瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国霊場

 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
仙龍寺 クチコミ・アクセス・営業時間|四国中央【フォートラベル】

「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事

  
現代の四国遍路では、札所の本堂・大師堂の前で読経を行うのが霊場会の作法となっているようです。そして、
開経、懺悔文、三帰、三境、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊真言、光明真言、大師宝号、回向(えこう)文

の順で唱えていきます。この中で般若心経は外すことができないものとされます。私も巡礼の際には、にわか信者になって般若心経をお勤めしてきました。しかし、般若心経は江戸時代初めには、唱えられていなかったようです。
おきらく道場 続・お遍路本

1687年(貞享四)の真念『四国辺路道指南」には、仏前勤行について
「本尊・大師・太神官・鎮守、惣じて日本大小神祗・天子・将軍・国主・主君。父母・師長・六親眷属」などに礼拝し、「男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

とあります。ここには光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌を詠むとはありますが、般若心経には全く触れられていません。
これに変化が現れるのは19世紀になってからです。1814年(文化11)に刊行された『四国編路御詠歌道中記全』は、札所の本尊図と御詠歌を中心とした簡単な案内書です。そこには、遍路の効能を書いた序文の次に、「紙札打やうの事」とあり、その後に十三仏真言、般若心経、十句観音経、懺悔文が載せられています。今のところこれが般若心経を載せる最も古い案内書のようです。しかし、一般には広がっていなかったようです。般若心経を唱える人はわずかだったのです。 
明治時代の仏前勤行
明治になると1868(明治元)に神仏分離令が発布され、 各国の一宮などの神社が札所から排除されて、八十八の札所はすべて寺院となります。 一方で、廃仏毀釈運動の高まりの中で住職が還元していなくなり廃寺になった札所も少なくなかったようです。さらに3年後には、寺社領上知令が出されて、今まで持っていた寺領が新政府に没収されます。明治初年は、四国遍路だけでなく日本の仏教界にとって経済的な打撃も与えました。
 このような中で仏教側からの建直しと「反攻」機運も出てきます。
札所の多くが属する真言宗では檀信徒への布教・教化を積極的に進めていくために、在家勤行法則を制定します。これまで真言宗では布教や教化はあまり重要視されていませんでした。しかし、神仏分離・廃仏毀釈という今までにない危機のなかで、檀信徒に対して真言宗の教えをわかりやすく説く必要が認識されたようです。こうして1880年に真言宗各派が東京に集まって第一回布教会議が開かれます。、そこで作成されたのが「在家勤行法則」(著述人・三条両乗禅)のようです。
東寺 真言宗 在家勤行法則』京都みやげ経本 - 川辺秀美の「流行らない読書」

この「在家勤行法則」は、次のようなもので構成されています。
懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、光明真言、大師宝号・真言安心和讃・光明真言和讃・回向文」
からなっています。見れば分かるように、これから2つの和讃を除くと、現在の四国遍路の仏前勤行になります。どうやら明治の「在家勤行法則」が原型になっているようです。しかし、ここにはまだ般若心経はありません。
明治になると、江戸時代までのものとはちがった新しい四国遍路案内書が次々に登場してくるようになります。
1四国遍路案内一覧

この表は一番左が出版された年で、明治以降に刊行された案内書の仏前近郊主なものを並べたものです。右のページの二番目が般若心経の列ですが、その数はそれほど多くありません。昭和の戦後になってからのものには、般若心経が入っているようです。

1四国遍路 勤行法則pg

明治の遍路者は実際には、どのような仏前勤行を行っていたのでしょうか。
1902年(明治35)に遍路に出た菅菊太郎の巡拝記を紹介した「佐藤久光『四国猿と蟹蜘蛛の明治大正四国霊場巡拝記』岩田書院、2018」には、
「遍路者は、祈念文、懺悔文、三竟、三党、十善戒、光明真言、大師宝号、十三仏真言によって「一通りお勤が済む」が、丁寧な者は般若心経、観音経、真言安心和讃、光明真言和讃、弘法大師和讃などを唱える」

と書かれているようです。ここからは祈念文から十三仏真言までが「標準」で、般若心経を唱えるのは丁寧な遍路者に限られていたことが分かります。
お経をよむ|遍路道(歩き遍路ブログ)

十大正時代以降の仏前勤行は?
明治の仏前勤行は、般若心経が唱えられることはあっても一般的ではなかったようです。大正時代になっても状況は変わりませんが、研究者が注目するのが1910(大正9)に出された丹生屋隆道編『四国八十八ヶ所』です。この本の著作兼発行人は50番札所繁多寺の住職さんです。そして発行所は、四国霊場連合会となっています。ここにも「勤行法則」の中に、般若心経はありません。序文には、1918年の第6回四国霊場連合大会の決議によって、この案内書を作成したとあります。四国霊場連合会は、明治末年の1911年(明治44)に第一回大会を善通寺で開催して、活動を開始していたようです。そして、第一次世界大戦後の大正時代には、まだ般若心経は入っていないことが分かります。

昭和になると、安田寛明『四国遍路のすゝめ』のように仏前勤行に般若心経を含める案もありますが少数派です。そう言えば、山頭火などの巡礼記録を見ても般若心経は出てこない気がします。
それでは、いつから今のように般若心経が唱えられるようになったのでしょうか。それは、どうやら戦後になってからのようです。

白衣姿の遍路が登場するのはいつ頃から?
般若心経とならんで遍路の必需品とさえるようになった白衣は、いつ頃からのものなのでしょうか。真念の『四国辺路道指南』には、やはり白衣は登場しません。
1四国遍路 江戸時代の遍路姿

江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』や『中国四国名所旧跡図』(上図)に描かれた遍路者も紺、縞、格子の着物を着ているようです。
88箇所遍路

幕末に書かれた喜多川守貞の『近世風俗志』(『守貞漫稿』)には、四国遍路について、次のように記されています。
「阿州以下四国八十八ヶ所の弘法人師に詣すを云ふ。京坂往々これあり。江戸にこれなし。もつとも病人等多し。扮定まりなし。また僧者これなし」

 「扮定まりなし」とあるおで、決まった装束はなかったことが分かります。それは、明治に入っても変わりません。
愛媛県松山市野忽那(のぐつな)島の宇佐八幡神社に1884年(明治17)に奉納された絵馬には四国遍路の道中の様子が描かれています。男性が5名、女性が12名(うち子供2名)みえます。着物は、全員が縞模様や格子など柄物です。
1四国遍路 meizino 遍路姿

上の写真は、愛媛県西予市宇和町の山田大師堂に奉納された明治時代の四国遍路の記念写真です。これも全員が着物姿で白衣ではありません。このように、明治になっても遍路者は白衣を身につけていません。
白衣がみられるようになるのは昭和になってからのようです。
旧制松山高等学校教授の三並良は、
「青々した畑の間を巡礼が白衣でゆく姿がチラ/ヽと見え、鈴の音が聞える」
(三並良「巡拝を読む」『遍路』1932一九三二)
旅行作家の島浪男も
「お遍路さんに二組三組出会ふ。白い脚絆に白い手甲、着物はもとより白く、荷物を負ふた肩緒も白い」
(島浪男『四国遍路』宝文館、1930)と書いています。1936年(昭和11)に遍路に出た女性は、
「当時は先達以外に、白衣を着る人はいなかった」
(印南敏秀「戦前の女四国遍路」『技と形と心の伝承文化』慶友社、2003)と述べています。
「四国巡拝の手引」(1932年)に
「服装は平常着の儘にて、特に白衣などを新調する必要なし、但し白衣の清浄で巡る御希望ならばそれも結構です」

とあります。ここからは戦前は先達は別として、普通の遍路が白衣を着るのは珍しいものだったようです。




 戦後に社会が落ち着いてくる昭和20年代後半になると遍路に出る者が再び、増えてきます。
1953年(昭和28)に出された案内書『四国順礼 南無大師』(四国霊場参拝奉賛会)の「巡拝用品」にはまだ白衣はみえません。
岩波写真文庫の平均価格は511円|ヤフオク!等の岩波写真文庫のオークション売買情報は63件が掲載されています

1956年の岩波写真文庫『四国遍路』(岩波書店)には札所や遍路者の写真が数多く収められていますが、遍路者の約半分が白衣姿のようです。
1四国遍路姿 岩波

そして高度経済成長が始まる1960年代始めに出された案内書『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)には、
「四国は今に白衣姿が一番多く、次いでハイキング姿です」

と紹介されます。いよいよ白衣の流行の時代がやって来たようです。こうしてみると、白衣が普及するのは思っていたよりも新しいようです。昭和の高度経済成長時代に、貸切バスで先達さんに連れられた遍路の団体から流行が始まったのかもしれません。先達さんだけが着ていた白衣が、かっこよかったのかもしれません。あるいは、先達さんの勧めがあったのかもしれません。どちらにしても白衣も般若心経も案外新しく戦後になって定着したもののようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界 ちくま新書

石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
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 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

イメージ 3

  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
イメージ 4

鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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  四十七番の八坂寺と番外寺院徳盛寺は、衛門三郎の出身地争いをしています。
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衛門三郎は、はじめ悪人でしたが、のちに改心して四国遍路をした、四国遍路の開創だといわれている人です。衛門三郎は弘法大師にめぐり合って、弘法大師に看取られて死にました。焼山寺の麓にある銀杏の生えた庵で死んだということになっています。
 もちろん彼は架空の人物ですが、この伝承は弘法大師の辺路修行にお供をした者があるということを暗示しています。修行者はひとりでは何もできません。食べ物を用意してくれたり、行の準備をしてくれたりする人達が必要です。サポートする者としては、修行者に帰依してお供をする道心、修行者がかわいがっていた童子と呼ばれる(あるいは行場にいちばん近い村の人々などです。衛門三郎は道心に当たります。)
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 『弘法大師伝』の中に、室戸で弘法大師をサポートした者として愛慢愛語菩薩が出てきます。愛慢愛語菩薩は夫婦であるともいかれています。こういう者がもとになって、衛門三郎の伝承ができたのでぱないかとおもいます。 
八坂寺と徳盛寺が、衛門三郎をたがいに争っているのは、ちょっと頬笑ましいものがあります。八坂寺は、地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設を造っています。
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   八坂寺の本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代のものだということで、重要文化財に指定されていま すので、なかなか拝観できません。ここをまつったのは八坂氏という山伏と伝わります。

熊野十二所権現をまつったということですから、やはり熊野信仰がここに及んでいたことがわかります。松山に南から入ると、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺があり、一つ山を越えると繁多寺、町に入ると石手寺と六か寺が固まっています。西林寺もよくわかりませんが、浄土寺と並べて考えますと、浄土寺は西林山三蔵院浄土寺と西林を名乗っているので、あるいは両方がダブつているのかもしれません。どちらも周囲がすっかり開発されてしまいました。
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