瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国新道

大久保諶之丞

2月の小さな講演会「史談会」は、大久保諶之丞をとりあげます。
大久保家の子孫の家に保存されてた大量の文書や史料が県立ミュージアムに近年、寄贈されたようです。文書を分析して、年表化したものが報告書として出されたりしています。大久保諶之丞をめぐる情報が私たちの目にも触れるようになり、研究が一気に進むことも考えられます。
 そんな中で、大久保諶之丞についての調査研究をライフワークにしてこられたのが、今回の講師としてお呼びする伊東 悟氏です。いろいろな顔をもつ大久保諶之丞の姿を、縦横無尽に語っていただけるはずです。興味と時間がある方の来訪を歓迎します。

参考文献
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のり
~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)

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 前々回に、大久保諶之丞の四国新道構想へ向けての活動が史料から確認できるのは、明治17年になってからであること、そして、四国新道構想を最初に提唱したのは、三野豊田郡長の豊田元良であったことという説を見てきました。今回は、明治17年の諶之丞の動向をたどりながら、四国新道構想が具体化していく過程を見ていくことにします。その際に、従来はあまり注目されてこなかった豊田元良が、どんな役割を果たしていたのかに注目しながら見ていきたいと思います。
 テキストは 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。

四国新道構想が動き出すのは明治17年のことですが、この年については諶之丞の日記には、新道についてはほとんど何も記されていません。その代わり、諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳が残っています。これで諶之丞の動きを、推測する以外にないようです。もうひとつの参考史料は、諶之丞が四国新道開整に関する書類をまとめた「南海道路開鑿雑誌」「国道開鑿雑書」です。どちらも四国新道工事が開始される以前の新道関係の書類を綴じ合わせたものです。

大久保諶之丞 国道開鑿雑書細目
国道開鑿雑書
国道開鑿雑書」には、次のようなものが綴じ込まれています。
①猪ノ鼻の道路開築の願書・見積書、
②明治17年10月、高知県官員の新道路線巡視に関する通達の写し、
③明治17年11月、琴平で開催された道路開撃の有志集会の議事録、
④その他誰之丞の書簡
これらは、どれも明治17年中のものです。

大久保諶之丞 南海道路開撃雑誌
南海道路開撃雑誌
「南海道路開撃雑誌」も、四国新道に関する書類の綴じ込みです。
こちらには明治17年11月から明治18年12月の史料の綴じ込みで、主なものは次の通りです。
⑤明治17年11月の道路有志集会の議事録や有志者名簿、巡視委員による高知県巡視や徳島県令による猪ノ鼻巡視の概略、
⑥明治17年12月の「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願」、
⑦明治18年2月13日の三県申合書、高知県における道路開撃願書などの写し、
⑧箸蔵道を経由する讃岐・阿波。土佐間の貨物数量調べ、「猪ノ鼻越道路景況調」など
ここからは四国新道構想に向けて具体的な活動が始まったのは明治17年から明治18年にかけてであったことが分かります。そして、その時期の主な資料がここにはまとめられていて、四国新道に関する基本的資料と研究者は考えています。特に⑧は、箸蔵道を経由する讃岐・阿波・土佐間の貨物数量調査で、当時どのような産物が流通していたかを具体的に知ることができます。四国新道の建設に向けて、このような資料も求められていたことがうかがえます。

「国道開鑿雑書」にある「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」(明治17年6月)から見ていきましょう。この見積書の前には、猪ノ鼻開鑿の「道路開築御願」が綴じられ、次のように記されています。
本県三野郡財田上ノ村ヨリ阿州三好郡池田村ニ通スル字猪ノ鼻ノ嶺タルヤ、阿讃両国ノ物産ヲ相輸シ、加之ナラス上ノ高知ヨリ讃ノ多度津二通シ、即チ布多那ヲ横貫スル便道ニシテ、一日モ不可欠ノ要路ナリ、然り而メ我村二隷スル猪鼻嶺壱里余丁ハ岸崎巌窟梗険除窄、為二往復ノ人民困苦ヲ極ム、牛馬モ亦通スル能ハスト雖、此沿道二関係アル土阿ノ諸郡、皆讃卜物産ヲ異ニスルヲ以、互二交換運輸セザルヲ得ス、然ルニ、土ハ海路ノ便悪敷、阿ハ運河アリト雖、海岸二遠隔スルヲ以、其便ヲ得サルヨリ、不得止土着ノ者掌二唾シ脊二汗シテ負担シ得ルモ、運価高貴ナリ、運価高貴ナルノミナラズ、冬季二至テハ寒雪ノタメ、往々凍死スル者アルヲ免ヌヵレズ、実に其惨、且ツ不便筆紙二形シ難シ、今マ果断以テ此嶺ヲ開築セハ、直接二阿讃ノ便益ヲ得ル而已ナラス、閑接二其益ノ波及スルヤ小少二非ル也、不肖等此二意アル数年、然トモ奈セン、資金無ヲ以因、乃遂ニ今日二流ル、遺憾二耐ヘザル処然リト雖トモ、聖世今日ノ運搬旺盛ノ際二当テ、何ゾ傍観坐視、此便道路ヲ度外二置クニ忍ンヤ、故二今般本村々
会二附、毎戸人夫ヲ義出シ、早晩開築ノ功ヲ奏セント可決相成候条、今ヨリ阻勉、右開築ニ着手致度候間、伏シテ真クハ、人民便否ノ如何ヲ御洞察御允許相成度、別紙図面目論見書相添、此段奉願上候、以上
 愛媛県下三野郡財田上ノ村  大久保諶之丞
  意訳変換しておくと
三野郡財田上ノ村から阿波三好郡池田村に通じる猪ノ鼻嶺は、阿讃両国の物産が行き交う峠で、これに加えて高知から讃岐・多度津に通じる要衝で、一日たりとも欠くことが出来ない要路である。 しかし、上ノ村に属する猪鼻嶺までの1里余の道のりは急傾斜が続き、往来する人々を苦しめ、牛馬の通行もできない。この沿道に関係のある土佐や阿波の諸郡は、讃岐の特産品を手に入れるために、互いに交換運輸をせざるえない。また土佐は海路の便が悪く、阿波は運河が発達しているが、海岸から遠いので、その利益を得るのは一部地域に限られる。そのため人々は掌に唾して背に汗して、物品の輸送を行うがそのコストは高く付いている。輸送コストだけでなく、冬には寒く雪も積もり、輸送中に凍死する者も現れる。実に悲惨で、筆舌に尽くしがたい。今こそ果敢に猪ノ鼻嶺を開鑿し、阿讃の交通の便を開けば、その波及効果は少ないものではない。不肖、私はこの数年、この道の建設に私財を投じて当たってきたが、資金不足のために今になっても完成させることができないでいるのが残念である。
 明治の世の中となり、運輸面においてもいろいろな発展が見られるようになってきた。ただ傍観坐視するのではなく、この機会に道路開通を果たしたいと願う。そのために、村会で、各家毎に人夫を出し、早期着工に向けての請願を可決した。以上の通り交易面で利便性の向上のために、工事着手に向けてご決断いただけるように、別紙図面目論見書を添えて奉願いたします。以上
       愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞

 これを読むと題名は「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」ですが、猪ノ鼻だけの部分的な開鑿願書ではないことが分かります。この中には四国新道につながる内容が含まれています。前にも見たように、諶之丞は以前から猪ノ鼻開鑿に取り組んでいました。

大久保諶之丞の開通させた道路
大久保諶之丞の取り組んでいた開鑿・改修工事

明治17年に入ってからもその工事は続いていたことが諶之丞の手控帳からは分かります。例えば4月21日には、諶之丞が猪ノ鼻へ道路検査に出向いていますが、この時には郡長の豊田元良も同行しています。ここからも、以前から細々と続けていた猪ノ鼻開鑿を、四国新道(国道)として、国に請願していこうとする目論見が見えてきます。そこには、郡長の同意と承認を受けて、このころに本格化したことがうかがえます。そのような動きが開始された契機は、高知県の新道計画でした。

大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
大久保諶之丞が開鑿した箸蔵道のトラバースルート

同じ頃、愛媛県と高知県の間でも国道開鑿の計画が浮上してきたのです。
この年6月28日に、高知・愛媛両県令から国に「国道開鑿之義二付上申」が提出されています。これは、次のようなルート案でした。

「土佐伊予ノ両国二跨り東西二大路線即チ川ノ江ヨリ瓜生野高知伊野・須崎等ヲ経テ、吾川高岡両郡間二流ルヽ仁淀川二沿ヒ別枝二至リ久万町ヲ経テ松山ニ達スルノ国道を開修」

ルートとしては、土佐藩が参勤交替に使っていた土佐街道(現在の高速道)と国道33号を併せた「四国Vコース」になります。結果として、この上申は7月12日、工事計画書を精査するようにと指示され不認可になっています。

大久保諶之丞 新道着工までの動き1
大久保諶之丞 明治17年の動向

 諶之丞が、この計画をどの段階で知ったのかは分かりません。しかし、上表の明治17年2月の欄を見れば分かるように、諶之丞が農談会に出席するため陸路で松山に赴いていますが、この時の道中を記した「旅行記」の表紙に次のように記します。
「此旅行二付道路之事ニハ一層ノ感ヲ憤起シタル事アリ」

ここからは、彼がこの時点では愛媛・高知間の国道計画の情報を知っていたことがうかがえます。「これはまずいことになった」というのが本音でしょうか。高知と川之江に国道が作られたのでは、猪ノ鼻峠越に今作っている道が国道に昇格することはなくなります。川之江ルート案に対して早急に巻き返し活動が求められるようになったのです。これが四国新道の猪ノ鼻への誘致活動の開始となったと研究者は考えています。
大久保諶之丞と豊田元良2
吉野川疎水案や瀬戸大橋案も豊田元良の発案であるとする史料

 豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、四国新道構想は自分が最初に唱えて、大久保諶之丞にそのことを伝えたのが始まりだと回顧していることは以前にお話ししました。その視点からすると、これらの情報も、豊田から伝えられた可能性があります。豊田は郡長として、それらの情報を入手しうるポストにいました。また、「四国新道開鑿起因」にも、「高知県高知卜本県川ノ江間ノ道路開築」に関する記述があります。そして高知・川ノ江間の道路開築に対する金刀比羅宮からの工費二万円の寄付を、豊田が撤回するよう画策したことなどが記されています。本当だとすれば、露骨な川之江ルートつぶしです。
 豊田元良は、大久保諶之丞を呼んで情報を伝えるととともに、今後の対応策を協議したのではないでしょうか。ここからが猪ノ鼻ルートへの広報と支援を求めての活動開始となります。 
諶之丞の動き追ってみると、明治17年5月、6月には道路建設に関して、徳島県の洲津や池田に出向いているのが分かります。
徳島側の地方要人を味方につけて巻き返しを図ろうとしたのでしょう。これも豊田元良との協議の結果でしょう。郡長の後盾や紹介状があってこそ、これらの工作はスムーズにいったはずです。
 6月に猪ノ鼻開鑿の見積書を作成したのも、高知・川ノ江間の道路開鑿の動きを意識してのことだったと研究者は考えています。猪ノ鼻開鑿の願書・見積書が「国道開鑿雑書」に綴じられていることも、そのことを裏付けます。
その後の大久保諶之丞の動きを、残された金銭手控帳から見ておきましよう
8月19日 播州から測量技師を招いて猪ノ鼻・谷(渓)道の測量開始
9月 8日 道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く
10月4日 道路の件で池田に出張。
このような動きからは、この時期に愛媛・高知間の国道開鑿の動きを受けて、諶之丞が讃岐・阿波を経て高知に至る四国新道路線の実現に向けて活動をしていたことが見えてきます。これは、郡長・豊田の承認と指示があって可能なことです。諶之丞は豊田元良に対して、頻繁に連絡を取り報告しています。大事なことについては、実際に郡庁を訪ねて報告しています。例えば9月8日は、「道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く」というメモが残っています。ここからは、これらの誘致活動が豊田元良の指示下で行われていたことをうかがえます。郡長の紹介状があるから村の役人に、県知事(県令)や各地の郡長が会ってくれたとも云えます。そういう意味では、大久保諶之丞は豊田の「全権委任特使」の任を果たしていたとも考えられます。
 明治17年10月下旬から11月の初めにかけて、高知県の官員が新道開鑿路線巡視を実施しています。
諶之丞や豊田の運動の結果、実現したのでしょう。しかし、高知県側へ具体的にどのような働きかけを行っていたかは資料からは分かりません。
 俗説では、大久保諶之丞が高知県の田辺県令を訪ね猪ノ鼻ルートの利便性や経済性を説いたと伝えられています。例えば「双陽の道」には、その時の模様が次のように描かれています。
  諶之丞の熱意に共鳴し理解した田辺県令(知事)は、すでに高知・松山間の国道計画は走り出しており、諶之丞の構想では、それに徳島県を巻き込むことになることから、地元阿波池田三好郡の武田党三郡長の賛同を得て、下から徳島県令酒井明を動かすことが肝要であることを説いた。武田部長は物事の呑み込みが早く行動力もある名郡長であったからである。田辺県令は、県下の熱心な道路推進者を動かして武田郡長のところへやるからそれに合わせて諶之丞も行くように、あとは諶之丞の説得と武田郡長の考え次第だと諶之丞に下駄を預けた。諶之丞が三好郡役所で武田郡長に会う日程に合わせて県下の有力人物を武田郡長のもとに派遣する約束。先ず諶之丞が武田郡長に会って自分の道路構想を説き同調してもらうこと、そして折りよく田辺県令の内意を受けた高知県下の二人が訪れる段取りとなった。
 しかし、これは史料的に裏付けのあるものではありません。諶之丞の日記は、この年の四国新道については、何も書かれていないことは先に述べたとおりです。これは、物語として後世の人々が脚色し、語り継がれるようになったストーリーで事実として裏付けるものはないようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳(明治17年分)

根本史料となる「国道開鑿雑書」に、もう一度返りましょう。
ここには、その巡視日程・宿泊予定地の通知の写しが綴じられています。それによると、高知県一等属日比重明と御用係の千種基、竹村五郎が視察にやってきています。巡視行程からすると、愛媛県・高知県が6月に国に提出した高知・川之江ルートと、猪ノ鼻ルートの両方を巡視したようです。

大久保諶之丞 新道ルート図

 10月29日から諶之丞もこれに同行しています。10月31日、同行中の諶之丞が、財田上ノ村の戸長篠崎嘉太治に宛てて箸蔵山から発した手紙が「国道開鑿雑書」に綴じ込まれています。
そこに諶之丞は、次のように記します。
尚此度者、殊の外意外ニ幸福ヲ得タル義二て、四方山の御咄アリ、帰村次第万語
此頃者、道路開撃事業二付、軟掌御中へ彼是御手数相供、厚ク御配慮二預り、万々実二好都合二御座候、予而御噂申上候官員御中ハ日割ヨリ一日速着相成、琴平二於而少シク残念之廉もアリタレトモ、昨夜箸山ニテ御泊、充分下拙の考慮ヲ開伸、且ツ昨日者琴平ヨリ箸蔵迄同行、実地充分二吐露、
大二見込モ被相立候趣二候、さて今般見積り之開菫事業者、真二未曽有ノ大工事ニシテ、今此時憤発従事、身命ヲ抱ツトモ、是非此功ヲ奏セスンハアルヘカラズ、而メ過日来御高配被降候猪ノ鼻開鑿願、大至急差出サステハ其都合ノあしき事アリ、依テ願書今二通並ニ目論見書三通、至急御認置可被降、図面者明日帰村次第、御衛へ参上、御相談可申上候、次ニ目論見書へ小字記入不被成方、却而よろしく、番号ノミ御記入可被下候
明治17年十月三十一日朝 箸山二て   誰之丞
篠崎嘉太治殿
  意訳変換しておくと
 この度の視察のことについては、期待した以上の成果が挙げられそうである。積もる話もあるが帰り次第に伝えたい。道路開撃事業について、数々のお手数と配慮をいただいていることが、好結果につながっている。感謝したい。
 高知からの視察団は予定よりも一日早く到着した。琴平では少残念なこともあったが、宿舎では、私の計画案を充分にお聞きいただいた。また昨日は、琴平から箸蔵寺まで同行し、測量結果などのデーターを示しながら現地説明を行った。大いに見込ありとの意を得た。さて今回の見積開鑿事業者について、未曽有の大工事になるので、憤発して従事し、身命をかけて取り組む決意の者でなければならない。
 先日にお見せした猪ノ鼻開鑿願について、至急に提出するのは不都合なことが出てきました。そのため願書と目論見書三通を、至急作成していただきたい。図面については、明日に私が帰村次第、持参し相談するつもりです。なお計画案への小字の記入は必要ありません。番号だけ書き入れて下さい。

  四国新道構想実現の手応えを感じた諶之丞の興奮・気負いが伝わってくるとともに、猪ノ鼻開鑿願書について次のようなことが分かります。
①猪ノ鼻開鑿願書は、この時点では提出されていなかったため、至急提出しようとしていること
②村戸長篠崎嘉太治と頻繁に情報を交換や協議を行いながら、対応をすすめていること。つまり、大久保諶之丞のスタンドプレーではなくチームプレーとして進められていること。
③猪ノ鼻開鑿願書を提出することで、猪ノ鼻ルートを有利にしようと考えていたこと
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願
道路開削願いに添付された別紙図面

ここからは、高知県への働きかけの結果、高知から調査団が調査団が派遣され、二つのルートを視察・比較して、猪ノ鼻ルートの方が有利であるとの「内諾」を得たことがうかがえます。ルート決定について、直接に高知県令に直接談判に赴いたというのは、あまりに荒っぽい話で現実的でないことが、これまでの諶之丞の動きから分かります。ひとつ一つを積み上げていく着実な対応ぶりです。
ここまでを研究者は、つぎのようにまとめています。
①阿讃国境に位置する財田上ノ村に生まれ育った誰之丞は四国新道に取り組む以前から、財田上ノ村において、阿讃間の道路の開鑿・改修に取り組んでいた。
②そのような中、三野豊田郡長として赴任してきた豊田元良と出会ったことにより、琴平・猪ノ鼻峠を通る四国新道が構想された。
③誰之丞が、阿讃国境の猪ノ鼻の開整に着手しつつあった明治17年、高知・川ノ江間の国道開撃計画が浮上した。
④この動きを受けて、誰之丞と豊田元良は、讃岐を通る猪ノ鼻ルートへの改線に向けて活動を開始した。
⑤活動内容の詳細は不明であるが、高知や徳島の有志と連絡をとりつつ改線の機運を高めていった。
⑥その結果、明治17年10下旬には高知県視察団が猪ノ鼻ルートを巡視し、誰之丞等が提唱する路線実現の可能性が高まった。

また、愛媛県史は新道建設について、次のように記します。
大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
こうして見てくるとひとつの疑問がわいてきます。
それは、「大久保諶之丞=最初の四国新道構想提唱者」についてです。大久保諶之丞や豊田元良が動き出す前に、高知県令は他県の道路建設の先進例を学び高知から川之江・松山を結ぶ「四国新道Vルート」案を国に提出しています。これが最初の四国新道構想と云えるのではないでしょうか。
この高知県の考えていた川之江・高知ルートを、猪ノ鼻ルートに変更することを働きか掛けて成就させたのが大久保諶之丞・豊田元良のコンビと云うことになるのではとも思えてきます。
ています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

大久保諶之丞の開通させた道路
  大久保諶之丞が四国新道以前に取り組んでいた新道一覧

 大久保諶之丞が20代~30代にかけて財田上ノ村周辺の廃道の開鑿や整備に取り組んでいたことを前回は見てきました。今回は、彼が四国新道構想を抱くようになった時期と契機を見ていきます。テキストは、 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞の四国新道構想に大きく関わっていたのが豊田元良(もとよし)のようです。
 彼は1850年(嘉永3年) 生まれで明治維新を28歳で迎えたことになるので、大久保諶之丞と、ほぼ同年齢になります。讃岐・丸亀藩の高畑家に生まれ、後に琴平の豊田家の養子となります。彼の官暦を見ておきましょう。
明治14年9月、三豊郡長
明治16年11月~17年3月まで、仲多度郡長を兼務、後任の福家清太郎が
明治18年3月 ~23年11月まで再び仲多度郡長
明治23年11~  再度三豊郡長に転出、
明治32年~37年 市政を施いた丸亀市の初代市長就任、
仲多度郡と三豊郡の郡長を20年近く務めた後に、初代の丸亀市長を務めて引退している人物です。この期間に、多くの人間ネットワークを築いて大きな政治力を発揮した人物でもあるようです。この時代の郡長というのは、各村が小さく戸長の実権が小さいのに比べると、実権も強く大きな力を持つ存在でした。
 三豊郡長に豊田元良が赴任したのは明治14年9月、36歳の時になります。これが大久保諶之丞との出会いになるようです。この前年に、大久保諶之丞は学務委員として、上ノ村に勤務しています。

大久保諶之丞 大久保家年表2
大久保諶之丞年譜 調査報告書より

  豊田と大久保諶之丞の最初の出会いは、どんなものであったのでしょうか。
豊田元良が四国新道開鑿当時を回顧した「四国新道開鑿起因(四国新道主唱ノ起因)」には、四国新道開鑿の発端について、次のように記されています。(意訳変換)
私(豊田元良)は明治九年ころから四国の道路が狭く曲折しており、金刀比羅宮への参拝者に不便であるため、四国を貫通する道路開通の必要性を認識し、金刀比羅宮司深見速雄や禰宜琴陵宥常にその計画を語った。その手順は、まず多度津・琴平間の道路を開通させてモデルを示し、次第に四国に広げていくというものであった。測量調査も始めていたが、明治10年の西南の役で、中断やむなきにいたった。
   明治14年に私が三野豊田郡長になり、その年の11月に郡内巡回で財田村を訪れた時に、初めて大久保諶之丞と会った。その時に四国新道の計画を述べると、諶之丞は手を打って賛同し、握手してその成功を誓い合い、さらに猪ノ鼻峠をともに視察した。
 そこで、私は金刀比羅宮司から新道工費二万円の寄付の約束を取り付けるとともに、愛媛県知事関新平へ願書を提出する準備を進めた。一方、諶之丞には徳島県三好郡長武田覚三、高知県知事田辺良顕と面会し、賛同を求めるよう指示し、四国新道開整に向けて行動を開始した。
 実際の文章には克明な描写もあり、興味深いものですが、新道が完成してから後年に記されたものなので、年月日の誤りなど不正確な部分もあり、とりあつかいには「慎重な検討が必要」と研究者は考えているようです。
 ここで、研究者が注目するのは、豊田元良が明治9年という早い段階で四国新道開整を計画していたということです。その計画をまとめておくと次のようになります。
①金比羅への参拝者の便をはかるために、琴平を中心とする四国縦貫道路開通を目的としたこと。
②その第一段階として、多度津・琴平間から着手する計画だったこと。
③その財政的支援を金刀比羅宮の宮司や禰宜から取り付けていたこと
④多度津・琴平間以外の路線については、どこまで具体的な考えがあったかは不明

1大久保諶之丞
大久保諶之丞と弟の彦三郎(尽誠学園創立者)

次に、明治14年11月に豊田と諶之丞が初めて対面したことについて見ておきましよう。
 裏付けとなる諶之丞の日記が、この時期の部分が欠けているようです。そのため正確なことは分かりません。しかし、明治14年のことと推測される12月20日付の諶之丞から弟彦三郎に宛てた手紙に、次のように記されています。

郡長巡回、学事道徳ヲ述ノ件ヲ懇話シ、且勧業二注ロスル体ナリ

ここからは、諶之丞と郡長の豊田が面会したことが裏付けられます。しかし、「学事と勧業」のことは触れられていますが、肝心の四国新道については何も記されていません。先ほど見たように豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、出会ってすぐに意気投合して具体的に四国新道の計画を語り合い、すぐさま二人がその実現に向けて動き出したように記されていました。しかし、諶之丞の手紙からは、そこまで読み取れないようです。勧業のなかに四国新道構想の話題も出たのかも知れませんが、この段階では、まだ具体的な行動に着手するまでには至っていなかったと研究者は考えているようです。そして、諶之丞明治15年9月5日付けで、学務委員から勧業世話係(地域振興係)に移動しています。道路建設などにあたる係を担当することになったようです。
 別の史料としては、「大久保諶之丞君志(土木之部)」の中には、次のように記されています。
明治十四年ノ頃、豊田元良氏ノ三野豊田郡長二任セラルヽヤ、夙ニ親交ヲ呈シ施政ノ方針ヲ翼賛シ、勧業・教育ノ事柄ニツキ、渾テ援助ヲ呈セザルナク、豊田氏モ亦深ク氏ガ身心ヲ公益二注クノ人タルヲ重ンジタリ、故二氏ノ意見トシテハ呈出セルモノハ大二注意ヲ払ヒテ荀モスルコトナカリキ、故二今氏ノ手記ニツイテ見ルモ、親交イト厚ク、来往モ亦頻繁ナリ、而メ一トシテ世益二関セサルハナカリキ、
 星移り歳替り明治十六年ノ春二至り四国新道開鑿ノ件ヲ談議ス、豊田氏案ヲ叩イテ大二賛助ノ意ヲ表シ、直接卜間接トヲ問ハズ助カスベキコトヲ折言ヒタリ、爰二於テ氏力意志確固不抜ノ決意ヲ為セリ、爾後時ノ愛媛県令関新平氏二賛助ヲ求メ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏ニモ賛助ノ誠ヲ折言ハレ、大二氏ガ意志ヲ安ンセシムルニ至レリ、

  意訳変換しておくと
明治14年頃に、豊田元良氏が三野豊田郡長に任じられると、二人の親交は急速に深まった。大久保諶之丞は、豊田郡長の施政方針を理解し、勧業・教育の政策実現に能力を発揮した。豊田氏は、公益のために活動する人物を重んじたので、諶之丞が提出する意見書などには、大いに注意をはらい、見過ごすことがなかった。今になって大久保諶之丞の手記を見てみると、二人の親交が厚く、頻繁に会っていたことが分かる。
 こうして、明治16年の春になり、四国新道開鑿のことが話題に上ると、大久保諶之丞は豊田氏案を聞いて、大いに賛助の意を示し、直接・間接を問わず助力することを申し出た。ここに諶之丞爰の四国新道にかける意志は確固たるものになった。こうして、愛媛県令関新平氏に賛助をもとめ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏にも賛助を求め、この二人の賛意をえることができた。

ここからは、次のようなことが分かります。
①明治14年に、豊田元良氏が三野豊田郡長に赴任後に、大久保諶之丞との親交が始まった。
②豊田郡長は地域振興に意欲的な活動をしていた大久保諶之丞に目をかけた
③明治16年に四国新道開鑿が議題にあがり、豊田案による実現に向けての具体的な活動が始まった。
  ここでは二人が四国新道建設を談議したのは、明治16年の春としています。
豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、豊田元良が諶之丞に、高知県令田辺良顕を訪ねて賛同を求めるよう勧めたことが記されていました。田辺県令が高知に赴任するのは、明治16年3月です。ここからも明治16年の春に、四国新道建設向けての陳情活動は始まったと研究者は考えています。

大久保諶之丞 四国新道
 ふたりの立場を再確認しておくと豊田元良は三野豊田郡長で、大久保諶之丞は村役場の職員です。
今で云うと県知事と、町の職員という関係でしょうか。決してパートナーと呼べる関係ではありません。年齢的には同世代ですが、誤解を怖れずに云うならば「師匠と弟子」のような関係だったと私は考えています。
それでは四国新道構想を最初に打ち出したのは、どちらなのでしようか?
史料では「四国新道開鑿起因」「大久保諶之丞君志(土木之部)」のどちらもが、豊田元良から諶之丞へ四国新道構想を提示したと記します。特に「四国新道開鑿起因」では、豊田は明治9年という早い段階に、四国新道の必要を認識し、行動を開始していた自分で述べています。それを史料的に確認することはできません。
「追想録」には、豊田元良のことを次のように記します。
「殖産興業に関する様々な事業を構想し、あるものは実行に移し、またあるものは実現ぜず、中途で終わったものも多くあった」

この中には吉野川疎水計画など規模が壮大で夢のような計画も多くあったようです。大言壮語と評される豊田が、四国新道の構想を抱いていたことは大いに考えられます。また、諶之丞も満濃池再築に若い頃に参加して以来、建設・土木技術を身につけ、上ノ村周辺の道路整備を行ってきたことは前回に見たとおりです。豊田元良の夢のような構想に、大久保諶之丞がすぐに惹きつけられたことは考えられます。すでに諶之丞は、財田上ノ村と関わりの深い阿波・讃岐間の道路修開築等に取り組んでいました。
 そんな中で豊田元良と出会い「四国新道構想」を聞かされたのではないでしょうか。それは、いままで、自分がやって来た新道建設のゴールが多度津にあること、さらに猪ノ鼻を経て阿波・土佐へ伸びていく四国新道構想へとつながっていくことが見えてきたことを意味します。それは、財田上ノ村を中心とした地域に限られていた諶之丞の視野と活動を四国全体へと広げるものとなったのかもしれません。大久保諶之丞は、自分が開いてきた道の意味と、これから自分が為すべきことをあらためて知ります。それは「啓示」であったかもしれません。豊田元良との出会いが諶之丞に与えた影響は大きかったと私は考えています。
 諶之丞は、この構想をさらに多度津から瀬戸内海に橋を架けて、四国と岡山を結ぶという「夢の大橋」構想へと育てていくことになります。

最後に、豊田元良の人物像についてもう少し見ておくことにします。
  明治末に香川で出帆された「浅岡留吉『現代讃岐人物評論 一名・讃岐紳士の半面』宮脇開益堂、1904年。」には、次のように評されています。
大久保諶之丞と豊田元良

意訳変換しておくと

     前丸亀市長 豊田元良
世間は豊田元良を評して「大言壮語の御問屋」と云う。
突拍子もない空想家という言葉も当たらぬことはない。
確かに元良先生は、細心綿密という人物ではない。しかし、その言葉は20年後を予測したものであり、その行動は4半世紀後のことを考えた上でのことに過ぎない。我はむしろ豊田先生の大言壮語に驚く讃岐人の器量の小ささを感じる。(中略)

大久保諶之丞と豊田元良2

前略
豊田元良先生の説かれた吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋のような構想も、西洋人に言わせれば規模の小さいものである。豊田元良先生にはもっとスケールの大きな世間があっと驚くような大々事業を提唱して欲しい。今や日本はアジアの絶海の孤島ではないのだ。ユーラシア大陸がわが日本の領土に入るようなときには、黒竜江に水力発電所を建設し、中国・朝鮮の工業発展の振興に尽くす。これこそが豊田先生にふさわしい大事業である。余生を大陸経営に尽くして欲しい。
これが書かれたのは日露戦争が勃発する1904年のことです。この年に豊田元良は丸亀市長を退いています。ある意味、全ての官暦を終えた時点での地元ジャーナリストによる人物評価になります。
最初に、世間の人たちは豊田のことを「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」と否定的にみていたことが分かります。確かに細心綿密の人ではなかったようです。しかし、親分肌で、長い郡長時代に信頼できる「子分」を、数多くかかえた政治的な実力者であったことは確かなようです。
 彼は四国新道以外にも、「吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋説」のような構想も持っていて、常々周囲に語っていたことが分かります。この筆者は、これらの構想を豊田元良の着想だとしています。
豊田元良と親密で、行動を共にすることの多かった大久保諶之丞も、常々にこのような大言壮語を聞かされていたのでしょう。吉野川疎水事業や瀬戸内海架橋構想説も、後に大久保諶之丞の口から形を変えて語られるようになるのかもしれません。
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞は、財田上ノ村周辺の新たな道路建設や整備を継続的に行っていた
②明治14年に三豊郡長に赴任してきた豊田元良は、大久保諶之丞の仕事ぶりや活動に注目し目をかけるようになった。
③明治16年に四国新道構想が豊田元良から語られると、大久保諶之丞はそれを「啓示」と受け止め実現のために一心に活動を開始した。その背後には郡長豊田元良の支援があった。
④大久保諶之丞の情熱と能力・行動力を認めた豊田元良は、戸長や県会議員へと抜擢していく。

大久保諶之丞の四国新道建設計画の根回しや交渉については、ひとりの村の役人や指導者の能力を超えるものがあると常々感じていました。それを従来の伝記は「諶之丞=スーパーマン」として描くことでカリスマ性を持たせてきたように思えます。しかし、郡長の豊田元良の構想・指示のもとに大久保諶之丞が「特任大使」として動いたとすれば話は納得しやすくなります。後に郡長の紹介状があるので、県令や地域の要人も会ってくれるし、交渉ができるのです。個人の交渉だけで県の要人が動けるモノではありません。
 この報告書は新たな視点を提供してくれました。感謝


大久保諶之丞3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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財田上ノ村戸長 大久保諶之丞に学ぶ村の経営学

大久保諶之丞1

明治23年4月 七箇村で23歳の田岡泰が戸長、増田穣三が村会議員としてスタートした頃、時代がこの地域の指導者に求めていたものは、何だったのだろう。前例のない時代を地図もコンパスも持たずに村の指導者として歩み出す幼なじみのふたり。
この時代、隣村の財田には新しいタイプの指導者が登場し、その言動が注目を引くようになっていた。大久保諶之丞である。明治初年の村のリーダーが直面した課題や障害、それにどう取り組んだのか、諶之丞を参考に考えてみよう。そして、春日の田岡泰や増田穣三にとって、10歳年上にあたる諶之丞の言動はどのように見えていたのだろう探ってみよう。
  まずは、大久保諶之丞の年譜確認から
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる
           幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。
慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳) 
明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
 明治5年(1872)    財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
 
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。
明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失
           同年戸長(村長)に任命される
 明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、
    すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。
明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。
明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。
明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出
明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。
明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。
明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)
明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。
明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。
明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
            2月14日尿毒症を併発し死亡。
 政治家としての活動期間は僅か3年です。。

大久保諶之丞4

 晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
年譜から見えてくること
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。
2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。
3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。
4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。
5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。
6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。
7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。
 諶之丞が議場で壮絶な死を遂げたのが明治24年(1891)。地元の財田に遺骸が帰ってくるのを、村民達は完成したばかりの四国新道沿いに出て、涙を流しながら出迎えたと伝えられる。これを、村会議員2年目の増田穣三は、どのような思いを抱きながら見守ったのであろうか。
大久保諶之丞2

 どちらにしても、田岡泰や増田穣三は大久保諶之丞の影響を少なからず受けている。また受けざる得なかった。二人の碑文の業績には「東山道改修に尽力」という言葉が刻まれている。大久保諶之丞が四国新道と「殉死」したように、道路改修は以後の指導者の大きな課題であり「夢」となっていく。

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