瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国霊場一宮寺

一宮寺 現況境内図

 調査報告書によると、一宮寺には本堂・仁王門・大師堂・菩薩堂に合わせて48の仏さんたちがいらっしゃるようです。制作年代で分けると、平安時代1、鎌倉時代1、江戸時代46(台座のみ2点含む)となるようです。安政3年(1856)の「大宝院記録」でチェックしながらお堂ごとにみていきましょう。
一宮寺 見どころ - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 本堂
本尊の聖観音さまは、秘仏のため未開扉ですのでお目にかかることはできません。高松周辺の四国霊場には観音さまを本尊としている所が多いようです。戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いてきた承応2年(1653)に、四国辺路を訪れたのが澄禅の『四国辺路日記』承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
「社壇モ鳥居モ南向」と、札所は神社であったようです。お寺の姿は記されていません。
「四国遍路日記」には、「長尾寺」について次のように記します。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは「国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺・長尾寺」が「讃岐七観音」のネットワークを形成していたことが分かります。中讃の善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような観音霊場ネットワークがあったようです。しかし、そこに一宮寺は入っていません。どうしてでしょうか。疑問としておいて先に進みましょう。
 生まれたばかりの金毘羅大権現も、この時期には観音信仰の拠点を目指していた形跡があります。江戸時代初期の讃岐における観音信仰ブームがうかがえるようです。

 本尊脇侍には不動明王像と毘沙門天像がいらっしゃいます。
このふたつの天部の仏様は「大宝院記録」には「京都仏師赤尾右京」の作と記されるので、京都の仏師に依頼して作成されたもののようです。その依頼主は、高松藩初代藩主の松平頼重だったようです。延宝7(1679)年前後に、松平頼重は一宮寺の再興を行っています。本堂再興に伴いふたつの天部の仏様も発注されたようです。
 松平頼重の寺社保護については、政策的なねらいが隠されていることは、以前にも長尾寺や根来寺についてお話ししたときに触れました。この寺については、一宮神社(田村大明神)から、この時に分離させているようです。いわば「神仏分離」を行ったことがうかがえます。一宮寺は寺領などの寄進を受けますが、一宮神社の別当職は失ったのです。そして、四国霊場札所に専念することになったようです。こうして、現在地に本堂が松平頼重の手により再興(新築?)されることになったとしておきましょう。
 
 
香川県高松市「一宮寺」観光途中に立ち寄った巡礼第八十三
2 仁王門
「大宝院記録」には、仁王門の阿吽仁王像は「京都仏師赤尾右京作」と記されています。先ほど見た本堂の天部の仏達も「赤尾右京」でした。一宮寺再興の仏達を一手に引き受けて、一門で作ったことがうかがえます。同時に、この時期に一宮寺は新たに「新築=創建」されたとも考えられます。
一宮寺 仁王像
一宮寺 大師堂 - 高松市、一宮寺の写真 - トリップアドバイザー
3 大師堂
明治になって書かれた「大宝院記録」には大師堂は「祖師堂」と記されています。そして、そこには本尊の弘法大師空海像・金剛界大日如来像のふたつの仏像があったことを記すのみです。それが今では、いろいろな仏が安置されています。明治になってからやって来た仏のようです。「仏は寺勢の強い寺に移動する」の言葉通りです。
一宮寺 弘法大師座像

本尊の弘法大師空海像は、江戸時代中ごろの作のようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。

「大宝院記録」には厨子入りの薬師如来像があったことが記されます。しかし、これは今ある薬師さんとは違っていると研究者は次のように指摘します。

一宮寺 薬師如来像

 現存の薬師如来坐像(写真20)を見てみましょう。蓮華座に座り、輝く火炎に照らされた若々しい薬師さんです。
像底には次のような朱漆銘があります。
一宮寺 薬師如来像墨書

弘法大師の御作を讃州(讃岐)香東郡石清尾浄光院中興開基の阿閣梨増快が再興した像であると記し、延宝3年(1675)秋の年号があります。

香東郡石清尾浄光院とは、石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院のことです。そこからやってきた仏で「後世の移入像」のようです。この他、歓喜天像を納めている丸厨子底面にも石清尾浄光院の名前が記されています。これも「浄光院旧像」のようです。そして、この仏達には制作者の「赤尾右京法橋」のほかに「栄朝」「栄秀」「右衛門」などの仏師達の名前が記されているのです。
 
これをどう考えればいいのでしょうか。京都の「赤尾右京法橋」一門は、次のものを手がけていたことになります。
①一宮寺の本尊脇侍の不動明王像と毘沙門天像
②一宮寺の仁王門の阿吽両像
③石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院の歓喜天像丸厨子
さらに志度寺などの讃岐の有力寺院の造像にその名が見られるようです。名代の仏師として高松藩との関係が長く続いたことがうかがえます。「赤尾右京」は、松平頼重から信頼された「御用達仏師」であったようです。
どうして石清尾社神宮寺の仏達が一宮寺にやってきたのでしょうか。
明治の神仏分離政策は石清尾八幡神社の姿を大きく変えました。それまであった多宝塔や仏像も撤去されます。その際に、多くの仏像は関係寺院に分散して安置されたと研究者は考えているようです。
 愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
岩清尾八幡にあった愛染明王像を見てみましょう。
一宮寺 愛染明王像

 台座軸木を受ける材に「大仏師内匠」の墨書があり、作者仏師は佐々木内匠と分かります。
一宮寺 愛染明王像墨書

 松平頼重は、白峯寺像・志度寺にも愛染明王像を寄進していますが、それも「大仏師内匠」に発注したものであることが分かっています。
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像

これらと一宮寺の愛染明王像を比較して、研究者は次のように指摘します。
①一宮の像は獅子冠上の五鈷杵ではなく、反花座上の宝珠あるいは舎利容器であること
②腹前の右足首から垂れる裳端の表現が大きな撓みをあらわすことなく、通例的な表現に留まっていること
③獅子冠の獅子頭部には丈があり、前二像のやや扁平な感の強いものとは異なる造形感覚であるこ
④光背ホゾ部にみえる「一」が、もし造像の順番を示し、かつ石清尾八幡社神宮寺から移入された他像が存することを考慮すれば、本像も石清尾社に関わるものであることが考えられる。
そして、全体的な印象として
「白峰寺・志度寺の二像を圧するような迫力ある造形の印象は、原初像として風格に起源する」
と研究者は考えているようです。
  つまり、ここから分かることは
①松平頼重は京都の仏師「大仏師内匠」に愛染明王像を3体発注した
②それは石清尾八幡社神宮寺浄光院と白峰寺と志度寺に寄進された
③一宮寺の愛染明王像は、石清尾八幡社神宮寺浄光院のものが神仏分離の際に移動してきたものと考えられる
④しれは、3体の愛染明王像の中で最初に作られたもので、最も迫力を感じる作品である。
ということになるようです。京都で制作された愛染明王像は、どのようにして運ばれ、各寺院に納入されたのでしょうか。
高松藩の専用船が使われたのでしょうか
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。

この他にも大師堂には2つの不動明王がいらっしゃいます。
一宮寺 不動明王 平安期

ひとつは、平安時代後期のものと考えられる不動さまです(写真121、122、123)です。体部は「前後二材矧ぎで、頭部は後補」で、底面は塞がれていないので、足ホゾが前面材から両足とも刻み出していることが見えます。この不動さまも「移入された客仏」のようです。

もうひとつは鎌倉時代12世紀の不動さまです。
一宮寺 不動明王 鎌倉期

前代風をよく伝えるもので、頭体幹部を一材から彫りだしたもので、両足首から先を後補です。表情や穏やかな作風で、「優品の不動明王像の一躯」と評価されています。


4 菩薩堂
この堂は「大宝院記録」には「阿弥陀堂」と記されています。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来g

  この阿弥陀如来(写真126)の台座には「彫刻人 京仏工 赤尾右京亮 橘栄□」とあり、台座内には
「寛政四(1792)子年 九月 光孝天皇後胤 定朝法印三十一世也 赤尾右京亮作」

と記されいます。またしても「赤尾右京」に発注しています。世代を超えて、同じ工房に発注しているのは、それだけの信頼関係があったと同時に、「赤尾右京」が名代の仏師として評判もよかったことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来2g

この阿弥陀さまは、着衣のひだが流れるように深く刻まれています。顔立ちは鎌倉時代風で、イケメンです。「近世の佳作のひとつ」と評価も高いようです。
 菩薩堂には、この他にも五大明王像(不動明王像と軍茶利明王像を欠く)の三像がありますが、文化2年(1805)の制作年と仏師「京大仏師 赤尾右京」の台座内墨書が見つかっています。さらに仏師「赤尾右京」工房との関係が増えました。近世京仏師が、地方からの造像注文にどのように応えていたのか興味のあるところです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

 一宮寺周辺の「都市圏活断層図」
上の地図は一宮寺周辺の「都市圏活断層図」です。
地図上の東部(右側)に網掛けがされていますが、この部分が安定した扇状地上にあることを示します。一方、西側(左)は香東川の沖積低地になります。一宮神社(田村神社)や一宮寺は、この扇状地の端に立地していることが分かります。
一宮寺 香東川流路

一宮寺の西側約1 kmには香東川が北流しています。
香東川は近世初めまで一宮寺の南側の香川町付近で東西に分岐し、高松市北西部の紫雲山の東西で北流し現在の高松港付近から瀬戸内海に流れ出していました。近世初頭に高松藩主生駒家の客臣(藤堂高虎が派遣)の西島八兵衛により、東側の流路を堰き止め、西側に一本化したとされます。それ以後は香東川はほぼ現在の流路となったようです。
野原・高松・屋島復元地形図

 そのため流路が替わってもかつての川床にあたる一宮町、鹿角町、田村町などには多くの伏流水が地下を流れています。一宮寺の北東部にも「花ノ井」という出水があります。これらの出水を利用して、近世以降には、稲作を中心とする水田農耕が盛んな地域であったようです。
⛩田村神社|香川県高松市 - 八百万の神

  一宮寺のすぐ西には、扇状地と沖積低地との境があることを押さえておきましょう。
一宮寺 周辺遺跡図
地図はクリックで拡大します
 一宮寺周辺の歴史的環境を見ておきましょう
約1,7km南東の⑦百相(もまい)坂遺跡からは、弥生時代後期前葉の遺物が少量出土した溝状遺構が確認されていますが集落は確認されていません。約3km北方の③上天神遺跡や太田下・須川遺跡では自然河川や灌漑用の水路などが確認されています。特に上天神遺跡では朱を保管したと考えられる土器が、大田下・須川遺跡では壺形土器の頸部に鹿の線刻が施されたものが出土しているので、このあたりに大規模な集落があったことがうかがえます。
 古墳時代には、一宮寺よりも東側や南東側に、古墳や集落があったようです。れは西側が先ほど見たように香東川の氾濫原であったためでしょう。
 ⑨百相坂遺跡の南側の独立丘陵の山頂部には、全長51mの前方後円墳である⑩船岡山古墳があります。この古墳から出土したとされる到抜式石棺が地元の浅野小学校にあり、埴輪片も採集されています。また、船岡山古墳の丘陵から旧国道193号線を挟んで南東には、⑪船岡古墳があり、横穴式石室の一部とされる石組みが残っています。このように、古墳時代には地域の有力者の存在がうかがえます。
 古墳時代の集落としては、一宮寺の北東約1,5kmの⑤大田原高須遺跡で古墳時代後期の竪穴式住居や自然河川、灌漑用の水路と考えられる溝状遺構などが見つかっていて、大規模な集落があったことがうかがえます。これら古墳の主達の基盤とした集落と考えられます。また、④大田下・須川遺跡からも5世紀の須恵器を伴う竪穴住居跡などが見つかっていて、古墳時代に継続して集落があったことがうかがえます。
これらから一宮寺の東側の大規模な扇状地は、古くから開発の進んだ地帯だったと研究者は考えているようです。一宮寺が東側が扇状地、西側が沖積低地にあたり、いわば地質の変換点にあたる所に立地していることが改めて納得できます。
この地域を開いた首長墓と見なされる古墳群を築いたのは讃岐秦氏だと研究者は考えているようです。
秦氏の本拠地は「原里」で百相郷も含みます。中間郷も秦氏の重要な拠点で、『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の支配エリアであったようです。
 その秦氏の歴代の盟主墳墓が双方中円墳の船岡山古墳で、石枕付石棺が出土しています。また直径20mほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳(6~7世紀)

へと推移したと考えられます。
田村神社 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 
原郷には、秦氏によってまつられた田村神社(一宮)が鎮座します。
祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神です。その女神が「花の井」の出水で、祀られ豊穣の祈りが捧げられてきたのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力の高まりによって律令体制下では讃岐一宮に「格上げ」されていったと研究者は考えているようです。
ちなみに一宮寺は最初から田村神社の別当寺ではなかったようです。
 秦氏の氏寺として作られた古代の氏寺でもないようです。秦氏の氏寺は、別の所に建立されていたからです。百相坂遺跡の北側には舟山神社があります。この社殿南西部には、礎石と云われる大きな石が残っています。これが ⑧百相廃寺跡と云われ、奈良時代の複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦なども出土しています。この寺が秦氏の氏寺のようです。
船山神社 - 香川県高松市 - 八百万のかみのやしろ巡り
舟山神社境内にある百相廃寺の鐘楼跡碑と説明版

この百相廃寺が中世の神仏混淆の結果、一宮である田村神社と結び付いて神宮寺となります。先ほども云った通り、ここは今は船山神社ですが、地元では神宮寺の名で親しまれており、バス停の名前はいまも神宮寺のままです。田村神社の神宮寺(別当寺)は、もともとは百相廃寺であったことを確認しておきます。
船山神社 (香川県高松市仏生山町甲 神社 / 神社・寺) - グルコミ
舟山神社

 一宮寺縁起について
一宮寺は、真言宗御室派に属し、山号は神皇山、院号は大宝院。聖観世音菩薩を本尊とします。創建については、安政三年(1857)の『大宝院記録』(古文書・古記録 番外)や『四国霊場一宮寺大宝院興隆会設立趣意書』『順礼大師縁起』などがありますが、すべて近代以降のものです。その内容を概観しておきます。
①創建は奈良時代初期の大宝年間で、院号も年号を取って「大宝院」としたこと
②和銅年間に諸国一宮の整備に伴い、伽藍の修築などが行われたこと、
③弘法大師が滞在中にみずから聖観音を彫ったことから法相宗から真言宗へ改宗したこと
④戦国時代の天正年間に兵火により堂塔ことごとく焼失したこと
⑤その後中興の祖である宥勢大徳により、伽藍等が再建された
と伝えます。しかし、①②については古代瓦の出土もありませんし、一次資料も、遺物もありません。近世以前のことは分かりません。

 近世史料に見える一宮寺
 近世になり四国辺路から四国遍路へとリニューアルするに従って、中世のプロの修験者による辺路修行から、素人による札所巡礼に姿を変えるにつれて参拝者増え始めます。そして四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、一宮寺に関する記述が見られるようになります。
それらの大衆向けの巡礼パンフレットに一宮寺がどのように紹介されているのかを見ながら、伽藍レイアウトも見ていきましょう。
まず『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
夫ヨリ北エ二里斗往テ高松二至。ここハ松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石ノ城下也。此京兆(松平頼重)ハ水戸中納言頼房卿ノ長子也、家康公の為ニハ孫也。黄門舎兄ノ亜相ヨリ早誕生在リシ故、此京兆ヲ幼少ヨリ洛西ノ天龍寺ニ預ケ置テ世二披露シ玉ハズ、?ルヲ家光公聞及玉テ召出テ当国ヲ拝領也。
 京兆ハ成ノ年ニテ当年ハ三十一歳成ガ、中々利根発明ニテ政道二無レ私、万民ヲ撫育シテ下賤ノ苦楽ヲ能知り玉フト也。当国白峯寺以下ノ札所二旧記二倍シテ皆新地ヲ寄附セラル。当時ハ在府也。家老ハ彦坂織部ノ正、其外谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人老中評定衆也
 祈願所ハ天台宗喜楽院卜云、水戸ヨリ国道ニテ入国也。城下二寺ヲ立テ置ル也
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。
  意訳しておくと
一宮寺は社壇も鳥居も南向きで、本地は正観音である。
ここから北へ2里行くと高松に至る。ここは松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石の城下である。この殿様は水戸中納言頼房卿の長男で、家康公の孫にあたり、水戸黄門の兄である。黄門さまよりも早く誕生されたので、幼少の時に京都の天龍寺に預けて世間には披露しなかった。これを家光公が伝え聞いて讃岐高松領を与えた。京兆(松平頼重)は当年31歳になるが、中々利発で政道にも私心なく、万民を慰撫し、下賤の苦楽をよく知っているという。
 当国の白峯寺などの札所に、旧来の倍に当たるような寺領を寄進している。当時は江戸に参勤交替中で不在であった。家老は彦坂織部ノ正、その他、谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人が老中評定衆である。祈願所は天台宗喜楽院という。水戸から入国して、城下に寺を建立した。
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
澄禅の「四国辺路日記」の時代には、一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺になっていました。綾氏の衰退と共に氏寺の百相寺も廃絶したのに、代わったのでしょう。
 境内の記述は「社壇も鳥居も南向き」と田村神社に関する記述があり、神仏混淆の姿を自然に受け止めています。そして「本地正観音也」と一宮寺の本尊に触れるだけです。ここからは、本堂の姿は見えてきません。社殿に安置されていたのかとも思えてもきます。
 この時期は以前にもお話ししたように、阿波の霊場は本堂もなく仮堂に仏様の破片が積まれ、修験者や虚無僧が堂守として居住していた札所がいくつもあったことを澄禅は見てきています。彼は当事のエリート学識層で観察視点や表記はぶれません。一貫した記述です。そこからすると、この時代に本堂はなかったのではないかという「仮説」も出てくるように思います。
 同時に、当事の高松藩の情勢分析なども的確にされています。高松から屋島への潮の満ち引きによって変わる街道紹介も的確です。澄禅の知識人としての洞察力や表現力がうかがえます。

澄禅から約30年後にやってきた真念の『四国遍路道指南』(貞享四年:1687)には次のように記されます
七十三番一之宮 平地、堂はひがしむき。かゞハ郡一宮村。
本尊正観音立三尺五寸、大師御作。
詠歌 さぬき一の宮の御まへにあふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
是より屋島寺迄三里。但仏生山へかくるときハ、一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下へ行バ、一宮より屋島寺まで四里有也。
○かのつの村○大田村、八幡、標石有。○ふせいしむら、八まん宮.○まつなわ村、行て大池有、堤を行。○北村、三十番神宮有、過て小川有。○ゑびす村○春日村○かた本村。これより屋島寺十八町、坂、地蔵堂有。
意訳すると
七十三番一之宮寺は平地に、堂は東向きに建つ。香川郡一宮村にあり、本尊は正観音立で三尺五寸の弘法大師御作である。
詠歌 さぬき一の宮の御まへに あふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
ここから屋島寺までは三里。仏生山へ立ち寄るときには一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下を経由すれば、一宮より屋島寺まで四里になる。
○かのつ(鹿角)の村○大田村、八幡、の標石がある。○ふせいしむら(伏石村)、八まん(八幡)宮.○まつなわ(松縄)村、を行くと大池があり、その堤を通って行く。○北村には三十番神宮があり、そこを過ぎると小川がある。○ゑびす村○春日村○かた本(潟元)村に至ると、これより屋島寺は18町で、坂に地蔵堂がある。
 ここには「堂はひがしむき」とのみあり、東向きの本堂があったことが記されています。澄禅巡礼後に、このお堂が造られたのではないでしょうか。
 「大宝院記録」(安政三年:1857)には、延宝7年(1679)に高松松平家により、田村神社の第一別当寺を解職され、寺領を新たに寄進されたことが記されています。これは松平氏による「神仏分離」がおこなわれたことを意味します。他国の一ノ宮が、明治の神仏分離で別当寺が切り離されたのに対して、近世初頭に「神仏分離」が行われていたとも云えます。その際に、高松藩初代藩主の松平頼重は寺領を与えると同時に、一宮神社の隣接した現在地にお堂を建立したとも考えられます。
松平頼重の宗教政策をいくつか挙げると
①金毘羅大権現の保護育成と朱印領地化、そして全国展開支援
②菩提樹としての仏生山法然堂の建立と保護
③高松城下町の鎮守岩瀬尾八幡の保護
④真宗興正寺派との姻戚関係と連携保護
⑤根来寺・長尾寺などの天台宗改修と保護
これらには政策的・戦略的な狙いをもった宗教手段が執られていたことがうかがえます。一宮と一宮寺の分離にも、何かしらの思惑や政策的なねらいがあったはずだと穿った見方をしたくなります。
寂本の「四国遍礼霊場記」(元禄二年:1689)を見てみましょう
蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪年祀久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号す、即猿田彦の命なり。
或は人王第七孝霊天皇の御子とも云、貞観九年御位をすゝめらる。宮は寺の前別に屋敷を構へたり。松樹しげく、木立物ふりにたり。左に花の井といふ名水あり。寺の本尊聖観音立像長三尺五寸.。寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。
意訳しておくと
当寺の歴史は久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号し、猿田彦命を祀っている。
あるいは人王第七孝霊天皇の御子とも云い、貞観九年御位している。宮は寺の前に別に屋敷を構へている。松の樹が繁り、木立が覆って鎮守の森となっている。左に花の井といふ名水(出水)がある。寺の本尊は聖観音立像長三尺五寸。境内には別に稲荷社があり、前に鐘楼もある。
一宮寺 寂本の挿絵見取図
  寂本の挿絵見取図を見てみましょう。
「寺の前別に屋敷を構えたり。」とあるとおり、田村神社(田村大明神)の境内とは別に一宮寺の境内が整えられてきています。また、「寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。」とあるとおり、境内には本堂(大宝院)の他に稲荷社があり、鐘楼が描かれています。
もう少し詳しく見てみましょう
①一宮寺には田村大明神(田村神社)との間に道があり、門は2ヶ所に設置され、南側の門の方がやや広いようです。これが現在の仁王門のようです。
②大宝院と書かれた建造物が東向きなので、これが本堂のようです。
③その北側と南側にも建造物がありますが、これについては、なにも記述はありません。
④境内南東部に稲荷と注記のある祠があるので、これが稲荷社と分かります。
⑤その前面灯籠に挟まれた建物がありますので、これが鐘楼のようです。
⑥境内の塀は竹垣のようで、土塀のようなものはありません。それに比べて、田村神社の周りの塀は立派なように見えます。高松藩の田村神社と一宮寺への「格差政策」のようにも思えてきます。
⑦田村大明神北西隅の外側の一官寺との間の道沿いに小堂があり、花ノ井と書かれています。これが花ノ井出水のようです。
 ここからは田村神社と一宮寺の全体的なレイアウトは、現在と変わらないことが分かります。しかし、一宮寺境内に今ある御陵などの石造物や地蔵堂や菩薩堂は、描かれていません。この時期には、まだなかったとしておきましょう。
3『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)
八拾参番一之宮 蓮花山大宝院
香川郡一宮村 屋島へ三リ、仏生山へまわりて五リ
詠歌 さぬき一の宮のみまへにあふぎて神の心をたれかしらゆふ
本社田村大明神、祭神猿田彦命、宝蔵、本堂本尊聖観音立像 御長三尺五寸、大師の御作、大師堂 方丈の脇にあり。
一の宮町、此所にて一宿.
二十三日 雨天出立 仏生山町、一ノ宮より是迄十八丁。惣門、十二堂、蓮池、仏生山
法然寺、釈迦堂 本尊の涅槃 大師像仏也 常念仏也 上にあり 諸堂多し。是より八島迄三里余、片本村、此所二て一宿。
二十四日 雨天出立 潟本村、此所より八島迄十八町。庵麓にあり 平杖泉  坂半ばにあり、大雨に濁ず 水に不増不減なし くわずの梨子 泉の次にあり 深き古事あり、畳石 薄き石たたみの如し、故号す、念仏石 大師御彫刻の六文字梵語あり 仁王門南面山と額有り、南谷の筆なり。

「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)の挿図を見ていきましょう。一宮寺 四国遍礼名所図会1800

一之宮(田村神社)との間の道に建屋に連続するように門が描かれ、道沿いは土塀で、その他は柵でうなもので囲まれています。
①仁王門から入ると、正面奥に東向きの本堂と思われる堂があります。
②その南側(左)には鳥居と小さな祠があり、稲荷社のようです。
③境内の北側には比較的大きな建物が3並んであります。最も本堂に近い位置にある小堂は、本文に「大師堂方丈の脇にあり」とある大師堂のようです。その他の建物は、本文に記載がありません。④は鐘が吊されているようなので、位置的にも鐘楼のようです
その他は、書院や庫裏など一宮寺の経営を所管する施設としておきましょう。

田村神社については、松並木の参道が南へ伸び、鳥居も南側の街道沿いにあります。鳥居の近くには狛犬も立派な灯籠も見えます。このころには現在と同じように、南側を通る街道からの参道が整備されていたことが分かります。


一宮寺には安政三年(1857)に高松藩へ提出した「真言宗香川郡一ノ宮村大宝院記録」という文献が伝わっています。
 当時の境内にあった建造物や所蔵什物の一覧で、二部以上作成し、一部は役所へ提出し、残りは控えとして保管されていたようです。今は原本は行方不明で、昭和時代にコピーされたものが一部残っているようです。そこには安政三年段階の建造物として、次のようなものが挙げられています。
本門(仁王門)、本堂、阿弥陀堂、祖師堂(大師堂)、稲荷明神
稲荷社、地蔵堂、薬師堂、鐘楼堂、茶堂、書院、庫裏、大蔵、納屋、路次門、建家
 このうち地蔵堂と薬師堂はなくなり、その本尊であった地蔵菩薩と薬師如来は、本堂におさめられています。茶堂、大蔵、納屋、路次門、建家は今はありません。石造物として孝霊天皇石塔と宝医印塔という記載がありますから四国遍礼名所図会が描かれた寛政12年から安政3年までの間に、これらの石造物が移設されたようです。

 棟札等から見える一宮寺の空間構成
一宮寺には本堂の修繕と客殿の建立の棟札2点が残されています。す。これによると、本堂は明治34年(1901)7月に修繕されているので、それ以前の建立だったことが分かります。修繕にあたっては、檀家衆が講を組織して援助しています。また、客殿は文久三年(1863)2月16日の幕末に建立されたことが棟札に記載されています。しかし、安政三年(1857)の大宝院記録には客殿についての記載がないので、この時に新規に建立されたもののようです。建立にあたっては、寒川郡鶴羽村(現在のさぬき市津田町鶴羽)の大工が施工していることが分かります。

ここまでをまとめて研究者は、次のように指摘しています
①一宮寺の縁起では、法相宗の寺院として大宝年間に創建され、田村神社の別当寺として伽藍が整備されたのを、弘法大師がやってきて本尊が安置された際に真言宗に改宗されたとします。これは、他の札所と同じように、江戸時代の大師伝説や大師信仰の高まりが背景にある
②一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺として機能していた。近世初頭までは他の一ノ宮と同じく、一ノ宮が札所であった
③しかし、一宮寺所蔵の「大宝院記録」では、延宝七年(1679)に高松松平家により別当寺を解職された。田村大明神(一宮神社)の管理からは切り離され、札所寺院として機能するようになった。
④このことは、他の一ノ宮の状況とは異なるもので、四国遍路の中では特異な例です。結果的に、明治の神仏分離の影響を最小限に抑えることができた「一宮寺」と言える。
⑤明治維新後は、他の札所と同様に経営状態が厳しい時代もあり、 曼茶羅寺や善通寺の影響を多く受けた。
一宮寺 建造物変遷表
 現代の一宮寺
現在、一宮寺は、上の表の通り境内には仁王門、手水、鐘楼、本堂、大師堂、納経所などの施設のほかに、平成18年(2006)に新たに建立された護摩堂が本堂の北側にあります。本堂の南側には稲荷堂という小さな祠がありますが、これは近世の絵図に描かれていた稲荷社です。境内の南側には小規模の庭園があり、中島を巡るように池が設置されている。中島には凝灰岩製の中世の石塔がありますが、いつごろからこの場所にあったのかについては分からないようです。
一宮寺 現況境内図

現在の一宮寺の諸堂の建立年を見ておきましょう。
仁王門は明治9年ごろ
大師堂は大正年間
大師堂の裏側の相の間及び礼堂は昭和30年
境内南西にある菩薩堂は昭和3年
多くは、近代以降に整備されたものです。境内に南端のコンクリート製の建造物は三密会館と呼ばれ、各種会合や講座等を行う会場として利用されていますが、元々は宿坊として建てられたものののようです。
一宮寺と遍路
記録によれば、境内の建造物の一つとして
「藁葺一建家壱軒(桁行五間/梁行弐間壱尺)
但し四国順拝之遍路共江近村ろ接待仕候節、貸渡候、尚又遍路共寺内等二而、俄二相煩申候節、先不取敢相休せ、急難ヲ相救申候場所二引除申候」

とあり、遍路のための接待施設があったようです。
ほかにも、鐘楼そばの墓地には「一心法印」という墓石があります。裏側には「石州遍路」と刻まれているので、石州から遍路に来た僧侶の墓であることがわかります。
 今まで、私はこの寺を明治の神仏分離で、一宮神社から分離されたものと思い込んでいました、そうではないことが分かりました。感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

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