瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:喜田家文書


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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