瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺東院

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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

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 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
2善女龍王 神泉苑g
空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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