瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国霊場大観

八坂寺境内図1
八坂寺伽藍

現在の八坂寺の伽藍は、次のように5つのエリアに区分できます。
①遍路道から山内までを含む導入空間(A区)
②本堂や大師堂、熊野十三社権現堂等の建ち並ぶ参拝空間(B区)
③庫裡・納経所が建ち並ぶ経営空間(C区)
④歴代住職墓を含む墓域(D区)
⑤本堂等の背後の広範囲にひろがる霊園区域(E区)
A区の遍路道は、緩やかな登り坂となっていて、山門前で遍路道を横切るように流れる小河川の上にはコンクリート製の橋がかかります。

八坂寺 クチコミ・アクセス・営業時間|松山【フォートラベル】
八坂寺山門

この橋を基礎として東西に長い単層式の山門が建ちます。山門左右には道標が1基ずつ並び、左は明治23年建立、右は紀年銘はありませんが、碑文から「徳有衛門道標」であり、江戸時代後期の建立とされます。
四国霊場第47番札所・八坂寺 | きっといつかは全国制覇!郵便貯金の旅
八坂寺 石段下からB区を見上げた景観

B区は山門から続く石畳の参道を約20m進み、2つの石段を登った先に広がる本堂などが建ち並ぶ平坦部です。ここは地形状況から、さらに3つに小区分できます
①本堂や大師堂の建つ平坦部B1
②平坦部B1の東側の低い位置にある鐘楼が建つ狭小な平坦部B2
③平坦部B1・2の南側の「いやさか不動尊」の鎮座する平坦部B4
①のBlは南北に長い長方形の敷地で、北から熊野十三社権現本殿・拝殿、本堂、閻魔堂、大師堂が並びます。また、多くの石造物が配されており、中でも大師堂眼前の層塔は鎌倉時代のもので、松山市有形文化財にも指定されてます。

 平坦部内の最も奥まった西端付近に造られた基壇の上にいやさか不動尊が鎮座してます。これは修験の寺として栄えた八坂寺特有のエリアで、毎年4月には全国から修験者が集まり、「柴燈大護摩供火生三昧火渡修行」が行われる場所です。

第47番霊場八坂寺炎の大祭2019 : 門前の小僧の遍路と坂本屋日記
八坂寺 いやさか不動尊
C区は、納経所や便益施設などが建ち並ぶ経営空間です。
ここは2つに区分できます
①参道の北側に広がる納経所等の建つ平坦部C1
②大部分が駐車場となっている平坦部B3
平坦部C1は、南北に長い長方形で、南北約26m、東西約20m、そのほとんど全体を納経所が占めています。
D区は参道を挟んで南側に位置する歴代住職墓等が安置される墓域です。
平坦部全体に歴代住職墓が建ち並んでいますが、中世の宝医印塔も鎮座し、市の指定文化財となっています。
E区は本堂等の背後に広がる広大な霊園区域です。背後の丘陵を大きく切り開き、いくつもの平坦部を造り出して霊園としていています。霊園からは松山平野南部を一望することができ、天気が良ければ浄土寺方面まで見渡すことができるようです。現在の八坂寺の伽藍を見てきました。
次に八坂寺の古景観を復元してみましょう。
八坂寺の古景観を描いた絵図は、次の2つです。
①元禄2年(1689)の『四國偏礼霊場記』    江戸時代前期、
②寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』  江戸時代後期
①の『四國偏礼霊場記』から見ていくことにします。

八坂寺 四国遍路日記1
これを見ると現在の八坂寺のとは、大きく異なっています。ここに描かれているのは、本堂と鎮守、鐘楼堂だけです。それ以外の建物はありません。大師堂もありません。もう少し詳しく見ていきましょう。遍路道から橋を渡って続く参道の正面にあるのは「鎮守」です。本堂はそこから離れた左方に描かれています。鎮守と本堂を比べて見ると、大きさからしても、建っている位置からしても、八坂寺の中心的な施設は、鎮守であったことがうかがえます。この鎮守は八坂寺の性格からしても「熊野十二社権現」でしょう。ここには二十五間の長床があったとされます。しかし、「大師の遺烈きこゆることなし」とあるので、八坂寺の退転時期の姿が描かれているようです。先ほど見たように、境内の入口には橋を土台に山門が建っています。この絵にも、同じく小河川が流れて、板橋がありますが山門はありません。板橋の右下には「□(本?)坊」があります。

次に江戸時代後半の『四国遍礼名所図会』を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍礼名所図会1800年

境内には上下に2つの平坦部があます。上段に②熊野権現と③大師堂と④石造物4基が描かれています。このうちの層塔は、今も大師堂横に鎮座する市指定有形文化財の層塔とされます。『四國偏礼霊場記』で、本堂のあった所に大師堂が建っています。一方で、今は本堂がある平坦部の中心には、鎮守(熊野権現社)が鎮座しています。本堂周辺の建物配置は、現代とは大きく違っていたことを押さえておきます。
 下段の平坦部の中心付近には鐘楼堂があります。その他の建物はなにも見えません。ただ右端に建物屋根の一部が見えます。これが⑥庫裡などの施設かもしれません。平坦部から続くやや長い石段を降ると、参道を横切る小河川に⑤石橋が架かっていますが、山門はありません。どちらにしても、この小川にかかる橋が、遍路道と境内域の境界であったのは間違いないようです。板橋の先には⑦藤棚が描かれ、その先には門を構え、土塀によって区画された敷地の内部に建物が描かれています。江戸次第初期の『四國偏礼霊場記」で「□坊」とされた付近です。本文詞書に「南光院」と記されているので、八坂寺に関係する子院のようです。伽藍背後には2つの山の連なりが描かれ、谷には「鉢クボ」と記されています。これは衛門三郎の御鉢を砕いたとされる「鉢クボ」が記されています。この時期には、八坂寺が「衛門三郎発心の聖地」を主張するようになっていたことがうかがえます。

 現在の境内と異なる点を、研究者は次のように挙げます。
①江戸後期までの絵図では「熊野十二社権現」が境内の中心に描かれること
②現在は本堂が中心へと変わり、熊野十二社権現は向かって右手に移動していること
③大師堂と熊野十二社権現の間にあった石造物群も現在は大師堂前に移設されていること
④古絵図では鐘楼堂と庫裡が同一平坦部の上にあるが、現在は、鐘楼堂は本堂等のすぐ下の狭い平坦部に、庫裡等はさらに一段下の平坦部にある。

 このような変化がいつ頃に現れたのかを、古写真から見ていくことにします。
『四国霊場名勝記』は明治42年(1909)に刊行された遍路記集です。

八坂寺 明治

これには八坂寺の石段下から撮影された写真が掲載されてます。写真中央の石段を登りきった所に左右一対の灯籠が建ち、その奥に熊野十二社権現が写っています。その右には、建物がわずかに写ってます。また、十二社権現の左には大師堂と思われる瓦茸の建物が見えます。

大正十年(1921)刊行の写真集『四国八十八ヶ所写真帖 完』を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年

一番手前が大師堂が位置し、次に熊野十二社権現、一番奥に小規模なお堂と、三棟の建物が並んでいます。大師堂前には一対の円柱状の寄付石が見えます。大師堂は現在よりもかなり東側にあるようです。その向拝の形は、今の大師堂とよく似ていることを押さえておきます。

昭和11年(1936)刊行の『四国霊場大観』には、2枚の写真が掲載されています。
八坂寺一二社権現

1枚目は熊野十二社権現を正面から撮影したものです。この写真からは次のことが分かります。
①熊野十二社権現は茅茸建物
②写真下部に、参道の石段が写っていること
③写真左端に、大師堂前に建つ寄付石が写っていること
②からは1936年時点でも、十二社権現が、石段を登りきった正面に鎮座していたこと
③からは大師堂は写っていないがこれまでと同じ位置にあったこと。

2枚目は「本堂」の写真です。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂 1936年
十二社権現や大師堂に比べると、やや小ぶりな瓦葺のお堂です。向拝部の下に、石製の線香立てがあるのが確認できます。写真左端には茅葺の熊野十二社権現の茅葺きの屋根が写り込んでいます。ここからは、『四国霊場名勝記』や『四国八十八ヶ所写真帖 完』で熊野十三社権現右側に写っていた建物が本堂であったことが分かります。
 この本堂で研究者が注目するのは、現在の熊野十二社権現堂拝殿とよく似ていることです。現在の拝殿は、この本堂を転用したものと研究者は推測します。そうだとすると本堂から拝殿へと、その性格は変わりましたが、近世に建てられた八坂寺の建築物を今に伝える唯一のものになります。
 以上から、明治・大正・昭和の古写真に写された伽藍レイアウトと、近世後期の『『四国遍礼名所図会』を比べると、大師堂の位置や本堂出現などの変化はありますが、建物配置にに大きな変化ないとようです。そういう意味では、昭和初期までは八坂寺は江戸時代後期の景観をよく残していたことが分かります。そうすると、現在の境内地に至る伽藍整備やそれに伴う造成工事はそれ以後に行われたこととなります。
その過程を、国土地理院等撮影の空中写真で見ていくことにします。
八坂寺1947年空中写真

写真1は昭和22年(1947)に米軍によって撮影された空中写真です。これを見ると境内の周囲は樹木によって囲われ、周辺は田んぼや畑が広がっています。境内の中心には3つの建造物が見えます。これが北から本堂、熊野十二社権現、大師堂なのでしょう。建物の規模感や配置は、1936年の『四国八十八ヶ所写真帖 完』のものと、あまり変化していないようです。本堂の北東側には本坊と思われる建物が写ってます。  ここからは戦前から戦後にかけては、八坂寺境内に大きな変化はなかったことがうかがえます。

写真2は1962年に国土地理院によって撮影された空中写真です。
八坂寺1962年

境内が樹木に囲われ、周辺には田畑が広がるという点に変わりはありません。建物ははっきりとは分かりませんが本堂や本坊は見えます。高度経済成長期の前までは、八坂寺境内に変化はあまりみられません。
写真3は1975年2月24日の国土地理院撮影の空中写真です。
八坂寺1975年
ここにきて境内が次のように大きく様変わりしていることが見えてきます。
①本堂と大師堂に大きな違いが見える
②中心にあった熊野十二社権現が姿を消し、新たな大きな建物が出現している。
③これが現在の本堂で、昭和47(1972)年起工、昭和59年竣工である。
ここからは、白く大きな建物は、建設途中の本堂であることが分かります。そして、それまでの本堂が熊野十二社権現拝殿になったようです。
④樹木に包まれていた本堂西側や大師堂の西や南側が大きく切り開かれたこと
⑤これと並行して霊園区域の造成が開始されたこと

写真4は1975年10月6日の国土地理院の空中写真です。
八坂寺1975年12月

ここでは大師堂に変化があります。もともとは大師堂は、本堂と接し、平坦部の東側に建っていました。それが本堂との間に隙間が設けられ、2月の空中写真で確認された西側に拡張された空間に建物が移動後退してます。このほか、霊園区域はさらに広範囲にわたって造成工事が進められています。
そして現在の八坂寺の伽藍です。

八坂寺 現在

境内地の中心に、大きな本堂があり、その北側に熊野十二社権現拝殿、南に大師堂が並びます。もともとは東寄りにあった本堂と大師堂は、西側に後退し、両堂の前面に広い空間が現れています。

以上、現在の八坂寺伽藍変遷についてまとめると、次の通りです。
八坂寺は、もともとは熊野十二社権現に仕える修験者たちの別当寺でした。そのため信仰の中心は熊野信仰にありました。それを物語るのが伽藍の中心に鎮座していた「鎮守(熊野十二社権現)です。これに比べると本堂は、その横に置かれた小規模なものに過ぎませんでした。しかし、近世後半になると熊野信仰が衰退し、代わって寺院経営の上で四国巡礼の占める割合が高くなってきます。そのために、四国札所としてしての伽藍整備へと修正が行われ、大師堂が建立されたりします。しかし、それでも熊野十二社権現の位置は変わりませんでした。
 明治の神仏分離で、寺院経営は大きな打撃を受けますが、熊野十二社権現は名前を変えただけでそのまま存続します。そして、明治・大正・昭和と受け継がれ、敗戦後までは境内景観は江戸時代尾張の姿が維持されてきました。それが大きく変化するのは、高度経済成長後の1972年に本堂整備が始まってからです。これを契機に本堂を中心とした伽藍整備が進められます。同時に背後の岡には、墓地の大規模造成工事が行われ、姿を大きく変えていくことになります。現在の八坂寺の伽藍配置が出来上がったのは、1970年代になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献。
   八坂寺の古景観     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺32P 愛媛県教育委員会2023年
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 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。
八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

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真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
伊予温故録(宮脇通赫 編著) / みなみ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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