瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国遍路と巡礼

 土佐は遍路にとっては「厳しい国」だったといわれるようです。
その理由として、挙げられるのが次の3点です。
①札所の数が少ないので道のりが長いこと、
②大河や海岸線が長く難路が多いこと、
③藩の取り締まりが他国・他藩とべて厳しかったこと
土佐藩には早くから厳しい通関規則があって、国境通過の厳しく制限されていました。しかし、四国遍路などの巡礼には特例を設けていたようです。寛文4年(1664)の布告を見ると
「辺路は其身自国の切手見届け、吟味の上にて通し申すべき事(三谷家文書)」
とあって、手続きも寛大にして通行を認めていたようです。
  元禄3年(1690)の道番所定書では、遍路が入出国できる関所を次のように限定するようになります。
 辺路(遍路)は其身之国手形見届札所順路二候条、甲ノ浦口・宿毛口から入可申事。其外之通口方ハ堅可指止。右東西弐ヶ所之番所方添へ手形を出し、出国之節番人受取置通可中事。 右元禄三午三月晦日 (「憲章簿」辺路之部―)
甲浦口から入境して西に向かうのを順行、
その反対に宿毛口から入境して東に向かうのを逆行
と呼び、このふたつの関所以外からは遍路は土佐に入ることは「堅可指止」と禁止とします。しかし、国手形さえ持っていれば入国を認め「添手形」を発行したことは変わりません。国手形というのは、生地の身分証明書のようなもので、これさえ持っていたら甲浦の番所で添手形(通行許可証)を付けてもらって、土佐国内を巡拝して、宿毛口(松尾坂)番所で添手形を返却すればよかったようです。
  寛延2年(1749)5月2日の定書には
「四国辺路日数百日迄之暇聞届申定」
とあり
「右は詮議之上今日相極、向後右日数願書にも相記載候様、先遣役へ申付置候事」
とあります。
ここからは、藩当局が藩内の人々の四国遍路日数の上限を百日以内に制限していたことが分かります。つまり、土佐の人が四国遍路をする場合は百日以内で帰ってくることを義務づけられていたのです。
享保4年(1719)12月、郷浦・町方に対し次のような改め方を指示します。
他国から入来候辺路(遍路)・六拾六部等改様之事
 右は甲浦、松尾坂両於番所往来切手・宗旨于形見届之上、疑敷者二而無之候ハ犬番人共から可申聞趣は、辺路札所国中之順路従是凡七拾八里有之間、今日から日数三拾日限可被通候。尤一宿之村々二而、庄屋・老改之日次を請可通候。素脇道通り候儀は堅法度二候。(中略)
ここからは、他国からの遍路が甲浦・松尾坂番所から入国する際に、番人から申し渡されたことは、
①土佐藩領内の通過日数を入国から30日以内とする
②遍路途上で一宿した村々では所持の切手に、庄屋から日付と著名、判形をもらう、素通り法度(厳禁)
③日数の遅延とか無益の滞留・脇道の通過などは禁止
という3点です。
土佐領内の滞在日数やルートが新たに指定されています。
こうして土佐藩の遍路取り締まりは強化されていきます    
寛文3年(1663)以降、土佐藩では遍路に対する規制として、出入国改め方、通過日数制限や日時改め方の遵守、脇道通行の禁止、無切手者の取り締まりなどを、繰り返し布令がでています。それだけ問題が多発していたことがうかがえます。そして文政年間以降になると、藩から出される通達はますます細かく、厳しい方向に向かうようになります
 文政2年(1819)には、四国遍路や七ヶ所遍路の出立・帰郷の際に趣向を催すことや、遍路に対する堂社・居宅・道筋においての接待なども、禁止されるようになります。
「時節柄を省みず不心得・不埓な行い」
と、云われるようになります。もっとも遍路順路での托鉢に対して、1銭あるいは握り米等を与えることは、昔からの「せったい」なので差し支えないとしています。
遍路の「多様化」 脇街道に出没する「遍路乞食」
 遍路の通る道は、東の甲浦口と西の宿毛口の指定された街道に限られていました。しかし、遍路の中にはこの規則を無視して他の脇道へ潜行する者も出てきます。信仰的な巡礼よりも生きていくための「物乞いや商売」に重きを置く遍路が現れていたのです。そのため土佐藩は脇道の通行を禁止する通達を、たびたび出しています。何度も出されると云うことは、禁令が守られていなかったことを示します。
天保5年(1834)3月の郡奉行布筈には
「潜行する遍路については、隣村の庄屋と詮議のうえ、問題の無い者へは入国禁止を言い含めて近くの国境より追放せよ」
などの対処法が指示されています。
その年の11月には、一般領民に次のような布令が出されています
遍路の風体をした者が各地に姿を見せ奇妙な行動をしている。医師のまねごと、占い師めいた仕業で庶民の悩みに乗じて金銭を詐取する者がある。弘法大師の灸点などと唱えて人心を惑わす者もある。これは風教の上にも甚だ好ましからとであるから、遍路道はいうに及ばず、脇道であっても取り締まりを厳重にするように」
領民に注意を促したものですが、医師・占い師・灸師の真似事を行う遍路がいたことがうかがえます。遍路姿の「多様な職業人」が村々に入り込むようになっていたのです。
天保7年5月には、
遍路を装って潜入し強盗に変じて治安を乱す者がある、疑わしき者は即刻召し捕りを命じるように
との戒告が出されています。
天保9年(1838)4月には、遍路の激しい流入による社会不安や混雑を防ぐために、取り締まりを厳重にし、他国遍路の入国については、その条件を次のように明確にします。
       覚
四国辺路之儀は元来宿願之子細に依而国々霊場令順拝事にて、往古より御作法を以て通入被仰付置候処、近年右唱計にて専ら乞食同様之族余計入込み、動は不法之儀有之不而己、老幼並病体之者共数百人行掛り令病死、実に御厄介不絶事に候間、猶又此度詮議之上別紙之通廉々相改様被仰付候条、聊か他念無之様改方之作配可有候。已上
   他国辺路之事
生国往来手形、並納経、其余四国路外之者御船揚り切手持参之事。
路銭相応持参之事。
六拾六部廻国之儀は東叡山御定目、並三ッ道具所持之者。
右夫々所持不致者は通し人不相成、右之外病症顕然にて歩行確に不相調者、並老極幼年者共壱人立罷越候者勿論通入不相成、 (後略)     (天保九年)
 ここには近年、遍路と称して乞食同様の者が多く入り込み、不法を働く者のほか老人年少者、病気の遍路が立ち寄って数百人の死者が出るなど、在所に迷惑がかかる者が増加した。そこで今後は、次のものを持っていない場合は入国させない。
①生国往来手形と納経、四国外の者については船揚り切手を所持していること、
②相応の路銀を持っていること。
③六十六部廻国者は東叡山御定目、三ッ道具を所持している者
そのほかに、病症があるものや歩行困難な者や老人や極年少者の単独遍路、身分不相応な所持品を持つ者も通さない。
以上のことをが道番所と郷民に通達されています。幕末が近づくにつれて遍路取り締まりはますます厳しくなっていきます。

四国遍路では、城下町は遍路は通過禁止でした。
例えば真念の「道指南』でも、
「かうち(高知)城下町入口に橋あり。山田橋といふ。次番所有、往来手形改。もし城下にとどまる時は、番所より庄屋へさしづにて、やどをかる。」
とあって、宿を借りる場合には、庄屋の許可がいることが記されています。一般的には、札所は城下周辺にあるので、城下そのものは迂回して通過していたようです。これは、松山以外のその他の城下町も同様です。
城下町の中にあるお寺は、札所にはなっていません。遍路道は城下町を通らないで迂回します。ここからは、城下町が成立した後に遍路ルートは整備されたことがうかがえます。
高知城下が遍路往来禁止になっていた史料です。
「御家中並に町方四箇村において、夜分辺路(遍路)体の者見逢候はば生国の往来切手、並に日次等相改め、疑敷箇条於有之は勿論、疑敷個条無之とも夜分往来又は町端等にて臥り居り候者共は、手寄りの町郷庄屋へ預置き其旨相達し申尽事。但し本文の者夜分五ッ時(午後八時)より内に見逢はぱ日次等相改め、御作法の日数も過ぎ申さず、図らず道に踏迷ひ候て夜に入り申す様の儀、疑敷事跡相見えず候はば、街道の方へ追払ひ申すべく候事」。
  ここには城下において夜に遍路を見た場合には、小国往来手形や日次(宿泊履歴帳)をチェックし、疑いの有無にかかわらず最寄りの町役人宅に連行せよとあります。夜間の高知城下町への遍路の侵入は厳しくチェックされていたようです。
土佐国境の番所手続きを遍路道中記で見てみましょう。
天保7年(1836)遍路の武蔵国中奈良村の野中彦兵衛は、土佐に入り「土佐之国御関所甲ノ浦東股御番所右三月十四日頂戴仕候」
と甲浦の番所で切手と日付帳面を貰い受け、土佐国を遍路します。
その土佐通過の切手及び日付帳面には次のように記録されています。
     切手(印)
 武州旗羅郡中奈良村
一、遍路弐人       彦兵衛
             重蔵
 但し、三月十四日甲ノ浦東股於御番所二相改今日右日数三十日限り松尾坂江参着之筈
右之通委細中含メ候条、尤村々二猶又念入相改メ可申候、尤札所順路之義者御法度之旨申聞候也
 申ノ三月十四日
        和田惣右衛門 印
  甲浦右松尾坂通迄
    順路道筋庄屋衆中(印) 
  覚
 右弐人 三月十四日
  伏越御番所口入也
        北川逸平 印
     入切手弐数也
 右弐人 三月十五日
        出申候 佐貴演
  佐貴ノ演村 同所庄屋寺田房五郎
   (以下略)
 末尾の(以下略)のあとには、前の部分と同様に「右弐人」に「出足の日付」、「庄屋姓名の自署」が順番に、土佐を出る4月22日まで並んでいます。以前見たように土佐藩領内を通過する遍路は、当日宿泊地の村役人(庄屋)の承認印をもらわなければならないという通達が守られていたことが分かります。
そして「右御日附帳面を申四月廿二日ハッ時、松尾坂御番所へ上ル」とあって、彦兵衛は切手と帳面を宿毛国境にある松尾坂番所に差し出して、土佐国を通過し、伊予国に入っていったことが分かります。
 もう一つの例を見ておきましょう。
文化元年(1804)の伊予久谷村円福寺の僧英仙による紀行記録『海南四州紀行』です
これには英仙と弟子の胎仙は土佐甲浦の番所で、役人から右の照暗状(手形・切手・証明書)というものを渡されます。後は自分で小紙6枚を、日限書に綴じ添えます。それを毎日、道筋にあたるそれぞれの村の庄屋へ行って、日付を書き込んでもらいながら遍路を続けています。
右二人出足 五月廿四日 白浜
右二人出足 同廿五日 椎名村
右二人出足 同廿六日 羽根村
(中略)
右二人出足 六月八日 姫ノ井
右二人出足 同九日  宿毛浦
といった記録が並びます。5月23日に甲浦番所から土佐に入国し、6月9日に宿毛の番所に着き、添え手形を返して出国しています。土佐通過に要した日数は17日です。土佐藩の「通過制限日数」の上限は30日でしたから、天候等にも恵まれれば20日以内では通過できたようです。日数制限は、必要日数の倍くらいに定められていたようです。
 ペリーがやって来た翌年、嘉永7年(1854)11月4日、西日本に大地震が発生し、高知には大きな被害をもたらします。
幕末の南海大地震です。このため土佐藩では、四国遍路をはじめ他国人の入国を禁じる措置をとります。その年の11月14日付けの藩通達には
此度之大変(大地震)のために往還の道路が大破し、遍路などが通行しがたいので遍路の入った所の村役人は覚書を添えて、各村々順送りで最寄りの国境から遍路を送り出すように
と命じています。
 こうした措置はしばらく続いたようです。
「藤井此蔵一生記」の文久2年(1862)の条に、藤井此蔵の娘しほが、この年3月10日に6人連れで四国遍路をして、4月9日に30日振二帰村した記事には、
「去る嘉永七寅歳十一月大地震より、土州へは辺路(遍路)一圓入れ不申、只今にては三国漫路に相成候て。歎ヶ敷事也。」
と記し、地震から8年経っても土佐への入国禁止措置がまだ続いていたことが分かります。この期間は土佐を除く「三国漫路」だったようです。

  四国遍路の対応に苦慮し「遍路排斥策」を採っていた土佐藩にとっては、大地震は「遍路入国の全面禁止」策を打ち出す契機になったのかもしれません。土佐藩は地震被害を理由に、その後もなかなか遍路の入国再開を許さないのです。このような動きは明治維新後も続きます。土佐藩内部にあった四国遍路遍路排斥論は、明治になっても役人に引き継がれていったようです。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書


慶応4年(1868)9月に元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れて、明治維新の大変革が始まります。封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたことは、手形無しでどこでも自由に通行できる時代がやってきたことを意味します。「移動の自由」を庶民が手に入れたのです。ところが、明治前期には遍路の数は減少して一時的に停滞期を迎えます。どうしてでしょうか?
 遍路の動向を知るために、幾つかの札所に残る過去帳から1,345名の遍路を抽出してグラフにまとめたものを見てみましょう
2グラフ1
このグラフからは次のようなことが読み取れます
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め
②19世紀前半にピークを迎える
③明治初期には1/3に激減する
 2グラフ12
西国巡礼の数を比較してみると、次のような事が分かります
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい
②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する
③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
この2つのグラフから分かることは、明治前期はしばらく停滞の時期が続いていたということです

明治前期の遍路の停滞の要因は何だったのでしょうか?
それは、次の2点のようです。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
  今回は①の神仏分離・廃仏毀釈運動が札所に与えたダメージを見ていくことにしましょう。
 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることでしょう。いまの寺社ブームも、納経帳と朱印帳がなければ、これほどまでには成長しなかったかもしれません。納経・朱印を目的に多くの若者達が各地の寺社を訪れる時代がやって来ています。もし、その寺社が「明日から朱印は押せないよ」と云われれば、人気寺社を訪れる朱印マニアの人たちはがっかりすると同時に、参拝客も激減することが予想できます。
 明治維新には、そんな状況が現れたと云うことです。
その原因は「廃仏毀釈」です。札所の多くが衰退したり、廃寺となって一時的に消滅してしまったのです。やってきた巡礼者は納経も朱印ももらえません。神仏分離については、以前にお話ししましたので簡略に記しておきます
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ
②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。
③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。
④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
 ところが、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変します。明治政府は近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化を掲げます。
その最初の政策が「神仏分離」だったのです。
 まず、神社にいた別当や社僧としての僧侶を認めません。
彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたのです。これに真っ先に答えたのが奈良の興福寺の僧侶達です。一斉に春日大社の神職に変身します。うち捨てられた興福寺は、廃寺のような存在となって荒れ果てていたことは有名です。
 これに続いて、讃岐の金毘羅大権現の社僧も神官になり、琴平神社と名前を改め、大権現は追放します。このように僧侶達が雪崩を打って神官になった結果、神宮寺などは廃寺になる所が数多く現れたのです。
土佐で神社が札所だった所は?
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国偏礼霊場記』には、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されています。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げています。これらの札所は神仏分離で、今までは神社とその別当寺が一体化していたのが分離されます。そして、寺院である別当寺が正式な札所なります。例えば
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、
②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ
③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
こうして現在のような、八十八ヶ所の札所が全ては寺院で構成されるようになります。それでは高知と愛媛の状況を見てみましょう。

  廃仏毀釈の展開と札所 高知県の場合
土佐藩は、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を持っていました。大きな寺は庶民的性格を持っていなかったのです。四国遍路の札所でも、堂塔が壊れたりすると、檀家である藩主の手によって修理が行われています。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長は、きわめて強力な廃仏政策をとります。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し、僧侶の還俗を要請する布告を出します。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更するのです。山内家の菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は還俗し、神官として教導職をつとめるようになります。殿様の菩提寺が廃寺になります。
 これを見て士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭が勧められます。真如寺の跡地は神式葬祭場になってしまします。このような風潮の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615の約3/4にあたる439寺が廃寺になるのです。
 四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、延光寺の7か寺から廃寺の届出が出されます。届け出のない札所も、実質的には廃寺に近いものもだったようです。
明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせています。しかし、翌年5年9月には一斉に罷免しています。これについて、ある研究者は次のように記しています。
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
このころから高知県における廃仏の動きは収束していったようです。どちらにしても神仏分離の展開で、札所の寺院が廃寺状態で機能しなくなっていたのは事実のようです。
 明治11(1878)になって島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあるので、まだこれらの寺が廃寺のままであったことが分かります。三十三番は高福寺(雪蹊寺の古称)となっていますが、ここも廃寺同然になっていたようで、納経事務を竹林寺で代行しています。
 これら寺院の名称が復活していくのは明治10年代以降です。
①雪蹊寺は明治12年、
②種間寺・清滝寺は明治13年に
③岩本寺も明治22年(1889)
に一応の復興にこぎ着けたようです。

讃岐の七十六番金倉寺で、このころ広がった霊験話を紹介しましょう。
明治10年に、不自由な両足で四国遍路を回っていた男が讃岐の金蔵寺で、突然に足が直り、立って歩けるようになります。この男は、和歌山県の北岡増次で、その霊験話はたちまち四国各地に広まります。その後も彼は遍路を続け、四国中の善根宿などで歓待を受けます。その彼が翌年に金蔵寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り、私戒名を授けたことなどが記されています。
ここからも、過激な廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の土佐の反動がうかがえます。しかし、廃物の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったようです。
例えば、明治40年,室戸岬の最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この寺の衰退ぶりを嘆いて、日記に次のように書き残しています。
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)
荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。
杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一夕にできなかったことが分かります。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたのです。
 平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」
これも神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因でした。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、もともと三十番札所は「土佐国の一宮」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社)でした。その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)があったようです。ところが神仏分離で、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられます。そのため、ふたつあった別当寺が両方ともなくなってしまいました。
 そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったのです。ところが明治9年(1876)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から移して、ここを三十番の札所とします。
 昭和になると一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とします。その結果、ふたつの三十番札所が並立することになってしまいました。こうして、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのす。この問題はが解決したのは、平成の代になってからでした。三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで決着したようです。

 愛媛県の状況   明治初期の札所の経済的な困窮
愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは土佐に比べるとはるかに穏健に進められました。しかし、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながら一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年になって再興されたという札所もあります。
 ここでは明治期の札所を経済的な側面から見てみましょう
 上知令によって寺領は没収され、札所を経済的困窮に追い込まれます。例えば上知については、明治4年(1871)に
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
という命令が出されます。さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令されます。明治4年の旧松山藩領寺院の上知記録を見ると、寺領の推移は次のようになります。
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反
②番繁多寺は、4町9畝 →   4反8畝
③太山寺は 10町   →約1町です。
②③は1/10になっています。それまでムラの庄屋と同じ位の田んぼを持っていた大寺院が、持っている田畑を政府に奪われたのです。経済基盤を失い、今までのような財政運営が出来なくなり困窮化する札所が続出するのは当然です。

 また、檀家のいない寺は廃寺にすべしという命令が出されます。
五十五番南光坊は、大三島神社の神宮寺で檀家は持ちませんでした。そのため4・5軒の家に頼んで檀家になってもらい廃寺をまぬがれたと云います。栄福寺も住職が還俗していなくなり、なんとか新しい住職がやって来ますが、寄付を頼む檀家がなく、茶碗や鍋さえ整わないという時期があったといいます。
 四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡の裏を畑にして芋などを植えてしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行ってしまい、無住になったので檀家総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらっていたと云います。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したそうです。このような経済的な困窮が札所を襲い、後継者もいなくなってしまいます。
 石鎚信仰の中核だった前神寺・横峰寺と廃仏毀釈
 愛媛で最も大きな打撃を受けたのは、六十番横峰寺・六十四番前神寺のふたつの札所でしょう。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争ってきた両寺ですが、金毘羅大権現と同じく「石鎚大権現は神にはあらず」という明治政府の前に廃寺の憂き目を見ることになります。
 前神寺の札所の特徴は、石鎚修験道の核として蔵王権現を祀ってきました。ところが明治3年(1870)の神祇官通達で
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
という決定を受け取ります。つまり、蔵王権現を祭る前神寺の存在そのものが否定されたのです。これに対して住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰維持を図り、行政に抵抗します。ところがその最中の明治5年に本堂と庫裡が火災で消失しています。そこで無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印して地元の戸長に預けられました。3年後には、県から正式に廃寺通達が送られてきます。これに対して、寺側は裁判を起こして抵抗しますが決定は変わりませんでした。
しかし、その後も檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出され続けます。明治12年には檀家は協議の上で「前神寺復旧出願」を提出します。これには180余戸の檀家の祖霊祭祀に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、次のように記されます
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
これに対して県は
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前寺毎号候儀卜心得ベシ」
と回答し、前神寺では許さないが前上寺なら許そうという条件で再興が認められます。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建します。前神寺にもどるのは、それから10年後のことです。
 横峰寺も石鎚神社西遥拝所横峰社となって、廃寺になってしまいます。
檀家は六十一番香園寺の檀家とされます。六十番札所がなくなってしまったので、同じ小松町の平野部にある清楽寺に札所が移されました。そのためこの時期の納経帳には、六十番札所として清楽寺の印が押されているようです。
 横峰寺も前神寺と同じ時期の明治10年に地元の檀家総代より再建願いが出されます。そこには
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共 
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
と記されて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴えています。そのうえで、
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
と、寄付金を集めて、村の共有地も寄付すつもりなので、ぜひとも寺の再建を認めて欲しい訴えています。
 こうして翌年には、愛媛県令から再興を認める決定を引き出します。横峰寺は、明治13年にまずは大峰寺という名称で復活します。その後の清楽寺との協定で、清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は山の上に戻ってきました。横峰寺の旧称に復帰するには、さらに30年近くの年月が必要でした

以上、神仏分離が札所に与えたダメージを土佐と伊予について見てきました。この打撃のために札所は廃寺になったり、無住となって札所の機能が果たせなくなった所が数多く出てきたようです。それが明治初期の四国遍路の激減につながったというのがまとめになるのでしょうか。
  讃岐や阿波にの神仏分離政策については以下の関連記事をご覧ください。タグ「讃岐の神仏分離」
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
        平成12年度遍路文化の学術整理報告書
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2高群逸枝
  高群逸枝が娘時代に四国遍路を行っていることを知りました。彼女が日本の「女性史学」の創設者であり、詩人でもあったくらいの知識しか持ち合わせていなかったので、大正時代に若い女性がなんで、四国遍路なの?というのが最初の感想でした。
その疑問に答える前に彼女の生い立ちを見ておきましょう。
 
2高群逸枝2
 生い立ちから遍路行まで 観音の子として誕生
高群逸枝(1894~1964)は、熊本市南郊の農村で、小学校の校長を務める勝太郎、登代夫妻の長女として日清戦争が始まる年に生まれます。夫妻には3人の男の子が生まれましたが、いずれも育たなかったたようです。そこで、一姫二太郎式の考えから、筑後大和郡の清水観音に女児出生の願をかけます。勝太郎夫妻の願い聞き届けられ、天は初観音の縁日(正月十八日)の女児を授けます。こうして生まれた逸枝は父母から
「観音の子とよばれ、その待遇を受けて育つ
として育てられたようです。
 逸枝は、学校長を務める父の転勤で農山村を転々としながら育ちます。母登代は、結婚してから夫に学問の手ほどきを受け、塾生に教えるほどの素養の持主だったようです。幼い娘には、昔話や物語を語り聞かせたといいます。逸枝の「夢みる人」という資質は、母に負うところが多かったようです。
最初に簡単な年譜を示しておきます
1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学
1910年 師範学校退学
1912年 熊本女学校4年に編入
1913年 熊本女学校修了。鐘淵紡績に女工として就職
1914年 西砥用尋常高等小学校の代用教員に就任。
   のち、父が校長をしている佐俣小学校へ転属
1916年 父と共に払川小学校へ転属。橋本憲三と文通を開始
1917年 教職を辞職し、熊本市専念寺で新聞記者修行に専念
1918年 四国巡礼に出発。九州日日新聞に『娘巡礼記』を連載
1919年 九州新聞で『愛の黎明』を、大阪朝日新聞に破調短歌を投稿。憲三と婚約
1920年 上京。世田ケ谷村の軽部家に寄宿。母の登代が死去
1921年 『新小説』4月号に長篇詩『日月の上に』掲載。熊本県八代郡弥次海岸に転居
1922年 再び上京
1927年 父の勝太郎が死去
1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊

最初の疑問「なぜ若い女性が四国遍路に出かけることになったのか?」にもどりましょう。
  逸枝が満23歳を迎えた大正6年(1917)、ヨーロッパでは第一次大戦のまっただ中でロシア革命が勃発する年になります。日本が戦争景気で好景気に沸いていた時期でもあります。この年に、後に夫になる橋本憲三との出会い、その恋愛問題に悩むことになります。一方秋には、教職を辞して、九州日日新聞社に入って新聞記者になろうとしますが失敗。「一週間も二週間も食べない」と自伝に記すほどの窮乏生活に陥ってしまいます。
①日に三度血書を届けたというH青年からの求愛
②恋愛関係にあった憲三との仲のこじれ
③転職の失敗
などの問題が渦巻いて、どうにもならなくなったようです。
「憲三からは冷やかにあしらわれ、H青年からは逃げきれず、職なく、飢え、人生と生活とのいっさいに追いつめられた敗北からの捨身の脱出」とも、「無銭旅行の、生死さえも運命の手にゆだねる出発」
と自伝には記されています。まさに「戦局打開」のための「転戦」が四国巡礼だったのかもしれません

 逸枝は、最初は花山院の御遺蹟である西国三十三ヶ所の巡礼を最初は考えたようですが、立案過程で経済的な理由から、より近場の四国八十八ヶ所になったようです。御詠歌だの御和讃だのを見せられると、その気になって胸が躍り、和讃の一節を参考に四国遍路の準備を始めます。先達から宿の心得も聞きます。
 和讃の一節
 麻の衣にあじろがさ
 背に荷俵三衣のふくろ
 足中草履をめし給ひ
 首にかけたる札ばさみ
 縦6寸に幅2寸
 金剛杖を右につき
 左のみ手に数珠を持ち

 準備した遍路の旅装、携帯品
 一、つま折れの菅笠               |
 一、おひづる(背には亦条を入る)
 一、脚絆、足袋、草鞄、手貫
 一、札挾み(縦6寸巾2寸)
 一 袋((紙インク、ペン、書籍、着更、小刀、印、諸雑品)
そして、彼女なりの次のような「出発の哲学」を掲げます。
「刻々の推移に不安をもこたず、
欲するものを率直にもとめ、
拒まれれば去り、
生命に執着しない。」
これを胸にして四国に向けて出発します。それは 大正7年(1918)の6月のことでした。
 
2高群逸枝24

一笠一杖、四国に向かう  
 堀場清子氏は、この旅立ちを
「無」に立って出てしまう 「捨身」で人生をきりひらく』
と評します。
「無」に立って出てしまう……こうした捨身の行為を逸枝は生涯に何度も敢行して人生をきりひらき、自伝の中で『出発哲学』とそれを名付けている。だがその決然たる信念とはうらはらに、巡礼初日の彼女は、ハンカチを顔にあて、好奇の目や囁きの間をぬけていく。沿道の人々は彼女を暖くもてなし、巡礼になるような人じゃないと不審がり、由ある家の家出娘だろうから保護せねばと相談したりする。」
 周りの好奇な視線や質問に対しては、こんな話をしたようです。
「私が生まれる時に母が、観音様に『此子を丈夫に成長さして下さいましたら屹度(きっと)一人で巡礼いたさせますから』と誓った事(その前幾人もの子供がみんな亡くなつたから)を話した。此れは事実である。私の母は大の観音様信心である。」
と逸枝は答えるようになります。そして、豊後を目指す道筋での彼女は、こんな歌を詠んでいます。
 さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい 
       境の谷の 夕ぐれのみち
 そして四国目指して前に進んで行くにつれて、胆がすわっていきます。意気軒昂と歩いていると夕暮れ、一人の老翁に呼び止められます。それが伊藤宮次老人でした。
2娘遍路
熊本から別府までの行程
大正7年(1918)6月4日、熊本の寄寓先の専念寺を出発し、大阿蘇の連山を目に歩き始めます。
6月4日 熊本出発。途中、歳を18と偽る。大津泊。
6月5日 立野、梅原広一宅泊。
6月6日~阿蘇郡坂梨村浄土寺2泊。坂本元令様に感謝。
6月8日~竹田、新高野山(瑞泉寺)にて宿泊を断られ、岡本村狭田、古谷芳次郎宅2泊。
6月10日~東大野村中井田、伊藤宮次(伊東宮治)老人(73歳)に出会い、同宅長期滞在。老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と理解し、女王さまのように扱われる。しかも、四国への同行を申し出る。サンチョパンサの登場。
7月9日~伊東老人と中井田から汽車で大分に向かう。大分市塩九升町、伊東老人の親戚、阿部宗秋宅。
逸枝は、伊東老人との出会いをこんなふうに記しています。
見知らぬ国の山路にはかなく行き暮れた旅の娘に、温い一夜を恵んでくれた孤独の老人(73歳)が、夢に観世音のお告げを得たとて、繊弱い処女を護るべく私に従い、共にへめぐった四国八十八ヶ所、四百里、行乞と野宿の一百日の思い出を、昨日のことのようにも思い出す止とができる。 
老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と思い込み、女王さまのように扱います。そして、四国への同行を申し出るのです。実際、この伊藤老人は同行中には
彼女に対して主従の礼をとり、炊事にも手を出させず、一緒に食事をとらなかった。荷物は一人で背負い、彼女には修業(行)させず、会計をつかさどり、宿に着けば、まず塩で彼女の足をもむ
ほど誠実に逸枝の面倒をみたようです。私に言わせれば、若き娘のドンキホーテーとサンチョパンセのような関係にも思えてきます。
 この伊藤老人との出会いとその後を、河野信子氏は次のように記します。
高群逸枝は巡礼の過程で、なま身のままで、土地のひとびとの幻想をさそいだしてしまったようだ。(中略)九州山地の街道で、以後同行することになる伊藤老人にであい、観音の化身と思い込まれてしまった。また、その地の近郷近在のひとぴとは、彼女の杖にふれると病気がなおる信じてあつまってきた。本人にとっては、地から湧きでたような珍事にはちがいないが、私には察しがつく。おそらく、少女高群逸枝の全身からあふれでる雰囲気が、(中略)霊気を漂わせていたことであろう。
  こうして「若き教祖とその老僕」の四国巡礼の旅が始まります。
肥後から豊後までの徒歩行で、遍路の記を寄せるとして新聞社から「前借り」としてもらった稿料10円もすでに使い果たしていました。しかし、彼女の前に進む決意は萎えません。
「妾は飽くまで八十八ヶ所の難を踏破せばならぬ。」
「行かう、行かねばならぬ。無一文でも行かねばならぬ。八十八ヶ所の霊場、わが為に輝きてある」
ジャンヌダルクかドンキホーテか迷うような姿に、私には思えます。
九州から船で八幡浜へ
7月14日  午前3時大分出航。佐賀関経由の「宇和島丸」にて八幡浜入港。この地の大黒山吉蔵寺(当時衰微していた37番岩本寺から3500円で本尊と納経の版を買い取り、37番札所の権利を得たとされる)を訪問、1泊。
7月15日  逆打ちとして43番明石寺を目指して出発。なぜ逆打ちとしたかの理由は語られない。道を間違えて大窪越えの難路で、野宿。
 逆打ちで伊予の地を南に
「四国来るー四国来る 眼前に聳立する是れ四国の山にあらずや。九州か四国か四国か九州か、故郷か旅か故郷か。胸轟かすひまも無く佐田岬から八幡浜へ、上陸は午前十一時頃」
とあり、佐賀関経由の宇和島運輸の汽船「宇和島丸」で初めて四国の地を踏む娘らしい感動が伝わってきます。
  八幡浜で一泊して、7月15日が四国遍路のスタート日になります。
 なぜか「逆打巡礼」で、四十三番の明石寺をめざします。なぜ逆コースを選んだのかは何も触れられていません。初日から道に迷います。仕方がないので大窪越えの難路をたどることになり、急坂蕗で疲れ果てたうえに、初日から野宿となります。その様子を、次のように記します
凸凹の石多き草地に野宿する。石を掘り出し、毛布を敷き、草鞄を脱ぎ、脚絆を解けば、足の痛みが襲ってきて一歩も歩けない。看物を被って蚊を防ぎ眠る。初めは昏々として深く、次にしだいに苦しくなる。目覚めれば、蟻、毛虫の類もじやもじゃとと私の上をを這いまわっている。
着物も髪も露でシトシトだ。
月が寂しく風は哀しく、ああ私はいったいどうしてここに坐つているのか。この月、この風、熊本やいかに。これから先何百里、かよわい私に出来る事であらうか。
ああ泣いて行かう。いえ、花を摘んで歌つていかう。
足は痛いが立たねばならぬ。
み仏よ助け給ひてよ。
道は一すじ、疲れは疲れを生み、目を上げるとまるで世界が黄色になつてグルく廻転している様だ。
(1918年7月15日大窪越えにて)
 次の日も野宿と前途の多難を予想させまする。
  野宿も大変、食事も粗末、加えて難路の連続。そこへ柏坂の難所。
「山に山あり、峯に峯あり。越えもて行くほどに、おりしもあれ、銀雨くずれきたりて、天地花のごと哄笑す。請うらくは駿馬と鞭をあたえよ」という急坂を、
「此所を柏坂と云ふ。急坂二十六町、風が非常に荒く吹さ出した。汁も熱もすっくり吹き放され且笠や侠まで吹き捲くられる。面白い!風に御して坂道を飛び下る。髪を旗のやうに吹きなびかせつつ、快活に飛び行く私を、お爺さんはハラハラした顔付で見送り乍ら杖を力に下って来られる」
と笑い飛ばしながら通り過ぎて行きます。
そして、四十番観自在寺では本堂での通夜、
「本堂の大きな古い円柱が月光の中に寂然と立ってゐる。虫が鳴く、風が響く、世界は宇宙は、人は、私は、みんな夢だ、夢の様駱。」
との感慨に浸る。
 逆打ちの土佐から阿波への道。
ここで逸枝は約2か月もの日数を費やし、その間様々な体験を重ね、若い感性で見聞を広めています。
その行程と主な出来事は次のようになります。
7月16日 卯之町経由で43番明石寺を巡拝。歯長峠の山中、小屋を見つけて軒下で野宿。
7月17日~42番仏木寺、41番龍光寺を巡拝して宇和島到着。(約17kmの歩行)個人宅泊。雨天のため連泊。
7月21日 宇和島出発。柏坂の手前、畑地村にて野宿。(約20kmの歩行)
7月22日 雨中の柏坂越え。初めて海を見る。夕刻40番観自在寺到着。夜が更けるまで光明真言を唱え、本堂軒下に通夜。
7月23日 深浦という一小港に至る。「大和丸」という蒸気船で土佐片島港(宿毛)まで乗船。恐ろしき遍路の目(注1)に出会う。39番延光寺拝礼。門前の寺山屋という木賃宿に宿泊。翌日は風雨強く連泊。
7月28日~延光寺→市野瀬→大岐→足摺(38番金剛福寺)→大岐→市野瀬の打戻りに4日かかり。市野瀬1泊、大岐2泊。7月31日に真念庵到着。
8月2日 市野瀬を出発し、伊豆田越えをして、四万十川を渡船で渡って、入野の浜にでる。この狂波怒涛に、残してきた恋人の思いを重ねる。この浜で野宿。
3日 土佐佐賀を通過し、単調な歩行でお爺さんを困らせたり、熊井のトンネルの反響で遊んだり、…。岩本寺の手前で野宿。
4日 37番岩本寺を参拝。仁井田村平串(土讃線仁井田駅の近く?)の宿屋に宿泊。
5日~七子峠を登り、下りは不動が滝(滝に不動尊を安置)ルートで、土佐久礼で宿泊。
6日 須崎から36番青龍寺まで船便を利用しようとしたが、時間が合わず須崎にて宿泊。ルートは記述なく、36番青龍寺に参拝したとの記述もなし、高岡(土佐市)にて2泊。
10日 35番清滝寺を参拝。
11日 福島から渡船で36番青龍寺を参拝。夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
12日 33番雪渓寺参拝。種崎の渡船で浦戸湾を渡る。
13日、三里村(高知市内)吹井屋に宿泊。たった2kmしか歩いていない。 
14日、32番禅師峰寺、31番竹林寺を参拝、市内の本屋で長居したりして、五台山村の大前屋宿泊。お爺さんに用事ができて、長逗留。
28日 高知を出立。逗留中にお爺さんだけで30番善楽寺、29番国分寺を納経していたので、直接28番大日寺を参拝。赤岡を過ぎ、夜須の遍路宿に宿泊。
29日 風雨の中を出立するが、体調が悪く安芸の手前の町で宿泊。この日、親切なお爺さんとは撫養(鳴門)で別れ、一人旅することを決心する。
30日 安芸川の橋が落ちていて、2里上流の橋まで迂回。27番神峰寺のふもとの坂元屋に宿泊。
31日 27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺手前の浜で野宿
9月1日 26番金剛頂寺、25番津照寺を経て、砂浜を歩き、山によじ登り24番最御崎寺を参拝。山を下り有るか無きかの道を辿るが、お爺さんが疲れ果て、また野宿。雨に降られ仮小屋に避難するが、雨漏りひどく、涙も出ない。
土佐の遍路道をゆく中で見えてくるものは?
土佐は「50町1里」(一般に36町1里)で、他国と基準がちがうのです。土佐を行く遍路達が辟易とし、苦渋、疲労困悠もするのは、土佐の距離基準が他国とはちがうのです。
「市瀬(市野瀬)出初日は大岐に一泊、此所から足摺山へは四里だと云ふ。但し五十町一里での四里である。(中略)一寸の休息もしないで、打ち通しに大岐まで帰り着いたのが午後九時何分、宿の人達は、驚愕する。なぜなら、弱々しい私が山坂越を八里(三十六町一里に換算して十一里四町)歩き通したと云ふ事が実際不思議」
だと人々が驚いたと記されています。
「足摺岬の金剛福寺へ参る時には、大岐からの往復八里を飛ぶように歩いて、老人を弱らせています。土佐の旅では
『愛せねばならぬ、愛せねばならぬ一切は私の愛人だ…』
と、一心不乱に念じながら歩いたといいます。長い道のりを、ゆき会うすべての人々にむかって、「一切愛」の実践を試みながら彼女は苦しい旅を続けています。
 土佐の遍路道は、川が多く、川を渡ることにも難渋しています。
雨のため舟渡しもできず川止めをされたり、橋の決壊で迂回させられたりなどして、なす術もなく日数を重ねるしかありません。
「濁流滔々として、渡らるべくも見えざれど、熟練せる船頭により難なく対岸に着くを得たるは幸ひだった。
とも記します。そして9月19日には、とうとう
「四国は川がうるさくて困る。少し荒い雨が降っても川止めだ。まるで昔の旅行同然」
だと嘆きだします。
   ただ、雨での足止めが、多くの遍路や地元の人との接触のきっかけとなっています。
 遍路同士で話すと
「方々の国から集まつてゐるだけに言葉が大変面白い。(中略)殊に四国に入って初めて聞いた『哺うし』だの『あいあい』だのたまらなく懐かしい響きが、こもって聞こえくる。」
と言葉への感覚が磨かれていきます。

山頭火32
 そして土佐の自然に感動しています。
快絶!白浪高く天に躍りて飛沫濠々雲煙の如し。
何ぞ其の壮絶なる嗚呼何ぞ其の暫く無言、
わが身直に狂濤に接す。
あはや!足土を離れて、飛ばんとす其間髪をいれず、
『何を?』お爺さんに引止められ愕然として我に返り、
太平洋の狂波怒濤と自分の魂が一致した瞬間に恐ろしさを感じる
伊藤老人の静かな寝姿に
海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と一私は静かな落ちついた心で『死』を考えていた。
 昭和4年記の「遍路の秋」で逸枝は、四国遍路の思い出を次のように記しています。
「四国の秋は美しい。私はうはには、忘れがたいものが多い。いつか折りがあったら、またぜひ行ってみたいとおもっている。こんどはたれとも連れ立たずに独りで。そしてやはり遍路になって。」
 
若い娘にとって、宿は苦労の連続でした。
 娘と云うことで断られたこともしばしばです。そんな中で見つけた遍路宿は、
「此宿こそ如何にも蛆が湧いてゐさうな不快な宿である。寧ろ海辺の野宿のほうがいいと思うほどで、入浴もせず、食事も取らず、お茶も水も駄目の夜を過ごす。
真野俊和氏は、当時の遍路宿について次のように記します
「往時の遍路宿・木賃宿のすさまじさは、全部が全部ではないにしてもたいへんなものだったようだ。(中略) 遍路宿は木代の最低が8銭から、高いのは25銭ぐらいまでのひらきがあったという。こんな最低クラスの木賃宿も二人は当然のことながら何回かとまりあわせた。」
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして、善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められます。お気の毒だが納屋でよろしいか」と聞かれて、うなずくと農家の老爺に案内された所は、厩と隣接しており、異臭が鼻をつく宿であったりもします。
なんでも見てやろう、何でも一度は受けいれようとする姿勢でのぞむと見えてくるのは
  まず、「遍路の墓」の見方が変わってきます。
「遍路墓でことにあわれなのは、道中、あるいは丘辺、あるいは渚辺の土まんじゅうの上などに、ただ笠杖などの差し置かれてある光景である。さらにあわれなのは、現実に生命の終わる日までたえず巡礼をつづけているお遍路さんたちのことだろう。」と日記に記します。
『あゝ遍路の墓 何と云ふ懐かしい美し墓の姿であろう。
永久に黙然として爾来数知れずその前を通り行く遍路の群を眺めて立つてゐ。」
「遍路のみ墓よ、さらば静かにおはせ。生より死へ…有為より無為へ…道は一路で有るを。」
「あゝ大悟徹底とは大なる諦めで有る事を、今に及んで知る事が出来た。」
遍路道の傍らの墓に対しても、視線を配りリスペクトする力が養われていきます。
  その2は、お大師様にまつわる伝説の多さに対する驚きと興味です。
それらを細かく、時に粗らくとり上げて
「何れその中に八十八ヶ所中の伝説一切を詳しく調べた上で折を見て書くことにしよう」
と若者らしい学究的な意欲も見せます。また、生意気な娘らしい言葉も並べます。一方で、逸枝は
「わが求むるものは愛なり。妾は今まで非常に苦悶しぬ。(中略)妾は一切 に愛せられつつ楽く茲にあり。」
との高みに達していきます。

9月 阿波から瀬戸内へ
2日、尻水村にて宿泊。
3日、宍喰の善根宿に宿泊。
4日、四方原村(阿波海南駅近く)に宿泊。名にし負う阿波の八坂八浜を越え、牟岐の先に宿泊。6日、23番薬王寺参拝、近くの旅館に宿泊。
7日 新野町豊田(現阿南市)、木元徳三宅に宿泊。
8日~ 高群が一人旅をすると漏らしたため、お爺さんが怒って、高群を宿に残してどこかへいってしまう。
11日、20番鶴林寺の手前までいったお爺さんが戻ってくる。
19日 22番平等寺参拝。さらにあえぎつつ登り21番大龍寺の奥の院に至る。那珂川の渡船(現在は橋がある)が川止めであろうと言われ同所て宿泊。
20日21番大龍寺を参拝。さらに20番鶴林寺を参拝。山を降りて農家の納屋にて眠れぬ一夜を過ごす。
21日~28日、19番立江寺を参拝。
「朝から晩まで歩き続けに続けて18番恩山寺から1番へ一瀉千里、其間に有名な12番焼山寺の山道も極めて無事に抜けてしまった。」とだけ28日の記事に記して、その間の詳細な行程は記録されていない。
29日、引田を朝早く出発し、夕方88番大窪寺参拝、寺を下りて宿泊。
30日、4里半歩いて87番長尾寺を参拝。さらに歩くととがった八栗山、平坦な屋島を見る。
10月1日 86番志度寺参詣の記述なし。85番八栗寺の山を登り、84番屋島寺を参拝。高松手前の木賃宿に宿泊。(83番から72番に関する記述なし)
6日 71番弥谷寺を参拝。長居している間に、お爺さんを見失う。お爺さんは、高群が先に行ったものと思い、先を急いだ。その日、別々に宿を取るが、翌朝、無事再会。(70番から50番に関する記述なし)
14日、今治を出発し3ケ所の札所を巡拝。菊間の町を抜けて、「あさましき家」に宿泊。
翌日は道後の旅人宿ではお遍路さんお断りと宿泊を断られ、「また汚い宿」に宿泊。
16日、51番石手寺、50番繁多寺、49番浄土寺、等6ケ所を参拝し、泥濘の三坂峠を越える。
17日 45番岩屋寺を参拝、畑の川という宿駅(現在の民宿和佐路あたり)に宿泊。
18日、44番大宝寺を参拝、本願成就。最初に野宿した滑稽な思い出がふと胸に浮ぶ。
    行かう!行かう!行かねばならぬ。私の厳かな戦場に。
19日 内子の近くの善根宿に宿泊。
20日 八幡浜に向かう途中、女の乞食遍路に出会い、金を無心され、残っていた10銭を喜捨。
    残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
24日、11時ごろ御荘丸という汽船の三等室で八幡浜を出航。佐賀関に上陸し、宿泊。しばらく大分で休養する。
12日 中井田の伊東老人宅に戻っている。
18日 この日、阿蘇を歩いている。
20日 熊本に帰着。

  結願に向けて瀬戸路を行く  
 南四国路の難渋に比べて、瀬戸内に入ってからの遍路行は比較的順調に進んだようです。
 秋風ふかくなりて、道も寂しくなりぬ。寺のあまたを経めぐり、石多き谷をわたり、日没寺の垣根の輝きに心ひかれなどするほどもなくて、讃岐なり。伊予なり。屋島に源平餅を食うべ、高松の木賃宿に虱を漁り、根香山のほとりに崇徳上皇の遺跡を訪ね、十月十四日ともなりぬれば、今治の町を出でて、松山街道をたどる。菊間町を過ぐれば海なり

 10月18日、今回の本願成就となる四十四番大宝寺に詣でて、八十八ヶ所を打ち納め、「夢の様な長旅もいよいよお了ひだ」と記し、この遍路行で出会った人々を回想しています。
 此度の旅行は色んな人々を私に見せてくれた。易者だの僧侶だの浮れ節屋だの煙管の棹がへだの鋳掛屋だの一様々な人々が住んでゐるものだ。
(中略)京都の人(中略)にお会ひした。その人からは色々な世間物語りも聞かされたし、般若心経だの十一面観世音陀羅尼経だの頂いた。六十位の人で発句に趣味を有たれてゐなさるさうな。其外数々のお寺を巡るうちには、色々な若い僧侶の人にお会ひしたり、可なりに複雑な詩の様な事件が私を追つかけたりしたが、振り返る事なく流るゝ様に、それが旅人の常で有る。可憐な少女や慕はしい老尼や懐かしい婦人や、然うした人々とも残る処なく、すっぱりと別れて了った。
 讃岐では、崇徳帝の御遺跡地及御陵にも参拝し、善通寺から金毘羅さまにもお詣りしたが、其帰りの汽車の中では芸者の方とも近づきになった。世間には実に色んな人々が住んで居る。そして其人々は各自に色んな思想界なり、道徳界なりを形造っては生きてゐるのだ。(中略)
兎に角面白い世の中である。
  出発したときの混沌としたカオスを突き抜けたようです。生きていく勇気をもらった四国遍路だったのでしょう。逸枝自身も
「私はこの遍路によって、心身の鍛練を得たことが多い。」
と述べています。
  大正7年(1918)、老翁と連れ立った白無垢の遍路姿の娘が四国の地を歩く。無からの出発という若い彼女の感性が多くのものを吸収していきました。一度きりの遍路でした。しかし、後々になっても遍路にかかわる思いを綴っていることからも、彼女の遍路に関する思いが強かったことがうかがえます。
 『九州日日新聞』に掲載された「娘巡礼記」の評判は、どうだったのでしょうか?
24歳のうら若き女性が時に野宿をし、
「冷えてコツコツの御飯に生の食塩では、食うにも何も咽喉を通らない苦労の旅」
は評判となり、105回の連載道中記となります。これで逸枝の名も知られるようになります。
 逸枝が橋本憲三と双方の両親の祝福をうけて約婚したのは、遍路行の翌年の春でした。この夫妻の二人三脚の生活が、後の逸枝の大作を生むことになります。
逸枝が四国の遍路路を歩いたのは、一回限りでした。けれど遍路への思いはやみがたかったようです。機会があればいつでも旅に出ることを望んでいたといいます。諸般の事情が許さなかったのです。

 昭和13年(1938)に出版された「お遍路」には、次のように記されています
どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、癩胤で不当な虐げを受けている人であろうが、勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、互いになんの隔たりもなく、出会う時には必ず半合掌の礼をする。これは淡々たる一視平等の現われで、世間的な義理や人情の所産ではない。」と云い、最後に「遍路には祖互愛念平等愛と犠牲愛との三つが、現に完全に行はれてゐる。」と結んでいます

参考文献
参考文献 平成12年度 遍路文化の学術整理報告書「四国遍路のあゆみ」
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