瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国辺路日記

      四国別格13番 仙龍寺
金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。
仙龍寺宿坊
仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。
テキストは「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
奥之院仙龍寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仙龍寺堂内入口

  弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
  澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
 峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 
 ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」
②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画
③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」
④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)
⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」
⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
仙龍寺 三角寺奥の院1800年
①の「四国遍礼名所図会」1800年 (個人蔵)
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠
②雲辺寺道との分岐点となる大久保村
③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂
④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚
⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
  是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、
加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
  三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。
加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
 金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること
②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
 渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。

仙龍寺 松村武四郎

松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
 松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺
従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと

金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。

 松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。
②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること
③照明代に一人12銭必要であること

三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。

仙龍寺 明治2年
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。

仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。

左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
仙龍寺 『伊予国地理図誌

明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村
仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間
清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。

 奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます
  奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)
本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
 注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。

三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。

三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。

 番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」      

近在の町誌などには江戸時代の四国遍路の往来手形がよく載せられています。それを見ると、村の庄屋か寺院が発給したもので、その内容は、巡礼者氏名、目的、所属宗旨(禁教対応のため)、非常時の事、発行者、宛先が順番に記され定型化したものになっています。これに見慣れていたために、四国遍路の往来手形は当初から地元の庄屋や寺院が発行してきたものと思っていましたが、どうもそうではないようです。今回は、往来手形の変遷を追いかけてみようとおもいます。
テキストは 「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」です
 私が最初に四国遍路の往来手形の発行について、疑問に思ったのは、澄禅『四国辺路日記』にでてくる徳島城下の持明院の次の記述です。
持明院 願成寺トテ真言ノ本寺也。予ハ高野山宝亀院ノ状ヲ持テ持明院二着ク、依是持明院ヨリ四国辺路ノ廻リ手形ヲ請取テ、廿五日ニ発足ス。
意訳変換しておくと
持明院は願成寺も云い真言宗の大寺である。私は事前に高野山の宝亀院に行って紹介状をもらって、それをもって持明院に行った。持明院で四国辺路の廻手形を受け取って、7月25日に出発した。

ここからは澄禅が四国辺路のために、まず高野山に行き、宝亀院の許可書もらって、それを持明院に提出して廻り手形をもらていることが分かります。ここで疑問に思ったのが、四国遍路のためには、持明院の発行手形(往来手形)が必要なのかということです。そんな疑問は、ほったらかしにしてていたのですが、持明院の発行した「廻り手形」(往来手形)の実物がでてきたようです。この手形には、明暦四年(1658)と記され「大滝山持明院」という寺名も書かれています。現在のところ、四国辺路の往来手形として最古のもののようです。大きさは縦17㎝×横35、5㎝)だといいます。
    1 持明院 四国遍路往来手形
明暦4年の四国辺路往来手形 徳島持明院発行

坊主壱人俗二人已上合三人
四国辺路二罷越し関々御番所
無相連御通し可被成候一宿猶以
可被加御慈悲候乃為後日如件
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
四国中関々御番所
御本行中
意訳しておくと
坊主一人と俗二人、合計三人
四国辺路に巡礼したいので関所・番所を通していただくこと、これまで通りの一宿の便宜と慈悲をいただけるようお願いしたします。
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
この書状が澄神『四国辺路日記』に出てくる「四国辺路の廻り手形」のようです。当時は「往来手形」ではなく「廻り手形」と呼ばれたようです。一番最初の行には、次のように記されています。
坊主一人と俗人二の合計三人が四国辺路するので関所・呑所を問題なく通し、また宿も慈悲をもってお願いしたい」

坊主とは、おそらく先達的役割の僧、2人はそれに従う俗人でしょう。かつての熊野詣の参拝と同じように先達に連れられての四国遍路のようです。宛所は「四国中関々御番所」とあるのが四国各藩の関所・番所です。これに著名しているのが阿波の大滝山持明院の快義になります。
 この書状の筆跡を詳しく検証した研究者は、中央下部のAゾーンのみ別筆だと指摘します。Bゾーンは、それぞれの国の代表寺に署名だけをすればいいように、前もって寺院名と法印が書かれていたようです。ここからは澄禅『四国辺路日記』に記されたとおり、持明院で廻り手形が発行されていたことが確認できます。
 そして、他の3国の発行寺院は次の通りです。
土佐の五台山竹林寺
伊予の石手寺
讃岐の綾松山(坂出)白峯寺
この3寺が代表して、保証していたようです。
 江戸時代初期の四国遍路廻りの手形発行は、地元の庄屋やお寺では発行できず、各国の代表寺院が発行していたようです。手形の発行・運営システムの謎がひとつ解けたようです。
 ここで私が疑問に思うのはには、土佐の竹林寺や伊予の石手寺は、それぞれの国を代表するような霊場寺院ですが、讃岐がどうして白峰寺なのでしょうか。普通に考えると、讃岐の場合は善通寺になるとおもうのですが白峰寺が選ばれています。同時の社格なのでしょうか、それとも善通寺が当時はまだ戦乱の荒廃状態から立ち直っていなかったからでしょうか。当時の善通寺のお膝もとでは「空海=多度津白方生誕説」が流布されていましたが、これに反撃もしていません。善通寺の寺勢が弱まっていたのかもしれません。
 もうひとつの疑問は、廻り手形の発行が持明院という札所寺院ではないことです。どうして霊山寺のような札所寺院が選ばれなかったのでしょうか。さらに、どうして阿波の寺院が四国の総代表寺院になるのでしょうか? これらの疑問を抱えながら先に進んで行くことにします。
この書状を作成した持明院について『阿波名所図会』で見てみましょう。
1 持明院 阿波名所図会
持明院
 持明院は徳島城下の眉山山麓の寺町にあった真言宗の大寺だったようです。大滝山建治寺と号し、創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されます。江戸期にはおおむね100石の寺領を有しています。阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などがあったようです。徳島の寺町を代表する大寺であったことがうかがえます。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
持明寺
次いで『阿波誌』をみてみましょう。
持明院 亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及馨、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、 一自名西郡建治寺彩作堂安之、山名大滝(中略)封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿行人、十三年膀禁楽採樵及取土石、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。

  意訳変換しておくと
持明院は隷山城大覚寺ともいい、旧在勝瑞村にあった。かつては、三好氏が捨十八貫と土地七段を寄進し、十五の末寺を持ち栄えた。天正年間に勝瑞にあった持明院と、名西郡の建治寺を現在地に移して新たな堂舎を建立し、山名を大滝山持明院建治寺とした。(中略)
封禄は百石と四石五斗を賜った。慶長三年に藩の命によって寺の改造が行われ行人宿となった。慶長十三年には周辺の神域や山林から木を切ることや土石を採取することが禁止された。今でも旧瓦には瓦頭に有建治の三字が使われている
ここからは、天正年間に勝瑞にあった持明院と名西郡の建治寺を現在地に移して、大滝山持明院建治寺としたこと。慶長三年(1598)には、命によって寺の改造が行われ、行人の宿にしたことなどが分かります。この中で、慶長三年に寺を改造して行人の宿としたことは、重要だと研究者は指摘します。ここに出てくる「行人」とは、四国辺路に関わる行人と研究者は考えているようです。
 これに関連して阿波藩の蜂須賀家政は、同じ年の6月12日に駅路寺の制を、次のように定めています。
 当寺之儀、往還旅人為一宿、令建立候之条、専慈悲可為肝要、或辺路之輩、或不寄出家侍百姓、行暮一宿於相望者、可有似相之馳走事(以下略)
  意訳変換しておくと
駅路寺については、往還の旅行者が一宿できるように建立したものなので慈悲の心で運用することが肝要である。辺路、僧侶、侍、百姓などが行き暮れて、一宿を望む者がいれば慈悲をもって一宿の世話をすること

 こうして阿波藩内に長谷寺・長楽寺、瑞連寺・安楽寺など八ケ寺を駅路寺として定めています。そして持明院が、その管理センターに指定されたようです。つまり、持明院は徳島城下町にやって来る県外からの旅行者の相談窓口であり、臨時宿泊所であり、四国遍路のパスポート発行所にも指定されたようです。同時に、こんな措置が藩によってとられるということは徳島城下にも、数多くの辺路がやってきて宿泊所などの問題が起きていたことがうかがえます。
徳島の歴史スポット大滝山

ついでに持明院のその後も見ておきましょう。
 江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、寺院経営は安定していたようです。この寺の三重塔は城下のシンボルタワーとしても親しまれていました。しかし、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費が膨れ、困窮するようになります。それにとどめを刺したのが、明治の神仏分離です。藩主の蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護がなくなります。さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となります。藩主の菩提樹だったので檀家を持ちませんでした。そのため、藩主がいなくなると経営破綻するのは当然の成り行きでした。ただ神仏分離で祇園社は、八坂神社と改称され現在に残ったようです。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
残された三重塔は空襲で焼け落ちるまでシンボルタワーだった

次に徳島県の第5番地蔵寺の往来手形(写し)を見てみましょう
一、此辺路生国薩摩鹿児島之住居にて、佐竹源左衛門上下之五人之内壱人ハ山伏、真言宗四国中海陸道筋御番所宿等無疑通為被申、各御判形破遊可被ド候、以上
延宝四年(1676)辰ノ卯十七日
与州石手寺(印影)   雲龍(花押影)
讃州善通寺 宥謙(花押影)
讃州白峯寺 圭典(花押影)
阿州地蔵寺
同州太龍寺
土州東寺(最御崎寺)
同州五台山
同州足摺山
意訳変換しておくと
この辺路(遍路)は薩摩鹿児島の住人で、佐竹源左衛門以下五名で、その内の一人は山伏(先達)である。真言宗の四国中海陸道筋(四国遍路)の番所や宿でお疑いのないように申し上げる。
以上

研究者によると、この書状は石手寺が発行したものの写しのようです。延宝四年(1676)に鹿児島から来た佐竹源左衛門ら五人(内一人の山伏が先達?)は「四国中海陸道筋御番所宿等」を許可した通行書を持っています。詳しく見ると四国の内、つぎの八ヶ寺の名前が記されています。
讃岐は普通寺と白峯寺
阿波は地蔵寺と太龍寺
土佐は東寺(最御崎寺)・五台山一竹林寺)・足摺山(金剛福寺)
これが通行と宿の安全を保証するものなのでしょう。
ここからは推理ですが、薩摩からやってきた五人は、山伏姿の先達に誘引されて舟で九州から伊予に上陸したのでしょう。それが宇和島あたりなのか松山あたりなのかは分かりません。そして、まずは松山の石手寺で、この書状(パスポート)を受けて讃岐へ入り、善通寺と白峰寺で花押をもらいます。その後、大窪寺を経て阿波に入り地蔵寺で花押をもらったのでしょう。その際に、地蔵寺の担当僧侶が写しとったものが残ったと考えられます。それから彼らは土佐廻り、土佐の三ケ寺でも署判を請けたのでしょう。
 ここで疑問なのは、さきほどの明暦四年(1658)から18年しか経っていないのですが、持明院がパスポート発行業務から姿を消しています。どうしてなのでしょうか。
 この間に、札所寺院に含まれない持明院が除外されるようになったようです。また、讃岐では新たに善通寺が登場しています。讃岐に最初に上陸して、四国遍路を始める場合に、最初に廻り手形を発給するのはどこなのかなど、新たな疑問もわいてきます。これらの疑問が解かれるためには、江戸時代初期の往来手形が新たに発見される必要がありそうです。

往来手形の定型化が、どのようにすすんだのかを見ておきましょう。
元禄7年(1694)の讃岐一国詣りの往来手形です
上嶋山越智心三郎、讃岐辺路仕申候、宗旨之代者代々真言宗二而、王至森寺旦那紛無御座候、留り宿所々御番処、無相違御通被成可被下候、為其一札如件
元禄七年 与州新居郡上嶋山村庄ヤ
                 戌正月24日 彦太郎
所々御番所
村々御庄岸中
意訳変換しておくと
上嶋山の越智心三郎が讃岐辺路(讃岐一国のみの巡礼)を行います。この者の宗旨代々真言宗で、王至森寺の旦那(檀家)であることに間違いはありません。つきましては、宿所使用や番所通過について、これまでのように配慮いただけるようお願い申し上げます
元禄七年 与州(伊予)新居郡上嶋山村庄屋
これは、新居郡上嶋山村の庄屋発行の往来手形で、「讃岐辺路仕申中候」とありますので讃岐一国のみの遍路です。「遍路」ではなく「辺路」という言葉が使われています。この時代まで「辺路」という言葉は生きていたようです。新居郡上嶋山村は、小藩小松藩の4つの村のうちのひとつです。

その約20年後の正徳2(1712)年の往来千形です
往来手形之事
一、予州松山領野間郡波止町、治有衛門喜兵衛九郎右衛門と申者以上三人、今度四国辺路二罷出候、宗旨之儀三人共二代々禅宗、寺者同町瑞光寺檀那紛無御座候、所々御番所無相違通可被下候、尤行暮中候節者宿之儀被仰付可被下候、若同行之内病死仕候ハゝ、早速御取置被仰付可下候、為其往来証文如件
正徳二年辰年六月十七日 予州野間郡波止浜
古川七二郎 同村庄屋 長野半蔵
御国々御番所
意訳変換しておくと
伊予松山領野間郡波止町の治有衛門・喜兵衛・九郎右衛門の三人が、今度四国辺路に出ることになりました。宗旨は三人共に代々禅宗で、同町の瑞光寺の檀家であることに間違いありません。各御番所で無事に通過許可していただけるよう、また、行き暮れた際には宿についても便宜を図ってくださるようお願い致します。もし同行者の中から病死する者が出た場合には、往来証文にあるようにお取り扱い下さい。

これも村の庄屋が発給したものですが、はじめて「往来手形」という言葉が登場します。そして当事者、目的、宗旨の事、発行者、非常時の事、発行者、宛先が順番に明示されるようになります。これで定型化のバージョンの完成手前ということでしょうか。
さらに40年後の宝暦二年(1753)年のものをみてみましょう
往来切手寺請之事
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
右之者儀、代々真言宗二而当院旦那紛無之候、此度四国辺路二罷出申候間、所御番所船川渡無相違御通シ可被下候、行暮候節、一宿等被仰附可被下、若シ此者共儀何方二而病死等致候共、其所ニテ任御国法、御慈悲之に、御収置被卜候国元へ御附届二不及申候、乃而往来寺請一札如件
讃州香川郡西原村
       真光寺 印
宝暦ニ申正月十五日
国々御番所中様
所々御庄屋中様
右之通相違無御座候二付奥書如件
同国同所庄屋    松田慶右衛門 印
正月十五日
意訳変換しておくと
往来切手(往来手形)の寺発行証明書について
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
これらの者は、代々真言宗で、当院の檀家であることを証明します。この度、四国辺路に出ることになりましたので、各所の番所や船川渡などの通過を許可していただけるようお願い致します。また行き暮れた際には、一宿の配慮をいただければと思います。もしこの者たちの中から病死者などが出た場合には、その地の御国法で御慈悲にもとづいて処置して下さい。国元へ届ける必要はございません。往来寺請一札(往来手形)についてはかくの如し
讃州香川郡西原村   真光寺 印
40年前のバージョンに比べると 病死などの時には「其所の国法」によって任され、国許には届ける必要は無いとのことが加わりました。以後の往来手形は、これで定型化します。ここからは、発給する側の庄屋の書面箱なかに、四国遍路の往来手形が定形様式として保存されていたことがうかがえます。当時の庄屋たちの対応力や書類管理能力の高さを感じる一コマです。
以上から往来手形発行の変遷をみると、次のようになるようです。
①初めは徳島城下の持明院が発給していた
②やがて八十八ケ所の特定の8寺院となり
③元禄ころからは庄屋や檀那寺がとなる
内容的にも最初は関所・番所の無事通過と宿の便宜でした。それが宗旨や檀那寺の明示、病死した際の処置などが加わり、17世紀半ばには定型化したことが分かります。
 江戸時代は、各国ごとに定法があり、人々の移動はなかなかに難しかったとされます。しかし伊勢参りや金昆羅参りなどを口実にすると案外簡単に許可が下りたようです。四国辺路も「信仰上の理由」で申請すると、往来手形があれば四国を巡ることが許されたようです。元禄時代頃から檀那寺や庄屋が往来手形の発給を行うようになります。それは、檀家制度の充実が背景にあるのでしょう。そのような中で、徳島の持明寺の四国遍路の廻り手形発給の役割は、無用になっていったとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」

1澄禅 種子集
澄禅の種字集

 澄禅については梵字研究者で、「湯島の浄厳和尚、高城の慈雲尊者飲光と並び称される智山の学匠」とも云われてきました。私もその説にもとづいて、彼を高野山のエリート学僧と位置づけ紹介してきました。しかし、これには異論もあるようです。今回は、澄禅の本当の姿に迫ってみようと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
 澄禅の履歴については『続日本高僧伝』や『智積院誌』などにも記されています。しかし、面白いのは澄禅の師である運廠が寛文九年(1669)に記した『端林集』巻九「十如是臨本跋」のようです。
法師澄禅。世姓菱苅氏。肥後国求麻郡人。幼薙染受戒、習喩珈宗。年及進共。負笈人洛。寓綱積之僧房。而篭講論之席。磨義学之鋒者十有余年。業成帰本国。大守接待優渥。郷里以栄之。然禅以為累潜逃出国境。白号悔。一鉢一錫。行李粛然。名山霊区、無不遍歴。禅自少小精思悉之学。尤梵書
(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  意訳変換しておくと
法師澄禅は、菱苅氏の姓で肥後の球磨郡に生まれた。幼なくして出家受戒して、喩珈宗(密教)を学んだ。成長して笈を背負って入洛し、僧坊に入り、義学を十数年学んだ。業成り肥後に帰り、大守から庇護を受け優遇され、郷里でも評判であった。然し、思うところあって、国を出て国境を越えて、悔と号すようになる。そして一鉢一錫と行李の旅姿で、名山霊区を遍く遍歴した。澄禅は若くして悉雲に詳しく、その中でも特に梵書を得意とした(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  当時、師の運廠は澄禅よりもひとつ年下ですが、すでに僧としての位は高く、承応2年5月には、42歳で智山の第一座となっています。偶然かどうか澄禅が四国辺路に出たのは、その翌年7月のことになるようです。

 この文書自体は、澄禅が57歳の時の記事です。ここで研究者が注目するのは、澄禅のことを「法師澄禅」と記していることです。「法師」という位については、「大法師真念」と呼ばれた四国辺路中興とされる真念がいます。これについて浅井證善師は、次のように指摘します。
「地蔵尊と一基碑は、ともに大法師真念とあって、阿閣梨真念ではないから、真念は真言僧として加行および伝法潅頂は受けていなかったとものと思われる。まさに聖として一生を過ごしたのである」

 法師澄禅も同様だったのではないかと研究者は考えているようです。それには、澄禅が笈を背負って智積院を訪れ寓居し、修学後に帰国するも落ち着くことなく、「一鉢一錫の旅を名山霊区を遍歴した」という記述があります。ここからは澄禅は、遊行を好む聖のような存在で、一つの鉢と一つの錫杖を持ち、各地の修行地や霊場を巡る廻国修行僧としての一面があったことが分かります。
  これまでのエリート学僧というイメージを取り払って、廻国修行僧と澄禅を位置づけて、研究者は『四国辺路日記』を改めて見直していきます。
 承応2年(1653)という江戸前期は、四国辺路はまだまだ厳しい苦行の辺路行でした。澄禅をエリート学僧と捉えていたときには、その彼がどうして四国辺路にでかけるの?という疑問がありました。しかし、澄禅を廻国修行・聖的な遊行僧としてみるならば、四国辺路は当然の行為として理解できます。

 『四国辺路日記』の冒頭には
「和歌山から船に乗って四国に向かう時、高野の小田原行人衆とともに行動を共にし、さらに足摺近辺で高野・吉野の辺路衆と出会い涙を流して再会を喜びあつた」

と記します。その四国辺路の行人衆とも以前からの人間関係があったことが分かります。また
「往テ宿ヲ借リタレバ、坊主憚貪第一ニテ ワヤクヲ云テ追出ス」
「其夜ヲ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間、枕モ敷兼タリ」
などの記述からは、辺路の厳しさを体験しながらも、その苦難や苦みを味わいつつ辺路している様子が伝わってきます。その姿に澄禅の僧としての生き方がうかがえます。伽藍の奥の閉じこもる学僧とは、ひと味違う印象を受けます。
 また澄禅は、いくつかの札所寺院で「読経念仏した」と記しています。ここからは、澄禅は念仏を信仰する念仏行者であったともうかがえます。確かに悉曇や梵書に優れていたのでしょうが、ある一面では念仏信仰や遊行聖的要素をも合わせ持っていたと研究者は考えているようです。これが当時の真言僧の重層性なのかもしれません。

1澄禅の悉曇連声集
澄禅の『悉曇連声集』

 澄禅の著書には『悉曇連声集』『四十九院種子集』などがあります。どれも梵字の書法に関する著書で、学僧とも云えそうです。比較のために当時の梵語の代表的な学僧と比較してみましょう。
 当時、悉曇学者として著名だったのは河内延命寺の浄厳だったようです。彼は、新安祥寺流を開き、各地で貞一ご教学の講義を行い、著作も『三教指帰私考』『光明真言観誦要門』など密教に係わる教義を著し、数多くの弟子がいます。
 また慈雲尊者は『十善法語』など真言教学の数多くの著作があり、弟子も数百人に及ぶとされます。澄禅を浄厳・慈雲と比較することには、やや無理があるようです。澄禅は学匠というよりも、梵字の能書家だったと研究者は考えているようです。
 彼は、法師澄禅として、各地の名山の修行場や霊場を巡り歩く遊行僧としても活躍し、江戸時代初期ころの四国辺路を訪れ、「四国辺路日記」を書き残し、その様子を明らかにしてくれているということでしょうか。
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澄禅が四国辺路で出会った友人達は元落武者?
 澄禅は四国辺路の中で数多くの人たちに出合ています。その中で高野山の友人たちの再会の場面が何度か出てきます。ここでは、元落武者だった人たちに焦点を当てて見てみましょう。 
土佐・大日寺近辺の菩提寺ので出会いです。
爰に水石老卜云遁世者在り、コノ人元来石田治部少輔三成近習ノ侍雨森四郎兵衛卜云人ナリ。三成切腹ノ時共ニ切腹被申ケルヲ、家康公御感被成、切腹ヲ御免在テ、三成ノ首ヲ雨森二被下。其後落髪シテ高野山二上り、文殊院ニテ仏事ナド執行、ソノ儘奥院十石卜人二属テ一心不乱二君ノ後生菩提ヲ吊。三年シテ其時由緒在テ土州ニ下り。
  意訳変換すると
ここには水石老という遁世者がいた。この人はもともとは、石田三成の近習侍で雨森四郎兵衛と云う人である。関ヶ原の戦い後に三成が切腹した時に、共に切腹を申しつかっていたが、家康公の免謝で、切腹を免れ、三成の首は雨森に下された。その後、剃髪して高野山に上がり、文殊院で仏事に従い、そのまま奥院の十石上人(十穀聖)となって木食修行を行い、一心不乱に三成公の菩提をともらっていたが、3年後に縁があって土佐に下った。

もう一人は土佐国分寺の手前の円島寺という所に宿泊し時に出会った旧知です。
   住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝ノ侍也。幼少ヨリ出家シテ高野ニモ住山シタルト夜モスガラ昔物語ドモセラレタリ。天性大上戸ニテ自酌ニテ数盃汲ルル也。大笑。其夜ハ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間枕ヲ敷兼タリ。
意訳変換しておくと
   この住持は八十歳を越える老僧である。この僧は以前は、長曽我部殿の普代家臣であった人である。幼少の時に出家して高野で修行を行っていた人なので、夜がふけるまで昔物語をした。天性の酒好きで自酌で数盃を飲み干すして、大笑する。その夜は大雨で古寺の軒からは雨もろが止まらず枕を敷きかねる有様だった。

 長宗我部氏の旧家臣の多くは大坂夏の陣や冬の陣にも参加しています。そのため戦後には「戦犯」として追求され各地に落武者として逃げ込んでいます。ある者は修験者に姿を変え、金毘羅大権現に逃げ込み、時の別当宥盛に拾われたものもいます。ある者は四国の山深い奥に入って行ったものもいるようです。
  一つのストトーリーが湧いてきます。
土佐の円島寺で再開した老住持も、長宗我部の取りつぶし後に出家して高野山に上がり、真言宗を学び故郷土佐の小さな寺に住まいを得たのではないでしょうか。澄禅と酒を酌み交わしながら高野山の思い出話などに話が弾んだようです。しかし、その生活はまことに厳しいものだったのでしょう。大坂夏の陣や冬の陣からは、40年近い歳月が経っていますが、こうした落武者系の高野聖を受けいれた寺院が各地にあったことが分かります。武士の出家と高野山とは、深いつながりがあったようです。高野山に出家後しばらくの間、修行に励み、やがてそれぞれ縁を得て地方に落ち着いていく姿が見えてきます。これが地方仏教の一面を表しているのかも知れません。そして彼らが高野聖として「弘法大師伝説や阿弥陀念仏信仰」を運んできたのかもしれません。
伊予・今治では
神供寺二一宿ス。此院主ハ空泉坊トテ高野山二久ク住山シテ古義ノ学者、金剛三味結衆ナリキ。予ガ旧友ナレバ終夜物語シ休息ス

今治の一ノ宮の近くでは、
新屋敷卜云所二右ノ社僧天養山保寿寺卜云寺在り。寺主ハ高野山ニテ数年学セラレタル僧也。予ガ旧友ナレバ申ノ刻ヨリ此寺二一宿ス。

とあり、澄禅と旧知の間柄の人物もいます。澄禅は四国辺路を行う中で、かつての旧知の友を頼って訪れたのでしょう。札所以外の四国内の寺院にも、高野山と関わりを持った僧侶が数多くいたようです。
 前回に見たように澄禅は、善通寺では泊まっていませんが、金毘羅大権現の真光院には7月12日から三泊しています。当時は、金毘羅大権現の別当寺は金光院で、これに5つの子院が仕えるという組織形態でした。運営を行っていたのは社僧たちで、有力な社僧は高野山で学んだ真言密教僧侶です。ここにも澄禅と同じ釜の飯を食べた高野山の「同窓生」がいたようです。その同窓生の計らいで、澄禅は本堂奥の秘仏も拝観しています。これについてはまた別の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①澄禅は真念と同じように、真言僧として加行および伝法潅頂は受けておらず、聖であった。
②澄禅を廻国修行僧と位置づけて、『四国辺路日記』を改めて見直す必要がある
③澄禅は四国内の寺院や小庵などに、高野山と係わりを持つ僧と再開している 彼らは念仏僧、い わゆる高野聖であった可能性がある。
④澄禅も聖として、高野山を何度も往復し訪れていた可能性がある。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。

「四国辺路日記」の画像検索結果
  四国辺路についての最初の巡礼記録は澄禅の「四国辺路日記」です
真言宗のエリート学僧である澄禅については、以前にお話ししましたので説明を省略します。今回は彼が、どんな所に宿泊したかに焦点を当てて見ていこうと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
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 承応2年(1652)7月18日に高野山を出発した澄禅は、次の日には和歌山の「一四郎宿」で宿を取り、20日に舟に乗りますが、波が高く23日まで舟の中で逗留を余儀なくされています。24日になって、ようやく徳島城下町に到着し、持明院の世話になります。この寺で廻手形をもらって、藤井寺から始めた方がいいとの助言ももらっています。
 そして、夏の盛りの7月25日に、四国辺路の旅を始めます。私は、澄禅は一人辺路だと思っていたのですが、研究者は同行者が複数いた可能性を指摘します。
四国辺路道指南 (2)
            四国辺路指南の挿絵

最初に、澄禅が宿泊した場所を挙げておきましょう。
七月二十五日       サンチ村の民家                       
二十六日           焼山寺                               
二十七日           民家                                 
二十八日           恩山寺近くの民家                     
二十九日           鶴林寺寺家の愛染院                   
二十日             不明(大龍寺か)                       
八月一日           河辺の民家                           
二日               貧しき民家(室戸の海岸 夜を明しかねたり)  
三日               浅河の地蔵寺(本山派の山伏)           
四日               千光寺(真言宗)                           
五日               野根の大師堂(辺路屋)                     
六日               漁家(漁翁に請う)                         
七日               東寺(終夜談話し旅の倦怠を安む)           
八日               民家(西寺の麓)                           
九日               民家か(神の峰の麓、タウノ浜)             
十日               民家(赤野という土地)                     
十一日             菩提寺(水石老という遁世者)               
十二日             田島寺(八十余の老僧)                     
十三日             安養院(蓮池町)
十四日    安養院(蓮池町)
十五日    安養院(蓮池町)
十六日    安養院(蓮池町)
十七日    安養院(蓮池町)
十八日             安養院(蓮池町)
十九日             五台山(宥厳上人)
二十日    五台山(宥厳上人)
二十一日   五台山(宥厳上人)
二十二日   五台山(宥厳上人)
二十三日           五台山(宥厳上人)
二十四日          民家か(秋山という所)   
二十五日           民家か(新村という所)                    
二十六日           青竜寺                             
二十七日           漁夫の小屋                               
ニト八日           常賢寺(禅寺)                             
二十九日           民家か(窪川という所)                    
三十日             随生寺(土井村 真言寺)                  
九月一日           民家(武知という所)                       
二日               見善寺(真崎・禅寺)                       
三日               民家か(ヲツキ村)                         
四日               金剛福寺  (足摺岬)                               
五日               金剛福寺  (足摺岬)                                         
六日               金剛福寺                                         
七日               正善寺(川口・浄十宗)                     
八日               月山(内山永久寺同行)                     
九日               滝巌寺(真言宗)                           
十日               浄土寺(宿毛)                             
十一日             民家(城辺という所)                       
十二日             民屋(ハタジという所)                     
十三日             民屋(ハタジという所)                                          
十四日             今西伝介宅(宇和島)                        
卜五日             慶宝寺(真言寺)                           
十六日             庄屋清有衛門宅(戸坂)                     
十七日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息。             
十八日             瑞安寺(真言寺)この寺で休息                             
十九日             仁兵衛宅(中田)                  
二十日             宿に留まる(仁兵衛宅か)           
二十 日            菅生山本坊                       
二十二日                                            
二十三日           円満寺(真百寺)                   
二十四日           武智仁兵衛(久米村)               
二十五日           三木寺(松山)                     
二十六日           道後温泉に湯治                
二十七日           民家(浅波)                       
二十八日           神供寺(今治)                     
二十九日           泰山寺                           
十月一日           民家か(中村)                     
二日               保寿寺(住職が旧知の友)           
三日               ″   (横峯寺に行く)                
四日                     (横峯寺に行く)                            
五日               浦ノ堂寺(真三[寺一               
六日            興願寺(真言寺)           
七日               三角寺奥の院(仙龍寺)
八日          雲辺寺                         
九日          本山寺か                       
十日          辺路屋(弥谷寺の近く)           
十一日       仏母院   (多度津白方)                      
十二日       真光院(金毘羅宮)               
十三日       真光院(金毘羅宮)                               
十四日       真光院(金毘羅宮)                                
十五日       明王院(道隆寺)                 
十六日       国分寺                          
十七日        白峯寺                         
十八日      実相坊(高松)                   
十九日            八栗寺                         
二十日           八栗寺 (雨天のため)                 
二十一日    民家(古市)                      
二十二日     大窪寺                          
二十三日     民屋(法輪寺の近く)              
二十四日       (雨天のため)                
二十五日     地蔵寺                          
二十六日   阿波出港                                       
二十七日   舟          
二十八日   和歌山着  

 以上のように真夏の7月25日に徳島を出発して、秋も深まる10月26日まで91日間の四国辺路です。この間の宿泊した所を見てみると、次の69ヶ所になるようです。
①寺院40ヶ所(59泊)
②民家27ヶ所(29泊)
③辺路宿三ケ所(12泊)
1澄禅 種子集
            澄禅の種子字

①の澄禅の泊まった寺院から見ていきましょう

澄禅は、種子字研究のエリート学僧で中央でも知られた存在でしたので、四国にも高野山ネットワークを通じての知人が多かったようです。高知の五台山やその周辺では、知人の寺を訪ね長逗留し、疲れを取っています。宿泊した寺は、ほとんどが真言宗です。しかし、禅寺(2ケ所)や浄土宗(1ケ所)にも宿泊しています。宿を必要とした所に真言宗の寺院がなければ、宗派を超えて世話になったようです。
 宿泊した40ケ寺の内、八十八ケ所の札所寺院は17ケ寺です。その中で讃岐が七ケ寺と特に多いのは、札所寺院の戦乱からの復興が早かったことと関係があるのでしょう。
四国辺路道指南の準備物

③の「辺路屋」について見ておきましょう。
阿波・海部では、
海部の大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。
(海部の大師堂に札を納めた。これは辺路屋である。)
土佐に入ってまもない野根では、
是ヲ渡リテ野根ノ大師堂トテ辺路屋在り、道心者壱人住持セリ。此二一宿ス。
これを渡ると野根の大師堂で、これが辺路屋である。堂守がひとりで管理している。ここに一泊した
伊予宇和島では、
追手ノ門外ニ大師堂在り。是辺路家ナリ
讃岐持宝院(本山寺)から弥谷寺の途中には
「弥谷寺ノ麓 辺路屋二一宿ス」

と「辺路屋」が登場してきます。辺路屋とは正式の旅籠ではなく、大師堂(弘法大師を祀つた堂)で、そこには、辺路が自由に宿泊できたようです。土佐の野根の大師堂には、「道心者」がいて、御堂を管理していたことが分かります。この時期には辺路沿いに大師堂が建てられ、そこが「善根宿」のような機能を果たすようになっていたことがうかがえます。これから30年後の真念『四国辺路道指南』には、大師堂・地蔵堂・業師堂など63ケ所も記されています。この間に御堂兼宿泊施設は、急激に増加したことが分かります。
次に②の民家を宿とした場合を見てみましょう。
澄禅は、四国辺路の約4割を民家で宿泊してるようです。修験者などの辺路修行者であれば、野宿などの方法もとっていたはずですが、エリート学僧の澄禅には、野宿はふさわしくない行為だったのかも知れません。
「澄禅」の画像検索結果

どんな民家に泊まっているのかを見てみましょう。
阿波焼山寺から恩山寺の途中では、
 焼山寺から三里あまりを行くと、白雨が降ってきたので、民家に立寄って一宿することにした
つぎに阿波一ノ宮の付近では、
 一里ほど行くうちに日が暮れてきたので、サンチ村という所の民屋に一宿することにした。夫婦が殊の外情が深く終夜の饗応も殷懃であった。

ここからは、その日が暮れてくると適当に、周辺で宿を寺や民家に求めたことがうかがえます。ただ宿賃などの礼金などについては、まったく記していません。 いろいろな民家に泊まっていて、
薬王寺から室戸への海沿いの道中では、次のような記述もあります。
貧キ民家二一宿ス。 一夜ヲ明シ兼タリ

 一夜を明かしかねるほど「ボロ屋」の世話になっています。「貧しき民家」の主が宿を貸すという行為にビックリしてしまいます。「接待の心」だけでは、説明しきれないものがあるような気がしてきます。ここでも澄禅は、これ以上は何も記していません。

伊予・宇和島付近では、
共夜ハ宇和島本町三丁目 今西伝介卜云人ノ所二宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒテ、辺路修行ノ者トサエ云バ何モ宿ヲ借ルルト也。若キ時分ヨリ奉公人ニテ、今二扶持ヲ家テ居ル人ナリ。

とあり、宇和島本町の今西伝介なる人物は「辺路修行者」は、誰にでも宿を貸したと記します。その行為の背景には「後生願ヒ」があるとします。来世に極楽往生を願うことなのでしょう。ここにも高野の念仏聖たちの影響が見え隠れします。阿弥陀信仰に基づくものなのでしょうが、辺路に宿を貸すことが、自らの後生極楽の願いが叶うという教えが説かれていたことがうかがえます。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
  伊予・卯の町では
此所ノ庄屋清有衛門ト云人ノ所二宿ス。此清有衛門ハ四国ニモ無隠、後生願ナリ、辺路モ数度シタル人ナリ。高野山小円原湯ノ谷詔書提檀那也。

とあり、この地の庄屋の清有衛門も「後生願」で、辺路たちを泊めていたようです。彼は「四国辺路」も数度経験していたようです。澄禅の時代には、すでに庄屋などの俗人が何度も四国辺路に出ていたことが分かります。そして高野山の「小円原湯ノ谷詔書」を掲げていたと記します。四国辺路の後には、高野山にも参詣を済ませていることがうかがえます。ここにも、高野聖たちの活動が見え隠れします。しかも「旦那」という宇句からは、その関係が深かったようです。
「四国辺路道しるべ」の画像検索結果
 
伊予・松山の浄土寺の近くでは
その夜は久米村の武知仁兵衛という家に宿泊した。この御仁は無類の後生願ひで正直な方であった。浄土寺の大門前で行逢って、是非とも今宵は、わが家に一宿していただきたいと云い、末の刻になってその宿へ行ってみると、居間や台所は百姓の構えである。しかし、それより上は三間×七間の書院で、その設えぶりに驚き入った。奥ノ間には持仏堂があり、阿弥陀・大師御影、両親の位牌などが綺麗に安置されている。
 
 浄土寺近くに住む武智仁兵衛という人は、地主クラスの人で経済的には裕福だったようです。浄土寺の門前で出会った澄禅たちを自分の家に招いて「接待」を行っています。持仏堂に祀られているものを見ると「阿弥陀如来+弘法大師+後生願」なので、その信仰形態が弘法大師信仰と阿弥陀信信仰だったことがうかがえます。ここにも、高野聖の活動と同時に、江戸時代初期の松山周辺の庄屋クラスの信仰形態の一端がうかがえます。これらの高野聖の活動拠点のひとつが石手寺だったのかも知れません。
四国八十八ケ所辺路の開創縁起ともいうべき『弘法大師空海根本縁起」のなかに、次のように記されています。
 辺路する人に道能教、又は一夜の宿を借たる友は三毒内外のわへ不浄を通れず、命長遠にして思事叶なり、

 辺路する人に「道能教=道を教えたり」、 一夜の宿を貸せば命が長遠になり思いごとが叶うというのです。室戸に続く海岸の「貧しき民家」の主人も、後生極楽などを願ったのものかも知れません。この頃には右衛門三郎のことも知られていて、弘法大師が四国を巡っているという弘法大師伝説も流布していたようです。辺路者の中に弘法大師がいて、宿を求めているかも知れない、そうだとすれば弘法大師に一夜を貸すことが後生極楽に結び付くという功利的な信仰もあったのかもしれません。
  横峰寺と吉祥寺の間では、
  新屋敷村二甚右衛門卜云人在り、信心第一ノ仁也。寺二来テ明朝斎食ヲ私宅ニテ参セ度トムルル故、五日ニハ甚右街門宿へ行テ斎ヲ行テ則発足ス。
意訳変換しておくと
  新屋敷村に甚右衛門という人がいて、この人は信心第一の御仁である。寺にやってきて明朝の斎食を私宅で摂って欲しいと云われる。そこで翌日五日に甚右街門宿へ行て、朝食を摂ってから出発した。

 ここでは、寺までやって来て食事へ招いています。澄禅が「高野山のエライ坊さん」と紹介されていたのかも知れませんが、善根宿や接待ということが、すでに行われていたようです。しかし、食事などの接待があったことを澄禅が記しているのは伊予だけです。右衛門三郎が伊予でいち早く流布し、定着していたのかも知れません。
「松山の円明寺」の画像検索結果

 伊予・松山の円明寺付近では、次のような記述が現れます。
  此道四五里ノ間ハ 辺路修行ノ者二宿貸サズ

53番札所円明寺は松山北部にあり、道後地区での最後の札所になります。次の54番延命寺は今治です。
「澄禅」の画像検索結果

この松山から今治の間では、「辺路修行ノ者二宿貸サズ」というしきたりがあったと記します。その背景は、宗教的な対立からの排除意識があったのではないかと私は考えています。高縄山を霊山とする半島は、ひとつの修験道の新興エリアを形成していたようです。例えば、近世に盛んになる石鎚参拝登山に対しても背を向けます。この半島には石鎚参拝を行わない集落が沢山あったようです。それは、別の修験道の山伏たちの霞(テリトリー)であったためでしょう。高縄半島の西側では、四国辺路の修験者に対してもライバル意識をむき出しにする勢力下にあったとしておきましょう。

以上、澄禅がどんなどころに泊まったかについて見てきました。
それを研究者は各国別に次のようにまとめます。
①阿波では札所を含め寺院の宿泊は少なく、民家に多く宿泊していす。これは、阿波の寺院が戦国時代からの復興が遅れ、荒廃状態のままであったことによる。
②土佐では札所寺院をはじめ寺院の宿泊が多い。特に住持のもてなしが丁寧なことを強調している。そして土佐の辺路の国柄を、
儒学専ラ麻ニシア政道厳重ナリ。仏法繁昌ノ顕密ノ学匠多、真言僧徒三百余輩、大途新義ノ学衆也、

と藩主山内氏を称え、そして真言仏教が盛んなことを記している。
③伊予は民家の宿泊が多い。これも阿波と同様に、寺院の復興が遅れていたためであろう。伊予の国柄への澄禅の評は、次のようになかなか厳しい。
慈悲心薄貪欲厚、女ハ殊二邪見也。又男女共二希二仏道二思人タル者ハ信心専深シ。偏二後生ヲ願フ是モ上方ノ様也。

全体的には慈悲心に欠けるとして、稀には信心深い者がいるとします。おそらく字和島の今西伝介や庄屋清右衛門などを思い出したのかもしれません。そして「後生願い」が「上方の様」であると記します。上方で盛んだった西国三十三ケ所のことと比較しているのかも知れません。
④讃岐は、藩主による寺院の復興が進んでいたので、寺院の宿泊が多い。なかでも札所寺院が七ケ寺もあります。
最後に全体をまとめておきます。
①宿泊場所は、民家であるか寺院であるかは、旅の状況に合わせていたらしいが、特に阿波から土佐室戸までの間は厳しいものがあった。
②寺院の場合は真言宗が多い。しかし、真言寺が無い場合は他宗の寺でも厭わない。
③旧知の友を頼って宿泊することがまま見られる。
④民家の場合は、貧しき民家と庄屋クラスの富裕な場合がある。この時代に、すでに善根宿という概念が生じていた。善根を施す根拠は、「後生善処」と考えられていた。また食事の接待も行われているが、ごく稀である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院
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弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。
二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

    
1出釈迦寺6
  空海は善通寺に生まれ、真魚として育って行ったとされます。
真魚にちなむ場所がいくつも善通寺には語られていますが。その中でも真魚が「捨身」を行ったというのが我拝師岳の岩場(行場)です。久しぶりに、この行場に行ってみて、改めて出釈迦寺と奥の院(捨身ゲ瀧)の関係について分からないことが多いことに気付きました。最近、出釈迦寺の調査報告書が出ていたので読んでみることにしました。その読書メモです。
 出釈迦寺が創建されたのはいつ?
 出釈迦寺は、善通寺の背後にそびえる五岳の主峰・我拝師山の北麓にある四国霊場第73番札所です。山号は我拝師山求聞持院です。五岳の主峰名である我拝師と、空海が出家する原因となった「求聞持法」がくっつけられた山号です。
「山号や本尊に求聞持が付けられている札所は、かつて求聞持法の厳しい修行が行われた霊山である」
と私の師匠は云います。この山も修験者達の修行の場であったことが山号からもうかがえます。
 
1出釈迦寺奥の院
出釈迦寺の奥の院 背後の山が我拝師山
西行も、修行した我拝師山(出釈迦山)
西行の「山家集」には、札所は我拝師山の山腹、現在の奥の院があるところだと記されています。また、山上には基壇と塔の基礎が残っており、以前は塔がそびえていたとも記されます。つまり、近世以前には、現在の境内地に伽藍はなく、空海の「捨身修行」の場である険しい岩場(捨身ゲ瀧)を経て、我拝師山へと登るのが修行僧たちの辺寺修行であり、行道聖地のひとつだったようです。
 近世の文献の中に表れた出釈迦寺を見ておきましょう。
○『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。此寺二荷俵ヲ置テ出釈迦山ヘ上ル、寺ヨリ十八町ナリ。
出釈迦。先五町斗野中ノ細道ヲ往テ坂ニカカル、少キ谷アイノ誠二屏風ヲ立タル様ナルニ、焼石ノ如二細成が崩カカリタル上ヲ踏テハ上り上り 恐キ事云斗無シ。
 漸峰二上り付、馬ノ頭ノ様成所ヲ十間斗往テ少キ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ。釈迦如来、石像文殊、弥勒ノ石像ナド在。近年堂ヲ造立シタレバ一夜ノ中二魔風起テ吹崩ナルト也。今見二板ノワレタルト瓦ナド多シ。爰只曼荼羅寺ノ奥院卜可云山也。夫ヨリ元ノ坂ヲ下テ曼荼羅寺二至ル。是ヨリハ町往テ甲山寺二至ル。日記ニハ善通寺ヨリロ町、善通寺ヨリ甲山寺二口町卜有リ、夫八出釈迦ノ東ノ坂ヲ下テ善通寺へ直二行タル道次ナルベシ。
この澄禅の「四国辺路日記」(承応二年:1653)には、出釈迦寺の記述はありません。出てくるのは曼荼羅寺だけです。その中に「此寺二荷俵ヲ置テ 出釈迦山ヘ上ル」とあり、荷物を曼荼羅寺に預けて奥の院に登ったことことが記されます。
 続けて、空海が真魚と呼ばれた幼少期に捨身ヶ嶽から身を投げ釈迦如来に救われ、仏門への帰依のきっかけとなった我拝師山との由来譚が記されています。ここからも江戸初期には、出釈迦寺の姿はまだなく、空海聖跡として我拝師山へ(出釈迦山)に登って参拝することが修行の一環とされていたようです。

○『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
 七十三番出釈迦寺 少山上堂有、ひがしむき。
本尊釈迦 秘仏、御作。まよひぬる六道しゆじやうすくハんとたつとき山にいづるしやか寺 ほかに虚空蔵尊います。
 此寺札打所十八町山上に有、しかれども由緒有て堂社なし。ゆへに近年ふもとに堂井に寺をたつ、爰にて札をおさむ。是より甲山寺迄三十町。広田村。
とあります。ここからは札所は奥の院である禅定にあったのを、遍路が険しい道を登らなくても御札がもらえるように、江戸時代はじめに宗善という人が麓の現在地に伽藍を整備したと記されています。つまり、近世までは現在の奥の院付近が札所で、現在地には伽藍はなかったことを裏付けます。また、奥の院は出釈迦寺のものではなく曼荼羅寺の管理下にあったことが分かります。

○『四国偏礼霊場記』(寂本 元禄二年:1689)
  我拝師山出釈迦寺
 此寺は曼荼羅寺の奥院となん。西行のかけるにも、まんたらしの行道所へのぼるは、よの大事にて、手を立たるやうなり、大師の御教書て埋ませおはしましたる山の峰なりと。俗是を世坂と号す。其道の程険阻して参詣の人杖を拠岩を取て登臨す。南北はれて諸国目中にあり。
 大師此所に観念修行の間、緑の松の上白き雲の中釈迦如来影現ありしを大師拝み給ふによりて、ここを我拝師山と名け玉ふとなん。山家集に、その辺の人はわかはしとぞ申ならひたる、山もしをはすて申さずといへり。むかしは塔ありきときこへたり。西行の比まではそのあとに塔の石すへありと
なり。是は善通寺の五岳の一つなり。
むかしより堂もなかりきを、ちかき比宗善という人道のありけるが心さしありて。麓に寺を建立せりとなり。
此山のけはしき所を捨身が岳といふ。大師幼なき時、求法利生の御こヽろみに、三宝に誓ひ捨身し玉ふを、天人下りてとりあげけるといふ所なり。西行歌に
 めぐりあはん事のちぎりぞたのもしききびしき山のちかひみるにも
西行旧墟の水茎の丘は、万陀羅寺の縁起に載といへども此所にあり。
ここには出釈迦寺が元々は曼荼羅寺の奥の院(遙拝所)であり、大師捨身誓願の地としての由緒はあるが堂社はなく、近年、曼荼羅寺から少し登った山の上に「宗善という入道」によって堂社が建立されたことが記されています。
 これに関しては、浄厳が天和二年(1682)三月二十一日に出釈迦寺虚空蔵堂の観縁の序を撰したとの記録が「浄厳大和尚行状記」(総本山霊雲寺・河内延命寺:1999年)に見られようです。この虚空蔵堂の創建は、宗善による出釈迦寺整備の一環であったことがうかがえます。現在の出釈迦寺の寺院としての創建は、このあたりに求めると研究者は考えているようです。
1出釈迦寺2

「四国偏礼霊場記」の挿図には、塀などの境内を区画するようなものはありません。ただ本堂を含む二棟の建造物が描かれているだけです。
しかし、近世後半になると、伽藍が整備されたようで「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)には、本堂や大師堂、鐘楼が認められ、客殿や庫裏が描かれています。また、境内地を石垣で保護し、石段による参道も整備されていいます。しかし、山門はありません。
1出釈迦寺 金比羅名所図会

幕末の「金毘羅参詣名所図会」(暁鐘成 弘化四年:1847)には、絵図と共に出釈迦寺について次のように記します。
 曼荼羅寺の奥院といふ 三丁ばかり奥にあり
七十三番の霊場の前札所なり 近世宗善といへる入道ありてここに寺を建立すといふ
本尊  釈迦牟尼仏 弘法大師の作 秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ
茶堂  門内の左にあり
鐘楼  門内の右にあり僧坊にならぶ
 原の札所と言ふは十八丁上の絶頂にあり然るに 此所に堂社なく其道険阻にして諸人登る事を得ず 故に後世此所に寺をたてて札を納めむとぞ
捨身ケ嶽  山上の険しき所をいふ大師口口ける口時求法利生の御試しに三貿に誓ひをたて捨身口口口を天人下りて取上げらるといふゆへにかく号くとぞ
世坂 峯に登る険路をいふ 諸人杖をなげ岩を取て登臨すといふ
山家集 
まんだらじの行道どころへ登るは世の大事にて手をたてたるやうなり大師の御経書き埋ませおはしましたる山の嶺なり坊の卒塔婆一丈ばかりなる壇築きて建てられたりそれへ日毎に登らせおはしまして行道しおはしましけると申し傅へたりめぐり行道すべきやうに壇も二重に築きまはされたり登るほどの危うさ殊に大事なりかまへて這ひまはりつきて廻り逢はん事の契りぞ頼もしき厳しき山の誓見るにも  西行
出釈迦山  我拝師山のことなり大師此山に修行したまひし時雲中に釈迦如来出現まゐらせるを大師拝したまふ由へに号すとぞ
山家集
やがてそれが上は大師の御師に逢ひまひらせさせおはしましたる嶺なり わかはいしさんと其山をば申すなりその逼の人はわかいしとぞ申し習ひだる山文字をばすてて申さずといふ
大塔菌趾  山上にあり今八其趾のみなり西行のころまで八其跡に礎石ありしとなり
山家集    行道所よりかまへてかきつき登りて嶺にまゐりたれば師に逢はせおはしましたる所のしるしに塔のいしずえはかりなく大きなり高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ苔は深く埋みたれども石大木にしてあらはに見ゆと言ふ

西讃府志』(:京極家編纂 安政五年:1858)
出釈迦寺我拝師山卜読ク、真言宗誕生院末寺、本尊釈迦佛、八十八所ノ一、
相傅フ昔空海、求法利生ノ願ヲ雙シ此山二登り法ヲ行フノ時、憚尊旁昇トシテ出現セリ、因テ一寺ヲ創造シテ我拝師山出釈迦尊寺卜云、或曼荼羅寺ノ奥院トモ云
 ここにも修行中の空海がここによじ登り、絶壁から身を投げたところ釈迦如来が出現し、それを拝んだことから一寺を創建し我拝師山出釈迦寺となったこと、また曼荼羅寺の奥の院とも言われていたと記されています。
3 近代以後に独自の宗教活動を展開し始める出釈迦寺
 出釈迦寺は、江戸時代は曼荼羅寺や善通寺の住職が兼任するなどその影響下にあり、独自性をみることはできません。ところが近代に入ると、「中興開山」とされる勝岳が登場し後には、自立した寺院としての活動を展開するようになります。
  これを示す資料が、明治二十九年(1896)の銅版画です。
東京精行社が制作・刊行したもので、香川県内では二十九葉の銅版画が確認されている。そのうちの1枚が出釈迦寺境内を示した「我拝師山出釈迦寺之図」で、境内の様子が描かれています。これには、客殿の東側に大きな空間が広がり、現在とはかなり違った様子がうかがえます。
1出釈迦寺建造物表
 このような状況の中、出釈迦寺は、大正十一年(1922)に境内の火災により、庫裏や客殿、大師堂が燃え落ちます。被災後すぐに庫裏、客殿などの改修・再建届が提出され、昭和四年(1929)に竣工します。そして3年後の昭和7年には、奥之院本堂の改築が出願され、同十年に上棟され、現代のような山上と山麓の一体となった寺院構成ができあがります。

1出釈迦寺4
 大正から昭和の初めにこれだけの伽藍を一気に作り上げていく信者集団とそれを指導する住職がいたのでしょう。
 昭和初期には、奥の院禅定に一年間に十数万人の参拝者が訪れたり、奥の院に何日も参龍する者もいたりした、との記録があります。四国遍路の寺というよりも「空海の捨身修行の行場」として、この寺を参拝する信者達が多数いたことが分かります。
230七箇所参り

 中讃の人たちは戦後も「七ケ寺参り」を、行っていました。
農閑期にお弁当を持って朝早く家を出て、
善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 
→ 海岸寺道隆寺 → 金蔵寺 
の七ケ寺を歩いて回るのです。江戸時代の記録にも記されています。これも「辺地めぐり」の一種だと私は考えています。
 民衆が七ケ寺めぐりを始める前から中世には修験者達が、これらの寺と行場を巡っていたと思うのです。それを民衆が巡るようになり、江戸時代後半になると金比羅詣でにやってきた参拝客までがこのルートをめぐり始めます。金比羅参りが終わった後は、善通寺に行き・曼荼羅寺・出釈迦寺から弥谷寺・海岸寺を経て丸亀港に帰り船便で帰路に就くという「巡礼」です。それを勧める案内書やパンフレットも江戸時代に丸亀港に着いた参拝客に無料で渡されていました。
233善通寺 五岳

 そして、出釈迦寺は近世に新たに独立した寺院ですが、近代になると捨身が瀧を「行場聖地」として目玉にして独自性を売り出す戦略をとったのだと思います。多くの霊場が「奥の院」を忘れたかのように見える中で、奥の院との結びつきを強調することが独自性につながったのかもしれません。
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参考文献 出釈迦寺調査報告書 香川県教育委員会 2018年
 

         
1四国遍路日記

17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料のようです。
  まずは澄禅という人物について、見ていきましょう。
 澄禅(1613-1680)は、江戸時代の初期に生まれて元禄を前に68歳で亡くなっています。その期間は大坂夏の陣の辺りから、天下泰平の元禄の手前の当たります。彼は肥後国球磨郡の人で、20歳頃に京都智積院の学寮に入り仏道修行を積みます。一時、肥後に里に帰り地蔵院を継ぎますが、太守の接待や檀家とのやりとりなどにストレスを感じ「煩わし」として、ひそかに郷里を逃れます。そして学業に精進する道を選びます。ここからは、世事に疎く名利を厭う、彼の生き方がうかがえます。
1澄禅 種子集

 澄禅の種子字
 再び上洛したて澄禅は、梵語学の研究に打ち込みます。
そして、刷毛書梵字の祖といわれるまでになり、『悉曇愚紗』2巻をはじめ多くの著作を残しています。また、僧侶階層でも門下数千と伝えられる運敞能化の高弟、智積院第一座もつとめていたようです。ここからは、彼が中央でも名が知れた学僧であったことが分かります。
そのような中、澄禅は智積院第一座(学頭)の地位にありながら四国巡礼に旅立って行きます。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
 この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
 この日記は、澄禅という当時としては最高レベルの学識豊かな真言僧によって書かれています。そして伝来も確認できる一級史料のようです。そのため研究者は
「内容もまた豊富で、四国遍路記の白眉とも言うべく、江戸時代前期の四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の史料としても価値のあるもの」
と評価しています。
  この日記を読んでいるといろいろな気になる事が出てきます。
17世紀半ばの霊場の姿が、どんなものだったのかに焦点をあてて見ていきます。
 高野山を7月18日に出発して、和歌山から淡路島を平癒して、24日に徳島の持明院(現廃寺、跡に常慶院滝薬師)に到着しています。そこで、四国遍路の廻り手形を受け取ると共に、霊山寺(一番)から回るより井土(戸)寺(十七番)からスタートした方が良いとのアドヴァイスをもらっています。
 澄禅は、真言宗の高僧でしたから各地の真言寺院からの特別な「保護や支援」を受けていることが分かります。当時の一般の一般遍路衆と比べると、比較にならい好条件だったようです。城下町の持明院に泊り四国遍路の手形を受け、いろいろな情報を受けています。宿泊だけでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かったことが分かります。
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 それでは巡礼第1日目に訪れた霊場の姿を見てみましょう。
 澄禅の遍路は徳島市から始まっていますが、先ほど見たように回る順番は持明院のアドバイスを聞いて、一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺)から打ち始めています。井戸寺までは、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったようです。
   17番 井土寺
堂舎悉(コトゴト)ク退転シテ昔ノ(礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。
堂舎悉(コトゴト)ク退転とあります。【退転】を広辞苑で調べてみます。
〔仏〕修行して得た境地を失って、低い境地に転落すること。
澄禅は「退転」を、この意味で使っているようです。
 昔の礎石だけが残り、小さな草葺きのお堂が本堂であり、そこに薬師如来が安置されている。寺は荒れ果て、住職は「無礼野卑で言語に尽くしがたし」と記します。真言宗のエリート学僧である澄禅の怒りをかうような事件が起きたのかも知れません。この記録には住職に関する記述も記されていますので注意しながら見ていくことにします。
 最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。
昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
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続いては16番観音寺です。
本尊千手観音 是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端 朽落テ棟柱傾タル在、是其形斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ 畠ノ中ニ大ナル石共ナラ(並)へテ在、所ノ者ニ問エハ イツ比より様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性(姓)共談合シテ 時々修理ヲ仕ヨシ。
ここもことごとく「退転」状態です。小さな草葺堂の軒は朽ち落ちて柱も傾いています。昔の寺の跡らしき礎石が畑の中に並んでいます。近くにいた人に聞いても「いつ頃からこんな状態になったのか分からない、お堂は百姓たちと相談して、時々修理している」とのこと。そして、住職については何も記しません。記されていないのは、基本的に無住で住職がいないということのようです。 巡礼を初めて2つの霊場を訪れた結果がこれです。
15番 国分寺に向かいます
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本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。
かつての国分寺も、小さなお堂の梁や軒が朽ち果てています。仏像も壊れ、手足がありません。昔の堂跡を見ると、大きな礎石が並んでいるのが哀れになってくると記します。
14番 常楽寺、
本尊弥勒菩薩 是モ少(小)キ草堂也。
ここまで来ると口数も少なくなるように記述も少なくなってきます。ここも小さなお堂に弥勒菩薩が座っています。無住で住職はおらず、荒れ寺であったようです。35年後の『四国偏礼霊場記』にも
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず
と書かれているので、その後も住職がいなかったようです。

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13番一ノ宮(大日寺)
松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉(給)ヘリ、前ニ五間斗(ばかり)ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。
 一ノ宮とありますが、阿波一宮は大麻山にありますので、村の一宮です。その一宮の別当寺が大日寺だったようです。ここではじめて「殿閣結構」と、まともな伽藍が出てきます。
 澄禅から30年後の寂本『四国徧禮霊場記』(1689年)でも、
常楽寺は「茅堂の傍一菴」
国分寺は「小堂一宇」
観音寺は「堂舎廃毀」などと
荒れた様子が記されています。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
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 なぜ、この寺だけが伽藍が整っていたのでしょうか?
それは一宮神社の別当寺であったことが考えられます。檀家を持たず寺領も失った霊場が荒れたままで放置された状態にあったのに対して、神仏習合下では神社の別当寺にたいしては村人達は信仰を捧げ、伽藍を維持したのではないかと私は考えています。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
 翌日7月26日 遍路2日目の澄禅を追いかけます。

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11番 藤井寺
本堂東向本尊薬師如来 地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナトノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師形ノ者一人出テ 仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。
本堂は東向きで本尊は薬師如来、ロケーションは素晴らしい。仁王門は朽ちて礎石だけが残る。鐘楼や本堂の礎石も所々に残っている。残った本堂の隅に二天・菩薩・十二神将・仁王などの仏像の破片が山のように積んである。朽ちるままに放置してきたので、廃屋がつぶれるように、このお寺もつぶれてしまった。庭の隅に小さな庵があり、そこから一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいという。訪れた人たちが勧進していた。
 泰平の時代になって半世紀が経っていますが、藤井寺に復興の兆しはささやかなものでした。法師が一人のみで小庵に住んで、この寺を守っていたようです。
 それから35年後に書かれた『四国偏礼霊場記』では、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。この間に復興が進んだようです。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興したのかもしれません。そうすると、その寺は禅宗になります。
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藤井寺から遍路転がしと言われる急坂を登って山上の焼山寺へ向かいます。
    12番 焼山寺
本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。
 本堂五間四面で、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔はかわらぶきの屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、守護神は熊野権現だ。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代法師が再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。
ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。

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恩山寺
 大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ 二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺在、
寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。
この寺は仁王門があり、本堂・御影堂などがそろっており、住職もいたようです。山上の寺院は兵火を避けられたようです。

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  立江寺
本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ 世間利発ニシテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。
住職は無学だが「世間利発で富貴第一」と記します。真言宗のエリート僧侶である澄禅から見ればそう見えたのでしょう。しかし、壊れていた堂や寺を再興させた手腕はなかなかだと、その経営手腕を認めているように思えます。故郷のお寺の経営に嫌気がさして飛び出した彼には、できない芸当だったかもしれません。どちらにしても、独力で復興の道をたどっていたのがこの寺のようです。
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  鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ
 寺領百石の大寺らしい伽藍だったようです。本尊も立派ですし、本堂・御影堂・鎮守社・鐘楼も備わっていたようです。
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大龍寺 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
  大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。焼山寺との格差が、どうしてつけられたのか気になるところです。

平等寺
本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也 坊主□□ 。 

平等寺は「在家のよう」と記され、お堂やその他については何も記されていません。
薬王寺

本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル 人無フシテ今ニコヤ(小屋)カケ也。
二王門焼テ 二(仁)王ハ 本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向 是ハ再興在テ結構成。

この寺は火災にあったばかりで、再興途上にあったようです。仁王門は焼けて仁王像は、本堂の中の仮小屋に保存してある。庫裡は再興が終わっていたようです。
 
一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が伝わって来ます。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されていますが、庫裏は再興されていたようです。

薬王寺からは長い海岸線を歩いて、土佐の室戸岬を目指します。
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讃岐の大窪寺から再び阿波に帰ってきた澄禅の姿を、10番切幡寺から霊山寺まで追って見ます。
  10番 切幡寺
本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。
切幡寺は、本堂・仁王門と鐘楼は残っていたようです。そして、住職は妻帯の山伏だったと記します。修験者が誰もいなくなった霊場に留まり、住職化していく姿はこの時代の自国霊場にはよくあったようです。ここでも山伏と遍路の関係が垣間見れるようです。 

9番 法輪寺
本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。
    三如来とは「釈迦・弥陀・薬師」の3つの如来のことのようです。ここも「小キ草堂」で住職はいません。
  8番 熊谷寺
 普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花(法華)ノ千部ヲ読誦シテ 其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也 ト住持ノ僧開帳セラル拝之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二王ハ是モ大師御作ナリ。
 このお寺では、法華千部読誦による開帳が行われていたようです。これを何年かに一度やっていたけれども、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していた記されます。
 法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。鎮守は熊野社と八幡社なので修験によって維持された霊場であることがうかがえます。ここにも熊野修験者の影が見えます。

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  7番 十楽寺
是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来 御首シ斗在リ。(7)
「堂モ形斗」とあるので、形ばかりのお堂のようです。本尊の阿弥陀如来は「御首斗在リ」とありますので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺には立派な本尊さんがありますから、よそから古いものをいただいてきたということになるようです。ここからは、仏像もあっちこっちに移動していることが分かります。
 ちなみに、三十五年ほど後の『四国偏礼雲場記』には、このお寺はかなり復興して立派だと記されています。澄禅の時代は戦乱が収まっても、まだ遍路をするような十分な余裕がなかったようです。それが元禄年間が近づいてくると、遍路も多くなり、復興も軌道に乗り始めてきたことが分かります。
  6番 安楽寺、
駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ
  5番 地蔵寺
無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿 庭前ノ掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレトモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
  4番 黒谷寺、
本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ 杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。
  3番 金泉寺、
本堂南向本尊寺三如来ト云トモ 釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
 
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2番 極楽寺
本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ 堂守ノ禅門在リ。(2)
  ここも退転して小庵に堂守の禅宗僧侶が住み着いていたようです。阿弥陀さまと禅僧の取り合わせを研究者は次のように考えているようです。
「禅門というと禅僧のように聞こえますが、実は雲水系の放浪者です。中世には雲水のかたちをした放浪者がたいへん多くて、たとえば放下という者が念仏踊をして歩きました。本来は「ホウゲ」ですが、遊行者としては放下あるいは放下僧と呼んでいます。こういう僧が放浪しながら回っていって、住みよいところがあるとそこに定住したのです。
  (中略))
  『四国偏礼霊場記』によると、「いつの比よりか、禅門の人住せり」とあるので、本来は阿弥陀堂であったところに禅門が住んでいたようです。ここはそういう小さなお堂が霊場となった例で、その都度、希望者が堂守りとして住み込んでいます。このように雲水が、本堂と庫裡を建てて住職をすれば禅宗寺院になったはずです。ところが、札所は大師信仰ですから、現在は高野山言言宗に属する言言宗の寺院となっています。
  1番  霊山寺、
本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。

讃岐の大窪寺から讃岐山脈を越えて、切幡寺に入り霊山寺でゴールになったようです。
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澄禅の日記から各霊場の建物を見てみて分かることは、阿波の札所は「退転」=荒れ果てている寺が多かったということです。
阿波の二十三の霊場中の十二か寺が「退転」状態で、無住の寺もあります。
なぜこんなに荒れていたのでしょうか?
その理由として考えられるのが戦国時代の被災でしょう。土佐の長宗我部元親による天正(1573~92)の兵火で焼失したことが考えられます。寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が被災しています 。吉野川下流域は長宗我部侵入時と、秀吉軍の侵入期の2度に渡って戦場となりました。特に、澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては、四国征圧の命を受けて、侵入してきた羽柴秀長との一宮城の攻防(1585)で主戦場になったあたりになります。この地域にあった寺の被害は甚大だったことが想像できます。
 江戸時代なって戦乱が収まって、半世紀たっていますがほとんどの寺が放置されたままで復興がすすんでいない状態です。また、寺により復興がすすんでいる立江寺や黒谷寺は「民間資本の導入」という形で進められていたようで、この辺りがお隣の讃岐とは違うところです。
 讃岐は、戦国末に秀吉から支配を任された生駒氏が保護政策を行い、格式を持つと考えられた寺社に寺領を寄進し、復興を援助していきます。その保護政策を、後からやって来る領主達も踏襲した結果、戦乱からの復興が早かったようです。阿波は、蜂須賀家の「復援助計画」がなく、この時点では「放置」されたようです。
 さて、土佐の状態はどうだったのでしょうか。それはまた次回にするとして・・・
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もう一つは、寺のあり方です。
 古代に国家によって作られた国分寺は、中世にはほとんどが荒廃します。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
 つまり、檀家が組織されず、地域の人々の支援も受けられな寺は、復興の道が開けなかったのでしょう。その点、近世に「道場」を中心に寺が組織された浄土真宗の信徒には、「我々のお寺」という意識が信徒に強く、焼け落ちたまま放置される寺はなかったようです。これが近世はじめの四国霊場の姿のようです。
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もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
澄禅は真言高僧ですが密教系の修験者ではありません。そのために行場を廻って行道をした気配はありません。行場である奧の院を訪れた様子も見られません。ある意味、現在の霊場巡りと一緒で、お寺を廻っているのです。ここからはプロの修験者が修行のために行場をめぐるという中世的な雰囲気はなくなっています。澄禅の後からは、四国巡礼を行う高野山の僧侶が何人も現れ案内書が出され、道しるべも整備されていきます。そして、それに導かれて素人の遍路達が四国巡礼を歩むようになるのが元禄年間のです。その機運にのって、霊場は復興していくようです

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「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
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白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

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仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



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仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

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弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

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 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
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戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
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 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果

 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
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以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

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