瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺御影堂

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善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
4善通寺御影堂3
御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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4空海真影3
弘法大師空海御影

  京都の本寺である東寺と、讃岐国衛の圧迫を受けて財政的に困窮し、風で倒れた五重塔もそのまま放置されるような状態であった善通寺。それを僧侶達は「末法」の現れと悲憤・悲嘆しました。そのような中で善通寺に追い風が吹き出します。それが「空海伝説」の都での広がりと、それれに伴う支援者たちの形成です。
まず弘法大師伝説について見てみましょう。
空海のことが今昔物語や他の文献にも登場し始めるのは、11世紀になってからです。ある意味、空海は忘れられていました。それが空海伝説の広がりと共に「復活」してきます。そして「弘法大師誕生の寺」として中央でも注目されるようになります。空海の時代から善通寺が生誕地として注目されていたわけではないようです。時間をかけてゆっくりと、弘法大師伝説は語り継がれ広がり、王侯貴族に広がっていったのです。
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 空海の御影信仰とは?   
空海は承和二年(八三五)3月21日に亡くなったのではなく、高野山奥の院で生きなからに入定して、今なお衆生済度のために活動している

という入定信仰がよく知られています。中世に東寺を中心に広がったのは、御影(肖像)信仰で、肖像のなかに空海の精霊が宿っているという信仰です。東寺における御影信仰は、延喜十年(910)の御忌日に、長者観賢によって東寺濯頂院の壁面に描かれた空海の肖像を本尊として行われた御影供にはじまるようです。鎌倉時代にはこれが国家的行事に発展します。こうして御影信仰は、平安後期から鎌倉前期にかけて、朝廷・公家・武家の間に広く行き渡っていきました。
「御影の中に、空海の精霊が留まっている」という信仰が広がると、「空海自身の筆で描かれた自画像こそ、最大の霊力がある」と思われるようになるのは自然です。善通寺には、この自筆自画像=御影があるとされていたました。
4空海真影
弘法大師御影(善通寺様式)

 これを拝みたいという上皇が現れます。後鳥羽上皇です。
 その時に、善通寺に逗留していた高野山の高僧宥範は、その経緯を次のように記しています。

 空海御影の上洛を善通寺に求めたのは後鳥羽上皇自身であり、善通寺の僧たちは上古以来御影を堂からお出ししたことない旨を申し上げて再三辞退した。が、度々の仰にことわりきれず、御影を奉戴して上京した。上皇は御拝見ののちに、絵師に命じて御影を模写させ、また生野郷の田地六町を寄進した。
 
 寺伝によると、承元三年に土御門天皇がこの御影を拝覧した時、画中の空海がまたたきをしたので、瞬目空海の御影と名付けられたと記します。このような、空海真筆御影に対する信仰が、本寺の東寺や随心院の頭越しに、直接善通寺に対する尊崇に結びついて行きます。これが中世における善通寺の発展に、大きな役割を果たします。 これを契機に、善通寺への寄進等が増えていきます。
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 後鳥羽上皇の寄進から40年後の宝治三年(1249)三月、善通寺領を大きく前進させる国司庁宣が出されます。
その内容は2つで、
その第一は、寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、猪や鹿が善通寺の霊場に逃げ込み、猟師がそれを追ってきて殺害し、浄界に血を流すことがある。まことに罪業の至りであり、寺辺の殺生は法によっても戒められていることであるから、生野郷の西側に四至を定め、その内を善通寺領に準じて殺生禁断の地とするというものです。

 四至とは東西南北の境界のことで、国衛で定めている境界は、
4空海真影
東は善通寺南大門作道を限り、
西は多度こ二野両郡の境の類峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南麓の大道(南海道?)
を限るとあり、これのエリアを示したのが上の地図で、なかなか広い地域になります。この地域がそのまま善通寺の領地となったわけではありませんが、寺の霊域と定められ、善通寺の宗教的支配地となったといえるでしょう。

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善通寺御影堂
 第二は、国が所有している田地21町を善通寺の修理料として寄進するというものです。
織田信長のルーツ越前劔神社とは?比叡山を焼いた信長の祖先はなんと神主だった - ほのぼの日本史

この寄進を行ったのは、讃岐知行国主になった前関白九条道家です。道家は鎌倉の三代将軍源実朝が暗殺されたあと、都から下って将軍職を継いだ九条頼経の父でもありました。いわゆる実力者です。道家は善通寺が衰え廃れていることを聞き、驚いてこの寄進を行ったといっています。そうして寄進田地に対しては、次のように命じたとされます。
国衛も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為して其の沙汰致さしむべし」、すなわち一切善通寺の管理・支配にまかせるべきである

 この田地は善通寺の堂塔の修理料として、国の租税を免じられたところという意味で「生野郷修理免」とよばれました。  これを「空海伝説信奉者による善通寺応援団の形成」と私は考えています。
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保と生野郷修理免


 善通寺がこの地域で直接支配できたのは10数町の免田だけで、あとは殺生禁断という形の宗教的支配と地域内の荒野開発権です。ここにはなお多くの国司支配の公田が残っていて、有力武士の所領地も存在していました。そのため支配権をめぐる争いはその後も絶えなかったようです。しかし、「末法」の最悪状態を抜け出す道筋が見えてきたようです。
 
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善通寺誕生院境内

良田(よしだ)郷郷務の寄進
 文永十年(1273)の蒙古来襲に対して、神社仏閣は国家の求めに応じて救国のための祈祷等を行います。その結果、「神風」の助けもあって撃退されます。このような中で、社寺への「論功行賞」も行われます。善通寺も、弘安三年(1280)11月、朝廷に良田郷西側の寄進と、あわせて大嘗会役や造内裏役など公領・荘園を問わず国中に課せられる国役の免除を申請しました。

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寺の請願書には次のように記されています。
当寺は弘法空海誕生の霊地であり、功徳、霊験他に勝る寺である。その功力をもって先皇後嵯峨上皇の御菩提をとむらうために亀山上皇より良田郷郷務を寄附されて以来、金堂・法華堂の一八人の僧が、金堂においては金剛胎蔵両部の行法を修し、法華堂においては長日法華三昧を勤め、毎月の上皇の御命日には不断光明真言法を勤行している。
 さらに祥月命日の二月十七日には満寺の衆徒によって曼荼羅供ほかを勤修するなど「偏に先皇を訪い奉り、仏道を増進」することに勤めてきた。
 これらの仏事をいっそう盛んにするために、良田郷西側の地について、「大嘗会役夫工造内裏以下恒例臨時勅院事大小国役、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し、金堂法華両堂供僧等進退領掌せしめ、永く未来際を限り牢龍(ろうろう)有るべからずの由」の宣旨を下されたい
 この請願でまず、目にとまるのは「金堂・法華堂の一八人の僧」とあり、僧侶スタッフが18人いる大寺であったことです。次に、注目されるのは、国司大勘ならびに別当の妨げを停止し」と国司や本寺随心院の干渉を止めさせる宣旨をいただきたいと述べている点です。ここには、本寺の干渉を受けない、自らの寺領を持つことを主張しています。いわば善通寺の独立宣言です。
 善通寺が弘法空海の誕生地であること、そして「荘厳(仏像・仏堂を飾る仏具・法具)・梵閣・仏像皆是れ空海の御作として奇異の霊験を施す」という空海との特別な関係があるという自覚・覚醒が背景にあるようです。そこには、歴史においては本寺より勝った寺なのだという自負や、それにふさわしい地位を与えられて当然だという「自尊心」も感じられます。

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戦前の善通寺御影堂
 善通寺の申請は弘安四年(1281)八月の官宣旨(朝廷からの命令)によって認められました。これは、北九州に来襲した元と高麗の連合軍が大風雨によって壊滅した翌月のことです。この支配権は良田郷領家職とよばれていて、個々の田地の所有権ではなく、一定の領域に対する支配権です。弘安四年の官宣旨には、この領域の境界が次のように記されます。
東は金倉寺新免絵図通を限り、
西は善通寺本寺領(一円保のこと)境を限り、
南は生野郷境を限り、
北は葛原郷(現多度津町内)境を限る
とあります。領域内の田地は、約四七町余りになるようです。良田郷領家職は、良田荘ともよばれています。こうして善通寺は小さいながらも荘園領主となったのです。このような寺領拡大をもたらしたのは、空海の誕生所であることと、御影信仰が両輪として働くようになった結果だったといえます。
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 善通寺領の発展の当時の政治的・社会的背景は?
  それは第一に、蒙古襲来があげられます。
蒙古来襲の危機が高まると、幕府・朝廷は防衛体制を固めるとともに諸社寺に異国降状の祈祷を命じました。善通寺の古文書のなかに、建治二年(1276)8月21日付けの蒙古人治罰の祈祷を行った報告書があります。
  蒙古人治罰御祈祷事
          御影堂衆
  毎日三時五檀法 金堂衆
          法花堂衆
  大般若不退転読 供僧分
  仁王経長日読誦 職衆分
  薬師経観音経  交衆分
  尊勝陀羅尼千手陀羅尼 行人、
右、勤行の意趣は、公家武家御願円満のおおんため、蒙古人治罰御祈祷致す所也
    建治二年八月二十一日
これによれば、御影堂・金堂・法花堂の供僧が毎日朝・昼・夜の三度五壇法を修して五大明王に敵国調伏を祈るほか、寺僧らが手分けしてさまざまな修法を行い、蒙古人治罰を祈っていたことがわかります。二度にわたって来襲した蒙古軍がいずれも大風によって撃退されたことは、神仏の加護によるものだと信ぜられ、社寺に対する尊崇が高まり、領地などが寄進されました。善通寺の良田郷領家職や艘別銭徴収権の獲得などもこの気運にのったものと思われます。

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もうひとつの理由は、大覚寺統の後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多上皇が、相次いで讃岐の国主となったことです。
 三上皇は院政の主で、そろって真言密教を深く信仰し、善通寺の援助者でした。良田郷の荘園化、禁野関料の権利も三上皇の善通寺保護がなければ、実現が難しかったと研究者は考えているようです。
 特に後宇多上皇は、徳治二年(1307)ごろに東寺造営の大勧進であった泉涌寺(京都市東山区)の素道(そどう)上人に命じて善通寺五重塔の再建を計画しています。崩ずるに先だって作成した21箇条の御遺告の第18条には「善通・曼荼羅両寺および誕生院を興隆」と遺言として残しています。

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 善通寺東院の南大門を入った左手の大楠の近くに三基の宝塔があります。
これは中世の善通寺の発展を支援した後嵯峨・亀山・後宇多三上皇の遺徳をたたえるために建立された宝塔で、三帝御陵とよばれています。この宝塔について善通寺市のHPには次のような文章が添えられていました。
この宝塔は、はじめは旧伽藍(212㍍×212㍍)の西北隅にありましたが、境内縮小のあおりで境内の北西約1.4kmの現・善通寺市中村町宮西に移転されました。この地には現在でも御陵地と呼ばれる一区画があります。その後の享保年間(1716~1735年)に、境内の北西側隣接地、(旧富士見町)の遍照院跡地に再度移転しました。さらに昭和39年2月に現在の場所へ移転しました。このように3基の石塔は移転を繰り返しながらも、祭祀が継続されていたことが伺えます。

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善通寺の三帝御陵
以上をまとめると、鎌倉時代後半の善通寺の寺領の拡大には次のような背景・要員があった。
① 空海伝説=大師信仰の王侯貴族への広がり
② 善通寺の御影信仰と皇族からの保護寄進
③ 蒙古撃退後の社寺への論功行賞
④ 讃岐の国主となった三上皇(後嵯峨・亀山・後宇多上皇)の支援保護
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参考文献 鎌倉時代の善通寺の姿 善通寺史所収
関連文書

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
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善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
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