瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺市有岡大池

 今回は、一円保絵図に描かれた各坪毎の耕作状況を見ていくことにします。そのためには、一円保絵図に描かれているのが、現在のどの辺りになるかを押さえておく必要があるので、最初に「復習」です。
金倉川 10壱岐湧水


左上(南東)の生野郷の「壱岐湧と柿股湧」から水路が西に伸びて、東の条沿いに北上していきます。この条が旧多度津街道になります。これを現在の地図に落としすと次のようになります。
一円保絵図 現地比定拡大2

 一円保の東南角の坪は①です。四国学院の図書館から中央通りを越えて、護国神社あたりにあったことが分かります。そして、この坪の南側は多度郡の6里と7里の境界で、南海道が通っていたことも以前にお話ししました。一円保の南は南海道が境界だったようです。
②東は、旧多度津街道
③北が、旧練兵場の南限の中谷川
④西が、弘田川と五岳
そして絵図では、2つの湧水からの水路は、条里界線にそって伸びていきます。それは、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みで分かります。用水路が伸びているのは、絵図の上半分ほどで、(20)(21)のある坪(現ダイキ周辺⑥)までは届いていません。それより北(下)には、用水路は描かれていません。つまり水は供給されていなかったと考えられます。それが本当なのか、今回は別の資料から確認してみます。
金倉川 善通寺条里制

 有岡の池が築造される前の用水事情を語るのが、久安年間の寺領注進状です。
この注進状には、当時の一円保を耕地状況が坪毎に報告されています。それに基づいて、研究者が各坪の状態を次のように、図化しています。
一円保絵図 田畑分布図

各枠につけられている番号が、坪番号になるようです。
例えば左上のコーナーの坪は「多度郡三条七里二坪」となります。これが、先ほど見た東南隅の四国学院周辺の坪番号になります。そして、7里と6里の境界を南海道が通過していたと考えられています。南海道は郷の境界線でもあったようで、この南は生野(いかの)郷になります。
 現在の位置で云うと、護国神社 → 中央小学校 → 自衛隊北側 → 香色山というラインになります。そこに約106mの坪が10ケ並んでいたようです。
 また、三条七里17・18・20・21坪に「本堂敷地」とありますが。ここが善通寺東院になります。
 北側(下)の八里エリアは、旧練兵場(農事試験場+善通寺病院)になります。
  それでは、本題に入って行きましょう。
A図は、その坪の中で水田と畑作のどちらが面積が広いかを示します。
白丸が「田が優位」のようですが、A図には○は、多くありません。全体的には畠が圧倒的に多かったことがわかります。一円保の水田率は3割程度だったようです。丸亀平野全体でも、中世になっても水田化率はこの程度だったことが分かってきています。かつて云われたように、
「古代律令制の下で条里制が施行されて、丸亀平野は急速に水田化した」

ということはなかったようです。丸亀平野の水田化が進むのは近世になってからです。善通寺周辺の一円保も多くが畑で、水田化されていたのは3割程度だったようです。
 また、水田化されている坪は、特定エリアに集まる傾向が見られるようです。その要因は、後に見ていくことにします。
B図は、田や畠の「年荒・常荒」の状態をしめします。

一円保絵図 洪水被害エリア

 坪に×がついているのは、注進書に「河成」(河川が氾濫して耕作地が潰減した部分)として報告されている坪です。このことからは当時の弘田川が×の付けられている所を流れていたことがうかがえます。具体的には、七里11、25、26、25、34、四条八里3、10、9、 17の各坪をぬって川が流れていたことになります。その部分を青斜線矢印でしめしています。
  これを見ると東堂伽藍からその西の現在の誕生院エリア(14、15、23、24)にかけては、氾濫の被害を受けていません。またA図を見ると、耕作地でもなかったようです。誕生院が洪水の被害を受けにくい微髙地に建てられていることがうかがえます。ちなみに、誕生院は佐伯家の居宅跡に、建立されたと伝えられます。また、この当時の弘田川が、誕生院の東側を流れていた形跡があることに注目しておきたいと思います。現在は西側を流れているので、どこかで流路変更があったようです。
弘田川について
 一円保絵図に描かれた二つの湧水は35mの等高線上にあります。
それに対して善通寺東院の北側(三条八里)付近は30mで、湧水からの導水は可能です。しかし、弘田川に向かっては、緩やかな下り傾斜になっています。そのため弘田川左岸(東側)は、弘田川から直接の導水はできません。絵図を見ても、弘田川からの直接の引水を示す水路は書かれていません。上流からの迂回水路が一本記されているだけです。これに対して、弘田側左岸は、引水可能でした。A図で四条の西側に水田エリアが南北に並んでいるのは、弘田側の左岸で、川からの導水が可能な所であったからだと研究者は説明します。
C図は、耕地の現状作の程度を示しています。
  一円保絵図 現在作状況

図Cで、田現作(水田)が51%以上なのは、三条七里、四条七里の南部エリアに多いようです。このエリアは、水源のふたつの湧水からの水が最初に用水路で運ばれてくる所です。「湧水により近いエリア」として、水に恵まれていたことは当然に予想ができます。一円保絵図で、水がかりの用水路が描かれているのも三条七里のエリアのみでした。A図を見ると、旧練兵場にあたる三条八里あたりにも水田はまとまってありますが、年荒率はたかく収穫はあまりよくないようです。

以上から研究者は次のように指摘します。
「三条七里、四条七里の地域では、面積としては少ない水田にまず優先的に引水していたことを示唆する。ここでは現作51%以上といっても、ほとんどが一〇〇%である。三条七里の地域に畠の年荒が発生しているのは、水田を優先したため畠にしわよせがきた結果と考えてよいのではないか。最初から水利の便に乏しい三条八里の地域では水田にも顕著な被害があらわれている。さらに畠にかなり常荒が発生し、七ヵ坪が年荒100%というありさまである。
 もっとも、注進状では伽藍敷地は常荒として計上されており、都市化現象はすでに平安後期には始まっていたと思えるから、これら常荒のなかには、寺僧・荘官・百姓の僧房・屋敷地が一定含まれていたと考えておかねばならないが。」

  農民達の戦略は、まずは用水路に近い南側の限られた水田での米の収穫を優先させます。そのために、このエリアの出来はよいようです。しかし、その「限られた水田優先策」の犠牲になるのが、畑であり、北側の八里の水田だったということになるようです。同時に善通寺東院周辺の「住宅地化したエリア」は、「常荒」とカウントされていたことが分かります。

平安後期の善通寺領では「春田」とよばれる地目があります。
これは寺領水田26町8反余のうち、灌漑用水不足で稲の作付ができなかった年荒田11町9反を中心に、冬作畠として利用したものです。ここには麦や紅花が栽培されていたようです。
 12世紀以前においては、稲刈り跡の水田や年荒の水田は、誰にでも耕作や放牧が許された開放地であったようです。こういう耕地は、国衙の課税対象からはずされていました。そのため「春田」として冬に麦米を作れば、農民たちの手元にまるまる残りました。そのため農民達は「常荒」地の存在について、あまり苦にはしてなかったようです。時には意図的に「常荒」化させ、土地を休ませていたこともあったようです。

13世紀末に有岡大池が完成すると、どのような改善があったのでしょうか。
一円保絵図 有岡大池

まずは新しく作られた用水路を見てみましょう
弘田川本流から分岐された用水路が、坪界線にそって東、北、東と屈曲し、東院のすぐ西側を通って真直ぐ北流していきます。これが有岡大池の成果の一つと研究者は指摘します。これにより今まで灌漑できなかった弘田川右岸エリアが灌漑可能になりました。今まで畑だった耕地が水田化され、湿田が乾田化されます。中世農業生産力は乾田化により進んだと云われます。乾田化は
「水田における稲作 + 年荒田時代の春日の経験=
 二毛作の実現
をもたらします。幕末の丸亀藩がつくった『西讃府志』に、大池(有岡大池)は
「周囲十三町三十間、漑田大墓池卜合セテ百十三町四段五畝」

とあります。この数字には、中世にすでに達成されていたものも含まれていると研究者は考えているようです。

もう一つの変化は、流路の変化です。
先ほど見たB図では、旧弘田川は東院と誕生院の間を流れていた気配があることを指摘しておきました。それが絵図では、誕生院の西側を流れるようになっています。これは、有岡大池の完成と共に治水コントロールが進み、旧弘田川を灌漑水路として、新たに作られた本流を排水路も兼ねて治水力を高めたと私は考えています。

  以上をまとめておくと
①善通寺は佐伯氏の保護が受けれなくなった後には、弘法大師伝説の寺として中央の信仰を集めるようになった
②その結果、所領を善通寺周辺に集め一円保(寺領)にすることができた。
③一円保は、その水源を領外の2つの湧水と、弘田川に求めなければならなかった。
④12世紀には、一円保の水田化率は3割程度であった。
⑤13世紀末に、灌漑能力の向上のために行われたのが有岡大池の築造であった。
⑥この工事に付随して、弘田川の流路変更し、西岸エリアへの灌漑用水網の整備が行われた。
⑦しかし、一円保の東エリアは二つの湧水にたよる状態が続き、大規模な水田化をおこなうことはできなかった。
 これが大きく改善するのは、上流での金倉川からの導水が可能になるのを待たなければならなかった。
一円保絵図 金倉川からの導水


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年
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 一円保絵図 五岳山
一円保絵図の東部
五岳山とは、地図上の①~⑤の山々の総称です。
多度津方面から見ると、屏風が立っているように見えるので屏風浦とも呼ばれたと云われます。低い山の連なりなのですが花崗岩が浸食されて絶壁となっている所もあり、なかなかスリリングな低山トレイルルートです。
1出釈迦寺奥の院

このルートは中世は、三豊の七宝山を経て観音寺まで続く修験者たちの中辺路ルートだったことは以前にお話しした通りです。その中でも、③の我拝師山は、当時から行場として超有名だったようです。それは弘法大師伝説で次のようなシーンが取り上げられたからです。
高野大師行状図 (1)

 幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説です。
ある日、真魚(まお=空海)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」
と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 これが空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
DSC02586
我拝師山に現れた釈迦如来
 
西行の『山家集』には、我拝師山の「捨身が嶽」が次のように記されています
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことに大事なり。
かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて廻りあはむことの契ぞ たのもしききびしき山の ちかひ見るにも
意訳変換しておくと
 ある本に書かれているように、曼荼羅寺の行場へ登っていくのは大変なことで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った。捨身が嶽の行場には、弘法大師が写経した経典が埋めてある。行場には一丈(3m)ほどの壇が築かれ、その上に卒塔婆が建っている。弘法大師は、ここへ毎日登ってきて、行道(廻道)修行を行ったと伝えれている。卒塔婆の周りをめぐり行道できるように、壇は二重に築かれている。登るときには、大変な危険さを感じる。用心しながら這って廻る

ここからは、西行も空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。
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空海も、この行場を何度もめぐる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略


DSC02600

 
以上をまとめておくと
①弘法大師伝説で、空海が幼年期にこの山で「捨身行」を行い、釈迦如来が現れ救った
②高野聖である西行が空海に憧れ、この地に庵を構え何年も修行を行った
弘法大師伝説 + 西行修行の地 = 修験者たちの憧れの地となっていたようです。それは高野山の内紛の責任を取らされ善通寺に流された高野山の学僧道範の「南海流浪記」を見ても分かります。弘法大師伝説の拡がりと共に、善通寺の知名度は上がりました。同時に、我拝師山の知名度も上がり「超一級の名所」になっていたとしておきましょう。
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我拝師山の麓には、曼荼羅寺が描かれています。
しかし、出釈迦寺はありません。出釈迦寺は、我拝師山の遙拝所で、お寺が出来るのは近世も後半になってからです。この時代には姿はありませんでした。
 ⑤の火山の山中には「ゆきのいけの大明神」いう小祠が描かれています。この山では行者達が、修行の節目節目に火を焚いたと伝えられます。修験者の行場であったことがうかがえます。
一円保絵図 五岳山

一円保絵図の右半分をもう一度見てみましょう。
主役は五岳山のように見えます。しかし、よく見ていると私を忘れていませんかと主張してくるのが有岡大池です。黒く大きく塗りつぶされた姿と、そこからうねうねと流れ出す弘田川は目を引きます。有岡池も何らかの意図があって描き込まれたように私には思えます。この池について見ていきましょう。
DSC01108
大麻山と有岡池

 かつては、讃岐平野におけるため池の出現は、古代に遡るという考えが主流でした。
その背後には満濃池が造られているのだから、平野部にも灌漑用のため池が古代から築造されていたはずという「思い込み」があったように思います。しかし、考古学の発掘調査は、これをことごとく否定していきます。なぜなら丸亀平野の土器川や金倉川の流路変更が明らかになってきたからです。たとえば古代には、土器川は金倉川に流れ込み、弘田川流域から白方で海に流れ込んでいたとか、中世には飯野山の北を北流し、大束川に流れ込んでいたということが分かってきました。中世までの丸亀平野は、浸食が進まず川の流路が安定せず網の目のように流れる河川と微髙地が広がっていたのです。このような状態では、ため池は築造のしようがなかったのです。
 そのような中で有岡大池は、この一円保絵図が書かれた時には姿を見せています。つまり14世紀初頭には築造されていたことが分かります。
有岡大池が、いつ築造されたのかを探ってみることにしましょう。
有岡大池は行政的には、何郷に属するのでしょうか?
一円保絵図 周辺との境界

上の地図を見ると分かるように生野郷修理免に属します。まずは、一円保のエリアには属さないことを確認しておきましょう。それならどうして権益外の生野郷に、大池を築くことが出来たのでしょうか。史料を見てみましょう。
資料 生野郷内修理免の変遷
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④(有岡大池の完成 差図の作成)
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出

上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
 有岡大池の築造時期を研究者は、史料から紋りこんでいきます。
免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。

 有岡大池登場に至る前史を、追いかけてみましょう。
善通寺は、東寺長者に相伝されることにより、ようやく建長4年(1252)になって国使からの不人権を獲得し、国衛の干渉から逃げることができるようになります。しかし、そのことが一円保内における善通寺の強力な支配権の完成を意味していたわけではなかったようです。その障害となったのは、一円保公文職を郡司綾貞方の孫が代々世襲してきたことです。「善通寺市史」には、一円保の成立過程に多度君郡司綾貞方が果した役割が詳しく書かれています。
①久安元年12月の「讃岐国善通寺曼茶羅寺寺領注進状」には、綾貞方は、善通寺近在二在所を持ち、
②応保元年11月25日「綾貞方請文」では、善通寺の所当地子の徴収を請負っています。
彼は徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいた人物です。善通寺一円領が「保」として成立する過程で、郡司綾貞方とその一族は大きな障害であったことがうかがえます。
 要するに、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったようです。そして公文職が、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。
この動きにピリオドを打つ公文職が登場します。これが真恵です。
真恵は、これまで公文職を世襲してきた綾氏の「親類」でした。そして、すでに売却されていた名田を買い戻すことができる財力を持つ在地領主層の出身僧侶でした。その真恵が善通寺大勧進職に就任するのです。そして、寺領の開発経営を主導していくようになります。彼によって善通寺が一円保内の百姓在家や、名田畠を直接支配し、固定化していく体制が形成されていったと研究者は考えているようです。

一円保絵図 全体

一円保絵図の一つの特徴として、寺僧や名主の在家・名田畠の配置が詳しく書かれていることは、以前に見たとおりです
 家屋を描いている場所は、―円保に居住する農家を示すのでしょう。単に百姓らの名のみの場合は、その田畠の所在を示しているようです。また絵図には、一円保全域の水利、自然景観、寺社等も描かれています。その中に在家・名田畠の配置が細かく記されているのは前回見たとおりです。
 これは、寺僧や名主の在家、名田畠の所在を把握しようとすると同時に、固定化しようとする意図があったと研究者は指摘します。ここから一円保絵図の作成は、真恵が公文職に就任し、随心院の権威を背景に一円保内の名田畠の売買を厳禁した弘安三年以降のことだと研究者は考えます。
一円保絵図 北東部

最初の問いに還りましょう。 絵図は何のために作られてのでしょうか
一円保絵図の主題は、左の条里制の用水関係にあるようです。なのに「用水指図」には必要のない善通寺伽藍や五岳山・有岡大池が描かれています。裏書には、「百姓等烈参」とありました。ここからは、随心院にたいして善通寺の百姓たちがなんらかの要求の裏づけのために作成されたことは、間違いないでしょう。

これに対して、研究者は次のような仮説を出してきます。
「本絵図は年貢の損免要求のために作成され、領域図的性格を備えたのも、ほかならぬ一円寺領としての損免要求だったからではないかと考える。提出時期が11月であるのも、冬の収納との関係を予想させる。名主の注記が用水末端よりさらに下方にしか描かれていないのも、実際にそこにしか彼らの耕地がなかったのではなく、これらの地域が有岡の池の築造にもかかわらず依然用水が不足がちで、早損が発生しやすく、損免要求にも切実、かつ正当性があることを強調するためではなかったか。」

  つまり、京都の本寺随心院に対する年貢の減免要求の資料として作成されたと研究者は考えているようです。

1善通寺一円保

百姓代表が随心院で、どんな手順で減免要求を行ったのか想像力で再現してみましょう。
①絵図を見せながら善通寺の伽藍状態を説明し、弘法大師生誕の地であること
②背後の五岳山を差しながら我拝師山が弘法大師の捨身行の聖地であることを強調
③善通寺と曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台であることの再確認
④善通寺一円保(寺領)の範囲の確認
⑤左側(東)の二つの出水のみが一円保の水源であること
⑥そのために近年、新たに有岡大池を築造したこと
⑦一円保内の用水路を確認しながら、用水が一円保の南側半分にしか届いていないこと
⑧一円保南側の旧練兵場跡は灌漑用水が届かず、水田化が進まず、畑作にも不自由していること
⑨善通寺伽藍に帰り、五重塔は倒れたままで、その他の建物の修理が不十分なことを説明
こんな「戦略」で、百姓達は「烈参」の場に臨んだのではないでしょうか。
一円保絵図 松の木」

 また、研究者は三条七里二五の坪に見える「松」にも注目します。
古来繁栄隆昌を意味する縁起のいい「松」が、善通寺伽藍の西行の松(H)とは対照的に、根も浮きあがり枯れ呆てているかのように描かれています。寺領のこの地が日照りで危機的状態にあることを強くアビールしているようにも思えます。中世ヨーロッパでは

「木が枯れるということは早魃、病害を意味し、人間の生活にも危機が迫っていることを示していた」

といいます。(阿部謹也『歴史と叙述――社会史への道』)
 日本でも『平治物語絵巻』第七紙の信西を斬る場面では、傍らに枯木が描かれています。これは死を象徴しているようです。
 南北朝期には、善通寺一円保が随心院納める年貢上納額は、非常に少なくなっていることが史料からは分かります。
それは、百姓たちの年貢引き下げ要求の「烈参」が繰り返し行われた結果だとも思えてきます。そのために随心院の受け取る年貢水準はだんだん少なくなったのかもしれません。もちろん、烈参と絵図作成は善通寺の後押しをうけていたはずです。本寺への年貢が軽減されることは、善通寺にとっても有利なことだったでしょうから。
善通寺一円保の減免要求を随心院が認めたのは、どうしてでしょうか
 それは、善通寺が弘法大師生誕地であり、曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台「我拝師山」を抱えるということが有力な要因だったのではないでしょうか。その「武器」を最大限に活かすために一円保絵図には、関係のないと思われる五岳や我拝師山が描かれたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年

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