瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:善通寺金堂

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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

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「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
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善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
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善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

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 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
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空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

            
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善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。

3つの善通寺創建説
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状には、次のように記します。
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」

ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。

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第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に、次のように記します。

「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」

また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したとされる『弘法大師御伝』にも次のように記します。

「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」

   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、次のように記されています。

「佐伯善通建立の道場なり」

 以上、善通寺に残る一番番古い文書には大師建立説がみられました。しかし、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことを押さえておきます。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。善通を空海の父とするようになるのは、近世になってからのことです。

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 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の「先祖の建立、大師再建説」です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、高野山の山内抗争に巻き込まれ、讃岐に配流された学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、次のように記されています。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと

そもそも善道寺は、弘法大師のご先祖の俗名を寺の名としたと言われる。退転していたのを、大師が修造したときに時に、本の名前が改められなかったのであろう。

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。それと、善通寺には中世には一時的に「退転」していたことを押さえておきます。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。

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善通寺五重塔(明治建立)
そして、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には、建立の年次が次のように明記されるようになります。

 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
 
 ここで弘仁四年(813)の落成が伝えられています。ここで注意しておきたいのは、空海の父は田君(公)で、その法名が善通とされていることです。「田公=善通・法名説」が登場します。そして父の法名にもとづいた命名であったとを記します。この『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通(=田公の法名)=空海の父」と記されることになります。

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 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。

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空海の出家記録 戸主佐伯直道長の戸口同姓真魚(空海幼名)
第一には、空海が31歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。当時の戸籍には一戸あたり何十人もの人数が記されていて、何家族かが一緒にされていました。戸主とされている道長は、お祖父さんの名前か、一族の長だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。

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善通寺金堂(東院)
第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。

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  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期の寺院が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。ここからも退転状態だったことがうかがえます。

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善通寺東院の金堂土台 古代の礎石が積まれている

 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていました。それが再建されるのは鎌倉時代初期になってからです。ところが、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には、次のように記されています。
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ

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善通寺金堂 元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
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                善通寺金堂の古代寺院礎石

この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。

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善通寺金堂の古代寺院礎石

 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
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 元禄11年に再建された際には、大きな土製仏頭が出てきました。それが宝物館に展示されています。目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。

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   以上をまとめると

善通寺伽藍の歴史2
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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善通寺金堂の薬師如来像は、いつどこからやってきたのか?

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善通寺東院の金堂
善通寺の金堂に入ると丈六の大きな薬師座像が迎えてくれます。
この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。
  戦国時代に戦禍で消失してから百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。江戸元禄時代になって、世の中が落ち着いてくるとやっと再建の動きが本格化します。そのスタートになったのは元禄七年(1694)に、仁和寺門跡の隆親王が善通寺伽藍再興をうながす令旨を出したことです。

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善通寺金堂の本尊は薬師如来

 金堂の方は元禄十二年(1699)に棟上されました。続いて、そこに収まる本尊が次の課題になります。
この薬師仏は誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、薬師仏をめぐっての善通寺と仏師とののやりとり文書が残っているようです。その文書から本尊の制作過程を追ってみます。
 善通寺が薬師本尊を発注したのは京都の仏師運長です。彼は誕生院光胤あてに、元禄十二年(1699)12月3日文書を4通出しています。その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示されています。このような「見積書」によって、全国の顧客(寺院)と取引が行われていたようです。
1 善通寺本尊1
薬師如来(善通寺金堂)

 ついで翌年の元禄13年(1700)2月5日には、着手金の銀子三貫目が運長へ支払われています。
これに対して運長は次の「請取証文」3通を発行しています。
①6月 3日 銀子五貫目分、
②10月4日 銀子二貫九百五十目分、
③翌元禄14年に「残銀弐貫目」分を金三十両と銀二百六十目で請取った
制作費の総額銀十二貫九五十目分の支払いは、着手金を含むと都合四回に分けて行われたようです。

1 善通寺本尊3

薬師如来像の制作経過は、どのようなものだったのでしょうか。
仏像本体は三月中に組み立ててお目にかけ、来年の八月中旬までには、台座、光背の制作、像の下地仕上げなども完了させて仕立て、箱に入れて納入します。

と、雲長は、当初の予定案を示しています。
善通寺と雲長のやりとりの記録では、これだけしか分かりません。しかし、運長の記した「箱之覚」と京の指物屋源兵衛が運長にあてて出した「御薬師様借り箱入用之覚」があります。「箱之覚」とは薬師如来像を、京都で制作した後、善通寺へ搬入する際の梱包用仮箱の経費覚えで運長が書き留めたものです。
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金堂の基壇には古代寺院の礎石が使われている

薬師如来は、どのようにして京都から善通寺に送られたか?

 寄来造りですから分解が可能です。そのため薬師像本体は頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されたようです。また台座、光背ほか組立に必要な部材などもあわせると総計33口の仮箱が必要だったようです。
 京都で梱包作業が終わった後、善通寺までの輸送日程や経路については資料がないようです。仏や荘厳の品々を納めた33ケの箱は船で、大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 「仏像輸送作戦」を担当したのは運長の弟子の久右衛門と加兵衛という二人の仏師でした。二人が9月23日に善通寺側へ提出した銀請取証文高の総額三貫六百六十一匁六分の内訳の中に「箱代五百九十九匁九分」が含まれています。ここから久右衛門と加兵衛の二人の仏師が仏像輸送と組立設置などの作業をおこなったと研究者は考えているようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。この頃までに薬師像の組立設置が完了したようです。
 
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 つまり薬師如来像の制作は、
①元禄13年2月5日に開始し、
②8月21日頃には像の下地仕上げが完成して仮箱も制作、
③9月23日には善通寺へ納入、組立完了
というおおよその流れがたどれます。
 しかし、薬師像の制作費の支払いが完了するのは翌年の元禄14年7月7日になっています。善通寺側の経費調達が必ずしも順調では無かったと研究者は考えているようです。
1 善通寺本尊2
 
 すべての支払い完了後に、誕生院僧正(光胤)は運長へ書状と祝詞の白銀五枚を渡しています。この書状の内容から誕生院にとって薬師如来の尊容が満足できるものであったことがうかがえます。運長自身も弘法大師「御誕生霊地」の造仏という意識をもって制作に臨んでいたことが分かります。元禄年間に出来上がった金堂と、そこに修められた薬師さんが300年以上経った今も善通寺の地を見守っています。
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参考文献 香川県歴史博物館 近世文書からみた善通寺の諸彫刻像 調査報告書第三巻

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