瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺同笵瓦

宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
関連記事

古代那珂郡には次の3つの古代寺院があったとされます。
①田村廃寺(丸亀市田村町)
②宝幢寺跡(丸亀市郡家町)
③弘安寺(まんのう町四条)
②③は塔の心礎や礎石が動かされずにそのまま残り、だいたいの伽藍範囲も想像することができます。しかし①の田村廃寺は、私にはなかなか見えてこない古代寺院です。
田村廃寺鴟尾

田村廃寺跡とされるエリアからは、白鳳時代の瓦、塔楚、鴟尾などがでてきていますので、古代寺院があったことはまちがいないようです。しかし、正式な発掘は行われてないようです。そのためきちんと書かれたものはみたことがありませんでした。
 図書館で発掘調査書の棚を眺めていると「田村遺跡」と題されたものが3冊ほど見つかりました。その中から今回は、丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築の際の発掘調査報告書を見ていきたいと思います。タイトルはなぜか「田村廃寺」ではなく「田村遺跡」です。廃寺跡が直接に発掘されたようではないようです。どんなものが出てきて、何が分かったのかを見てみましょう。

いつものように復元地形から見ていきます
田村廃寺周辺地質津

 田村廃寺のある辺りは、土器川と金倉川が暴れる龍のように流れを幾度も変えながら形成された沖積地です。土器川と金倉川は流路が定まらず、たびたび変化していたことが、グーグルや地図からもうかがえます。田村遺跡のすぐ東側にも旧河道の痕跡があり、蓮池はこの旧河道上に作られています。

田村廃寺周辺条里制

 また、田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れています。これも、旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。この東西のふたつの旧河道に挟まれた田村遺跡は、中州状の微高地上に立地したことが推測できます。これを裏付けるかのように、田村遺跡周辺では、集落跡が緩やかな「く」の字状を描き、南北に細長く分布しています。これは蓮池の基であつた旧河道によって形成された自然堤防の上に、住居が築かれてきたことを示しているようです。

田村廃寺全景
右手空き地が城西支店 正面に丸亀城
田村廃寺の想定伽藍範囲を地図で見ておきましょう。
  報告書は廃寺に関係ある地名を挙げて、地図上に落として次のように示してくれます。

田村廃寺伽藍周辺地名
 田村町字道東一七四七番地に「塔の本」             
 田村町字道東一七五〇番地に「瓦塚」
 田村町字道東一七五五番地に「ゴンゴン堂」(鐘楼?)
 田村町字道東一六五三番地に「塔の前」
 田村町字道東一六五六番地に「舞台」
 田村町字道東一七一八番地に「塚タンボ」
  この地図からは田村廃寺は、城西支店の南側に、塔があり、伽藍が広がっていたことがうかがえます。
田村廃寺瓦1

この付近からは、白鳳時代から平安時代にかけての、八葉複弁蓮花文軒丸瓦や、十二葉・十五葉細弁蓮花文軒丸瓦、布目平瓦などが採集されています。発掘されていないので伽藍配置は分かりませんが、周辺の古代寺院と同じ規模の方一町(109m)の寺域をもっていたとされます。丸亀平野の条里復元図をみると、田村廃寺は那珂郡二条二〇里七ノ坪に位置することになります。

田村廃寺跡と道路を挟んであるのが 田村番神社です。
甲府からやって来た西遷御家人の秋山氏が法華信仰に基づいて、田村廃寺跡に日蓮宗の寺院を建立し、その番社(守護神)として三十番社をお寺の西北に勧進したと伝えられる神社です。この神社については以前にお話ししましたので、深入りしませんが、この境内には大きな手水石があります。これは、明治35(1902)年ころ、この南方の耕地から掘り出されたと伝えられます。塔の心礎のようです。

田村廃寺礎石

 この礎石は、楕円形の花降岩の自然石で、高さ約82㎝、上部は縦約135㎝、横約120m、下部は縦約220m、横約188mの大きさで、上面ほぼ中央に、直径45㎝、深さ約6㎝の柱座が彫られています。柱座の大きさから、塔は三重塔だったのではないかと説明案には書かれています。この塔心礎は、発見されたときには番神祠から南の当時の四国新道東側に移されて、石灯寵の台石に使用されていました。今は、田村番神祠境内に移されて、手水鉢として使用されています。

田村廃寺塔心礎説明版

 この礎石があったのが先ほどの地図で見た「塔の本」あたりになるようです。この心礎の上に三重塔が建っていたとしておきましょう。
田村廃寺 出土瓦一覧

城西支店の発掘調査からは、6つのタイプの軒丸瓦が出てきています
城西支店の敷地は、伽藍の北端にあたるようです。築地塀が出てきたことが寺の北限を示します。ここからは修築に伴って、それまで使用されてきた瓦の廃棄場所になっていたようで、多くの瓦が出てきています。出土した瓦を6つに分類した観察表です。
田村廃寺 軒丸瓦出土瓦一覧

報告書は、以下の表のように時代区分します

田村廃寺軒丸瓦古代
TM102 八葉複弁蓮華文軒丸瓦は中房が大く、彫りの深い複弁を巡らせ、周縁は三角縁で素文である。中房は1+8+4の蓮子をもつ。白鳳期

田村廃寺 軒丸瓦2
TM103八葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁が三角縁となり線鋸歯文をもっている。奈良時代初期
TM107十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦 胎土はやや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
田村廃寺 軒丸瓦3
TM105一五葉細素弁蓮華文軒丸瓦。TM107を反転した文様であり、この退化型の文様で奈良時代と考える。
TM108六葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁素文で蓮弁は平坦化し花弁の仕切り線を持たない退化傾向
TM106十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦。田村廃寺の最終期の文様瓦と考えられ、遺物から10世紀頃までと推定される。
これらの軒丸瓦と軒平瓦、平瓦がどのようなセット関係で使われていたのかを次のように報告書は記します。
Ⅰ期は白鳳期で、 
I期aは重圏文軒丸瓦TM101
I期bは八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102と二重弧文軒平瓦1201、平瓦は斜格子(方形)の叩きTM401A、丸瓦は行基葺き瓦がセット関係
  Ⅱ期は白鳳期末から奈良初期で、 
Ⅱ期aは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103と平瓦はTM402A・BとTM403Al、丸瓦は玉縁のある丸瓦がセット関係にあたる。
Ⅱ期bは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文軒二瓦TM202、平瓦はTM401BとTM401Cがセット関係。
私が気になるのは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文妻平瓦TM20です。

善通寺同笵瓦 傷の進行
善通寺Z101と同笵木型で作られた瓦に現れた傷の進行状況

 十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107は、善通寺出土(Z101)と同笵で白鳳期末とされます。よく見ると、善通寺の瓦と比べると傷が大きくなっています。木版の痛みが使用に耐えかねて傷みが進行しているのです。それにもかかわらず使い続けています。
使用順は、善通寺の瓦より後に、田村廃寺の瓦は作られたことになります。そして、田村廃寺で使われたのは奈良時代初期と研究者は考えているようです。ちなみに、この木型はこのあと土佐の秦泉寺に運ばれて、そこでの瓦造りに使用されています。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯(三野町)
 瓦技術者集団が善通寺創建が終わった後に、田村廃寺にやって来たのでしょうか。それとも善通寺周辺の窯で焼かれたものが運ばれてきたのでしょうか。善通寺には三野の宗吉瓦「工場」から運ばれたものも使われていたようですが、ここでは三野から運ばれた瓦は出てこないようです。
宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦
 以前にお話したように、讃岐の古代寺院建設のパイオニアは三野郡丸部氏による妙音寺です。この瓦は三野町の宗吉瓦窯で焼かれています。同時に、宗吉瓦窯は鳥坂を越えた善通寺にも瓦を提供しています。そうしながら藤原京の宮殿の瓦を焼く最新鋭の瓦大工場へと成長して行きます。瓦を提供した丸部氏と提供された善通寺の佐伯氏は「友好関係」にあったことがうかがえます。それでは、田村廃寺を建立した氏族とは、どんな有力者だったのでしょうか? 一応、因首氏を第1候補としてしておきましょう。

1 讃岐古代瓦

 道草をしてしまいました。話を元に戻します。
Ⅲ期は奈良時代で、十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM105と平瓦TM403A2とTM403Bl・B2がセット関係にある。特に平瓦TM403BlとB2の出土量は多い。

Ⅳ期は奈良時代から平安時代で、六葉複弁蓮華文軒丸瓦TM108と平瓦TM403A3・A4が対応する。寺院の捕修瓦と思われる。

V期は平安時代で、十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106とTM403B3・B4・B5が対応する。セット関係にある軒丸瓦・丸瓦・平瓦はいずれも小型化する。平瓦の出土量が多い。10世紀代の瓦とみている。

以上を整理しておきましょう
①田村廃寺は、白鳳期に重圏文軒丸瓦TM101や川原寺式の八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102、二重弧文軒平瓦TM201によって中心伽藍が整備された。
②白鳳期末から奈良時代初期にかけて、補修瓦として八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103や善通寺から十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107や扁行唐草文軒平瓦TM202が搬入された。
③この瓦の文様に影響を受けた十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM104が田村廃寺独自の文様瓦として展開し寺域内が整備された。
④この間の補修瓦として六葉蓮華文軒丸瓦TM108等がある。
⑤衰退期を経て十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106を使って田村廃寺が再興される。
13世紀頃には廃絶した
宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原寺式軒丸瓦
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式か法起寺式の伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦がよく出てきます。田村廃寺も創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

白鳳時代の7世紀末に姿を見せた田村廃寺は何度もの修復を受けながらも10世紀には一時衰退しますが、その後に再興され13世紀に廃絶したようです。古代の寺院は氏寺として建立されます。パトロンである建立氏族が衰退すると、氏寺は廃絶する運命にありました。13世紀と云えば古代から中世への時代の転換期です。平家方の拠点であった讃岐には、源平合戦の後は「占領軍」として数多くの西遷御家人たちがやってきます。その中に、三野郡の日蓮宗本門寺を拠点とする秋山氏がいました。秋山氏は、三野に拠点を構える前は、那珂郡に一時拠点を置いたとされます。
『仲多度郡史』『讃岐国名勝図会』などには、
「田村廃寺の跡に、弘安年中に来讃した秋山泰忠が、久遠院法華寺を建立したが、正中二年(1325)、故ありて三野郡高瀬郷に移し、高永山久遠院と号し、法華寺また大坊と称して今も盛大なり」

とあります。古代寺院の遺構跡に日蓮宗のお寺を秋山氏が建立したというのですが、この伽藍跡からは鎌倉時代の古瓦は出てきません。

以上をまとめておくと
①田村廃寺は、東を蓮池を流れていた旧土器川と、西側を平池を流れていた旧金倉川に挟まれた微髙地の上に建立された。ここには弥生時代からの集落の痕跡が残されている。
②出土した瓦からは白鳳時代(7世紀末)に建立され、13世紀に廃絶したことが分かる。
③その間に何度も瓦の葺き替え作業が行われており、修復が繰り返されている
④瓦の一部は、善通寺との同版瓦があり佐伯氏との関係がうかがえる。
⑤伽藍配置は分からないが、百十四銀行城西支店の建物から北側の築地塀が出てきたので、ここを北限とする108m四方が伽藍と想定される。
⑥「塔の元」「塔の前」という地名が残るので、この辺りに塔が建っていたことが想定できる
⑦塔の礎石もこのあたりから明治に掘り出され、今は番社の手水石となっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   田村遺跡 丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築にともなう発掘調査報告書
関連記事

このページのトップヘ