瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺市史

  「郡庁」というのは、今の私たちにとっては馴染みのない言葉です。今の郡は、単なる地理的な区割りとしてしか機能していません。しかし、明治の郡には、郡長がいて郡庁もありました。例えば仲多度郡にも郡庁があり、それは善通寺に置かれていたというのですが、それがどこにあったのかについては、私はよく分かっていませんでした。善通寺市史第三巻を見ていると、仲多度郡郡庁の変遷や当時の写真なども掲載されています。そこで今回は、仲多度郡の郡庁を追いかけてみようと思います。テキストは、「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」です。

 香川県は、愛媛県から独立し「全国で最後に生まれた県」です。その香川県に、現在の郡が登場してくるのは、1899(明治32)年4月1日の次の法律によってです。
 朕帝國議會ノ協賛ヲ経タル香川縣ド郡廃置法律ヲ裁可し茲二之ヲ公布セシム
御名御璽
明治三十二年三月七日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋
内務 大臣 侯爵 西郷従道
法律第四―一琥(官報三月八日)
香川縣讃岐國大内郡及寒川郡ヲ廃シ其ノに域ヲ以テ人川郡ヲ置ク
香川縣讃岐國大内郡及山田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ木田郡ヲ置ク
香川縣讃岐國阿野郡及鵜足郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ綾歌郡ヲ置ク
香川縣讃岐國那珂郡及多度郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ仲多度郡フ置ク
香川縣讃岐國三野郡及豊田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三豊郡ヲ置ク
附 則
此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス 
 これに小豆郡と香川郡の二つの郡と、高松市と丸亀市を加えて、香川県は二市七郡で構成されることになります。こうして現在の私たちに馴染みのある郡名が出そろうことになりました。そして丸亀平野では、那珂・多度郡の統廃合と同時にその一部を割いて丸亀市が置かれることになります。
それでは、仲多度郡の郡庁は、どこに置かれたのでしょうか?
それまでは、那珂郡・多度郡の2郡にひとつの「那珂多度郡役所」は、城下町のあった丸亀に置かれていました。従来の政治機能が丸亀に集中していたので、その方が色々な面でやりやすかったのでしょう。
 この法律によって生まれた仲多度郡役所は、善通寺村に置かれると決まっていました。しかし、当時の善通寺は十一師団設置にともなう建設ラッシュ中で、地価急騰と建設費も急上昇中でした。郡庁舎を建設する財源もなかったようです。そこで、城下町だった丸亀市に今まで通り「仮住まい」ということになります。
 郡庁舎は、いつから善通寺に置かれたのでしょうか?
『仲多度郡史』には、1903(明治36)年2月6日の記録に、次のように記されています。

「大字上吉田(停車場の西方)の民家を借用して其の事務を執れり」

「停留場」というのは、善通寺駅のことです。ここからは日露戦争が始まる前年には、善通寺駅の西方の民家に郡庁舎が丸亀から移ってきていたことが分かります。

11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
        駅前通り南側の航空写真(1920年代)
そして、日露戦争後の1906(明治39)年12月28日には、次のように記されています。
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。前に丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在りしも、執務の不便言ふへからさるものありしか爰に梢々官署的借家成るに及び此の日を以て移転せり」
 
  意訳変換しておくと
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。以前に丸亀より移転し約5年間仮舎住まいであったが、執務上の不便さも増してきたので、今回「官署的借家」に、移転することになった。

ここから次のようなことが分かります。
①「丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在り」とあるので、丸亀からの移転が1901年であったこと
②善通寺駅西側から輜重隊の南側に、「官署的借家」を確保して移転してきたこと

「輜重隊」は、現在の「郵便局+自衛隊の自動車教習所+あけぼの団地」のエリアになります。その南側となりますから現在の東中学校あたりになります。
さらに1908年1月の香川新報は、郡役所庁舎の落成を次のように報じています。
「同郡役所は既記の通リ善通寺町の字條字治郎氏が同町輔重兵南側に建築中の処落成、旧所移転せしか、昨四日移転式と新年祝賀会を行ふ、出席者は土屋師団長、小野田知事以下百餘名なりし

意訳変換しておくと
「仲多度郡役所は既報の通り、善通寺町の字條字治郎氏が輔重隊南側に建築中の建物が落成したので、旧所から移転した。昨日四日に移転式と新年祝賀会を行われた。出席者は土屋師団長、小野田知事始め、百名あまりであった。

 十一師団長の方が、知事よりも前に来ています。当時は師団長の方が格上であったようです。
十一師団配置図3
十一師団配置図(1922年)
「1912(明治45)年7月2日の『香川新報』には、「善通寺町の火事」の見出しで次のような記事があります。

「普通寺町生野糧秣吉本商會事吉本乙吉の倉庫より三〇日午后六時四〇分頃発火せしが秣(まぐさ)は乾燥し居れば見る見る大火となり其ノ前は道路を隔てて輜重隊あり而も手近く火薬庫あるより……又仲多度郡役所は直の隣なるを以て類焼ありてはと御真影を始め諸書類器具を出す事に大に雑踏せしが……」

意訳変換しておくと
「普通寺町生野糧秣(りょうまつ)吉本商會の吉本乙吉氏の倉庫より30日午後6時40分頃に出荷。馬用の秣(まぐさ)は、乾燥していて見る見るうちに大火となった。倉庫の前は道路を隔てて輜重隊で、近くには火薬庫ある。(中略) また仲多度郡役所は、すぐ隣ななので類焼の恐れがあるために御真影を始めとする諸書類や器具を運びだしたりして、周辺は火事場の騒ぎとなった。」

 とあり続いて、鎮火は八時半、損害倉庫3棟全焼一棟半焼、株2万6000貫で被害額は5000円、火災の原因は不明と結んでいます。仲多度郡役所への類焼は免れたようです。
広島の建築 arch-hiroshima|広島市郷土資料館/旧陸軍糧秣支廠缶詰工場
陸軍の糧秣缶詰工場(広島郷土資料館)
 糧秣とは、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す軍事用語のようです。輜重隊は師団に必要な食料から一切のものを調達するのが任務でした。そのため缶詰や乾パンなどの食糧も民間から購入していました。出火した「糧秣吉本商會事」も、輜重隊に「糧秣」を納めていた会社だったのでしょう。そのため輜重隊南側(現在の東中学校)に、全部で4棟の倉庫を持っていたことが分かります。輜重隊の周辺には、師団御用達の酒屋や八百屋、衣料品店などが軒を並べるようになったことは以前にお話ししました。吉本商會も糧秣を納める会社であったようです。
偕行社航空写真1922年
輜重隊周辺(南側が現東中学)

この記事から次の2点に注目して郡庁舎の位置を類推してみます。
①道を隔て、軸重隊があり、近くに火薬庫がある
②吉本商會の倉庫に隣接して仲多度郡庁舎がある
①の火薬庫跡は、現在のシルバー人材センターになるようです。以上から、仲多度郡郡庁や吉本商会は、現在の東中学校附近にあったことが分かります。
1916(大正5)年4月1日 郡役所は、生野から上吉田の皇子の森に新築移転します。『仲多度郡史』は、その経緯を次のように記します。
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎及議事堂建築工事に着手す。郡庁舎の建築は多年の.懸案なりしも其ノ機容易に熱せさりしか、昨年通常縣會に於て之か議決を見るに至り、漸く宿望を遂くるの機運に到達するや本郡に於ても、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築の議を可決し爾来位置の選定土地の買収設計の作製、工事請負人札等に数月を費し、此に交通最も便利なる面かも老松森々として高燥なる皇子の森の地を得て、此の同地鎮祭を挙げ以て其の工事を起すに至れり」。

意訳変換しておくと
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎と議事堂の建築工事に着手した。郡庁舎の建築は多年の懸案であったが、その機はなかなか熟さなかった。そのような中で昨年、通常県会で建設に向けての議決が行われた。これを受けて、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築議案を郡会議でも可決し、位置の選定・土地の買収・設計の作製、工事請負人札等などに数ヶ月を費してきた。善通寺駅に近く、交通も便利で、老松森々生い茂る皇子の森の地を得て、ここに地鎮祭を挙げ起工式に至ることができた。

 新たに郡庁と議事堂が建設されることになった「皇子の森」とは、どこにあるのでしょうか?

皇子の森2
  仲多度郡庁が新設された皇子の森
今は児童公園になっていますが、どうしてここにこれだけの広さの土地が公園として確保されているの以前から疑問に思っていたところです。旧郡庁跡だったと言われると納得です。
 1916(大正5)年3月には、郡役所庁舎の落成と庁舎の規模等について次のように記します。  
「三月三十一日新築郡聴舎落成に至りたれは、本部役所を皇子の森に移転し、四月一日より新庁舎に於て事務を執れり。四月二六日御大礼記念事業として新築したる、本郡議事堂既に竣工し、郡役所も亦新廃合に執務する等総て完成を告けしかは、此の日議事堂に於て、其ノ落成式を行ひたり。来賓として若林知事、蠣崎師団長を始め、各郡市長縣郡会議員町村長及び地方各種団体名望家等三百余名の参列ありて、壮大なる式を挙げ、記念絵はがき郡案内記を配布し盛宴を開きたるに、各自歓を盤して本郡の発展を祝せり。

仲多度郡議事堂
仲多度郡議事堂
今建物の概要を挙くれは、議事堂は其の敷地二百六十五坪、本館木造平家建てにて、建坪百八坪、附属渡廊下一棟、厠一棟、正門及び周囲の石垣、土畳等、総工費6978円を要せり
仲多度郡役所
仲多度郡庁舎
 郡庁舎は其ノ敷地六百六十七、本館木造平屋建にして百二十七坪、附属小使室、物置二棟、渡り廊下、厠各二棟。倉庫一棟、掲示場一。門一。土畳及盛土等総て費金一万一千二百十四円餘を要せり。
(郡庁舎敷地は、元官有地なりしを善通寺町に払受けて寄附したるものなり)而して建物の地形は土を以て築き、屋上には塔及窓を設けて室内の換気を能くし蟻害豫防の為め背面の床下を開放し、避雷針を設くる等、構造堅牢にして、採光通風共に十分なり。敢て輸奥の美なしと雖も結構全く備はれり。又多数庭樹の寄贈ありて、春光秋色執務の疲労を資くるに足るへく実に縣内有数のものと云ふへし」。
こうして完成した仲多度郡の庁舎と議事堂ですが、その役割は短いものでした。郡制が廃止され、郡長や郡役所が不用になってしますのです。香川県に郡制の施行されたのは1899(明治32)年7月1日のことでした。以来、郡は地方自治団体として郡会を開いてきましたが、徴税権がありませんでした。そのため町村が郡費を分担して負担してきました。
 一方で、町村側から見れば郡はほとんど仕事らしい仕事をしておらず「無用の長物」と見えました。そのため廃止すべきという意見が年々高まります。香川県市町村長会でも1920(大正19)年11月、衆議院・貴族院両院議長、内閣総理大臣、内務大臣に宛てて「郡制廃廃止二関スル請願」を行っています。これを受けて1921(大正10)年に、郡制廃止法案が衆議院で可決されます。その提案理由は、次の通りです。
①郡制施行以来、郡自治にはみるべきものがない。
②模範にしたプロイセンとは異なり、我が国では住民の自治意識が弱く、必要性が少ない。
③各郡事業を府県や町村に移せば、事務を簡略化できる
④郡費負担金がなくなり、町村財政にプラスになる。
「郡制廃止二関スル法律」が公布されたのち、その施行期日は1921年4月1日と定められます。しばらく郡長や郡役所は存続しますがが、1926年7月には、それも廃止されて、郡は単に地理的名称となります。つまり、仲多度郡庁の建物は作られて実質5年で、その存在意味を無くしたことになります。
しかし、新築の建物にその後の使用用途はありました。
1928年6月1日からは、庁舎は善通寺警察署として使用
1932年9月1日からは、議事堂は香川県善通寺土木出張所が1960年まで使用。

最後に郡庁舎の移動変遷をまとめておくと
①仲多度郡成立後も、しばらくの間は丸亀に置かれていた
②1901年に丸亀から移動し、善通寺駅の西方の民家を5年間庁舎としていた
③1906年に輜重隊の南(現在の東中あたり)の貸屋に移った
④1916年に庁舎と議事堂が完成。場所は皇子の森
⑤1926年7月に郡制が廃止され閉庁
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」

11師団の成立過程を追いかけています。今回は、次の2点に絞って「善通寺陸軍病院」を見ていこうと思います
①「おとなとこどもの医療センター」の原型が、どのようにしてつくられたのか
②設立されたばかりの病院が日露戦争に、どのように対応したのか
テキストは「陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わリー  善通寺市史NO3 602P」です。

まず11師団の各隊の供用年代を下表で確認しておきます。
十一師団建築物供用年一覧


表の一番最初に「丸亀衛戌(えいじゅ)病院」明治30(1897)年7月5日と供用開始年とあり、明治37(1904)4月1日に善通寺衛戌病院と改称されたことが記されています。衛戍とは、軍隊が駐屯することを表す法律用語で、英語のGarrison(駐屯地)の訳語になるようです。
11師団配置図
⑨が善通寺病院 ⑩が練兵場

善通寺師団の創設決定が1896(明治29)年に決定されると、その7月に病院用地として伏見に27000㎡(8100坪)の土地⑨が買収されます。病院建物については、政府は各営舎が出来た後に着手する予定でした。しかし、「兵士入隊後では不都合」と軍の方から突き上げられて、着工が決まります。そのためか用地もすこし奥まった伏見の地が選ばれます。そして翌年の1897(明治30)年4月着工し、7月には、善通寺丸亀衛戍病院の名称で開院することになります。これは建物の一部だけだったようで、11月に第一病棟、翌年に、さらに土地を買収して35000㎡(10700坪)となり、二病棟、炊事棟が完工。1899年に2階建の本館、被服庫、平屋の三病棟、五病棟、病理試験室等が姿を見せ、病院としての体裁をととのえていきます。
「善通寺陸軍病院(伏見分院)」と名称変更。(昭和初期の絵葉書)
善通寺衛戍病院
当時の陸軍病院の建物設計については、陸軍軍医部によって定められていた「鎮台病院一般の解」という設計基準書があったようです。これに基づいて、日本陸軍工兵第三方面(隊)が、軍医部やフランス軍事顧問団などから助言を受けながら設計していたようです。
現在明治村に一部が移築されている「旧名古屋衛戍病院」(1877年竣工)について、研究者は次のように述べています。

名古屋衛戍病院(明治村)
名古屋衛戍病院(明治村)
  管理棟と病棟に共通する仕様は、切石積の基礎、木造大壁造漆喰塗、寄棟桟瓦葺、上げ下げ窓、病室の四周を囲む回廊付き、である。漆喰壁の下地は名古屋鎮台歩兵第六聯隊兵舎と同様に木摺り斜め打ちで、一部に平瓦が張られて下地となっている。
管理棟正面には、桟瓦葺で緩い起(むくり)破風の玄関が突き出され、玄関の柱はエンタシスのある円柱である。広い玄関ホール中程から板床に上がり、その高さのまま各室、中庭の回廊へ連絡している。管理棟内には、医局、薬剤室、理化学研究室などがあった。背面回廊に面する窓は引き違いである。
名古屋衛戍病院病棟(明治村)
名古屋衛戍病院の病棟
病棟は寄棟屋根に換気用の越屋根を載せる。病棟外部回廊の大半は創建当初吹き放ちの手摺付であったが、後に改造され、ガラス入り引違い戸が建てこまれている。換気装置は病棟内の天井に畳2枚ほどの広さの回転板戸があり、開けると、越屋根までの煙道が通る仕掛けである。病室の外壁下部に床上換気口があって、病室内と外部回廊の通気を行うことが出来る。
中庭を囲む渡廊下、各病棟四周の回廊は、全て独立基礎に木柱を立て、木造高床桟瓦葺で、低い手摺が付いている。調査によれば、創建工事の際、竣工直前まで手摺を付ける計画はなかったが、或る軍医の提案により、全ての回廊と渡廊下に手摺が設置された。渡廊下の屋根は病棟や管理棟に比べ一段と低い。(西尾雅敏)
善通寺衛戍病院についての史料は、あまりないようです。名古屋衛戍病院を見てイメージを膨らませることにします。

十一師団 陸軍病院
衛戍病院の建物群
日露戦争による負傷兵に、どのように対処したのか
出来上がったばかりの衛戍病院は、平時は患者も僅かで静かな所だったようです。ところが設立7年目にして、その様子は一変します。日露戦争が勃発したのです。善通寺からも多くの兵士達が戦場へと出兵していきます。そして、負傷者が数多く出ます。病院では、開戦後4ヶ月後の6月10日に初めて戦地からの戦傷患者を受けいれています。その後も旅順の203高地をめぐる戦闘で、患者はうなぎ登りに激増し、五棟あった病棟はすぐに収容人数をオーバーします。記録によると1904(明治37)年12月13日の収容忠者数は6498名となっています。これだけの負傷者を、どのようにして受けいれたのでしょうか?
善通寺陸軍病院分室一覧
分院や転地療養地の一覧(善通寺市史NO3)

 これは増設(=分院建設)以外にありません。師団の各連隊で利用できる空地が選ばれて、そこに仮病棟が次々と建てられていきます。これを分院と呼びました。増設された各分院を見ておきましょう。
①第1分院    被服庫(四国管轄警察学校)に8病棟
②第2・3分院  練兵場西側(おとなとこどもの医療センター)
③第4・5分院  丸亀市城東町の練兵場(丸亀労災病院)
④琴平転地療養所 琴平宮崇敬講社 脚気
④伝染病隔離病棟 四国少年院西北の田んぼの中
以上で急造の病棟は114棟になりますが、それでも負傷者は収容しきれません。そこで、「転地療養所」が琴平・津田・塩江などの神社、寺院、民家等を借りて開かれます。

善通寺陸軍病院の分室て琴平転地療養所(琴平病院)
善通寺陸軍病院 琴平転地療養所(崇敬講社:旧普門院) 

琴平の場合は、明治以後は大門から桜の馬場にかけての金毘羅さんの広大な寺院群が崇敬講社になっていました。それが利用されていかったので、宮司の琴綾宥常の申し出でで、「転地療養所」として活用されることになったようです。ここには主に脚気患者が集められて療養していたようです。

善通寺陸軍病院の分室として琴平転地療養所(琴平病院)
       琴平転地療養所(崇敬講社:旧普門院) 町史ことひらNO5 354P

練兵場の西側に建てられた「第2、第3分院」は、どんなものだったのでしょうか。
「分院」建設地として目が付けられたのが練兵場でした。こうして練兵場に「善通寺予備病院第二・三分院」が建てられ、使用が開始されるようになるのが日露戦争中の1904(明治37)年9月2日のことでした。第二分院の概念図を見てみましょう。

善通寺陸軍病院 第2分室
         善通寺予備病院第二分院の概念図(1905年)
敷地の西側(左側)を流れているのが弘田川になります。位置は練兵場の南西隅にあたり、現在のおとなとこどもの病院の南側にあたります。回廊で結ばれた病棟が「10×2=20」建ち並んでいたことが分かります。これが第二分院ですから、もうひとつ同じような規模の第3分院がありました。

善通寺陸軍病院 第2・3分院
 第2分院の西側に第3分院が建てられます。

おとなとこどもの医療センターの新築工事の際に、発掘調査が行われました。その時に、第3分室の18病棟と、炊事場跡がでてきています。炊事場跡のゴミ穴が見つかり、そこからは軍用食器・牛乳瓶などが数多く出ています。
善通寺陸軍病院 第2分室出土品


牛乳瓶(2~4)2は胴部外面に「香川懸牛乳協合」「第六彊」「森岡虎夫」「電話善通寺一二四番」と陽刻され、背面には「高温」「殺菌仝乳」「一、人扮入」、頚部には「1.8D.L.」と陽刻されています。王冠で栓がされたままのものも出てきています。佃煮瓶(1)には、胴部外面下部に「磯志まん」の陽刻があります。負傷兵には牛乳が毎日出されていたこと、それを飲まずに廃棄していたものもいたようです。
分院の建物はどんな構造だったのでしょうか?
善通寺陸軍病院 第3分室 病棟柱穴跡

 発掘調査からは、礎石立ちの掘立柱建物が出てきています。永続的なものではなく、臨時の仮屋としての病棟だったことがここからもうかがえます。これが分院の病棟跡だったようです。
 ここで注意しておきたいのは、この2つの分室は、永続的なものではなかったことです。「臨時の分院」ということで、戦後の1906(明治39)年には閉鎖・撤去されます。下の写真は、昭和初期の練兵場を上空から撮ったものです。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場航空写真(善通寺市史NO3)
練兵場は「現在のおとなとこどもの医療センター + 農事試験場 + その他」です。その範囲は東が中谷川、西が弘田川、北西部は甲山寺あたりまでの30㌶を越える広さでした。ここで押さえておきたいことは、昭和初期には練兵場には病院はなかったということです。
それでは練兵場に再び病院が姿を現すのは、いつなのでしょうか?
それは1936(昭和11)に日中戦争勃発以後のことです。上海事変などで激戦が続き、負傷者が増大します。それを伏見の病室だけでは収容しきれなくなります。
十一師団西側
歩兵隊跡=「護国神社+乃木神社+中央小学校+西中・旧西高」

そこで最初は、中央小学校講堂に収容します。しかし、学校施設をいつまでも占有するわけにもいかず、歩兵連隊が徳島に移った後の兵舎を代用病室とします。それでも間に合いません。日露戦争の時と同じような状況がやってきたのです。このような中で事変がはじまって3か月後の9月には、再び練兵場に分院を建築することになります。各地から大勢の大工が集められ昼夜をとおしての突貫工事で分院建築がはじまります。こうして年末には、練兵場に17棟の病棟が再び姿をあらわします。残り半分の17棟や衛生部員の兵舎、倉庫などの付属建物が完成するのは1928(昭和13)年5月1日でした。こうして日露戦争後に撤去された分院が、24年ぶりに練兵場に姿を見せます。今度は「善通寺陸軍病院臨時第一分院」と呼ばれることになります。

善通寺陸軍病院 分院宛手紙
善通寺陸軍病院第1分院宛に宛てられた父親からの手紙
消印は昭和13年で12月18日、第23病棟の第1号室宛てになっている。
善通寺陸軍病院への手紙
第1分院の規模は次の通りでした。
病院敷地    129495㎡(39241坪)
病棟数       34棟
一箇病棟面積  683㎡(207坪)
伏見の本院と併せて、3500名の入院患者を受けいれることになります。これが戦後の善通寺国立病院となり、現在のおとなとこどもの医療センターへと発展していくことになるようです。
以上をまとめておくと
①十一師団設置の際に、師団の付属病院である「衛戍病院」が伏見に建設された。
②日露戦争の際には、約1万人の負傷兵を受けいれるために、各地に分院を建てて対応した。
③練兵場西南部にも、第2・3分室(計38病棟)が建てられたが、日露戦争後には撤去され更地なり、再度練兵場の一部として使用されていた。
④日中戦争勃発後の負傷者激増に対応するために、再び練兵場には大規模な分室が建てられた。
⑤この分室は、戦争の長期化とともに撤去されることなく戦後を迎え、善通寺国立病院へと姿を変えていく。
⑥「こども病院」へと特化した伏見の本院と、統合され現在はおとなとこどもの医療センターへと成長した。
⑦その際の発掘調査から弥生時代から古墳時代にかけての遺物が大量に出てきて、この地が善通寺王国の中心地であったことが分かった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
善通寺陸軍病院 伏見

参考文献
    陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わり
                                                              善通寺市史NO3 602P

細川頼之 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

細川頼之年表1

貞治元年(1362)細川頼之は南朝の細川清氏を白峰合戦で破り、讃岐の領国支配を着々と進めていきます。
それまでの頼之は、中国管領として中国地方を幕府の支配下に治めることが第1の課題でした。ところが白峰合戦の翌年の貞治二年に、頼之は中国管領の職を解かれ、以後四国管領を命じられます。そして貞治4(1365)年ごろには、従来の分国である阿波・伊予に讃岐・土佐を加えた四国全域の守護となり、分国経営を強化していきます。その際の有力なアイテムとなったのが、足利尊氏から認められた次のような権限でした。
①武士同士の所領争いの裁決を現地で執行する権限(使節運行)
②敵方所領の没収地を国内の武士に預け置く権限
③半済といって寺社本所領の年貢の半分を兵粮料として取り上げ、それを配下の武士に宛がう権限
これの権限を行使することで讃岐武士団の家臣化は進められます。
それを年表化して見ておきましょう。
1365年4月 香川郡由佐村の国人山佐弥次郎に、安原城における合戦の軍忠を賞す。
1366年12月 山佐氏の一族の由佐又六に井原庄内の御寺方半分を預け置く
由佐氏は、以前に顕氏から感状を与えられているので、顕氏の被官でした。それが改めて頼之の被官となっています。『全讃史』によると清氏討代後、頼之は安富盛長・香川景房・奈良元安などの有力被官を外から呼び寄せ、讃岐に配置したとされます。
また頼之は、讃岐の寺社保護と引き替えに、これらを統制下に置いていきます。
1363年4月 宇多津の西光寺への禁制発令
     9月 宇多津の歓喜寺に土器保田所職を安堵
1364年3月 寒川郡長尾の八幡池築造し、寺社領用水確保
 このように協力的な有力寺社については、保護と安堵をあたえ、国内の安定化を図ります。こうして貞治年間には讃岐の国人・寺社は、細川頼之に属するようになります。その結果、白峰合戦以後は、讃岐の南朝方が全く姿を消し、讃岐は細川氏の勢力の基盤となります。
 頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となります。
そのため、義満の政治を補佐するために上京し、讃岐を不在にすることになります。讃岐を離れる一ケ月前に頼之の弟頼基(のちの頼元)は、善通寺に対して規式を定め、諸堂の勤行、鎮守の祭礼、寺僧の行儀などを励行させ、軍勢の寄宿、寺領の押領、境内の殺生などを禁じたりして、細川氏の讃岐の寺院支配の方針を示しています。それが貞治6年(1367)7月に出された「善通寺興行条々」(9ヶ条)で、次のように記されています。
一 寺内坊中軍勢甲乙人(誰彼の人)寄宿有るべからざる事。
一 寺僧弓箭兵杖を帯ぶるの條、向後一切停止せしむる事。
一 寺領并に免田等、地頭御家人甲乙人等押領を停止し、寺用を全うすべし。
一 同寺領以下諸方免田等の事、縦え相博為りと雖も、 寺中に居住せしめず俗鉢と為て管領せしなる事、固く停止する所也。向後に於いては、寺領免田等の内知行の輩の事、俗を止めて綺いせしめ、寺家に居住すべき也。  
一 罪科人跡と号し、恩賞に宛て贈ると稀し、寺領井びに寺僧供僧免田等相混えて知行せらるるの段、向後に於ては、縦え共身に至りては罪科有りと雖も、所帯に於ては、寺領為るの上は、寺中の計所として沙汰致すべし。
一 寺務の仁、寺川を抑留せず、勧行并びに修造を守るべし。
一 寺内栞馬の事、今自り以後停止せしむべし。
一 寺領の境内、殺生先例に任せて停止せしむべし、次いで山林竹木雅意に任せ(勝手に)伐り取る亨、子細同前。
一 守護使先例に任せ、寺領に人部せしむべからざる事。
  意訳変換しておくと
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
②寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、例え相伝されたものでも、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。
⑤ 罪科人の跡とか恩賞地とか称して、武士が寺領や寺僧の免田を知行するようになれば、前条の趣旨に反することになるので、寺領や寺僧免田の場合は、たとえ所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと、寺中の計らいとする
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生は先例通り禁止とする。また、山林竹木を勝手に伐り取ることも禁止する
⑨徴税などのために守護使はこれまで通り、寺領に入らせない。
「法令で禁止令が出されるのは、現実にはそのような行為が行われていたから」と考えるのが、歴史学の基本的セオリーです。禁止されている行為を見ていくことにします。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿」していたことがうかがえます。これらが入道化した棟梁が率いる武士集団だったのかもしれません。
②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化していたことがうかがえます。また⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたようです。以上からは、南北時代の善通寺には軍事集団が駐屯し、武装化していたことがうかがえます。比叡山のように、僧兵を擁し、武士たちが入り込み、軍事的な拠点となっていたと私は考えています。
①②⑦は、それらの軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。
③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。
③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
④は、寺の名で年貢免除の特権を認められている土地は、先祖伝来と称していても、寺に居住していない俗人や武士が持つことを認めない。それを所有するのは、寺家に居住する僧に限るとしています。ここからも善通寺が武士(俗人)の拠点となっていたことがうかがえます。
⑤は、武士が寺領や寺僧の免田を知行しないようにすること。そのために、寺領や寺僧免田の場合は、所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと。
これらは、実行されたかどうかは別にして、寺側の打ちだした「寺領から武士の勢力を排除して寺僧の一円支配を強化する」という方針を、守護としても認めて協力することを示したものと研究者は考えています。ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。
また「条々」からは、善通寺には寺領とならんで「寺僧供僧免田」があったことが分かります。
例えば宥範譲状の中の、次のものがそれにあたるようです。
一 良田郷内学頭田二町内壱町円明院(第三条)
一 良田郷郷大勧進国二町(第四条)
第四条の良田郷大勧進田二町は、真恵によって大勧進給免として設定されたものです。善通寺内の院や坊が自分の所領免田を持っていたのは誕生院だけではないようです。宥範譲状でも良田郷内学頭田のうち一町は円明院(赤門筋の北側にあった)の所領だといっています。
次の文書は、勧学院領に対する院主・別当の干捗を止めて勧学院の領掌を保証した守護細川満元の書状です。
讃岐国善通寺誕生院内勧学院領の事、早く寄進状の旨に任せ、所職名田出等院主別営の綺いを停止せしめ、先規に任せ領掌相違有る可からずの状件の如し。
應永七(1400)年七月十二日      右京大夫(花押)
誕生院兵部卿法印御房
院主というのは誕生院主、別当は善通寺別当のことのようです。勧学院は誕生院内にありながら(観智院の横にその跡がある)、誕生院からも、また善通寺別当の支配からもある程度自立した所領を寄進されていたことが分かります。こうしてみると南北朝以後室町のころになると、誕生院にせよ、他の寺内の小院や僧坊にせよ、それぞれ所領を持ち、在地領主的性格を強くしていたことがうかがえます。そして、それらの主の中には、周辺の武士団の一族出身者もいて、強いつながりがあったことがうかがえます。宥範と岩崎氏にも、強いつながりがあったとしても不思議ではありません。
以上をまとめておくと
①南北朝時代の動乱期に、讃岐武士たちは細川頼之によって束ねられ家臣団化された
②讃岐の組織化された家臣団は、細川氏の中央における暴力装置としてよく機能した。
③細川頼之は讃岐の有力寺社にも安堵・保護を与えている
④その中の「善通寺興行条々」(9ヶ条)からは、保護のための条件としていろいろなことが記されている
⑤そのひとつが寺内の「非武装化」であり、俗人の寺内からの排除である。
⑥これを逆に見ると当寺の善通寺では、入道化した武士が寺内を拠点として、乗馬訓練などを行っていたことが分かる
⑦深読みすると、善通寺防衛のために武装集団を寺内に招き入れたり、僧兵集団の存在もうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

阿波細川氏年表1

参考文献 善通寺市史 南北朝・室町時代の善通寺領559P

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