瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国偏礼霊場記

    
1出釈迦寺6
  空海は善通寺に生まれ、真魚として育って行ったとされます。
真魚にちなむ場所がいくつも善通寺には語られていますが。その中でも真魚が「捨身」を行ったというのが我拝師岳の岩場(行場)です。久しぶりに、この行場に行ってみて、改めて出釈迦寺と奥の院(捨身ゲ瀧)の関係について分からないことが多いことに気付きました。最近、出釈迦寺の調査報告書が出ていたので読んでみることにしました。その読書メモです。
 出釈迦寺が創建されたのはいつ?
 出釈迦寺は、善通寺の背後にそびえる五岳の主峰・我拝師山の北麓にある四国霊場第73番札所です。山号は我拝師山求聞持院です。五岳の主峰名である我拝師と、空海が出家する原因となった「求聞持法」がくっつけられた山号です。
「山号や本尊に求聞持が付けられている札所は、かつて求聞持法の厳しい修行が行われた霊山である」
と私の師匠は云います。この山も修験者達の修行の場であったことが山号からもうかがえます。
 
1出釈迦寺奥の院
出釈迦寺の奥の院 背後の山が我拝師山
西行も、修行した我拝師山(出釈迦山)
西行の「山家集」には、札所は我拝師山の山腹、現在の奥の院があるところだと記されています。また、山上には基壇と塔の基礎が残っており、以前は塔がそびえていたとも記されます。つまり、近世以前には、現在の境内地に伽藍はなく、空海の「捨身修行」の場である険しい岩場(捨身ゲ瀧)を経て、我拝師山へと登るのが修行僧たちの辺寺修行であり、行道聖地のひとつだったようです。
 近世の文献の中に表れた出釈迦寺を見ておきましょう。
○『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。此寺二荷俵ヲ置テ出釈迦山ヘ上ル、寺ヨリ十八町ナリ。
出釈迦。先五町斗野中ノ細道ヲ往テ坂ニカカル、少キ谷アイノ誠二屏風ヲ立タル様ナルニ、焼石ノ如二細成が崩カカリタル上ヲ踏テハ上り上り 恐キ事云斗無シ。
 漸峰二上り付、馬ノ頭ノ様成所ヲ十間斗往テ少キ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ。釈迦如来、石像文殊、弥勒ノ石像ナド在。近年堂ヲ造立シタレバ一夜ノ中二魔風起テ吹崩ナルト也。今見二板ノワレタルト瓦ナド多シ。爰只曼荼羅寺ノ奥院卜可云山也。夫ヨリ元ノ坂ヲ下テ曼荼羅寺二至ル。是ヨリハ町往テ甲山寺二至ル。日記ニハ善通寺ヨリロ町、善通寺ヨリ甲山寺二口町卜有リ、夫八出釈迦ノ東ノ坂ヲ下テ善通寺へ直二行タル道次ナルベシ。
この澄禅の「四国辺路日記」(承応二年:1653)には、出釈迦寺の記述はありません。出てくるのは曼荼羅寺だけです。その中に「此寺二荷俵ヲ置テ 出釈迦山ヘ上ル」とあり、荷物を曼荼羅寺に預けて奥の院に登ったことことが記されます。
 続けて、空海が真魚と呼ばれた幼少期に捨身ヶ嶽から身を投げ釈迦如来に救われ、仏門への帰依のきっかけとなった我拝師山との由来譚が記されています。ここからも江戸初期には、出釈迦寺の姿はまだなく、空海聖跡として我拝師山へ(出釈迦山)に登って参拝することが修行の一環とされていたようです。

○『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
 七十三番出釈迦寺 少山上堂有、ひがしむき。
本尊釈迦 秘仏、御作。まよひぬる六道しゆじやうすくハんとたつとき山にいづるしやか寺 ほかに虚空蔵尊います。
 此寺札打所十八町山上に有、しかれども由緒有て堂社なし。ゆへに近年ふもとに堂井に寺をたつ、爰にて札をおさむ。是より甲山寺迄三十町。広田村。
とあります。ここからは札所は奥の院である禅定にあったのを、遍路が険しい道を登らなくても御札がもらえるように、江戸時代はじめに宗善という人が麓の現在地に伽藍を整備したと記されています。つまり、近世までは現在の奥の院付近が札所で、現在地には伽藍はなかったことを裏付けます。また、奥の院は出釈迦寺のものではなく曼荼羅寺の管理下にあったことが分かります。

○『四国偏礼霊場記』(寂本 元禄二年:1689)
  我拝師山出釈迦寺
 此寺は曼荼羅寺の奥院となん。西行のかけるにも、まんたらしの行道所へのぼるは、よの大事にて、手を立たるやうなり、大師の御教書て埋ませおはしましたる山の峰なりと。俗是を世坂と号す。其道の程険阻して参詣の人杖を拠岩を取て登臨す。南北はれて諸国目中にあり。
 大師此所に観念修行の間、緑の松の上白き雲の中釈迦如来影現ありしを大師拝み給ふによりて、ここを我拝師山と名け玉ふとなん。山家集に、その辺の人はわかはしとぞ申ならひたる、山もしをはすて申さずといへり。むかしは塔ありきときこへたり。西行の比まではそのあとに塔の石すへありと
なり。是は善通寺の五岳の一つなり。
むかしより堂もなかりきを、ちかき比宗善という人道のありけるが心さしありて。麓に寺を建立せりとなり。
此山のけはしき所を捨身が岳といふ。大師幼なき時、求法利生の御こヽろみに、三宝に誓ひ捨身し玉ふを、天人下りてとりあげけるといふ所なり。西行歌に
 めぐりあはん事のちぎりぞたのもしききびしき山のちかひみるにも
西行旧墟の水茎の丘は、万陀羅寺の縁起に載といへども此所にあり。
ここには出釈迦寺が元々は曼荼羅寺の奥の院(遙拝所)であり、大師捨身誓願の地としての由緒はあるが堂社はなく、近年、曼荼羅寺から少し登った山の上に「宗善という入道」によって堂社が建立されたことが記されています。
 これに関しては、浄厳が天和二年(1682)三月二十一日に出釈迦寺虚空蔵堂の観縁の序を撰したとの記録が「浄厳大和尚行状記」(総本山霊雲寺・河内延命寺:1999年)に見られようです。この虚空蔵堂の創建は、宗善による出釈迦寺整備の一環であったことがうかがえます。現在の出釈迦寺の寺院としての創建は、このあたりに求めると研究者は考えているようです。
1出釈迦寺2

「四国偏礼霊場記」の挿図には、塀などの境内を区画するようなものはありません。ただ本堂を含む二棟の建造物が描かれているだけです。
しかし、近世後半になると、伽藍が整備されたようで「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)には、本堂や大師堂、鐘楼が認められ、客殿や庫裏が描かれています。また、境内地を石垣で保護し、石段による参道も整備されていいます。しかし、山門はありません。
1出釈迦寺 金比羅名所図会

幕末の「金毘羅参詣名所図会」(暁鐘成 弘化四年:1847)には、絵図と共に出釈迦寺について次のように記します。
 曼荼羅寺の奥院といふ 三丁ばかり奥にあり
七十三番の霊場の前札所なり 近世宗善といへる入道ありてここに寺を建立すといふ
本尊  釈迦牟尼仏 弘法大師の作 秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ
茶堂  門内の左にあり
鐘楼  門内の右にあり僧坊にならぶ
 原の札所と言ふは十八丁上の絶頂にあり然るに 此所に堂社なく其道険阻にして諸人登る事を得ず 故に後世此所に寺をたてて札を納めむとぞ
捨身ケ嶽  山上の険しき所をいふ大師口口ける口時求法利生の御試しに三貿に誓ひをたて捨身口口口を天人下りて取上げらるといふゆへにかく号くとぞ
世坂 峯に登る険路をいふ 諸人杖をなげ岩を取て登臨すといふ
山家集 
まんだらじの行道どころへ登るは世の大事にて手をたてたるやうなり大師の御経書き埋ませおはしましたる山の嶺なり坊の卒塔婆一丈ばかりなる壇築きて建てられたりそれへ日毎に登らせおはしまして行道しおはしましけると申し傅へたりめぐり行道すべきやうに壇も二重に築きまはされたり登るほどの危うさ殊に大事なりかまへて這ひまはりつきて廻り逢はん事の契りぞ頼もしき厳しき山の誓見るにも  西行
出釈迦山  我拝師山のことなり大師此山に修行したまひし時雲中に釈迦如来出現まゐらせるを大師拝したまふ由へに号すとぞ
山家集
やがてそれが上は大師の御師に逢ひまひらせさせおはしましたる嶺なり わかはいしさんと其山をば申すなりその逼の人はわかいしとぞ申し習ひだる山文字をばすてて申さずといふ
大塔菌趾  山上にあり今八其趾のみなり西行のころまで八其跡に礎石ありしとなり
山家集    行道所よりかまへてかきつき登りて嶺にまゐりたれば師に逢はせおはしましたる所のしるしに塔のいしずえはかりなく大きなり高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ苔は深く埋みたれども石大木にしてあらはに見ゆと言ふ

西讃府志』(:京極家編纂 安政五年:1858)
出釈迦寺我拝師山卜読ク、真言宗誕生院末寺、本尊釈迦佛、八十八所ノ一、
相傅フ昔空海、求法利生ノ願ヲ雙シ此山二登り法ヲ行フノ時、憚尊旁昇トシテ出現セリ、因テ一寺ヲ創造シテ我拝師山出釈迦尊寺卜云、或曼荼羅寺ノ奥院トモ云
 ここにも修行中の空海がここによじ登り、絶壁から身を投げたところ釈迦如来が出現し、それを拝んだことから一寺を創建し我拝師山出釈迦寺となったこと、また曼荼羅寺の奥の院とも言われていたと記されています。
3 近代以後に独自の宗教活動を展開し始める出釈迦寺
 出釈迦寺は、江戸時代は曼荼羅寺や善通寺の住職が兼任するなどその影響下にあり、独自性をみることはできません。ところが近代に入ると、「中興開山」とされる勝岳が登場し後には、自立した寺院としての活動を展開するようになります。
  これを示す資料が、明治二十九年(1896)の銅版画です。
東京精行社が制作・刊行したもので、香川県内では二十九葉の銅版画が確認されている。そのうちの1枚が出釈迦寺境内を示した「我拝師山出釈迦寺之図」で、境内の様子が描かれています。これには、客殿の東側に大きな空間が広がり、現在とはかなり違った様子がうかがえます。
1出釈迦寺建造物表
 このような状況の中、出釈迦寺は、大正十一年(1922)に境内の火災により、庫裏や客殿、大師堂が燃え落ちます。被災後すぐに庫裏、客殿などの改修・再建届が提出され、昭和四年(1929)に竣工します。そして3年後の昭和7年には、奥之院本堂の改築が出願され、同十年に上棟され、現代のような山上と山麓の一体となった寺院構成ができあがります。

1出釈迦寺4
 大正から昭和の初めにこれだけの伽藍を一気に作り上げていく信者集団とそれを指導する住職がいたのでしょう。
 昭和初期には、奥の院禅定に一年間に十数万人の参拝者が訪れたり、奥の院に何日も参龍する者もいたりした、との記録があります。四国遍路の寺というよりも「空海の捨身修行の行場」として、この寺を参拝する信者達が多数いたことが分かります。
230七箇所参り

 中讃の人たちは戦後も「七ケ寺参り」を、行っていました。
農閑期にお弁当を持って朝早く家を出て、
善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 
→ 海岸寺道隆寺 → 金蔵寺 
の七ケ寺を歩いて回るのです。江戸時代の記録にも記されています。これも「辺地めぐり」の一種だと私は考えています。
 民衆が七ケ寺めぐりを始める前から中世には修験者達が、これらの寺と行場を巡っていたと思うのです。それを民衆が巡るようになり、江戸時代後半になると金比羅詣でにやってきた参拝客までがこのルートをめぐり始めます。金比羅参りが終わった後は、善通寺に行き・曼荼羅寺・出釈迦寺から弥谷寺・海岸寺を経て丸亀港に帰り船便で帰路に就くという「巡礼」です。それを勧める案内書やパンフレットも江戸時代に丸亀港に着いた参拝客に無料で渡されていました。
233善通寺 五岳

 そして、出釈迦寺は近世に新たに独立した寺院ですが、近代になると捨身が瀧を「行場聖地」として目玉にして独自性を売り出す戦略をとったのだと思います。多くの霊場が「奥の院」を忘れたかのように見える中で、奥の院との結びつきを強調することが独自性につながったのかもしれません。
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参考文献 出釈迦寺調査報告書 香川県教育委員会 2018年
 

  三角寺-三角の護摩壇と龍
 
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 呪誼で、悪いものを鎮めてしまう壇が三角の護摩壇です。これが三角であることをご記憶いただきたいとかもいます。三角寺の発祥については、『四国偏礼霊場記』の挿絵を見ないと、その理由がわかりません。 

なぜ三角かなのか?

龍王山の反対側に奥の院があって、龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。
 さて、その龍のことですが、三角寺の縁起には悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

 御詠歌は、「おそろしや三つの角にも入るならば 心をまろく慈悲を念ぜよ」です。「三つの角」は三角寺という意味です。三角の中に入ったら恐ろしいから、角が立たないように心をまろくして、人に慈悲を施すように念じなさいということです。ただ、古い時代は「慈悲を念ぜよ」が「弥陀をたのめよ」となっていたようです。
 縁起は、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基、弘仁六年(八一五)だと書いています。高野山を開いたのが弘仁七年ですから、それより古いということでしょうか。
 弘法大師がここにやってきて、十一面観音と不動明王を作ったと書いていますが、不動さんは奥の院でまつっていました。ここに出てくる十一面観音が、三角寺の現在の本尊の十一面観音です。
 
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『四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、`大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

「甲子の年に当て開帳す」とあるので、六十年に一度、開帳したようです。
 弥勒堂があるということについて、三角寺には弥勒堂と弥勒仏があって、分離するときにすでにあった弥勒を本尊とするお寺に十一面観音を移して本尊にし、三角の修法壇があったので三角寺と称したのだと解釈しています。もとあったのは弥勒を本尊とするお寺だと考えないといけません。そこに下りてきて、三角寺ができました。
 弥勒という仏様は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことです。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているわけです。 
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 雨沢龍王は龍王山の龍王です。

これを調伏するための三角の護摩壇がありました。いろいろなお宮やお堂が並んでいるという評判であると書いています。雨沢龍王の神の前に池がありました。いまは龍王ではなくて、島の中に弁天さんをまつっています。龍王は奥の院の仙龍寺でまつっています。
 「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、見ただけではない、龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた、ということを補って考えてください。
 いまは山号の庚嶺山の「庚」という字を「由」と変えています。しかし、『四国偏礼霊場記』は痩せた嶺の山だと解釈して、「庚嶺はもろこしの梅の名所也」といっています。幽霊山と書いたものがあるのは、庚嶺山をなまって「ユウレイ」といっていたのを幽霊と書いてしまったのだとおもいます。
 つまり、ここに出現した龍王を調伏したという話から、本寺はもとの奥の院にあって、水源信仰があったことが推定されます。龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩作焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができたわけです。
  
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ところが、弘法大師信仰に転換してから、このお寺の奥の院は二分されました。

  現在の三角寺の奥の院は、龍王山の反対側にあって龍がいるということから仙龍寺という名前になっています。仙龍寺は、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。しかし、現在の仙龍寺のもっと上には奥の院址があります。ここがもともとは仙龍寺と三角寺の共通の奥の院でした。共通の奥の院には、水源信仰があったことが推定されます。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王です。けれども龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと考えられます。


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旧奥の院がもとの辺路修行の霊場で、行場はもっと下の現在の仙龍寺辺りにあり、そこまで行者は滝行や窟寵りをしていました。
  そして次第に、行場も仙人堂を建て仙龍寺として独立して、さらに谷川の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化していきます。いま仙龍寺の大師は作大師として米作の神となっているのは、旧奥社以来の水源信仰があったからです。
時代が下ると、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、北側山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本地仏十一面観音を下ろします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られいろいろなお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
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つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から独立し、里下りしたお寺さんなのです。
ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。


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