瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国学院と南海道


   ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
 さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
 日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
善通寺村略図2 明治
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
 担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ 
②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる
③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してある
これは善通寺市かない。
というところでしょうか。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。

善通寺11師団 地図明治39年説明
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)

1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である

 地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
 各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。

善通寺駅前の旅館

         駅前通りの北側にあった旅館

わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。
善通寺駅前通りの店
駅前通りの店
 さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
こうして1897(明治30)年には、第一期工事として、次の各営舎が完成します。これらの配置関係を地図で確認しておきましょう。

11師団配置図
①偕行社(1903年)     北側は出水で水源 
②輜重兵第十一大隊(1898年)  現郵便局・免許コース
③騎兵第十一連隊(1897年)   四国学院・裁判所
④歩兵第四十三連隊(1897年)  護国・乃木神社・中央小
⑤兵器敞                               現自衛隊
⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部  現自衛隊
⑦工兵第十一大隊(1898年)    アパート
⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校
⑨伏見病院
⑩練兵場           農事試験場+善通寺病院
十一師団建築物供用年一覧
 これらの建物の完成を待って、十一師団は開庁されます。多度郡善通寺村に送られた通牒には、次のように記されています。

11師団司令部開庁通知

乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
①初代師団長は乃木希典で、28日早朝に着任すること
②明治31年(1898)12月1日師団司令部が開庁すること
そして12月8日に、丸亀の東練兵場で閲兵分列式が行われたようです。
そして、1920年代になると各隊の配置は、つぎのようになります。
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1921年最新善通寺市街図(善通寺市史NO3)

善通寺十一師団の現在に残っている建築物を巡っていきます。
旧善通寺偕行社|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。

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偕行社正面 ルネッサンス様式のポーチ
 19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。

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偕行社裏側(南側)
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。

偕行社平面図
偕行社平面図(建設当初)

    中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
偕行社と市役所
新善通寺市役所と偕行社

善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
偕行社2
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。
図書館より輜重
善通寺図書館西側の窓際からの眺め
 図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。

善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺航空写真

     次に訪ねるのが四国学院大学のキャンパスです。
 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。
善通寺騎兵隊 拡大
騎兵隊周辺(現 四国学院)
  現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
騎兵連隊跡 四国学院

この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。
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2号館の正面です。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
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「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。

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偕行社は三角柱でしたが、ここでは立派な円柱の石柱です。これは塩飽の広島産と聞いていますが確かな史料は私は知りません。「この柱一本で、普通の家が一個建つ」とも云われたようです。公的な建物としての威風を生み出しているのかもしれません。

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 香川県で84番目の登録文化財になっています。

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正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。

もうひとつここには、騎兵連隊本部として使われていた建物があります。
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                         騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
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2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。

ホワイトハウス
旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
 多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。

四国学院側 条里6条と7条ライン
四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
 四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。

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讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
DSC03916善通寺師団 配置図
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設
関連記事

四国学院のキャンパス内を南海道が通っていた?
古代善通寺地図

南海道想定ルート 四国学院のキャンパス内を横断している

四国学院の図書館新築に伴う発掘調査が2003年に行われました。その際に出てきた条里制の溝が南海道に付属する遺構ではないかとされています。その後、飯山町のバイパス工事に伴う遺構からも同じような溝が検出されました。その溝は条里制に沿って飯山町と四国学院を東西に一直線に結んでいることが分かりました。ますます古代南海道跡であるとの「状況証拠」が強まりつつあります。

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 飯山町岸の上遺跡の推定南海道の溝跡
旧来は南海道は、伊予街道と同じで鳥坂峠を越えているとする説が有力でした。しかし「考古学的発見」がそれを塗り替えています。どのような形で南海道のルートは明らかになっていったのでしょうか? 
四国学院大学は、戦前には旧陸軍第十一師団の騎兵隊の兵舎があったところです。
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現在でも二号館やホワイトハウスは騎兵隊の建物をそのまま使っています。戦前は、ここで馬が飼われ広い敷地では騎兵訓練が行われていたのです。
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   我拝師山をバックに建つホワイトハウス 旧騎兵隊施設
そのキャンパスの中に新しい図書館を建設することになり、発掘調査が2003年に行われました。考古学の発掘調査からどんなことが分かったのでしょうか? 
普段は、あまり読まない発掘調査報告集のページをめくってみましょう。
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新設された図書館
古代は、四国学院がある所はどんな場所だったのでしょうか?
調査報告書は、図書館敷地(発掘現場)周辺の現在地勢を確認していきます。それによると、この付近は旧金倉川の氾濫原西側の標高約31mの微高地の上にあります。北西約500mにある善通寺旧境内よりも約5m高いようです。
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また、発掘後に新しくできた図書館の東側には今は人工の小川が流れています。ところが古代にも、ここには旧金倉川の旧河道があったことが分かりました。その伏流水は、今でも四国学院敷地東側の市道の暗渠になった溝の中を流れているそうです。
 遺跡の西側は、護国神社・旧善通寺西高校の間には道路を挟んで約1,5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れています。この河川が遺跡の西端を示しているようです。南側は、市道拡張時に立会調査を行った結果、ここからも旧河道が出てきました。この旧河道が、この遺跡と生野本町遺跡を区切っていたようです。
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 以上から、この遺跡は東西南の三方を河川で区切られ微髙地にあったようで、
学校敷地の北西側を中心に東西400m、南北250mの範囲に広がっていると考えられます。この内2003年の調査区は図書館建設予定地全域で、広さは南北41.5m、東西33mでした。
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ホワイトハウスとその隣の図書館

時代順に発掘現場を覗いてみましょう。
第1期:弥生時代後期 灌漑用の溝のみ 住宅地はなし
 遺物が出てくるのは、弥生時代後期からです。この面からは竪穴住居など集落に直接かかわるものは出てきませんでした。しかし、注目すべきは「溝3」で、北西から南東万向に横断し、幅約2m、深さ0.5mで、断面V字状で非常に深く溝内からは弥生土器が出土しています。この溝は、この遺跡の500㍍北にある旧練兵場遺跡の濯漑用の溝と規模・形状が似ています。「溝3」が濯漑用の幹線水路で、そこから導水する水路が幾本も伸びていたようです。
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ここで思い出したのが善通寺一円保絵図(上図)です。
これは中世に起きた水争いの裁判の際に、当時の名主達が作成したと云われています。真ん中にあるのが善通寺で、三層(?)の本堂と、二重塔(多宝塔?)が現在地に描かれています。そして、その西方には誕生院も姿を見せています。有岡大池を源流とする弘田川が誕生院の裏を弘田川が流れています。注目すべきは東南(地図左上)の水源です。これは現在の壱岐と二頭の湧水と考えられています。ここからの水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。特に二頭からの導水された水は東中学校の前を通って、四国学院の南に導かれていたように思えます。

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一円保絵図の拡大図
このような灌漑設備が弥生時代後期に遡る可能性があります。四国学院内のこの溝を流れていたを流れていた水は二頭湧水からもたらされ、旧練兵場方面に導水された可能性があることを記憶に留めておきます。
本論に戻りますが、この時代の四国学院キャンパスは水田でした。人が住む集落は北側の現在の市街地周辺にあったようです。
第II期:7世紀前半~中葉    集落が形成される時期です。
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 蘇我氏が全盛を誇る7世紀前半に、水田だった所に竪穴住居・掘立柱建物、大規模な溝が相次いで現れます。しかも竪穴住居が6基が同時期に作られます。主軸を同じくする掘立柱建物3棟も作られ、また小規模な掘立柱建物や柵列も作られ集落としての姿が整います。これを「四国学院村」と名付けておきましょう。
注目したいのは、掘立柱建物を壊して短期間の内に条里地割に沿って集落内の建物が計画的に配置・整理されている点です。これは条里地割りのに伴う「開発整備」が行われたと見ることができます。
 もうひとつの注目点は東西に掘られた溝が、条里地割りである溝1の南側約9.0mに平行している点です。これを両側の溝に挟まれた部分の解釈として、余剰帯や道であった可能性が考えられます。これが南海道に結びついていくのです。
第3期:7世紀後半~末   竪穴住居などの建物はほとんどが廃絶
 遺構としては溝は3本残りますが、四国学院村の建物はほとんどが姿を消します。つまりこの時期には集落としての機能は終わり、溝のみが残っていたようです。
近 代
古代後半から近世にかけての遺構は全くでてきませんでした。田畑などに利用されていたようです。明治後半になると、この場所は旧陸軍の用地として使用されることになります。この時期の遺構として掘立柱建物が出てきました。この建物は2間×4間の大型のもので柵で区切られていることなどから、第十一師団騎兵隊の兵舎や厩舎と考えられます。

以上から四国学院大学構内遺跡は7世紀前半から中葉が遺跡の中心であったと考えられるようです。この時期に竪穴住居、掘立柱建物、溝が一斉に展開します。そして7世紀後半になると急に姿を消すのです。
四国学院側 条里6条と7条ライン
この時期の様子を善通寺周辺遺跡と比較してみましょう。
 近接する遺跡として、南西約0.3kmの位置に所在する生野本町遺跡があります。旧善通寺西高校のグランド作成の際に発掘されたこの遺跡は、柵で囲まれた条里地割と平行あるいは直交する溝が出てきました。報告者は、この溝を区画溝群と評価し、7世紀後半~8世紀前半の時期としています。また、この遺跡の柵列を掘立柱建物の一部と解釈すると約50㎡に復元でき、郡衛など官衛的要素を持った建物群と考えることもできる遺跡です
 さらに、南接する生野南口遺跡からは、40㎡を超える庇付大型掘立柱建物が出てきました。転用硯も出土しているので、二つの遺跡を含むこの一帯は、庶民が居住する集落とは異なる性格をもつと考えられ、多度郡衛の関連施設と推定されます。そうだとすれば空海の先祖達は、国造としてここで多度郡の政務を執っていたのかもしれません。伝えられるように空海が香色山の麓の佐伯家本宅で生まれたとすれば、そこから空海の父は、ここまで通っていたことになります。

 一方、四国学院大学構内の遺跡では、最大の掘立柱建物でさえも約25㎡程度で、大型の掘立柱建物の基準(40㎡以上)には及びません。統一性のない建物配置からも「官衛的要素」は見られず一般集落であったようです。ただし、一般集落からは出てこない「異質な遺物」が出土しています。
「四国学院村」から出てきた珍しいものは?
 土師質土玉・フイゴの羽口・須恵器・円面硯・瓦が出てきました。
 土師質土玉は竪穴住居の竃中から出土しました。住居を廃絶する時に祭礼用具として使用されたものと考えられます。このような風習は古墳時代にもみられ、旧練兵場遺跡の古墳時代の住居の竃中からも土玉が出てきました。住居を壊して土に返す際に、土玉を置いて祈るという風習が四国学院にあった村にも継続されているようです。
 フイゴの羽口は、住宅内や溝から破片が出土しています。関連遺物と考えられる鉄犀が溝から、砥石が竪穴住居から出土しました。しかし、点数が少ないことや周囲に炉跡遺構も確認されなかったことから、精錬・鍛冶などの製作集団による工房があったとは言えないようです。集落内での日常的な道具の製作など小規模に操業されていたと考えられています。
遺物からみた「四国学院村」の性格は?
硯や瓦の存在は、当遺跡の性格を知る上で重要です。硯は、文字が読み書きできる高位の一部の者しか持てなかったものです。また瓦は、中村廃寺出土瓦と同箔ですが出土個数が少なく、ここにに瓦葺の建物があったとは考えられません。屋根瓦としてではなく、何らか別の理由でここに運び込まれたものでしょう。どちらにしても、ここに住んでいた人が仲村廃寺と何らかの関係があったことは考えられます。
 以上から、この遺跡あるいは周辺に仲村廃寺と関係のある集団の拠点があったことがうかがえます。その集団とは、善通寺地区の「王家の谷」である有岡地区に首長墓である前方後円墳を東西に一列に並べて何世代にも渡り造営し続けた佐伯氏以外には考えられません。佐伯氏は、仏教が伝わるといち早く古墳造営から古代寺院建立へと切り替え、中村廃寺を造営します。その瓦制作にこの村の住人達も関わっていたのかも知れません。
発掘された溝と条里制の地割の関係を探っていくと
 
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これで普通の発掘報告書は終わるのです。ところがこの報告書の凄いところはここからです。図書館敷地に残る溝が、多度郡の条里制の地割のどの部分に当たるのかを丁寧に当てはめていったのです。それが南海道発見につながる糸口となって行きます。
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赤い実線が条里制地割 点線が南海道推定ルート

 
調査区域である図書館敷地の南端には、条里型地割に平行する溝があることが分かりました。この溝が条里型地割であることを、どうすれば証明できるのでしょうか? 細かいデーターを地図上に落とし込んだ結果、溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝が里境の溝だったのです。
 次に発掘調査により検出した条里型地割の遺構などを元に、さらに大縮尺の地図にはめ込みると、東西方向の溝は多度郡六里と七里の境の溝であったことが分かりました。
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ピンクの部分が南海道 幅は8~9㍍ その両側に溝がある

さらに、先行する研究者は南海道を次のように想定していました
鵜足郡六里・七里境、
那珂郡十三里・十四里境、
多度郡六里・七里境を直進的に西進し、
善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)
つまり、この溝が多度郡の六里と七里の境界であるとすれば、予想していた南海道の位置とピッタリ合うことになります。そして道の両側には溝があるのです。
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 以上の想定を、出てきた溝と合せてみると・・・
① 溝1南側の溝状遺構群を一連の遺構としたときの幅は?
  幅は東側で9m、中央付近で約8.5m、西側で約8.5mと、ほぼ平行しています。
② 県内で発掘された南海道駅路推定地の幅約12m、三谷中原遺跡の幅約10mよりは細いものの、他の伝路が幅6m程度の所もあるので、この遺構か南海道であった可能性は否定できないと結論づけます。
発掘調査報告会の時点で注目されたのは?
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「空海の生まれた時代の村か 佐伯氏の村か」などの新聞の見出し記事に見られるとおり、空海との関連についてでした。南海道についてはあまり関心は持たれなかったのです。ところが、後の発掘で飯山町のバイパス工事現場でも同じような南海道推定ライン上に二条の平行する溝が検出されたのです。そして、その地点と善通寺の四国学院の溝とは一直線につながることが分かってきたました。こうして旧来の鳥坂峠越えの伊予街道=南海道説は舞台から姿を消しつつあります。それに代わって条里制沿いに側溝をもつ9~6㍍の大道が南海道であることが定説になってきました。
その発見のきっかけが四国学院の図書館工事に伴う発掘調査だったのです。

参考文献  県教委 四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年


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