瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四国霊場観音寺

   讃州七宝山縁起 観音寺

 前回に続いて、観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』を見ていくことにします。前半を読んで分かったことは、
①「是釈迦伝法の跡、慈尊説法之砌なり」と、弥勒信仰が濃厚に感じられること
②八幡大菩薩がやって来て、さらに弘法大師が修行した所であることから、八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身とすること
③八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊し弘法大師が誕生したので、弘法大師は八幡大菩薩の再誕であるとすること。
ここからは、先にやって来た八幡信仰に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしていることがうかがえます。そして、その筆を執った人物として、弘法大師信仰の影響を受けた高野山系の密教修験者の影が見えてきます。
 今回は『讃州七宝山縁起』の後半部を読んでいくことにします。
その中に七宝山の行道(修行場)のことも記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには「大師為七宝山修行之初宿」と記され、七宝山が行場であったことが分かります。それでは「初宿」とは何なのでしょうか。先に進んでいきましょう。

七宝山縁起 行道ルート
意訳すると
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3

ここからは次のようなことが分かります。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=小辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には7つの行場と拠点があった
   当時の辺路修行とは、どんなものだったのでしょうか。
五来重氏は、次のように指摘します。
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道とは、神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる木の周りを一日中、何十回も廻ること。
3 それぞれの行場で、窟籠もり、木食、行道をする修験者(僧侶)がいた。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。
5 海に入って死んでいく補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。
6 お寺が建つ以前のことだから、建物はないので窟に籠もった。
7 弘法大師が修行したと伝わると、その跡を慕って修行者がやってくる。
8 鎌倉時代の終わりのころまでは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 修行者が多くなると小屋のようなものが建つ。そして寺やお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
10 やがて留守居が住職化するとお寺になり、行道ネットワークの拠点となり、積極的な「広報活動」を行うようになる。
 ここからは観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる修行ルートは「小辺路」が形成されつつあったことがうかがえます。プロの修行者がやってきて「七宝山七ヶ寺巡礼」が盛んになりつつあったとしておきましょう。周囲を見ると、中讃には善通寺や弥谷寺・海岸寺・道隆寺などを結ぶ「七ケ寺巡り」がありました。高松から東讃には根来寺から志度寺・長尾寺等を結ぶ「七観音巡り」が近世初頭にはあったようです。これらの地域にあった「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。中世の修験者は、それらを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったのかもしれません。近世になると素人が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。その際に、危険な行場や奥の院は次第に除外され、麓や里にある本寺が札所になって現在の四国霊場めぐりが形作られていったようです。そして、それは行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくという形に変わって行きます。
七宝山の山の中にあったという行場とお寺(お堂?)を探ってみましょう。観音寺が初宿で、第二の宿は稲積とあります。
 
1高屋神社

七宝山の一番北側に、山頂に方墳が載ったように見える山が稲積山です。ここはには、「天空の鳥居」で有名になった式内社・高屋神社の奥社があります。稲積とは、この神社周辺でしょう。ここからの燧灘と川之江に続く海岸線は絶景です。周辺には「嶽」と呼ばれる断崖があちらこちらにあります。西方に広がる燧灘は、西方浄土へ続く海です。念仏行者達にとっては最高の行場ゲレンデだったでしょう。全国から修験者たちがやってきそうな所です。
 
 稲積の行場は山だけではありません。室本の江甫草山(つくも)の海岸には海に向かって開く窟があるようです。
七宝山 江甫草山行場洞窟

「金毘羅参詣名所図会」(弘化4年(1847)には、江甫草山について絵図を載せ、次のように記しています
 江甫草山椋本村にあり、有明の浜より磯づたひ、行程僅かにして至る。麓に椋本の魚家多し。
行人之窟 行者ここに来って修行する事時々ありといふ。実に世塵をはらひて、ただ波濤の音、松のかぜ、千鳥・鴎のこえの他、耳に聴くことのなき幽地なり。
行道場 右に同じ。地蔵・不動・役行者などの石像を置けり。
そこには2つの洞窟が描かれています。拡大してみましょう。

七宝山 江甫草山行場洞窟拡大

 右側が「行人ノ窟」、左側が「鳩ノ窟」と描かれています。
「行人」は「行道する人」で修験者が籠もる窟でしょう。「鳩ノ窟」の周辺には、鳩らしき鳥が飛んでいます。これが「鳩の窟」いわれなのでしょうか。洞窟前を漕いでいく舟と比較しても、かなり大きな窟であることが分かります。
 ここは燧灘に直面する窟です。窟の上の磐に座り、沈みゆく夕陽を眺めながら阿弥陀経を唱えれば、西方浄土が見えてきたのかもしれません。高野の念仏聖達の行場としては、ふさわしい所であったでしょう。
 この洞窟と稲積山の行場を、一日に何度も廻行する行道が行われていたと私は考えています。
 第三宿は「経の滝」とあります。

七宝山 不動の瀧

これは豊中町岡本の不動の滝でしょう。雨が降った後は落差50mほどの滝になりますが、雨が少ない讃岐では水のない「瀧」であるときの方が多いようです。そのために揚水用のモーターが常備されています。スイッチを入れると瀧は落ちてきます。
 ここには不動明王が祀られ、古くからの修行の地であったようです。
 第四の宿は興隆寺です。
ここは以前にお話したように、四国札所・本山寺の奥の院とされています。
七宝山興隆寺

鎌倉時代後期から室町時代の五輪塔や宝灰印塔が、数多く残されています。
七宝山興隆寺不動明王
不動明王の磨崖仏

その中には上のような不動明王もあり、密教寺院で修験者たちの拠点であったことが分かります。出士した瓦は鎌倉時代のものなので、遅くとも鎌倉時代には、かなりの規模の寺院であったことがうかがえます。国宝の本山寺本堂が14世紀初頭のものですから、そのころに本山寺は、七宝山の麓から現在地に移ったと推察できます。しかし、七宝山の山号だけは変わっていません。
 ここに多く残されている五輪塔や宝灰印塔は、七宝山で修験を行った人たちが残したものと考えることも出来そうです。
 第五の宿は、岩屋寺です。

七宝山岩屋寺

七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。ここにも岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。
七宝山岩屋寺2
岩屋寺の岩屋(窟)

  こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
 さて、第六宿の神宮寺です。この寺については、確定が難しいようです。
 寺伝から三豊市詫間町の神正院に比定されるようです。
七宝山 三崎神社

神正院は、荘内半島先端にある三崎神社の別当寺であったことは間違いなく、そのため神宮寺と呼ばれていました。問題は、観音寺から岩屋寺までは七宝山沿いにあったルートから大きく外れるという点にあります。
紫陽花が見ごろの荘内半島(紫雲出山・三崎半島)へ / すぎちゃん(^-^)vさんの粟島(香川県)・荘内半島(三崎半島)の活動日記 | YAMAP /  ヤマップ
庄内半島の先にある三崎神社
 しかし、海の辺路である庄内半島の先端に行場が置かれていたと考えるなら「遠くても近い道」だったはずです。33日間で廻行するとすれば、ひとつの行場で4~5日は留まって行を行っていたと考えられます。讃岐西端の海に突き出た庄内半島の先端は行場で、その中宮寺が神正院だったとしておきましょう。ちなみに神宮寺神正院も古くから、七宝山の起源に関わる寺院とされてきたようです。

6つの拠点寺院の紹介の後、縁起は、七宝山の由来が述べられます。
七宝山 七宝山命名の由来
意訳すると
七宝山には九つの秘密の穴があり、弘法大師が大同年間(806~)に七種の秘宝をここに納めた。弥勒が出世する時、弘法大師が高野山奥院の出て、ここに秘蔵した宝を開き、弥勒の御前に持参することになっている。それゆえに七宝山と呼ぶ。
 琴弾八幡大菩薩は垂迹のはじめに、日証上人と問答した。日証上人の本地は釈迦如来で、大菩薩の本地は阿弥陀如来で、これは報身・応身の二身の上地である。
 ここには七宝山には弘法大師が7つの宝をおさめたので「七宝山」と呼ばれるようになったこと。そして、その宝は弥勒の御前に持参することになっていることが記されています。ここにも弥勒信仰がうかがえます。弘法大師の入定信仰が、この地にも伝わり、広められていたことが分かります。その背後には、やはり高野聖的な修験者の影が見えます。

そして、ゴールである我拝師山については、次のように記します。
七宝山縁起5 我拝師山

意訳すると
弘法大師高野大師行状図画 捨身
 我拝師山とは、弘法大師が捨身行で身を投げたときに、釈迦如来が現れ、これを救ったことに由来する。善通寺の鎮守は八幡で、本地は阿弥陀如来であることから結宿とされ、また釈迦・阿弥陀の二尊の土地である。
また当山(観音寺)は西の初宿で金剛界を表す。東の我拝師山は結宿で胎蔵界を表しす。その間は観音の峰で、これは南方の袖陀落山を示す。 つまり、観音寺ある琴弾山周辺は、金胎不二(金剛界と胎蔵界)の観音浄土なのである
(後略)
徳治二年丙午九月三日書写丁
  但他年朧之
  安置之蓮祐
   最後に徳治二年九月三日に書写が終了したと記します。

ここには「当山為鉢、西初宿、為金剛界峯。東は結宿、胎蔵界の義を表す。中は不二惣鉢観音の峰也。是即南方補陀落山を表す」とあります。これを整理すると、次のような構図が見えてきます
①琴弾山(観音寺)は、西の初宿で金剛界
②我拝師山(曼荼羅寺)、東は結宿で胎蔵界
③その間に横たわるのが七宝山(観音の峰)で、これが補陀落山を表している
となるようです。これは、どういうことなのでしょう。
 もう一度、空海が修行したと伝えられる室戸岬周辺を見てみましょう
七宝山 行当岬と室戸岬

①室戸岬に東寺(最御崎寺)
②行当岬に西寺(金剛頂寺)
の東西の札所寺院があります。平安時代はその両方を合わせ金剛窓寺と呼んでいたようです。岬で火を焚いた場所につくられたのが最御崎寺(東寺)で、西の行当岬は「行道」岬です。行当岬の不動岩の下に二つの洞窟があります。今は、不動さんを祀って「波切不動」になっています。ここには次の二つの行道があったようです。
①10㎞隔たった西寺と東寺を往復する行道を「中行道」
②不動岩の行道めぐる「小行道」
③四国全体の海岸を回るのが「大行道」
です。
室戸の東西の二つの行場のあり方を、七宝山に移して考えるとどうでしょうか?
 観音寺の行場が江甫草山の「行人ノ窟」や「鳩ノ窟」だったのかもしれません。そうだとすると稲積山の「断崖=瀧」を結ぶルートが「小行道」になります。そして、観音寺と我拝師山を結ぶルートが「中行道」だったことが考えられます。
 二つの寺の間あるいは二つの山の間をめぐる行道があります。足摺岬の場合は、西の金剛福寺のある山は金剛界です。東の足摺岬の灯台の下には、胎蔵窟と呼ばれる洞窟があります。金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているようです。その両方を行道する必要があります。密教では、全ては金胎両部一体だと説かれますが、辺路修行の場合は、頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで廻道して一体になることを目指したようです。
  「金胎不二」と難解な言葉で記されていますが、当時の密教修験者たちにとっては「目指すべき目標」とされた最重要キーワードだったのです。ある意味では、修験者たちを勧誘するための「常套句」であり「殺し文句」であったとしておきましょう。
 このように七宝山や庄内半島は、辺地修行ルートだったようです。

結宿として登場する我拝師山は、すでに有名な行場でした。
それは先ほど見たように、弘法大師が幼年の頃に捨身行を行い、釈迦如来がそれを助けたという話が広がっていたからです。高野聖でもあった西行は、我拝師山にやってきて3年間も庵に籠もり、修行を行っています。
西行の『山家集』の「曼荼羅寺の行道どころ」には、次のように記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経書き手うづませおはしましたる山の嶺なり。ほうの卒塔婆一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につかまばされたり。のぼるはどのあやうさ、ことに大事なり。かまへてはひまはりつかで廻りあはむ、ことの契ぞ、たのもしか。きびしき山の、ちかひ見るにも。
                                         
 このことは以前にお話ししましたので省略します。
さらに、高野山の内紛騒動で讃岐に流刑となった道範も「南海流浪記」の中で、我拝師山の行場について触れています。弘法大師信仰が広がる中で、我拝師山は全国の修験者たちから注目される行場となり霊山となっていたようです。それを背景として、曼荼羅寺の台頭があったのかもしれません。
 『讃州七宝山縁起』が書かれた頃の観音寺の戦略は、
①観音寺を我拝師山のような全国的な行場として売り出す。
②そのために「八幡信仰 + 空海伝説」を広げる。
③同時に新たな「中辺路」ルートを売り出す。
④そのために観音寺を起点として「七宝山+庄内半島」の行場を整備⑤そして、ゴールを人気有名修行場の我拝師山につなげる

 我拝師山の頂上からは、真っ直ぐに伸びていく庄内半島と、その最高峰紫雲出山が一望できます。さらに西には、「観音の峰」で、補陀落山と記された七宝山が横たわります。全国から我拝師山にやってきた修験者たちは、それは眺めながらここでの修行が終われば、弘法大師が七宝を納めたという山にも行ってみようかと思うようになったのかもしれません。
 ここで疑問に思うのは、弥谷寺の存在です。
七宝山中辺路ルートには、弥谷寺が含まれていません。何故でしょうか?
 これは弥谷寺は、別の修験者達のグループであったと私は考えています。以前にもお話しした通り、弥谷寺とその麓の白方の海岸寺は、善通寺とは別の「空海白方生誕説」を説いていた時期があります。ここからは、善通寺と弥谷寺は系統の違う別の修験者グループだったことがうかがえます。そのために、善通寺と観音寺を七宝山を介して結ぶ「小辺路」ルートには入っていなかったのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、七宝山を経て我拝師山にいたる行道(修行場)のことが記されている
②それによると7つの拠点を33日間で「行峰=行道=小辺路」する修行ルートであった
③このルートは出発の観音寺が金剛界で、ゴールの善通寺五岳の我拝師山が胎蔵界とされた④中世には、このルートは「中辺路」とされ、全国の修行者の行場ルートになっていた。
⑤その結果、各行場の近くには、拠点寺院や庵が姿を見えるようになった。
⑥それらのお寺は、今でも山号は「七宝山」として残っている。例えば、七宝山観音寺、七宝山本山寺、七宝山延命寺など・・・・
⑦これらの行場を結ぶ中辺路ルートは、近世には廃れた。
⑧代わって、素人達の「四国巡礼」の札所巡りのお寺に姿を変えていくことになる。
ここからは、中世の行者達による「中辺路」ルートが、現在の四国遍路道へと姿を変えていく変遷が見えてくるような気がします。

  参考文献
武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所  4                                     四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年

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前回は、観音寺の本堂やお堂を見てみました。今回は、調査報告書を片手に各堂の仏達を見ていく事にします。
まず、仁王門です。ここには2mを超える阿・吽の仁王さんが迎えてくれます。
報告書には次のように記されます。
 肉身各部の誇張や妙な力みのさまによる破綻がなく、頭体腕足の均整に優れ、写実を自然にこなした彫りが感じられる。鎌倉時代に流行した仁王像の力感表現の伝統を引きながら、穏やかに敷街したかのようにみられる優品である。

観音寺仁王像1
 現在の仁王門については、宥英法印の宝永3年(1706)に再興されたことを記した棟札が残ります。しかし、仁王さんについてはもっと古く
「像表面の傷みに対して砥の粉を塗られるなど近世以降の修理を受けるものの、作風からすれば、享徳ころの制作と考えてもよい」
と報告書は記します。
神恵院本堂8

次はコンクリート製で近未来的な神恵院本堂に行ってみましょう。
ここの本尊は、琴弾八幡宮の本地仏であった来迎印相の木造阿弥陀如来立像です。近年修理されて、全身を金泥を塗り、漆箔金の照りを抑えて落ち着いた雰囲気にしあげられています。ここへやって来たのは「見仏記」的には脇檀にいらっしゃる毘沙門天立像にお会いするためです。報告書は次のように紹介します。

神恵院本堂仏5
 頭体を一木から彫成するもので、内刳りなく、面部を彫り直しているのは残念ではあるが、制作は平安時代中ごろではなかろうか。現状では両肩から先を後補されるようであり、足ホゾを作って岩座上に立つ。右手を挙げて戟を執り、左にやや腰を捻って屈腎して掌上に宝塔を提げる毘沙門天像としては通例の像容である。痩身の体部に甲冑を付けるが、その細部は省略されているものの像容は力強く、あるいは修理により像表に具材の古色を厚く掛けたものか。
 本像の岩座は後補となるが、その天板裏面銘によれば、もと西金堂(現・観音寺薬師堂)の四天王像の一体であると記す
 この毘沙門天は「平安の古像であり、四天王像の一体」のようです。
もともとは薬師堂の薬師如来をお守りしていた四天王さんのメンバーだというのです。そうだとすれば、西金堂(薬師堂)本尊の薬師如来像と同じ時期に作成されたと考えられます。しかし、この毘沙門天の連れ添い達は、薬師堂にはいないようです。今は本堂で本尊の観音様を護っているのです。かつては薬師堂で御薬師さんを護っていた四天王が、今は本堂の須弥檀の四隅に配されて本尊の観音さまをお護りしています。しかし、毘沙門天はメンバーから引き離されて、神恵院本堂にいらっしゃいました。
  調査書には次のように記されています。
観音寺本堂の四天王
 足下に踏み付ける邪鬼まで含んで、頭体幹部を一材から刻みだしたもので内刳りなく、ほほ等身大の像高をはかる。忿怒の形相や武具を振りかざす姿態などは、やや穏やかにあらわされているものの、古様な着甲の像容であり迫力にも富んでいる。邪鬼にのこる彩色の痕跡からして、当初は彩色仕上げとされていたものと考えられる。現状は、正面側の像表面の荒れを調整して古色仕上げとされている。
  一人ひとりを紹介するのでなく、四体まとめての紹介というのは、平安生まれの四天王に対して、礼を欠くような気もしますが・・・。

さて、もともと四天王が護っていた薬師如来は、どんなお姿なのでしょうか?
 薬師堂はかつて西金堂と呼ばれていたようです。今の巡礼者達は、本堂と太子堂にお参りして、薬師堂まで階段を登ってくる人はいません。人の訪れることのない薬師堂です。しかし、この薬師如来坐像は、丈六の大像でした。報告書を読んでみましょう。

観音寺薬師如来坐像1
 現状は古色仕上げを施される。三角材の木寄せの緩んだ三角材部分から体内と膝前材のようすを観察することができた。その結果、当初材には多孔質な木肌からクスを用いているものと推定され、体部材には内刳りを施し、基本的には前後に数材ずつ寄せており、現状は後世の鑓で各材を留めて峯郡を構成していることが確認され、頭部は耳後ろで前後二材をよせている。体内の首ホソから肩にかけては新補のマチ材が複数あてられており、判然としないが、おそらく三道下で割首仕様としているものとみられる。膝前材は内刳りを施した当初のクス材部分に新補材を寄せて結珈する脚部や衣文を彫り直しているようである。左半身の構造は確認できなかったが、手首は挿しこみとなっており、右上腕材元残存状況から当初材がのこされている可能性が高い。右前賢と両手は後補とみられる。
 本像の面部は、傷んだものか残念ながら彫り直しを受けており、当初の顔貌かを大きく損じていると思われる。しかし、耳の造形や螺髪の端正な割りつけと刻み方をみると当初のものとして良く、鉢を開かず細面とし、肉誓と地髪の段差を控え目にして、緩やかな繋がりをみせる頭部の形状は、平安時代中期乃天台系如来像に通じる特徴として指摘する意見があり、或いは本像もこれに連なる可能性がある。
報告書には「西金堂丈六薬師尊像」の修復を記した元禄6年(1693)銘の木札が発見され、新補材並びに古色仕上げは、この時の修理によるものとされます。そしてこの薬師如来坐像は平安時代中ごろに制作された可能性があるとのこと。元禄の大修理を受けたようです。江戸時代になり、観音寺は京極藩の保護を受けて、堂舎・仏像の再興活動がなされていたようです。それが、仏達を今に伝える事につながっています。

釈迦阿弥陀発遣来迎図
 琴弾八幡の本地仏を描いた阿弥陀如来来迎図 
 最後に神恵院十王堂を見てみましょう。ここには閻魔王像のほかに十王像がいます。
司命・司録の二官、奪衣婆像・赤・青の二鬼、さらには人頭檀荼憧までを備えた地獄差配する群像が並んでいます。『元禄六気葵酉四月 豊田郡坂本組寺社帳』(『観音寺市誌』1985年所収)の「神恵院」の条には、「十王堂」がみえるので、江戸時代初期には存在していたようです。
 木札裏面にみえる発願主の「大こ彦兵衛」の名は十王のうちの5体に、また、「萩田伝八」の名は閻魔王像の台座天板裏の銘文に「東高屋村萩田伝八安重」「同光輪恵照尼」「同家内中」として記されており、萩田氏の家族が願主です。
 木札裏面にみえる「仏師京都 田中弘教」の各像にも記されており、十四体は「大仏師 田中弘教」の作のようです。ただし、閻魔王像だけは、古材を修補していることがうかがえるので、室町時代以前まで遡る可能性があるようです。制作者の「大仏師 京 田中弘教」は江戸時代17世紀後半から活躍の知られる名代の仏師です。

神恵院3
 香川県においては、文化12年(1815)旧高瀬町勝造寺の吉祥天・善賦師童子雷を制作しています。そのほかにも四国霊場71番札所弥谷寺や、同65番札所三角寺にも弘化年間の作例があり、さらに、仏生山法然寺の二王像の首ホソにもその名が記されているようです。仏師田中家は讃岐の寺院からの依頼をよく受けていたようです。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

観音寺境内図1
「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
 観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
 まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
1観音寺仁王門
    
 まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
 仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
 同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。
  中略
以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。
 全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。                   
 
観音寺仁王門

気になるのは「基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。」の部分です。以前の基壇がそのまま使われているかもしれないというサジェスチョンなのでしょうか?。
  随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。

さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
 仁王門からの石段を上りきると正面に巨大な楠が迎えてくれます。そして右手(北)に鐘楼が建ちます。

観音寺鐘楼1
 この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 さて、ここでも報告書を開いて見ます。
 柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
 中略
 顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略
評価
 元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。
また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。
 ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
   刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
   さて、やっと本堂に正面から向き合います。
観音寺8

本堂(金堂)は、境内の北側に山を背負って南面します。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
 この本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定され、その後に解体修理工事がおこなわれています。その際の修理工事報告書には、次のように記されています
観音寺本堂3

①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった
②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした
③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
観音寺本堂1

 このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
 
観音寺本堂しゃみだん
 本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
   また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
観音寺本堂2


 両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
観音寺太子堂
  本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、
②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、
③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、
④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。
⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、
⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、
⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます 
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
 ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。
 足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
 うーん。読んでいると頭がくらくらしてきます。情報を受け止めるだけの準備不足を感じてしまします。もう一軒行ってみましょう。
観音寺薬師堂1

さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
 この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。

観音寺薬師堂2
  この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
 このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
 薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
 また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。
 棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる      
   
IMG_9761
疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
IMG_9764
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
  このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
   南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
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 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
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神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
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