ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してあるこれは善通寺市かない。
というところでしょうか。
ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。
ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)
1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である
地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。
駅前通りの北側にあった旅館
わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。
駅前通りの店
さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
①偕行社(1903年) 北側は出水で水源②輜重兵第十一大隊(1898年) 現郵便局・免許コース③騎兵第十一連隊(1897年) 四国学院・裁判所④歩兵第四十三連隊(1897年) 護国・乃木神社・中央小⑤兵器敞 現自衛隊⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部 現自衛隊⑦工兵第十一大隊(1898年) アパート⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校⑨伏見病院⑩練兵場 農事試験場+善通寺病院
乃木第十一師団長本月二十八日早朝着任来ル十二月一日師団司令部開庁相成候此段及御通牒候也明治三十 年十一月一十五日
まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。
19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。
偕行社平面図(建設当初)
中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。善通寺図書館西側の窓際からの眺め
図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。
騎兵隊周辺(現 四国学院)
現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。2号館の正面です。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。
偕行社は三角柱でしたが、ここでは立派な円柱の石柱です。これは塩飽の広島産と聞いていますが確かな史料は私は知りません。「この柱一本で、普通の家が一個建つ」とも云われたようです。公的な建物としての威風を生み出しているのかもしれません。
香川県で84番目の登録文化財になっています。
香川県で84番目の登録文化財になっています。
正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。
騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設関連記事