通寺の末寺で奥の院でもあった称名院(象頭山)の傍らに草庵をつくって住み、この草庵に小松小堂という名前をつけた。延慶二年(1309)から嘉暦三年(1328)迄の十八年の間に数度上洛して、安祥寺に行き、大日経の奥疏を極めることにした。鎌倉から妙祥上人の弟子の是咋房が小松小堂を訪れ、宥範に再び一「妙印抄』を著すように勧めて、元徳2年(1330)に『妙印抄』85巻を完成させた。この年に善通寺の奥の院の称名寺に移った。
 善通寺の衆徒たちがやって来て宥範に善通寺に入って大破した善通寺を復興するよう再三頼んだので、元徳三年七月二十八日に善通寺に入つて東北院に住んだ。元弘年中(1331~33)に誕生院を造営し始めて、建武年中(1334~38)に完成なった誕生院に移り住んだ。暦応年中(1338~1342)には五重の塔・四面大門・四方垣をつくり終えた。観応三年(1352)7月1日誕生院で弟子の宥源にみとられて、遷化した。享年八十三歳であった。

「宥範縁起」は、幼少の頃から弟子として宥範に仕えた宥源僧都が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。
応安四年(1371)三月十五日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。 ここからは以下のようなことがうかがえます
①如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②そのため香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ後に信濃の善光寺で浄土教を学んだこと。
③その後、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだこと
④善通寺を拠点にしながら各地を遊学し大日経の解説書を完成させたこと
⑤現在の金毘羅宮の下の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に担ぎ出されたこと
⑥14世紀中頃に、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。
東国での修行を終えて36歳で帰国した宥範は、両親に孝行するため、善通寺の野原草堂から正覚寺にたびたび通ったと記されています。ここからは、宥範の両親がいる居館(大歳神社?)家と正覚寺は近かつたことがうかがえます。さきほど見た小さな墓地は地元では「宥範三昧」と呼ばれているようです。
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         「宥範三昧」と呼ばれる墓地
この墓地は、もとは正覚寺の墓地であったのが、寺が無くなって墓地だけが残ったのかもしれません。
宥範の両親が亡くなると正覚寺の墓地に葬られ、宥範は宥源に自分が亡くなると両親の墓のそばに葬つてくれるよう頼んだとしておきましょう。墓地の中に小さなお堂があって、この中に宥範の石像が安置されています。
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小路の中
それでは宥範の実家は、どこにあるのでしょうか?
墓地の北側にの集落が「小路」で、集落内にある森氏宅が宥範の生誕地とされています。そこには大きな「宥範僧正誕生之地」と刻された石碑と地蔵が建っています。

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「宥範僧正誕生之地」碑
宥範は、建武三年(1336)誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という経済的保護者が背後にあったことも要因のひとつのようです。

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櫛梨神社に続く参道

 そうだとすれば、櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧の管理にあったことになります。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからも大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。14世紀には上櫛梨や櫛梨神社は、宥範の実家である岩野一族の支配下にあったとすれば、次のような疑問が浮かんできます。
①岩野氏のその後はどうなっていくのか。武士団化するのか
②櫛梨神社の背後の山城・櫛梨城と岩野氏の関係は?
③東隣の公文にあったとされる島津氏の所領との関係は?
④丸亀平野南部で「戦国大名化」する長尾氏との関係は・
それはまた課題と言うことにして・・・

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 羽床雅彦 宥範松尾寺初代別当説は正か否か?   
         ころひら65号 平成22年

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
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 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

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