瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺誕生院

1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

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善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
4善通寺御影堂3
御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 「大覚寺差止め八か条」で、海岸寺は次のようなキャッチフレーズは差止(使用禁止)となります。
「御誕生之霊跡」「御降誕之霊地」「御初誕之地」「御産生所」

また「弘法大師生誕地」と称していた次のものついても使用停止処分となります。
海岸寺の縁起  奥の院産盥堂の勧進帳  建石之事(丁石) 
案内切出之書付(道案内図)
 
そして「藩の申し渡し」によって、
①産盥の参拝者への公開禁止(没収は免れた)
②産盥堂は「再建」としては認められないが新築することは許された
⑤屏風浦の称号使用禁止(頭書や肩書きとしては許された)
  この2つの決定により「弘法大師=多度津白方生誕」説は、息の根を止められたかというと、そうでもないようです。以後も生き続け、庶民の間には流布され続けたようなのです。その実態を追いかけて見ようと思います。
まず、裁定が出された後の海岸寺の動きを見てみましょう。
  上のような決定が海岸寺に通達されるのが文化十四年(1817)の春3月23日のことです。しかし、海岸寺は申渡し事項を前向きに守ろうとする態度ではなかったようです。翌月の4月4日には「弘法大師生誕地」と書かれた「切出し」(案内図)を配布していたことで、多度津藩からの取調べを受け、始末書を差し出しています。その始末書には
「切出しを旅人たちへ配布したのは、信徒世話人の中の勝手の分らない者が、以前に刷っていたものを配布したものである」

と弁明しています。藩では、その世話人の名前を調べて差出すようにと命じます。それに対しては
「切出しを配布した世話人は、会式の時などは大勢入り込んで世話してくれるので、今になっては名前は分らない」

と弁明を重ねるばかりです。
これに対して藩は、実力行使に出ます。4月8日に縁起と絵図の板木、また大師初誕の像に屏風浦と書いた「切出し」の板木を没収します。同時に、産水の井や浴巾掛の松の建札を取払うように命じています。海岸寺はここでも「畏み奉る旨」の始末書を差し出します。
 ここからは、裁定後の海岸寺の姿勢がうかがえます。同時に海岸寺の信者の中には、裁定について反発する動きがあったのかもしれないと思えます。
 6月13日、海岸寺に対し差止を命じた「條々完了の旨」の通達が多度津藩から丸亀藩を経由して、善通寺に次のように通知されています。
     覚
大師御誕生所一件落着後追々片付候条々                      
一、納経帳ニ産盥堂と認候之儀被差止候事  
一、産盥堂と認有之候 建石書直之義被申渡候事  
一、産盥堂と書付有之雪洞六帳並びに同断認メ之幕二張為取払候之事  
一、産盥堂絵図と板木並びに大師初誕御影板木被取上候事
一、湯手掛松建札並びに二産水ノ並びに建札為取払候之事  
一、海岸寺縁起可取上旨被申渡候処 大覚寺御門跡御用二付差出置候処 今二御差下無之旨海岸寺より申出候事 
 右の通それぞれ取片付相除申候。以上
       (丸亀藩寺社方) 土岐権之襄。
                菅四郎兵衛
誕生院                                                                      

どんなものが海岸寺から没収・撤去されたのかを見ておきましょう
①納経帳に産盥堂と書かれているのを差し止めた
②産盥堂と彫られた建石(標石)を書直すように申し渡した
③産盥堂と書かれた雪洞(ぼんぼり)六帳と幕二張を取り払った
④産盥堂絵図・板木・「大師初誕」と彫られた板木を没収
⑤湯手掛松と産水の建札を取り払った  
⑥海岸寺縁起については、大覚寺に差し出したのでないことが海岸寺から申出があった。
 以上の通り、裁定に従って、没収・撤去した。以上
3月に丸亀藩と多度津藩で協議された内容に従って、「実力行使」が多度津藩の寺社方の立ち会いのもとで行われたようです。一応これで、一歳に方がついたと思われました。このような争論の結果が讃岐の人々には、どのように受け止められたのかを見てみましょう

海岸寺敗訴の裁定が下されてから約10年後の文政11(1828)年に出版された「全讃史」には、次のように記されています。

文化年間に、海岸寺は白方が屏風浦であること、又大師産盥石があり、熊手八幡宮が大師の氏神であることを朝廷に訴え善通寺誕生院と争った。数年にして誕生院は傾きかけた。そこで誕生院は多くの関係者に助力を求めた。そして、一条関白殿下から善通寺が誕生所で、修学所であるとの額を頂いた

  ここには。事実にまったく反することが書かれています。
事実経過をもう一度整理しておくと
①海岸寺が、誕生院を朝廷に訴えたのではなく、誕生院が海岸寺を、丸亀藩へ訴へたのです
②善通寺が藩の援助を受けたのではなく、反対に海岸寺全面敗訴が、多度津藩主の「政治的な圧力」で名目を保つことができたのです
③一条関白が、誕生所の額字を誕生院に寄贈したのは、訴訟後のことです。『全讃史」善通寺の條の中にも次のように記されています。
一条関白従一位左大臣忠良公、賜額字弘法大師誕生之場(八大字)共落款云、文政元年五月二日、開白忠良題

 争論の裁定は文化14年(1817)に終わっています。額が送られたのは文政元(1818)年五月二日のことです。 遠い昔のことではありません。裁定が下されてからわずか10年しか経っていないのに、このような誤りがれっきとした歴史書に載せられたのはなぜでしょうか。
二つのことが考えられます
①報道の自由が保障されていない当時は、真相を知る術がなく流言が飛び交った。積極的に海岸寺に有利な流言をながした集団がいた。それを信じた編者中山城山が『全讃史』に、そのまま記した。もっと云えば「弘法大師生誕地=善通寺」を受けいれられない信者集団がいたということかもしれません。
②編者中山城山が善通寺に悪意を持っていた。

まず①の 「多度津白方=空海誕生地説」を流布した信者集団の母体と広がりを考えます
 確かに善通寺が誕生所であることは、綸旨や院宣に書かれています。しかし、民衆からすれば「綸旨、院宣」が何であるか分らず、その内容も知らない者も多くいたようです。そして、大師は白方で生まれ、白方が屏風浦だと信ずる信者集団がいたということです。このことについては、以前にもお話ししましたので、要点だけを紹介します。
白方を屏風浦と言い、大師は白方で生まれたと言い出した最初のものは「空海混本縁起」のようです。
  ここには次のように空海の出自のことが記されています
 .讃岐多度郡屏風浦に、藤新太夫と申して猟師一人有、其内に阿古屋と申て女一人有ますが(中略)
無程懐人仕給ふ 夫人間は9月半ばの胎内とは申せども、私ならぬ人なれば十三月の御産の紐をとき給う。その時の年号は宝亀5年寅年六月十五日、寅の一天御産の紐をとき給ふ、御子取上げ見給ふに、かけも形も世にすぐれ、うつくしき男子也。然るに此子程なく、夜鳴を仕給ふ事限なし、其時地頭政所村七軒、地頭七人の身の上を聞き、急き子捨よと仰ける、御母其由聞召、我は是四拾のいんに餘りて、子を一人も持たず、人はとも言へかくもあれ捨る事は成るまじきと仰ける、藤新太夫申けるようは、王公に住身のならいなれば捨ずば如何可有やと急き此子を捨よと仰ける、御母此由聞召、金の魚を御夢想たるに依て、御名を金魚丸殿と付て綿(私注、錦か)に包、彼の千暮[ケ原に捨給ふ云々
その後、善通寺の徳道上人に拾われ、善通寺で産湯を使ったので、善通寺を誕生院と呼ぶことになったというのです。しかも父は「藤新太夫」、母は「阿古屋」とします。善通寺の「父・佐伯善通寺、母・阿刀の娘」に真っ向から反する記述です

 一方、母の阿古屋の夢想の中に老僧があらわれます。そして次のように告げるのです。「小兒の夜鳴の声は、母の胎内でいる時からお経を読んでいる声である」と。
 母はよろこんで、白方屏風浦へ迎えて程なく七歳になります。そこで、福寿丸と名を付けかえ、善通寺へ送ったいう風に物語は展開していきます。
この「混本縁起」のあとに「弘法大師四国八拾八箇所山開」(略・山開)が出てきます
勿体なくも讃州多度の郡白方屏風浦佐伯善道様御むつましう御くらし、其時あこや御前の御腹をかり、十三付きの間御もちなされ、賓亀五年六月十五日、寅年寅の月、寅の刻に御たんじょうなされ、あこや御前はしかとだき、せんだん山にすて子なされし。其時せんだん山の師生通りかかり、これふしぎなる御山にあか子なきこへとおもへと法華経よむようにきこゑ、御そばに立より、がんしょくはいし奉れば、日月の如し、御身は佛の如く相見え云々

 この「山開」は読んでみて分かるとおり、分かりやすく卑俗な文句で仮名付きで書かれていて、誰にでも読める物語風になっています。もともとは、先達(山伏)たちが信者に語り聞かせたものと研究者は考えているようです。この「山開」の終りのところには「光明真言の訓読」が付け加えてあります。そして、
ありがたい経文と心得、大師を祀ったお堂の前などで節づけで唱えよ

と先達から教えられたようです。今でも八十八か所の札所では、五人、十人と巡拝者が声をそろえて合掌する姿を見ることがあります。 さらには、神社寺院の縁日などで、この「山開」の
  「百丁くだればすかわさん、くわずのかいにくいわずのいも、年に三度の栗もなる」

のフレーズを称えながら「くわずのいも」を売るものも現れます。まさに「売り言葉」としても使われるようになるのです。
 また四国遍路の順拝者が物乞いをするときには、この「山開」を一流の節で詠じ、鈴を振り戸毎に立ちました。これは「弘法大師生誕=白方屏風浦」の流布宣伝の大きな武器になったようです。こうして、「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、四国遍路によって四国全体にも広げられて行ったようです。
海岸寺が産盥堂を建て「白方海岸寺誕生」広報プロジェクトを進めれば、人が集まってくる素地は十分あったようです。「藩主裁断」という一片の通達で、庶民の信仰を葬り去ることはできなかったようです。

 「弘法大師生誕地」や「屏風浦」が、歴史書にどのように記されているのかもう少し見てみましょう      
讃州府志(延享2(1685)の屏風浦の項目には、次のように記されています
行状記に曰く、屏風浦は弘法大師の生誕地である。五岳山があり、その形は屏風に似ていることから来ている。大師が云う王藻に帰る島のことで、巨樟の影落とす浦である。ここには堂舎があり、三角堂と呼ばれ、大師像が安置されている。その西の山側には、石臼のような石造物があり、これを大師の産盥と称している。また、清水涌く井戸が有る。弘法大師の氏寺と伝えられる(熊手)八幡宮があり、その北側は海である。

ここに記されている建物の位置関係を見てみましょう
①屏風浦は弘法大師生誕地で、五岳山の麓に善通寺がある
②屏風浦の三角寺に大師像が安置されている。(白方の三角寺佛母院のこと)
③弘法大師の産盥があるのが海岸寺奥の院
④弘法大師の氏寺が熊手八幡である。
ここからは『讃州府志』の大師誕生の屏風浦は、善通寺と佛母院と、海岸寺と熊手神社が隣接したエリアにあり、これらの全てが「屏風浦」に位置すると理解していたようです。作者が現地を訪れていないことがうかがえます。現地調査を行い史料を収集した後に、著述するという姿勢はありません。

これらの書物を参考にして、後世に歴史書を書こうとする人たちは迷ったはずです。空海の生誕地、屏風浦の範囲やエリアなどがきちんと書かれている史料がないのです。
  例えば、綾氏一族の香西氏顕彰のために軍記物語を残した香西成次は
①南海治乱記では、善通寺は弘法大師生誕地と記し
②南海通記では、屏風浦は白方だと記します。
このような曖昧さが当時の知識人の間にもあったのです。

話を全讃史の編者・中山城山に戻して、彼が「善通寺に悪意を持っていた」という仮説を検討してみます。
このことについては、弘法大師生誕地をめぐって争論した善通寺と海岸寺の「応援団」に目を向けてみたいと思います。海岸寺の本寺は大覚寺で、法親王が住職される宮門跡の大寺院です。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が目白押しです。
 それに比べて善通寺の本寺である随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡で、讃岐には善通寺以外に末寺はありません。善通寺と海岸寺だけで比べると、善通寺が圧倒するように思えます。しかし、その背景に控える寺社ネットワークを見ると、善通寺は讃岐国内で孤立していることが見えてきます。
 つまり、讃岐において真言系寺社は同門の海岸寺を密かに応援していたことが考えられます。僧侶達は知識人集団で,言論出版に大きな影響力を持っています。大覚寺系の末寺は、海岸寺に有利な世論工作を行っていた節があります。その動きの一翼に「全讃史」の編者もいたと私は考えています。裁定に破れても、海岸寺の「弘法大師生誕地=多度津白方」説を、信じて支援するエネルギーが各所にあったということでしょう。

裁定から80年近く経った明治29年(1896)の3月11日のことです。善通寺の住職が、高野山宗長に次のような要請を書状で依頼しています。
議岐国多度郡白方村  海岸寺
右寺近年切二庶人二封シ弘法大師御誕生所卜称シ居候。既二客歳春該院二於テ開帳セラレシ際 縁起ヲ聞クニ専ラ御誕生所ト唱へ候テ 庶人ヲ惑致居候往昔ヨリ善通寺ハ御誕生所十ル事歴史上ニ於テモ皆人ノ知ル所ナり。
 然ルニ海岸寺二於テ御誕生所ト称シテ 庶人ヲ証惑スル段重々不都合二候 去ル文政十四年度ニモ海岸寺は御誕生所を偽称致候二付嵯峨御所並びに藩政ノ裁決ア仰キ候 未だ海岸寺ハ十数ケ條ヲ以テ差止メラレ候(今其のケ条のいくつかを挙げると)
一 綸旨院宣ニ差障り候条誕生所二紛敷義無之様急度可為無用事
一 産盥卜相唱候石器 庶人へ見セ候義ハ急度可為無用(きっと無用たるべし)
一 湯手掛/松ノ建札並びに産水ノ井建札取払ノ事
明治29年3月11日
            讃岐国多度郡善通寺
            別格本山善通寺住職 佐伯法遵

本宗長者
権太贈正 鼎龍暁段
意訳すると
海岸寺について藩政の頃から禁止されているのにも関わらず、今また産盥と称し信者に参観させるばかりでなく、湯手掛の松や産水並びに木札を建てるようになりました。それだけでなく近年は弘法大師誕生地を公称するようになりました。誕生地が2つもあることは信者を戸惑わせるだけでなく宗祖系譜の乱れにも通じます。
 文政年間の裁判の通り、断固たる処置をとることはもちろん、誕生地を称する事について厳しく禁止させるように指導して頂きたい。なお海岸寺が禁止されている行為を参考のためにいくつか以下に挙げます。
一 善通寺が弘法大師誕生地であるという綸旨院宣に差障りのあることを流布することの禁止
一 産盥称する石造器を信者に拝観させることは禁止
一 湯手掛松や産水ノ井などの建札は禁止

 明治になって新時代が到来したことを背景に、海岸寺が再び「弘法大師=白方生誕説」を流布して、参拝者を招き入れていることが分かります。それだけこの説を支持する信者が多くいたということなのでしょう。
 今では地元では「空海生誕地=善通寺誕生院と多度津白方」が同居しているような感じもします。空海の生誕地がふたつあることを、余り違和感を持たずに受けいれられているような雰囲気がします。信仰というものは、藩主の一片の書状では変えることはできないようです。根強く残る多度津白方生誕説の背景を見ながら、そんなことを感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

1 善通寺伽藍図

善通寺は東院と誕生院の2つのエリアから現在は構成されています。古代に佐伯氏の氏寺として建立されたのは、五重塔や本堂の建つ東院です。それに対して誕生院は、空海の生家があった場所とされ、空海誕生の聖地とされています。こちらは弘法大師伝説が広まった中世に成って生まれた宗教施設です。
1 善通寺 仁王門

誕生院に入口に立つのが仁王門です。この仁王門を真っ直ぐに進んでいくと御影堂に至ります。ここで悪霊や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐために立っているのが金剛力士像です。
向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。
1 善通寺 金剛力士阿形

阿像は左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。
1 善通寺 金剛力士吽形

  一方、左が口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開く吽形像です。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
 小さいときに、この阿吽像の間を通って「お大師さん(おだいっさん)=善通寺」に、お参りするときには、両方の仁王さんから睨まれるようで恐かった思い出があります。そして、鉄人28号のように、もっと大きく感じたものです。実際どのくらいの大きさだったのかとデータを見ると、
「像高(阿形)193、2㎝(吽形)190、5㎝」

とあります。 この数値を見ると意外な感じがします。もと大きいはずと感じてしまいます。このくらいの身長なら今ではスポーツ選手には数多くいます。等身大よりかは、はるかに大きいというイメージでした。確かに阿吽像は、土で築いた壇(高さ約70㎝)上に立っています。そのためいつもは、見上げるように見るため大きく感じていたのかもしれません。
 いつもは仁王門の中にいて、下半身は柵でよく見えないのですが、こうして写真で見て気付くのは、下半身に重量感があるということです。下半身にまとう服は裾が長くボリュームがあります。いったい何をまとっているのかと思います。また、阿吽のふたつを並べてみると、左右対比性をもつてバランスを考えて作られていることに改めて気付かされます。

   さて、この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
  かつて、この仁王さんたちは江戸時代(十七世紀)の製作と聞いたように記憶していました。ところが現在では、14世紀の南北朝まで遡るとされています。一体何があったのかを、まずは見ておきましょう。
金剛力士像の製作年代の決定に大きな役割を果たしたのは、善通寺の学芸員の方です。平成21年の春ごろに、善通寺の建造物群の修理履歴を調べるため、近年の寺務書類を整理・確認していた時のことです。真言宗善通寺派の機関紙に、この金剛力士像の修理に関する記事が載せられていたというのです。(『宗報』第九号昭和51年1月発行)。そこには、修理後の写真とともに、
「応安三年(1370)に作られたもの」、
その修理は「京都東山の佐川仏師」によって行われた
ことが記されていました。つまり、昭和50(1975)年に、修理が行われた際に体内墨書が発見されていたのです。しかし、当時は注目もされずに、そのまま忘れ去られることになったようです。そのことを再発見したのが学芸員の松原 潔氏です。そこで、彼は修理にあたった仏師・佐川中定氏と連絡を取り、一枚の写真を手に入れます。
それが、この写真のようです。ここには修理解体時の時に見つかった次のような像内墨書銘が写されています。

1 善通寺 金剛力士像内墨書jpg
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  確かに、この墨書の年代は決定的な史料となります。こうしてそれまで江戸時代後半の作品とされていたものが、一気に400年近くも遡り、南北朝時代の仁王さんと評価されるようになったのです。しかし、この墨書銘が阿吽両像のどちらに書かれているのか、また、像内のどこに記されたものかは分からないようです。また、発願者の有覺という僧侶についても、作った仏師についても現在のところは分かりません。そこで、同時代の全国の仁王像と比べてみましょう

全国の鎌倉時代後期から南北朝期の製作年代のはっきりしている金剛力士像は?
①大阪・法道寺像  円慶・慶誉作  弘安六年(1283)
②高知・禅師峰寺像 定明作     正応四年(1291)
③神奈川・称名寺像 大仏師法印院興・法橋院救・法橋長
          賢・法橋快勢作元亨三年 (1323)
④兵庫・満願寺像  南都仏師康俊作 嘉暦年間
                   (1326~28)
⑤奈良・金峯山寺像 康成作     延元四年(1339)
などが挙げられるようです。
同じ四国霊場である②の定明作と比べてみると、様態は似ていますがイメージはまるで違います。
1 金剛力士
 高知・禅師峰寺像 定明作 正応四年(1291)
おなじ系統状のものとは思えません。
③の神奈川・称名寺像はどうでしょうか? 

1 金剛力士称名寺jpg

「ぼってり感が③の称名寺像と共通する感覚をもつ」と、研究者は云いますが、そうですかとしか私には答えられません。

香川県内の中世の金剛力士像を挙げると次の通りです。
  本山寺像・志度寺像・大興寺像・屋島寺像・國分寺像
 吉祥院像・伊舎那院像
  仁王の吉祥院像と財田の伊舎那院以外は、四国霊場のお寺さんになるようです
f:id:nobubachanpart3:20110624193641j:image
伊舎那院の金剛力士像阿形

運慶作の金剛力士像 - 三豊市、大興寺の写真 - トリップアドバイザー
大興寺金剛力士像吽形

ただ、本山寺(三豊市)の二天(持国天・多聞天)像には
「仏師当国内大見下総法橋」
「絵師善通寺正賢法橋」

の製作名と製造年の正和二年(1213)が記されているようです。
ここからは、この時代には善通寺や三豊に、在地の仏師や絵仏師がいて、その工房があったことがうかがえます。善通寺の仁王たちも讃岐の仏師の手によって作られた可能性もあります。

 仁王さんが善通寺に、やってくる背景を見ておきましょう。
仁王門が建つ誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたとされてきました。誕生院は、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院でした。創建は建長元年(1249)で、高野山の学僧・道範(1178~1252)によって行蓮上人造立の弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 この時期の誕生院は、東寺の末寺です。東寺から派遣された別当が住持を務め善通寺全体を監督していました。それが、元亨年間(1321~24)に後宇多天皇の遺告で、善通寺は大覚寺が本寺となります。その結果、本末の争いが起き、暦応四年(1341)に光厳上皇の院宣が出されるまで続きます。そして、善通寺は東寺長者も兼任する随心院門跡の管理下に入ります。
こうしたなか誕生院住持となったのが宥範(1270~1352)です。
宥範が住持になった頃は、善通寺は中世の混乱で衰退期でした。平安中期に大風により五重塔は、倒壊し失われたままでした。このような中で、諸堂の再建・修理に勤め、伽藍整備おこなったのが宥範です。 また、教学上でも真言密教の諸法流のうち三宝院流慈猛方や安祥寺流などを学んで、小野三十六流善通寺方(宥範方)を確立し、独自教学の発展と自立的経営の基礎を築いたとされるようです。そのため彼は「善通寺中興の祖」とされるのです。
 仁王門の金剛力士像が造られた翌年の応安四年(1371)には、宥範から誕生院住持職を譲られた弟子の宥源の上表によって、宥範に僧正位が追贈されています。宥源にとっては、師匠の宥範と共に目指した誕生院整備の締めくくりとして迎えたのが、この阿吽の仁王さまたちだったのかもしれません。
1 善通寺伽藍図.2jpg


善通寺に仁王たちがやってきて約二百年後の永禄元年(1558)に、阿波三好氏配下の讃岐武士団が天霧城の香川氏を攻めます。

その際に、善通寺は三好氏の本陣となります。両者の和議が成立し、三好軍が撤退した後に善通寺は炎上します。この際に、東院の本堂や五重塔は燃え落ちたとされますが、誕生院については次の2つの説があります。
①誕生院も兵火に係り燃え落ちた
②燃え落ちたのは東院のみで、誕生院は残った
 この論争に対して「金剛力士が中世に作られた」という事実は、②の説に有利に作用すると考えられます。「仁王門は、延焼を免れたから仁王さまは生き延びた」と考えるのが自然です。戦国期においても善通寺は壊滅的な打撃を受けたわけではないようです。東院は瓦礫の山になったかもしれませんが、誕生院は寺院のとしての機能を維持していたとしておきましょう。

善通寺には宝永五年(1708)の「金剛力士堂」再建の棟札が残っているようです。
戦国期に兵火にあった東院の五重塔や本堂が再建されるのは、17世紀末のことです。棟札には願主・光胤(1651~1732)と大工竹内十右衛門の名前があります。宮大工の竹内十右衛門は、元禄十二年(1699)上棟の金堂再建にも参加していたことが棟札から分かります。
 東院の再建と一緒に、「金剛力士堂」(仁王門)も、同じ宮大工によって再建されたようです。この棟札の裏面には「力士修補」とあります。このときに修理された力士像が、現在の仁王門に立っている阿吽像になるようです。阿吽像は永禄の兵火をくぐり抜け、660年近くにわたって善通寺を守護し、参拝者を迎え続けてきたようです。

  最後に仁王さまに敬意を表しながら、その姿を紹介する研究者の文章を紹介したいと思います。

善通寺金剛力士像 阿形

阿形像は髻(もとどり)【(頭頂で結った髪の束)を結い、その正面には上辺が三角の飾りをつけ、元結紐の先端を右上方へ翻す。目を怒らせ、開口して上下歯と舌を見せる。下半身には折り返し付のくんを着け、体側を天衣がめぐる。左手には金剛杵を握り肘を屈して振り上げ、右手は全指をのばし掌を外側にむけ体側に垂下する。右斜め下方を向いて、腰を左に強くひねり右足を踏み出して、手斧目の方座上に立つ。

善通寺金剛力士吽形
吽形像は阿形と同様に髻を結うが、その正面の飾りは花弁形にあらわす(元結紐は亡失)。
目を瞑らせて閉口する。左手は肘を張って体側に垂下させてこぶしをつくり、右手は肘を側方に張って全指を立てて掌を正面に向ける。左斜め下方を向いて、腰を右に強くひねり左足を踏み出して立つ。その他はおおむね阿形像のかたちに準じる。
善通寺仁王像 (2)


針葉樹材(ヒノキか)による寄木造。表面の彩色や補修のために構造の詳細は不明だが、頭体は別材製とおもわれる。頭部は耳の前後で矧ぐ三材製で、日には水晶製の玉眼を嵌め込み首下で体幹部に差し込む。体幹部は前後三材製で、腰に着けた祐は前後左右から別材を矧ぎつけるか。このほか、阿形像は両肩・左肘。両足先に、咋形像は両肩。右肘。両足先に矧ぎ目があり、それぞれそれ以下に別材を矧ぎつける。また、天衣も別材を矧ぎつけている。台座は広葉樹材製(ケヤキか)で複数材を矧ぎ合わせている。

善通寺仁王像 (3)

激しい怒りをあらわす面貌や引き締まった肉身にみられる抑揚の強い表現、肩を後方に引き頭部と腹部を前に突き出して創り出す前後の動勢は鎌倉時代初頭に活躍した運慶一派が完成させた写実的な新様式を踏襲するものだが、一方で、体幹部や腕などの角ばった造形や補にみられる厚ぼったい衣の表現などには様式の形骸化が見てとれる。

善通寺仁王像 (4)

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原 潔    善通寺の金剛力士像(仁王)について
                  空海の足音 四国へんろ展 香川県立ミュージアム所収

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善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
1 善通寺伽藍図.2jpg

讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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