久保谷の大師堂
まんのう町を南北に貫く国道438号は、三頭トンネルが出来るまでは行き止まりの国道でした。今は長いトンネルを抜けるとわずかの時間で美馬・郡里へつながるようになりました。しかし、かつては讃岐山脈の険しい峠道を越えて行く姿が戦前までは見られたようです。今回は、まんのう町と美馬町をつないだ三頭越の峠道のお堂を見ていくことにします。
三頭トンネルの入口の手前が久保谷です。
土器川の支流に架かる橋が三頭越の入口になります。久保谷川はかつては郡境で、川の南は鵜足郡勝浦、北は阿野郡川東でした。この久保谷橋を渡った所に、二間四方の大師堂があります。その祭壇中央に阿弥陀如来を、右側に寄せ木造りの大師座像を、左側には、舎利仏と呼ばれている仏像が祀られています。舎利仏像の厨子には次のように記されています。
「安政七(1860)年庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」
安政の大獄のあった時期に、峠の向こうの阿波の美馬猿坂の住人によって寄進されたもののようです。祭壇の左偶には、数枚の祈祷札が立て掛けられてありますが、下の方から腐食が進んでいるようです。祈祷札の中に、3枚の祈祷札があります。
①「安政第五(1858)年 奉修不動明王護摩供養二日 二月占良日」、②「慶応第二(1866)年 奉修不動明王護摩供養三日」
③明治四年と明治十四年の「金毘羅宮奉二夜三日祈祷 講中安全守護所」
①②は、ここで山伏たちが不動明王に護摩祈祷を行っていたことがうかがえます。③は、金毘羅大権現の大祭に、祈祷が行われていたことが分かります。①②③や舎利仏も幕末から明治にかけてのものなので、この時期に大師堂が創建されたようです。
昔の大師堂は、今ある場所から50m久保谷へ入った所にあったようです。昔の大師堂の前には広場があって、毎年にぎやかに盆踊りが行われていたといいます。この旧大師堂は、昭和13(1938)年の洪水で流されてしまいました。そのため講中の人たちの手によって、新しい敷地を求めて建てられたのが現在の大師堂だそうです。
むかし栄えた久保谷の金毘羅堂
そして、橋の手前に金毘羅堂はあったようです。その金比羅堂の正面には金毘羅さんを祀り、右に舎利仏像、左に善光寺石仏が安置され、踏込みの土間に沿って、広い縁があり、板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていました。土地の人はそれを「金の錐子」と呼んでいたそうです。
大師堂からの久保谷の景色
旧金比羅堂は、三頭峠から足下の悪い沢沿いの谷道を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換場となっていたようです。久保谷の土地が阿讃を往来する人々の旅宿となり、休憩所となり、情報交換の場となり、お互いに金毘羅信仰を温めあう聖地であったことを、物語ってもいます。琴平以南で最も活気のある金毘羅堂としてにぎわっていたようです。そしてまた、金毘羅信仰の一つの拠点として地域の色々な行事が行われていたのです。それが先ほど見た明治の金毘羅宮の祈祷札や、幕末の不動明王護摩供養札からもうかがえます。幕末から大正ごろまで、この地では金毘羅信仰が盛んで、関連イヴェントが行われていたことを教えてくれます。 しかし、昭和に入ると鉄道網の整備が進むにつれて金毘羅詣客が、この街道を利用することが少なくなります。そして行事も次第に行われなくなったようです。金毘羅堂も老朽化がひどく、戦後の昭和21(1946)年頃には取り払われたようです。中にあった仏や御札は、再建された大師堂や境内に移されました。
現在の太子堂境内には、いろいろな石仏や祈念碑が並んでいます
手洗鉢は正面に31㎝の○金が刻まれていて、もともとは金毘羅堂にあったものだそうです。石仏三体(地図図79)は、一番奥が、一光三尊形式で信濃善光寺と刻銘された慶応三年(1867)のもので、やはり旧金毘羅堂にあったものです。
「光背に厚く彫り出された化仏も立体的で美しく、地方作とは思えない秀作」
この久保谷から、三頭越を越えて阿波の三頭神社まで、ミニ西国三十三観音霊場の石仏が丁石を兼ねて街道沿いに置かれていました。ただ制作年号が分かるのはこの像だけのようです。久保谷から数えて、三頭越の峠までを16丁で16番目になります。33丁目の三頭神社では峠すぎの17番から33番までの石仏が迎えてくれていたようです。

四国の道として整備されている三頭越え
当時は、三頭越ルートの道が改修されていた頃になります。改修の成功を願い、道中の安全を祈って、阿波の人たちが寄進したものと研究者は考えているようです。境内の一番手前は、二十四輩の二十四番の石仏です。これも三十三観音の1番と一緒に、もともとは橋の向こう側の旧金毘羅堂付近にあったようです。
どうして、西国巡礼1番と関東巡礼24番の石仏が並んでいるのでしょうか?
①関東二十四輩の石仏達は、落合から久保谷までの路に、一丁毎に建てられていた②西国三十三番観音霊場の石仏は、久保谷から阿波の三頭神社までに一丁毎に建てられていた
つまり、久保谷の旧金比羅堂が、関東二十四輩の最後の札所であり、西国の最初の札所でもあったようです。金比羅堂が関東霊場と西国霊場の「ジャンクション」だったのです。久保谷までは二十四輩に、久保谷からは西国三十三観音に、旅人は守られていたということでしょうか。

ちなみに、いまは久保谷から三頭越までは四国の道として整備されていて、道標や案内板も設置されています。ゆっくり歩いても2時間足らずで峠にたどり着くことができます。
久保谷までの二十四輩で残っているのは21体で、もとの位置にあると思われるのは20・22・23・そして久保谷の金毘羅堂跡の4つです。これを丁石と考えて、旧道に配列すると、川東の林付近がスタート地点で一番札所があったことになるようです。林からは、険しい谷あるいは山道を久保谷まで街道は進んできます。行方不明になったり、動いている石仏(丁石)は、旧道が消えてしまった部分に当たるようです。
現在残っている丁石
しかし、西国ミニ巡礼は分かりますが、なぜ関東二十四輩の石仏達が設置されたのでしょうか?
それは、この三頭越の峠道を整備した僧侶の出自と関わっているようです。
石仏に並んで、ここには自然石の一面を削って碑文を刻んだ高さ約1,5mの石碑が2つあります。ひとつが三頭越の道路建設碑で、幅0,6m・厚さ0,4mで、碑文は片かな交りの漢丈調のものです。碑文からは読み取れませんが、琴南町史810Pには、次のような碑文が載せられています。
意訳すると、次の通りです
「当山、此ノ川ノ中央ヲ以テ阿野鵜足郡境トシ、勝浦・川東両村二接シ、往昔ヨリ谷間・三頭山ヲ越エテ通行スルノ往還、岩石間関タルノ小路ニシテ、旅人苦慮ス。牛馬鉄映(正シク行クコトガデキヌ)ノ実況ナレバ、局外ヨリ之ヲ観下スルニタヘズ。東西二奔走シ、精神フ凝ラシ、十方ノ喜捨フ以テ、国境ヨリ明神落合マデ六十町ヲ鉾削(人カデ切り開ク)セラレタリ。元治元年ヨり三星霜ヲ経テ、慶応三年仲秋営業ス十方寄附 発起人大麻村茶堂 智典勝浦村 角原 歌次琴平町 浜野 和平勝浦村政所 佐野十次郎川東村 黒川 勇古勝浦村 牛円藤之進川東村 西岡 滝蔵同 高尾 棟松
ここからは次のようなことが分かります
①久保谷の前を流れる土器川支流が阿野郡と鵜足郡の郡境で、勝浦・川東両村の村境でもあった。②三頭越の往還道は、岩場の悪路で旅人が苦労していた③そこで、国境から明神落合までの60町を切り開く工事を元治元(1864)年から3年がかりで進めて慶応三(1867)年の仲秋に完成させた。
この工事の中心人物が発起人の一番上に名前がある「大麻村茶堂 智典」と「勝浦村 角原歌次」だったようです。
この碑に並んで建つのが智典法師の供養塔です。
この日は建設碑と同じ型の自然石の上部に、サ(聖観音)の種字を刻み、明治12卯(1879)年 旧6月19日、行年82才と刻まれています。中央に約30㎝の方形のレリーフがあり、杯を手にした人と、鶴はしを手にした人が、ともに休息する姿が見えます。これが智典のようです。苔むして表情はよく分かりませんが、その精気が全身に充ち充ちているようにも思えてきます。
地元の人の間では、智典法師と、その最大の協力者角原歌次の二人の姿を刻んだものであると伝えられているようです。碑の下段には、世話人の氏名が次のように刻まれています。地域の集落を代表する人たちで、智典と行を共にした人々なのでしょう。
地元の人の間では、智典法師と、その最大の協力者角原歌次の二人の姿を刻んだものであると伝えられているようです。碑の下段には、世話人の氏名が次のように刻まれています。地域の集落を代表する人たちで、智典と行を共にした人々なのでしょう。
世話人 角原歌次ヲキノ 黒川八郎平ヨコバタ(横畑) 西岡久松カワノオク(川奥) 杉原好尺郎カワノオク(川奥) 高尾初衛カワノオク(川奥) 西尾金助ナカグマ(中熊) 佐野弘造ナカグマ(中熊) 西岡小太郎笠井喜二郎ハヤシ(林) 岡坂七平メウジン(明神) 三宅鳥造
ここからは、街道整備後の明治12年に「大麻村茶堂 智典」が82歳で亡くなったこと。それを悼んで建設費と供養碑が同時に久保谷の金比羅堂周辺に建てられたことがうかがえます。
以上を総合すると、幕末から明治にかけての三頭越の街道は整備が進み、それに併せるように街道沿いにはミニ巡礼の石仏が丁石を兼ねて安置されていきます。同時に拠点となる久保谷には新たに金比羅堂が建立され、舎利仏や石仏などが安置されたようです。今までにない街道とお堂に、明治と共に変身していった様子がうかがえます。ここで押さえておきたいのは、この道路工事が完成するまでは、三頭越えは悪路で牛馬も通えなかったことです。それまでは、二双越えや真鈴越が、阿讃の主要ルートでした。それが幕末から明治初年にかけて、三頭越えが整備され、こちらが主要ルートになっていったことです。
久保谷・大師堂の智典の記念碑
このようなきっかけを作ったのが「道造り坊主」と呼ばれた智典だったようです。
私は琴南町史を読んで、ここまでの情報で智典を、菊池寛作小説「恩讐の彼方に」の了海のよう人物と勝手にイメージしていました。 耶馬渓の青の洞円をうがった良海のように、この金比羅・三頭街道の難所を開くために
「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」
といった「道造り坊主」像です。ところが、どうもそうではないことが、近年発見された史料から分かるようになりました。彼は、街道整備の請負人でその組織の棟梁であったらしいのです。その話は次回に・・・
2025/09/01 改訂版
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町史











