瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国辺地修行

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
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志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
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四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」に、
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は
伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

とあり、仏教の修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。
同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、
また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
とあります。修行者は笈を背負い、そして衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたことを示しています。これらの史料からは、修行の地が海辺に沿っていたことが分かります。このように平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場を、五来重氏は次のように指摘します。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が、四国辺路の前身であったとして、「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」
という発展経緯を研究者は考えているようです。 
熊野古道~大峯奥駆道を歩く(順峰)~【3日目】 | からあげ隊長の冒険

行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。
聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、
箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。
それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。
本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、
三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院で、先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。

この像はいかにも地方作という印象を抱かせるもので、修験者が修行の一環として制作したことを想像させます。また熊野神社が境内に在ります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。以上からもこの寺は、熊野信仰のきわめて濃厚な寺といえるようです。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図

.
このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。


札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収

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