瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国霊場大窪寺


四国霊場の結願寺である大窪寺本堂に安置される本尊、木造薬師如来坐像は20年ほど前に修理が行われ、その際に学術調査も実施されようです。その報告書には修理前と修理後の姿が載せられています。
3大窪寺薬師如来坐像1
大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
この姿を見てまず思ったのがなにか飛鳥仏のような感じ・・・
それと右手の指が折り曲げられて「おいでおいで」をしているように私には見えました。それと、座高が高そう、逆に言うと頭が小さいのでしょうか、胴が長いのでしょうか。
全体から受ける印象は、明るく、田舎っぽく、のほほんとして感じです。見ていると何となくほのぼのした気持ちにさせてくれます。
こんな印象を受けるお薬師さんの調査報告書を見ていきます。
1 基礎データ 総高 170,8㎝ 像高89,3㎝
2 本体、カヤ材  螺髪、ヒノキ材。
3 構造 一木造り、彫眼。
 報告書は「本体材は、半径70㎝以上の丸太を十文字に四分割した「四分一(しぶいち)」材であると云います。このお薬師さんは、左腕の前腕部をのぞくと、その他の部分は、縦一材から掘り出されたものだということです。右手も、後から付けられたものではないのです。頭や胴と一緒に、一つの木から掘り出されたようです。4等分した材から、生み出されたのですから直径140㎝以上のカヤの大木ということになります。

 そして、この仏さんは大手術を受けているようです。
「両脚付け根より少し上の位置で胴部を輪切り
にされているというのです。切目は「正面では腹部下寄りから左袖口(地付きより一五・六㎝の高さ)」の所にあるようです。どうして?
 疑問は置いておいて、前に進みます。
4大窪寺薬師背面
         大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
 後姿を見ると、肩から背中に、虫に食べられた穴が至る所に見えます。修理では、虫穴をふさぐとともに、虫損を受けてへこんだ彫刻を、木屎漆で補足したようです。

4大窪寺薬師底面

 底を見ると、平ノミで平らに削られています。寄木造りでなく、一木造りなのがよく分かります。 中央に円穴(直径八・二㎝、深さ1・0㎝)が開けられています。何のためなのでしょうか? これもよく分かりません。

4大窪寺薬師頭部
      大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)

それでは、専門家の解説を聞かせてもらいましょう。
 本像は、頭部が小さく、上半身の伸びやかな体つきを示す。
両肘の左右への張り出しは小さく、ポーズにはいくぶん硬さも感じられるが、上半身を反り気味にして胸を張った姿勢には威厳がある。肉身部・衣部ともに彫刻面の抑揚は少ないが、肉身部は要所を彫り込んで、引き締めている。
   肉馨は低く、螺髪の額へのかぶりも少ない。
面貌は、眼瞼裂を少しうねらせ、口もとを引き締める。その表情には、端厳な趣とほのぼのとした明るさが感じられる。顔面の造形は、曲面と曲面の境目を明瞭に区切った硬い彫り口を示す。
両目は、まぶたのふくらみがごく少なく、目頭では浅く彫り出された上下の眼瞼裂が重なり、蒙古裴があらわされる。
鼻は、角のたった硬い形が印象的である。鼻梁は下端まで平らに削られ、その左右の稜線は眉の稜線とつながる。プロフィールでは、鋭角に尖った鼻先と、下唇を突き出した「受け口」の輪郭が印象的である。

4大窪寺薬師側面
 
 本体と共木より彫出された右手も、特徴的な形を示す。
一般に如来像の右手は、掌を正面に向けて立て、全指を伸ばす形にあらわされることが多い。これに対し、本像の右手は、第二指以下の指先をほぼ直角に揃えて屈し、第一指も少し前方に差し出して、手のひらの前の小空間を包み込むような形にあらわされる。手のひらも厚く、手指も太く、重たげな造形を示す。
着衣は、肉身に密着するように、総じて薄手にあらわされる
背面では、左肩より垂れる袖衣末端部に、左肘の出をあらわしたとみられるコブ状の隆起がつくられる。しかし、この隆起は、左側面から見ると、左腕の輪郭より後方に位置しており、左肘とは関係しない不思議なふくらみになっている。そこに、肉身どこれを包む着衣との関係を現実的にあらわそうとする意識をもちながら、それを合理的な立体に表現しきれなかった、作者のジレンマが看取される。円錐台状に裾を拡げた脊部の造形にも、同じような不自然さを指摘することができよう。
   衣部の彫刻面は、総じて起伏が小さい。
衣文の断面には丸みが少なく、平坦な段差状の表現が目だつ。ことに右肩や背面では、圭角だった硬い表現がみられる。これに対し、腹部や両脚部では、やや角を丸めた段差状の衣文線と、稜線を立てた衣文線とを交互に配した衣文表現がみられる。
4大窪寺薬師正面
修理を終えて新しい台座に座った薬師如来

全体を押さえた上で、自分流に今度は見ていきます
やはり、頭は小さいようです。全体のバランスから見てもそう見えます。お顔の特徴は鼻です。
①「鼻梁を平らに削り、その左右に両眉り続く稜線を立てる鼻の形」②「おいでおいで」の右手
は、法隆寺の銅造観音菩薩立像(伝金堂薬師如来脇侍、月光菩薩)など、飛鳥時代後期に同じような特徴を持った仏さんがいらっしゃるようです。第1印象として飛鳥仏のようだと感じたのは、的外れでもなかったようです。
 このお薬師さんの特徴的な鼻や右手のスタイルは、当時の法隆寺再建期(670~711年)に造られた「童顔童形」像と似ている所があると研究者は考えているようです。
 その一方で
「頭が小さく腹部を引き締めた体つき、胸を張った堂々とした姿勢、肉身の起伏を意識した着衣の表現」

などは、薬師寺金堂の銅造薬師如来坐像など天平時代(710~784年)の仏たちにも似ているとします。つまり、この仏さんは全体として天平様式を基礎にしながら、細かいところは飛鳥時代後期から天平時代後期にかけてのさまざまな要素を含み込んでいると研究者は考えているようです。

 このお薬師さんは、カヤの大木が使われています。
奈良の都では、針葉樹を使った木彫像は唐招提寺の天平後期の仏像群のように、8世紀後半からあらわれるようです。そんなことも考え合わせると、この仏さんが造られたのは、8世紀半ば以降になるようです。讃岐の豪族たちが次々と氏寺を建立し、聖武天皇が国分寺建設に取りかかる時代です。その時代に、讃岐の地で造られた
「部分的に飛鳥の雰囲気を残す、保守的な作風」

を残す仏さんと云えるようです。
 そのためか、着衣の一部には不合理な表現ありますが、顎を引き、胸を張って威儀を正した姿にもかかわらず、明るくのどかでおおらかな印象をうけるのでしょう。
4飛鳥仏ぽい地方仏

 このお薬師さんのもつ「保守的な作風、明朗な雰囲気、段差状の硬い衣文表現」とよく似たものを探すと、多田寺(福井県)の十一面観音菩薩立像(図5)や円満寺(和歌山県)の十一面観音菩薩立像(図6)があるようです。これらも地方で造られた仏たちです。

どうして「大手術」されたのか
 この仏は「縦一材の一木造り」です。それが胴部を輪切りにされていることは最初に触れました。切断面は、写真では見えませんが左袖口を通り、胴部を一周しているようです。研究者は、次のような理由を挙げます。
 ①切断面を境に、上半身の向きや傾きを調整する
 ②切断面を削り込んで、上半身の長さを短縮する
 ③切断面より像内にある節や枝などを除去する
 ④切断面より像内に小空間を設け、像内納入品を納める
 ①②は外観上のことです。③④は内部構造に関わる理由です。頭が小さくて、胴が長すぎるためバランスをとるために切断したというのが私の仮説なのですが、それも今となっては分かりません。

このお薬師さんの伝来は?
  最後に、この仏がどうして大窪寺にいらっしゃるのかを考えておきます。
まず、最初に考えられるのが「伝来説」です。
この仏像が造られたのが奈良時代の8世紀半ば頃とすると、それは讃岐に山岳密教寺院が姿を現す前になります。大窪寺が姿を現す以前に、このお薬師さんは作られていたことになります。どこかの氏寺に本尊としてあったものが、後世の大窪寺の隆盛の中で伝来したことが考えられます。つまり、この仏は大窪寺のために作られた仏ではないことになります。
もうひとつは、大窪寺の起源を8世紀半ばまで辿れるとすることです。まんのう町の国指定中寺廃寺は、空海の時代に活動を行っていたことが発掘調査から分かってきています。同じように、大窪寺もその時代まで遡ることが出来れば、本尊薬師如来は建立以来のものとすることができます。それが可能かどうか見ておきましょう。
①本尊の薬師如来が、奈良時代後期か平安時代前期とみるれること
②弘法大師所持の伝来を持つ鉄の錫杖も、平安時代前半期に遡ること①②を、大窪寺の創建時期のものと考えると、空海の山林修行時代と同時代のものとなります。この他にも阿弥陀如来立像は11世紀、四天王像四体は11世紀末頃の作と見ることができるようです。
 以上からすると大窪寺は、平安時代初期には、かなりの規模の山岳寺院であり、平安時代後期には、さらに発展していたと考えることは出来そうです。
この大窪寺の伽藍の立地をみると、寺の背後には大きく女体山が迫っています。そこには行場であった窟から形成された奥院があり、蔵王権現なども祀られています。澄禅『四国辺路日記』には、
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。是も昔は七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同法螺在り.同大師五筆ノ旧訳ノ仁仁王経在り、紺紙金泥也。

とある。また寂本「四国偏礼霊場記』には、
此寺は行基吉薩ひらき給うふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給へり。本尊薬師如来座像長二尺に大師作り玉ふ。阿弥陀堂はもと如法堂也。
(中略)多宝塔、去寛文の初までありしかど壊れれたり。むかしは寺中四二宇門塙を接へたりと、皆旧墟有。
(中略)奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のはる。本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独鈷をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。また大師いき木を率都婆にあそばされ、また字もあざやかにありしを、五十年以前、野火ここに人て、いまは木かれぬるとなり¨(以下略)

とあり、七常伽藍が整い、四十二宇もある大寺であったが、現在(元禄時代)では、その多くが旧蹟を残すのみであると記します。そして本堂から十八町の所に奥院があり、弘法人師が求聞持を修したところであるとします。
 さらに大窪寺には、江戸時代前期ころに描かれたとみられる「医王山之図」が残されています。図を見ると、右下部に大門が描かれ、上に向かうと中門四天王に・御影堂・鏡楼・経堂・毘沙門堂・阿弥陀堂・大塔・塔・孔雀堂が続き、薬師堂(本堂)に至たる緒堂が描かれます。その右にもおびただしし数の堂宇が描かれている。これは子院を表しているようです。これだけの僧侶(修験者)がいたことになります。
 図の上部は山岳部であるが、そこには『四国遍礼霊場記』に記されていた独鈷水、奥院とともに弁才天、蔵王権現、青龍権現が山中に散在しています。これは江戸時代以前の大窪寺の景観を示しているようです。
 ここには背後の山に、奥院をはじめとする蔵王権現、青龍権現などが祀られ、さらに岩窟も描かれていることです。これは大窪寺が山岳修験の修行の場であったことを物語っています。女体山という呼称も、栃木県男体山との対比が連想され、いかにも山岳宗教の霊山であることを主張しているようです。
 残された遺物などと併せて考えると、山岳修行の地として弘法人師の時代まで遡ることができると研究者は考えているようです。

 そんな説を読みながらもう一度大窪寺の薬師如来を見ていると、ウルトラマンに見えてきました。ウルトラマンは仏像のお顔を模したものと聞きました。飛鳥仏と天平仏がミックスされたような讃岐で作られた薬師如来坐像が大窪寺にはあります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 松田誠一郎    大窪寺本尊の薬師如来坐像について
       香川県歴史博物館 調査報告書第三巻2007年

 奥の院の行場から発祥した寺イメージ 1


この寺には結願によってあげられた松葉杖とか金剛杖、笈、あるいはギブスなどがたくさんあります。結願寺とは、遍路の間に使ったものを全部そこに納めて帰るところです。巡礼・遍路の間に身につけたものを全部そこに置いて帰ります。
大窪寺の歴史はよくわかりません。
『四国領礼霊場記』の縁起によると、行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりの縁起になっています。本尊は弘法大師が作ったということになっています。薬師如来です。
 奥の院の岩窟は、崩れたものとみえまして、奥行きはあまり深くありません。現在は、女体山に伸びる「四国の道」が通っており、ハイキングコースとしても親しまれています。女体山からの高松側の景色は絶景です。この山も岩場が多く行場になりそうな所がいくつもあります。
 弘法大師が、ここで求聞持法を修行したと伝わります
地理的な条件からいって、弘法大師が阿波の大滝嶽、あるいは土佐の室戸岬で求聞特法を修行したこととあわせて考えると、弘法大師が帰省するのは善通寺ですから、善通寺から阿波の大滝嶽、そこから土佐の室戸岬に行くにはどうしてもここを通らなければなりません。したがって、お寺の発祥は修行者が奥の院を開いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本堂を建てた。
『四国損礼霊場記』には「大師 いき木を卒都婆にあそばされ」とあります。
その後の歴史はまったく不明です。

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最初から結願所というわけではありません。

八十八か所の結願寺になっていますが、最初からそうであったのではありません。特別の意味があるとは考えられません。
 元禄年間に高野山の宝光院主の寂本が『四国遍礼霊場記』を書いた時には、讃岐一国については善通寺か1番で、大窪寺を二十五番の結願寺としています。
 『四国損礼霊場記』は、ここは四国全体のではなくて、讃岐の結願寺であり、四国全体の結願書ではないと断っています。このように大窪寺の結願寺は絶対的なものではなかったのですが、現在はここが四国霊場の結願寺となっています。
 
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 山岳寺院として盛んな時代があったらしく、東西南北に数十町を隔てて山門跡

多宝塔も寛文年間の初年までありました。寺中四十二坊があったといわれています。中世にこの寺を外護したのは寒川郡の郡司藤座元正と国司古家公とされていますが、時代、伝ともに未詳です。どういう人物であるのか、よくわかりません。 
お堂は江戸時代初期の本堂が正面上壇にあって、吹放の礼室と中段と奥殿からなっています。
かなり念入りなお堂です。奥の多宝塔に薬師如来の本尊があります。ただ、参拝するところは吹放の板敷で、真ん中が外陣に当たる中殿といっているところです。
三段構えになっているのは非常に珍しい例です。

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奥殿は二層の多宝塔で、その中の薬師さまは薬壷のかわりに法螺貝をもっています。

これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。阿弥陀堂があります。これも向かって左にあって、阿弥陀像が根本本尊です。
 奥の院の本尊は阿弥陀。それを下ろしてきて本堂としたのが阿弥陀堂です。奥の院はいつでも発祥になりますので、奥の院の本尊が下におりたとすれは、やはり阿弥陀堂が根本です。また、本坊を遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。いろいろの坊やお堂が分離併合されて、現在の堂宇になったものとおもわれます。

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 奥の院は、大窪寺入口の左の山道を十五町ほど登った小さな平地にある岩淵で、一間と二間の内陣に三間四方の外陣を張り出してあります。平地は不等辺三角形の三十坪ぐらいで、多くの石仏があります。内陣は半は淵内にあって、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。
 行場と修験道者の姿が濃くうかがえるお寺です。

五来重:四国遍路の寺より

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