瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国辺路

現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

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土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P

明治38年四国八十八ヶ所納経帳(讃岐国詳細) | 古今御朱印研究室
根香寺納経帳(明治38年)
根香寺の歴史を見てきましたが、もうひとつ踏み込んだ説明が欲しいなあと思っていると、報告書の最後に「考察」部がありました。ここに私が疑問に思うことに対する「回答」がいくつかありましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 香川県教育委員会2012年版127P」です。

 根香寺の開創は、縁起にどのように書かれているのか
根香寺の縁起としては『根香寺略縁起』(1)と『青峰山根香寺記』(2)があります。前者は住職俊海が著したもので、俊海の住職期間が享保17年(1732)~寛保元年(1741)なので、その頃に書かれたようです。後者は延享3年(1746)に次の住職である受潤が著したもので、開基円珍の事跡を物語風に延べ、寺歴も詳細に記されています。このふたつの縁起が近接して書かれた背景には、直前の大火があったようです。この時の大火でほとんどを消失いた根香寺は再建と同時に、失われた縁起などの再作成が課題となったのでしょう。それに二人の住職は、それぞれの立場で応えようとしたようです。
ふたつの縁起で、根香寺開創の事情を簡単に見ておきます。

根香寺 青峰山根香寺縁起
『青峰山根香寺略縁起』:

当山は円珍が初めて結界した地で、円珍が七体千手のうち千眼千手の像を安置し、さらに山内鎮護のために不動明王を彫り、安置した

『青峰山根香寺記』:

根香寺 青峰山根香寺記
根香寺は円珍の創立で、中国から帰国し、讃岐国原田村の自在王堂に円珍が数か月逗留した際、しばしば山野をめぐり、訪れた青峰において老翁(山の主である市瀬明神)と遊遁し、この老翁から「当地が観音応化の地で三谷があり、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置せよ」と告げられた。
 そこで円珍は香木で造った千手千眼の観音像を当山に安置し、また不動明王像も自作し安置した。神が現れた地には祠を立て、鎮守として祀った
どちらも「根香寺=円珍単独開創説」をとります。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。 
 寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。

P1120199根来寺 千手観音
根香寺本尊の千手観音
『根香寺略縁起』は、本尊千手観音の「複数同木説」を採ります。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。

空海が五色台に地を定め、貞観2年に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

ここにからは『根香寺略縁起』は、円珍が同木から複数の仏像をつくったとする「複数同木説」を採っています。これは『白峯寺縁起』と共通していて、 このような見方が早くからあったことがうかがえます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図 右下に円珍と明神の出会い

 これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
以上のように、古代の根香寺について具体的に明らかにできることは少ないのですが『根香寺略縁起』と『青峰山根香寺記』は『白峯寺縁起』との類似性が認められること、そして前者は複数同木説を採用し、『白峯寺縁起』にみえる伝承を受け継いでいることを押さえておきます。

次に、山岳寺院としての根香寺を見ていくことにします
『白峯寺縁起』のなかに十体の仏像を造立し、このうち4体の千手観音を、白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置したとありました。ここに出てくる根来寺以外の3つの寺院を整理しておきます。
白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
吉水寺は近世に無住となったが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
白牛寺は、白牛山と号する国分寺のことで、「五色台」のすぐ南の平地にあること。

古代の根香寺は、白峯寺・吉水寺と同じように「五色台」の山岳寺院の一つとで、山林修行の行場であったと研究者は考えています。
僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することでした。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。
 それが讃岐では、まんのう町の大川山の山中に姿を現した中寺廃寺になつようです。
中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺復元図(まんのう町)
ここにはお堂や塔も造られ、高級品の陶器や古代の独古なども出土しています。設立には、国衙が関わっていると報告書は記します。
 同じような視点で国分寺を見てみましょう。
『白峯寺縁起』には、白牛寺(国分寺)の名が、「五色台」の山林寺院と並んであげられていました。これは、平地部の国分寺が五色台の山岳寺院とセットとなっていたことを示すと研究者は推測します。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路ルートと山林寺院
 例えば、三豊の七宝山は観音寺から曼荼羅寺までの「中辺路」ルートの修行コースで、そこに観音寺や本山寺などの拠点があったことは以前にお話ししました。善通寺の五岳も曼荼羅寺から弥谷寺への「中辺路」ルートであった可能性があります。同じように国分寺の背後の五色台にも、「中辺路ルート」があり、その行場の近くに根香寺は姿を見せたと私は考えています。

根香寺の山林寺院としての古代創建説を裏付ける文献史料はありませんが、次のような状況証拠はあるようです。
①根香寺に近い勝賀山北東麓に位置する勝賀廃寺は、白鳳期に創建された寺院跡とされます。根香寺が勝賀廃寺と同じ頃に草創された可能性はあります。
②根香寺の本堂裏の「根香寺経塚」の存在です。ここからは浄土教が広まり、仏縁を結んで救済されようとした人々がいたことが分かります。あるいは青峯山が修験の行場としての性格をもっていたのかもしれません。経典を写経し、周辺行場で修行し、それが終わると次の聖地に廻国していく修験者の姿が見えてきます。

四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する僧侶などの「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力なようです。中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。「辺路修行を」宗教民俗学者の五来重は、行場をめぐる「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
ここから海を望む「四国遍路」誕生を発想しました。例えば例として示すのが室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていたようです。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。

どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこを拠点にして、弥谷寺のように周辺の里に布教活動を行う高野聖のような行者も現れます。当然、そこには浄土=阿弥陀信仰が入ってきて、阿弥陀仏も祀られることになります。それが七宝山や五岳、五色台では、同時進行で進んでいたと私は考えています。
以上から古代の根香寺については、「五色台」の山岳寺院の一つとして「中辺路」ルートの拠点寺となっていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 教育委員会2012年版127P」
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

「四国辺路日記」の画像検索結果
  四国辺路についての最初の巡礼記録は澄禅の「四国辺路日記」です
真言宗のエリート学僧である澄禅については、以前にお話ししましたので説明を省略します。今回は彼が、どんな所に宿泊したかに焦点を当てて見ていこうと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
「四国辺路日記」の画像検索結果

 承応2年(1652)7月18日に高野山を出発した澄禅は、次の日には和歌山の「一四郎宿」で宿を取り、20日に舟に乗りますが、波が高く23日まで舟の中で逗留を余儀なくされています。24日になって、ようやく徳島城下町に到着し、持明院の世話になります。この寺で廻手形をもらって、藤井寺から始めた方がいいとの助言ももらっています。
 そして、夏の盛りの7月25日に、四国辺路の旅を始めます。私は、澄禅は一人辺路だと思っていたのですが、研究者は同行者が複数いた可能性を指摘します。
四国辺路道指南 (2)
            四国辺路指南の挿絵

最初に、澄禅が宿泊した場所を挙げておきましょう。
七月二十五日       サンチ村の民家                       
二十六日           焼山寺                               
二十七日           民家                                 
二十八日           恩山寺近くの民家                     
二十九日           鶴林寺寺家の愛染院                   
二十日             不明(大龍寺か)                       
八月一日           河辺の民家                           
二日               貧しき民家(室戸の海岸 夜を明しかねたり)  
三日               浅河の地蔵寺(本山派の山伏)           
四日               千光寺(真言宗)                           
五日               野根の大師堂(辺路屋)                     
六日               漁家(漁翁に請う)                         
七日               東寺(終夜談話し旅の倦怠を安む)           
八日               民家(西寺の麓)                           
九日               民家か(神の峰の麓、タウノ浜)             
十日               民家(赤野という土地)                     
十一日             菩提寺(水石老という遁世者)               
十二日             田島寺(八十余の老僧)                     
十三日             安養院(蓮池町)
十四日    安養院(蓮池町)
十五日    安養院(蓮池町)
十六日    安養院(蓮池町)
十七日    安養院(蓮池町)
十八日             安養院(蓮池町)
十九日             五台山(宥厳上人)
二十日    五台山(宥厳上人)
二十一日   五台山(宥厳上人)
二十二日   五台山(宥厳上人)
二十三日           五台山(宥厳上人)
二十四日          民家か(秋山という所)   
二十五日           民家か(新村という所)                    
二十六日           青竜寺                             
二十七日           漁夫の小屋                               
ニト八日           常賢寺(禅寺)                             
二十九日           民家か(窪川という所)                    
三十日             随生寺(土井村 真言寺)                  
九月一日           民家(武知という所)                       
二日               見善寺(真崎・禅寺)                       
三日               民家か(ヲツキ村)                         
四日               金剛福寺  (足摺岬)                               
五日               金剛福寺  (足摺岬)                                         
六日               金剛福寺                                         
七日               正善寺(川口・浄十宗)                     
八日               月山(内山永久寺同行)                     
九日               滝巌寺(真言宗)                           
十日               浄土寺(宿毛)                             
十一日             民家(城辺という所)                       
十二日             民屋(ハタジという所)                     
十三日             民屋(ハタジという所)                                          
十四日             今西伝介宅(宇和島)                        
卜五日             慶宝寺(真言寺)                           
十六日             庄屋清有衛門宅(戸坂)                     
十七日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息。             
十八日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息                             
十九日             仁兵衛宅(中田)                  
二十日             宿に留まる(仁兵衛宅か)           
二十 日            菅生山本坊                       
二十二日                                            
二十三日           円満寺(真百寺)                   
二十四日           武智仁兵衛(久米村)               
二十五日           三木寺(松山)                     
二十六日           道後温泉に湯治                
二十七日           民家(浅波)                       
二十八日           神供寺(今治)                     
二十九日           泰山寺                           
十月一日           民家か(中村)                     
二日               保寿寺(住職が旧知の友)           
三日               ″   (横峯寺に行く)                
四日                     (横峯寺に行く)                            
五日               浦ノ堂寺(真三[寺一               
六日            興願寺(真言寺)           
七日               三角寺奥の院(仙龍寺)
八日          雲辺寺                         
九日          本山寺か                       
十日          辺路屋(弥谷寺の近く)           
十一日       仏母院   (多度津白方)                      
十二日       真光院(金毘羅宮)               
十三日       真光院(金毘羅宮)                               
十四日       真光院(金毘羅宮)                                
十五日       明王院(道隆寺)                 
十六日       国分寺                          
十七日        白峯寺                         
十八日      実相坊(高松)                   
十九日            八栗寺                         
二十日           八栗寺 (雨天のため)                 
二十一日    民家(古市)                      
二十二日     大窪寺                          
二十三日     民屋(法輪寺の近く)              
二十四日       (雨天のため)                
二十五日     地蔵寺                          
二十六日   阿波出港                                       
二十七日   舟          
二十八日   和歌山着  

 以上のように真夏の7月25日に徳島を出発して、秋も深まる10月26日まで91日間の四国辺路です。この間の宿泊した所を見てみると、次の69ヶ所になるようです。
①寺院40ヶ所(59泊)
②民家27ヶ所(29泊)
③辺路宿三ケ所(12泊)
1澄禅 種子集
            澄禅の種子字

①の澄禅の泊まった寺院から見ていきましょう

澄禅は、種子字研究のエリート学僧で中央でも知られた存在でしたので、四国にも高野山ネットワークを通じての知人が多かったようです。高知の五台山やその周辺では、知人の寺を訪ね長逗留し、疲れを取っています。宿泊した寺は、ほとんどが真言宗です。しかし、禅寺(2ケ所)や浄土宗(1ケ所)にも宿泊しています。宿を必要とした所に真言宗の寺院がなければ、宗派を超えて世話になったようです。
 宿泊した40ケ寺の内、八十八ケ所の札所寺院は17ケ寺です。その中で讃岐が七ケ寺と特に多いのは、札所寺院の戦乱からの復興が早かったことと関係があるのでしょう。
四国辺路道指南の準備物

③の「辺路屋」について見ておきましょう。
阿波・海部では、
海部の大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。
(海部の大師堂に札を納めた。これは辺路屋である。)
土佐に入ってまもない野根では、
是ヲ渡リテ野根ノ大師堂トテ辺路屋在り、道心者壱人住持セリ。此二一宿ス。
これを渡ると野根の大師堂で、これが辺路屋である。堂守がひとりで管理している。ここに一泊した
伊予宇和島では、
追手ノ門外ニ大師堂在り。是辺路家ナリ
讃岐持宝院(本山寺)から弥谷寺の途中には
「弥谷寺ノ麓 辺路屋二一宿ス」

と「辺路屋」が登場してきます。辺路屋とは正式の旅籠ではなく、大師堂(弘法大師を祀つた堂)で、そこには、辺路が自由に宿泊できたようです。土佐の野根の大師堂には、「道心者」がいて、御堂を管理していたことが分かります。この時期には辺路沿いに大師堂が建てられ、そこが「善根宿」のような機能を果たすようになっていたことがうかがえます。これから30年後の真念『四国辺路道指南』には、大師堂・地蔵堂・業師堂など63ケ所も記されています。この間に御堂兼宿泊施設は、急激に増加したことが分かります。
次に②の民家を宿とした場合を見てみましょう。
澄禅は、四国辺路の約4割を民家で宿泊してるようです。修験者などの辺路修行者であれば、野宿などの方法もとっていたはずですが、エリート学僧の澄禅には、野宿はふさわしくない行為だったのかも知れません。
「澄禅」の画像検索結果

どんな民家に泊まっているのかを見てみましょう。
阿波焼山寺から恩山寺の途中では、
 焼山寺から三里あまりを行くと、白雨が降ってきたので、民家に立寄って一宿することにした
つぎに阿波一ノ宮の付近では、
 一里ほど行くうちに日が暮れてきたので、サンチ村という所の民屋に一宿することにした。夫婦が殊の外情が深く終夜の饗応も殷懃であった。

ここからは、その日が暮れてくると適当に、周辺で宿を寺や民家に求めたことがうかがえます。ただ宿賃などの礼金などについては、まったく記していません。 いろいろな民家に泊まっていて、
薬王寺から室戸への海沿いの道中では、次のような記述もあります。
貧キ民家二一宿ス。 一夜ヲ明シ兼タリ

 一夜を明かしかねるほど「ボロ屋」の世話になっています。「貧しき民家」の主が宿を貸すという行為にビックリしてしまいます。「接待の心」だけでは、説明しきれないものがあるような気がしてきます。ここでも澄禅は、これ以上は何も記していません。

伊予・宇和島付近では、
共夜ハ宇和島本町三丁目 今西伝介卜云人ノ所二宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒテ、辺路修行ノ者トサエ云バ何モ宿ヲ借ルルト也。若キ時分ヨリ奉公人ニテ、今二扶持ヲ家テ居ル人ナリ。

とあり、宇和島本町の今西伝介なる人物は「辺路修行者」は、誰にでも宿を貸したと記します。その行為の背景には「後生願ヒ」があるとします。来世に極楽往生を願うことなのでしょう。ここにも高野の念仏聖たちの影響が見え隠れします。阿弥陀信仰に基づくものなのでしょうが、辺路に宿を貸すことが、自らの後生極楽の願いが叶うという教えが説かれていたことがうかがえます。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
  伊予・卯の町では
此所ノ庄屋清有衛門ト云人ノ所二宿ス。此清有衛門ハ四国ニモ無隠、後生願ナリ、辺路モ数度シタル人ナリ。高野山小円原湯ノ谷詔書提檀那也。

とあり、この地の庄屋の清有衛門も「後生願」で、辺路たちを泊めていたようです。彼は「四国辺路」も数度経験していたようです。澄禅の時代には、すでに庄屋などの俗人が何度も四国辺路に出ていたことが分かります。そして高野山の「小円原湯ノ谷詔書」を掲げていたと記します。四国辺路の後には、高野山にも参詣を済ませていることがうかがえます。ここにも、高野聖たちの活動が見え隠れします。しかも「旦那」という宇句からは、その関係が深かったようです。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
 
伊予・松山の浄土寺の近くでは
その夜は久米村の武知仁兵衛という家に宿泊した。この御仁は無類の後生願ひで正直な方であった。浄土寺の大門前で行逢って、是非とも今宵は、わが家に一宿していただきたいと云い、末の刻になってその宿へ行ってみると、居間や台所は百姓の構えである。しかし、それより上は三間×七間の書院で、その設えぶりに驚き入った。奥ノ間には持仏堂があり、阿弥陀・大師御影、両親の位牌などが綺麗に安置されている。
 
 浄土寺近くに住む武智仁兵衛という人は、地主クラスの人で経済的には裕福だったようです。浄土寺の門前で出会った澄禅たちを自分の家に招いて「接待」を行っています。持仏堂に祀られているものを見ると「阿弥陀如来+弘法大師+後生願」なので、その信仰形態が弘法大師信仰と阿弥陀信信仰だったことがうかがえます。ここにも、高野聖の活動と同時に、江戸時代初期の松山周辺の庄屋クラスの信仰形態の一端がうかがえます。これらの高野聖の活動拠点のひとつが石手寺だったのかも知れません。
四国八十八ケ所辺路の開創縁起ともいうべき『弘法大師空海根本縁起」のなかに、次のように記されています。
 辺路する人に道能教、又は一夜の宿を借たる友は三毒内外のわへ不浄を通れず、命長遠にして思事叶なり、

 辺路する人に「道能教=道を教えたり」、 一夜の宿を貸せば命が長遠になり思いごとが叶うというのです。室戸に続く海岸の「貧しき民家」の主人も、後生極楽などを願ったのものかも知れません。この頃には右衛門三郎のことも知られていて、弘法大師が四国を巡っているという弘法大師伝説も流布していたようです。辺路者の中に弘法大師がいて、宿を求めているかも知れない、そうだとすれば弘法大師に一夜を貸すことが後生極楽に結び付くという功利的な信仰もあったのかもしれません。
  横峰寺と吉祥寺の間では、
  新屋敷村二甚右衛門卜云人在り、信心第一ノ仁也。寺二来テ明朝斎食ヲ私宅ニテ参セ度トムルル故、五日ニハ甚右街門宿へ行テ斎ヲ行テ則発足ス。
意訳変換しておくと
  新屋敷村に甚右衛門という人がいて、この人は信心第一の御仁である。寺にやってきて明朝の斎食を私宅で摂って欲しいと云われる。そこで翌日五日に甚右街門宿へ行て、朝食を摂ってから出発した。

 ここでは、寺までやって来て食事へ招いています。澄禅が「高野山のエライ坊さん」と紹介されていたのかも知れませんが、善根宿や接待ということが、すでに行われていたようです。しかし、食事などの接待があったことを澄禅が記しているのは伊予だけです。右衛門三郎が伊予でいち早く流布し、定着していたのかも知れません。
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 伊予・松山の円明寺付近では、次のような記述が現れます。
  此道四五里ノ間ハ 辺路修行ノ者二宿貸サズ

53番札所円明寺は松山北部にあり、道後地区での最後の札所になります。次の54番延命寺は今治です。
「澄禅」の画像検索結果

この松山から今治の間では、「辺路修行ノ者二宿貸サズ」というしきたりがあったと記します。その背景は、宗教的な対立からの排除意識があったのではないかと私は考えています。高縄山を霊山とする半島は、ひとつの修験道の新興エリアを形成していたようです。例えば、近世に盛んになる石鎚参拝登山に対しても背を向けます。この半島には石鎚参拝を行わない集落が沢山あったようです。それは、別の修験道の山伏たちの霞(テリトリー)であったためでしょう。高縄半島の西側では、四国辺路の修験者に対してもライバル意識をむき出しにする勢力下にあったとしておきましょう。

以上、澄禅がどんなどころに泊まったかについて見てきました。
それを研究者は各国別に次のようにまとめます。
①阿波では札所を含め寺院の宿泊は少なく、民家に多く宿泊していす。これは、阿波の寺院が戦国時代からの復興が遅れ、荒廃状態のままであったことによる。
②土佐では札所寺院をはじめ寺院の宿泊が多い。特に住持のもてなしが丁寧なことを強調している。そして土佐の辺路の国柄を、
儒学専ラ麻ニシア政道厳重ナリ。仏法繁昌ノ顕密ノ学匠多、真言僧徒三百余輩、大途新義ノ学衆也、

と藩主山内氏を称え、そして真言仏教が盛んなことを記している。
③伊予は民家の宿泊が多い。これも阿波と同様に、寺院の復興が遅れていたためであろう。伊予の国柄への澄禅の評は、次のようになかなか厳しい。
慈悲心薄貪欲厚、女ハ殊二邪見也。又男女共二希二仏道二思人タル者ハ信心専深シ。偏二後生ヲ願フ是モ上方ノ様也。

全体的には慈悲心に欠けるとして、稀には信心深い者がいるとします。おそらく字和島の今西伝介や庄屋清右衛門などを思い出したのかもしれません。そして「後生願い」が「上方の様」であると記します。上方で盛んだった西国三十三ケ所のことと比較しているのかも知れません。
④讃岐は、藩主による寺院の復興が進んでいたので、寺院の宿泊が多い。なかでも札所寺院が七ケ寺もあります。
最後に全体をまとめておきます。
①宿泊場所は、民家であるか寺院であるかは、旅の状況に合わせていたらしいが、特に阿波から土佐室戸までの間は厳しいものがあった。
②寺院の場合は真言宗が多い。しかし、真言寺が無い場合は他宗の寺でも厭わない。
③旧知の友を頼って宿泊することがまま見られる。
④民家の場合は、貧しき民家と庄屋クラスの富裕な場合がある。この時代に、すでに善根宿という概念が生じていた。善根を施す根拠は、「後生善処」と考えられていた。また食事の接待も行われているが、ごく稀である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院
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行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。
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五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

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修行の形態は?

1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

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修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?

1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

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  辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた

1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。
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室戸岬と行当岬

1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
  (注 金剛福寺の方が古いことに留意)
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6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

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12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。
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辺路修行者と従者の存在

1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。
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室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。

1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

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四国の辺路を始めたのはだれか  

 弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

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 不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。

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奇岩大好きの行者達がみれば、喜びそうな光景が続く。
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海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

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この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

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ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

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なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。

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