瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺永井

永井出水
善通寺市の永井出水(清水)と伊予街道

  旧伊予街道と丸亀城下町から多度津葛原を抜けて新池から南下してくる道が交わるところに出水が湧き出しています。これが永井出水(榎之木湧)です。伊予街道沿いにあるために多くの人達に新鮮な水と、休息の場を提供してきました。今回は、この湧水の周辺にあった馬継所と茶屋を見ていくことにします。

多度津街道ルート4三井から永井までjpg
永井周辺の金毘羅街道と道しるべ

この湧水のある永井は、金毘羅街道と伊予街道が交わる所でもあります。そのため周辺には道標が多いようです。「こんぴら街道の石碑」の所には、折れた鳥居の石柱が残っていることは以前にお話ししました。また、金毘羅街道が南に折れる所にも、いくつもの道しるべが民家の庭先に建っています。
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永井の金毘羅・伊予街道合流点の折れた鳥居の石柱 上図番号12

 今日、お話しするのはさらに東に行った所にある永井の出水(榎之木湧)です。

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永井の出水(榎之木湧)

丸亀平野は、もともとは土器川や金倉川の扇状地です。そのため水はけがよくて、凹地には出水が至るところから湧きだしています。それが弥生時代から人々の生活用水や水田の灌漑につかわれてきました。

長井の出水
        永井の清水(榎之木湧:金毘羅参詣名所図会)

 この出水めがけて、条里制に沿って伊予街道が伸びてきます。
旧街道で四国一周!(1)伊予街道 その①高松城~鳥坂峠_d0108509_11501950.jpg
                伊予街道
この街道は、丸亀城下はずれの中府口(丸亀市中府町)から田村を通り、善通寺地域の原田・金蔵寺・永井・吉原・鳥坂を経て道免(高瀬町)に入り、新名(高瀬)→ 寺家(豊中町)→ 作田(観音寺市作田町)→ 和田浜(豊浜町)→ 箕浦を経て、伊予川之江へとつながります。
 江戸時代には、その途中に次のような5ヶ所に馬継所が置かれていました。
  中府村・下吉田村永井・新名村・寺家村・和田浜村

馬継所とは問屋場とも呼ばれました。
第37回日本史講座のまとめ④ (交通の発達) : 山武の世界史
「人馬宿継之図」と題された上絵には、馬継所の前で荷物を馬から降ろし、新しい馬に積み替えています。

藤枝 人馬継立|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画
拡大して見ると武士の供が宿役人に書類を提出したのを、宿役人が証文と思われる文書を確認しているようです。
藤枝 東海道五十三次 歌川広重 復刻版浮世絵
    荷物を積み替える雲助と、役目を果たし煙草一服の雲助

このように、
馬継所(問屋場)では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていました。東海道の各宿では、100頭の伝馬と100人の伝馬人足を置くことが義務づけられていました。伝馬朱印状を持つ者がやってきたら伝馬を無料で提供しなければなりません。その代わりに、宿場は土地の税金が免除されるなどの特典や、公用の荷物以外は有料とし、その際の駄賃稼ぎが宿場の特権として認められていたようです。この小型版が伊予街道にも次のように配置されていました。
①丸亀船場から永井までが二里
②永井から新名までが二里半
③新名から寺家までが二里
④寺家から和田浜までが二里半
だいたい2里(約8㎞)毎に、設置されていたようです。永井の馬継所についた雲助達は、そこにある出水で喉を潤し、汗を流し落としたことでしょう。

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永井の出水
各馬継所間で荷物を運送する人足や馬へ支払う「人馬継立賃」は、次のように定められていました。
(明治維新の翌年の1869年の「人馬継立賃」)
二里半区間 人足一人につき五匁、馬一頭につき一〇匁で
二里区間  人足一人につき四匁、馬一頭につき 八匁
1870年には、永井馬継所運営のために、給米内訳が下表の通り支給されています。この表からは次のような事が分かります。

永井馬屋の経費表
①永井馬継所の給米は28石5斗で、「日用御定米」日用銀(米)のうちから出費される
②内訳は夜間の「状持」(公的書状送届)のため大庄屋へ1石2斗
③新菜・中府馬継所の大庄屋への状持をそれぞれ2石5斗と2石
④残りの22石8斗が、帳附者と御状持運者へ配分。
 ①の「日用銀(米)」は、年貢以外に村落維持のための費用を農民から徴収したもので、丸亀藩がこれを管理して必要に応じ村落へ支給するようになっていました。
④の「帳附者」は、公的荷物の運搬に従事する「運輸従事者(雲助)」のことです。「御状持運者」とは、各大庄屋への書状配達人足のようです。
   永井の馬継所は、どこにあったのでしょうか
永井御茶屋から少し西に行った元郵便局の辺とされ、伊予街道と旧多度津道の交ったところになります。そこには今は「お不動さん」があり、「屏風浦弘法人師御誕生所善通寺道」と刻まれた道標が建っています。
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永井出水に立つ道標(東高松 西観音寺)
馬継所は明治3(1870)年8月に廃止されます。換わって、新たに丸亀浜町と新名村と和田浜村に駅逓所が設置されたようです。(以上、亀野家文書「駅場御改正記」)

 永井出水周辺には、もうひとつ公的な建物がありました。

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出水には「榎之木湧(えのきゆう」と書かれた説明板が建てられています。 この説明版からは次のような事が分かります。
①出水は地域住民の飲料水だけでなく、下流17㌶の水田の灌漑用水でもあること
②お殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名付けられた茶屋があったこと
③その名物が、ところてんであったこと
永榎亭という茶屋がいつごろからあったのかは分かりませんが、1852(嘉永5)年に、下吉田村の永井茶屋番だった又太郎が居宅建替のための援助金を藩に、要望した時の口上書が残っています。

永井茶屋口上書嘉永5年
永井茶屋番・又太郎の茶屋建替のための口上書
  恐れ乍ら願い上げ奉る口上の覚
一    私万
往昔宝永年中、永井御茶屋御番仰せ付かせられ、有難く恐請し奉り、只今の処え転宅仕り、今年迄几百五拾ヶ年計、数代御蔭を以って無事二御番相勤め居り申し候、且天明八の頃居宅建替の節、御上様ぇ御拝借御願申し上げ候処、願の通仰せ付かせられ候、其後右御下ヶ銀下され二相成り候様申し伝え承り居り申し候、又候文政四の頃台所向建替仕り、其後天保九成年御巡見様御通行の節、座敷向御上様より御造作成し遣せるれ、誠二以て冥加至極有り難き仕合二存じ奉り候、取繕も度々の儀一付、手狭一仕り度くと存じ候得共、御上様初土州様御通駕の節、手狭二ては御差支え二相成り候間、下地の通り建替仕り度く、御存じ在らせられ候通、蟻地二て又々居宅残らす蟻人波り極人破に及び、瓜山の節ハ最早崩込の伴も計り難く、忽捨置き難く実二方便余力御座無く、心底に任せず御時節柄恐れ入り奉り候得共、前文の次第二付此度建替仕度候得共、親共代より色々不仕合相続き、■は近年世上一統世柄も悪敷、売外も不景気二て別て困窮仕り、何共恐れ多く申し上げ奉り兼候得共、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応の御ドヶ銀仰せ付かせられ下され候様願い上げ奉り候
  意訳変換しておくと
私どもは、宝永年間(1704~11)に永井茶屋の御番を仰せ付かって、現在地に転居しててきました。御蔭を持ちまして150年余り数代に渡って、無事に御番を勤めて参りました。
 天明の頃に、居宅建替の時には、御上に御拝借をお願申し上げたところ、銀を下されたと伝え聞いています。また文政4年の台所建替、天保9成年御巡見様の通行の時には、座敷を殿様より造作していただき、誠に以て冥加の極りで、有り難き仕合と存じます。
 修繕も度々におよび、手狭になって参りました。殿様をはじめ土佐の参勤交替の際にも、差支えがでるようになりました。そこで図面の通り、建替を考えています。今の居宅は、全体に白蟻が入り込み、大風の時には倒壊の恐れもあり、このまま放置することは出来ない状態です。ここに至っても、時節柄を考えると大変恐縮ではありますが、別途計画書の通り建替を計画しました。親の代より色々と御世話になり、近年は世情も悪く、売り上げも不景気で困窮しております。恐れ多いことではありますが、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応のご援助をいただけるように願い上げ奉ります。
ここからは次のようなことが分かります。
①「往昔宝永年中永井御茶屋御番仰せ付かせらる」とあるので、18世紀初頭の宝永年間には、ここに茶屋が開かれていたこと
②丸亀の殿様以外にも、土佐の殿様の参勤交替の際にも利用されていたこと
③過去には茶屋兼居宅の建て替え、台所建替、座敷の造作などに藩からの援助があったこと。

この1852(嘉永5)年の居宅建替援助願は、丸亀藩の認めることにはならなかったようです。それは2年後の1854(安政元)に、藁葺の茶屋番居宅が地震で破壊したために「元来蟻付柱根等朽損、風雨の節危く相成居候」と居宅を取り壊して小屋掛にすることを願い出ていることから分かります。白蟻の入った茶屋は、地震で倒れたようです。
金比羅からの道標

 茶屋の修理についてはその都度に、下吉田村の庄屋から藩に報告書が提出されています。その史料から研究者は、茶屋を次のように「復元」しています。
表門・駒寄せを設け、黒文字垣・萩垣・裏門塀をめぐらし、屋根は藁葺。庭には泉水があった。建物の内容は上ノ間(四畳半)・御次ノ間(六畳)があり、台所が附属し、雪隠・手水鉢が備えられていた。

それから約20年後、1871(明治4)年5月に茶屋番の仲七は茶屋敷地と立木の払下を要望書を次のように提出しています。
  一此の度長(永)井茶屋并に敷地立木等、残らず御払下ヶ遊ばせらる可き旨拝承し奉り候、然る二私義以来御茶屋御番相勤め、片側二て小居相営み渡世仕り居り候所、自然他者へ御払下け二相成り候様の義御座候ては、忽渡世二差し支え、迷惑難渋仕り候間、甚だ以て自由ヶ間敷恐れ入り奉り候得共、御茶屋敷地立木共二私え御払下け仰せ付かせられ下され候ハヽ、渡世も出来望通二有り難き仕合存じ奉り候、何卒格別の御慈悲フ以て、御許容成し下させ候様、宜敷御執成仰せ上げられ下さる可く候、以上
明治四年未五月          御茶屋番     仲 七
庄屋森塚彦四郎殿
意訳変換しておくと
  長(永)井の茶屋と敷地の立木を、残らず払下ていただけるように申請いたします。私どもは茶屋番を長らく務めて、茶屋の傍らに小さな住居を建てて生活を立てて参りました。これを他者へ払下げられては、生活に差し支えが出て難渋し、困窮いたします。ついては恐れ入りますが、茶屋敷地と立木を私どもへ払下げていただければ、これまで通りの生活も送れます。何卒格別の慈悲をもって、聞き届けていただけるようお願いいたします。
明治四年未五月      御茶屋番     仲 七 印
庄屋森塚彦四郎殿
ここからは20年前に倒壊した茶屋に代わって、仲七が小屋掛けにして営業していたことが分かります。そのため敷地や立木を自分たちに払い下げて欲しい、そうすれば今まで通りの「渡世(生活)」が送れると陳情しています。先ほど見たように1870(明治3)年8月に、永井馬継所は廃止されています。そのため永井茶屋も払い下げられることになったようです。この払下願は下吉田村庄屋森塚彦四郎から弘田組大庄屋長谷川邦治へ出され、さらに長谷川邦治から藩へ提出されたはずですが、その結果を伝える史料は残されていないようです。(以上、長谷川家文書「諸願書帳」)
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永井出水
以上をまとめておくと
①伊予街道の善通寺市永井には榎之木湧があり、そのそばに殿様の休息のための茶屋があった。
②茶屋は、ところてんが名物で、殿様だけでなく街道を行き交う人々の休息場所でもあった。
③しかし、幕末に立て替えられることなく地震で倒壊した。その後は、小屋掛けで営業をしていた。
④明治になって跡地売買の話が持ち上がり、営業主から跡地の優先的払い下げを求める申請書が残っている。
⑥永井は、伊予・金毘羅街道が交差する所で、馬継所や茶屋があり、街道を行き交う人に様々なサービスと提供していた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   永井の馬継所と茶屋  善通寺市史NO2 266P
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神社の鳥居は、神域と俗界の境目に建ち、ここからは神聖で、邪悪のものは入るを禁ずといった一種の関所でもあったようです。金毘羅さんも参拝客が増えるにつれて、金毘羅門前町だけでなく、街道沿いにも建てられるようになります。
金毘羅街道鳥居一覧表2
金毘羅街道鳥居一覧表
それを一覧にしたのが上表になります。この表からは、次のようなことが分かります。
①金毘羅参拝客が増加する18世紀末から各街道沿いのスタート地点と金毘羅のゴール地点に燈籠が建立されたこと
②奉納者は地元よりも、讃岐以外の他国の人たちによって建立されたものが多いこと
③その後の道路交通事情などによって、移転された7基あること
そんな中で多度津街道の②永井鳥居は「崩壊」とあります。どうなったのでしょうか。今回は、永井鳥居の崩壊をめぐる事件を追いかけてみます。テキストは「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。

多度津街道には、3つの金毘羅鳥居が建っていたことが分かります。
多度津街道ルート上 jpg
           金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より

永井の鳥居は、三井八幡から条里制に沿って伸びる多度津街道を五岳山や象頭山を見ながら歩いていくと国道11号を越えて暫く行った所にある十字路にあります。ここは東西に伸びる伊予街道との交差点で、行き交う人が多かった所です。近代になっても、この街道が旧国道11号として整備され、基幹道路として現在の11号線が整備されるまでは使用されていました。そのため街道沿いには、病院があったりしていまでも家並みが続いています。拡大図を見てみましょう。
多度津街道ルート4三井から永井までjpg
多度津街道と永井周辺の丁石と燈籠分布 
多度津街道道標一覧2
多度津丁石一覧
 道標番号11と12が永井の鳥居と同じ所にあることが分かります。またそこに何が彫られているかも分かります。
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永井の多度津街道と伊予街道の交差点

  多度津街道を原付バイクでツーリングしていて、永井集落の交差点にやってきました。道の両側に円柱状のものが立っています。変わった石造物だなと思って近づいてみると・・・

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永井鳥居の石柱(東側南面)
「天下泰平」とありますが・・・鳥居がポキンと根元から折れているのです。
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多度津街道 永井鳥居の石柱(西側)
西側の柱には、丸い柱に多くの人たちの名前が次のように刻まれています。
発起施工
松嶋屋惣兵衛  米屋喜三右衛門  福山屋平右衛門  湊屋儀助
 一段、
草薙伝蔵(仲之町) 草薙甚蔵 松嶋屋弥兵衛 大和屋亀助 
阿波屋浅次郎 
海老屋輿助(仲之町) 三谷簡能 松本屋辨蔵 
油屋平蔵 岡山僅巾― 油屋調 麦堀爽兵衛 
 二段
嶋屋弥兵衛(浜町) 増金屋友吉 高見屋平次郎(浜町) 綿屋林蔵 木屋清兵衛  竹屋平兵衛槌屋幸吉 
 三段
中村屋源右衛門(浜町)  米屋清蔵 柏屋惣右衛門 備前屋左兵衛  土屋嘉兵衛  米屋七右衛門(若宮町)蔦屋幸吉 油屋佐右衛門
・徳次(角屋町) 吉田屋藤吉
 升屋彦兵衛・仙吉(若宮町)   唐津屋長兵衛 
ここからは、安政四年(1857)に、多度津町有志によって、建立された鳥居の柱基部であったことが分かります。
いつ折れたのでしょう? どうしてこんな形で残されているのでしょうか?
東西の柱の根元を見ると、彫られた字が地面の下に隠れされてた状態になっていることが分かります。柱が途中から折れた状態のままで維持されているのではないようです。倒壊し残された柱の一部だけをもとの位置に建て直したのだろうと最初は推測しました。

この疑問に答えてくれたのが「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。
ここには1988年9月に行った現地聞き取り調査の結果を次のように報告しています。
①戦後直後の1946年の南海大地震で永井鳥居は、東の柱が上から1/3あたりで折れて北側に倒れ、笠石や貫石も額束も倒れてくだけた。西柱は、そのまま立っていた。
②部落の世話人が金刀比羅宮に報告したところ、再建のめどもつかないので、額束石は金刀比羅宮へ納め、その他は処分してもよろしいとの通知があった。
③そこで近くの石屋に、残っていた西の柱も取りくずして処分を依頼した。
④鳥居の台座の石は2メートル平方の見事なもので、東の分は、土地改良工事の際、川底へ埋め、西の分は鳥居の石材を処分した石屋が持ち帰った。
⑤その後、付近の人たちによって、折れた柱を立て鳥居の遺蹟をつくることになった。
⑥その時、交通の便を考えて鳥居の柱の間を、今までよりも広くあけて立てた。
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多度津街道 永井の交差点 手前が伊予街道
三井の金崎宅の庭には、このときの鳥居柱の一部が保存されているようです。「右た」とあり、これは「右たどつ」の事で、反対の面には「安政四年丁」の文字がみえます。これは安政四年丁己五月とあった柱の上の部分石になります。この柱の下の部分が、永井の西側にある柱です。この柱石は、一度三井の石屋に払下げられますが、「もったいない」と金崎氏が引き取り、自宅の裏庭に立てて、保存してきたようです。 
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永井鳥居の額束は、南北両面に掲げてあったようです。
南面は行書、北面はてん書の字体であったと云います。南海地震の時、鳥居は北に向って倒れたようです。そのため北の額束は砕け散りました。かろうじて南側のものは、姿をとどめます。それを永井の人たちが鳥居の石材の一部と、額束を金刀比羅宮へ運びます。永井鳥居の額束は今でも、金刀比羅宮に保管されているようです。
 聞取り調査による永井の鳥居の姿は次の通りのようです。
 西の柱 北面 左こんぴらみち
     南面 安政四年五月
     天下泰平国家安全
     当村世話人  乾 善五郎
            乾 呉 市
 乾善五郎、乾輿市氏は鳥居の立っている土地を提供した人。
 東の柱 東面 右たどつみち

 下部に発起人や献納者の名がある。
 毎年、秋祭りには、鳥居の下で金毘羅さんを拝し、獅子舞を奉納されてきたそうです。

以上をまとめておくと
①多度津街道も18世紀後半から金毘羅参拝客が増え始め、19世紀後半には起点の多度津鶴橋と、ゴールの琴平高藪口に鳥居が建立される。これらは松江や粟島の人たちの寄進によるものであった。
②多度津湛甫完成によって、多度津の町は大いに潤うようになる。そのような好況を背景に19世紀半ばに多度津の人たちによって、永井に鳥居が建立された。
③永井は多度津街道と伊予街道が交差する地点で、人通りも多く建立に相応しい場所とされた。
④ところが戦後直後の南海地震で鳥居は倒壊し、残った石柱でモニュメントが道の両側に建てられた。これが現在の永井鳥居跡になっている。
倒壊した鳥居を後世に残そうとする地元の人々の熱意で、ここに鳥居があったことが伝えられていくモニュメントとなっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」

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