瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:四条川

 江戸時代初期のまんのう町には、吉野・四条から現在の象郷小学校に向けて四条川という川が流れていたようです。「全讃史」には、四条川のことが次のように記されています。

「四条川は那珂郡にあり、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。」

  また丸亀市史も次のように記します。
「照井川と合流した四条川は、現在の吉井橋に至り
①水戸大横井より北流を続け吉野下、林、川滝、鱈池を過ぎ、さらに、
旧満濃町役場前から四条・天皇を経て上田井の高篠大分岐に至り、ここから支流は田井に東流し、田井からは郡界に沿って北流し土器町聖池に至る。一方、本流はここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、
象郷小学校から上櫛梨の④木の井橋の南へと流れる」
四条川2
旧四条川の流路
金倉川 国土地理院
高篠付近の金倉川と旧四条川
近世初期にあった四条川が消えたのは、なぜでしょう?
 江戸時代初め満濃池再築に向けて動き始めた西島八兵衛の課題のひとつが丸亀平野の隅々まで水を供給するための用水路の整備でした。池が出来ても用水路がなければ水田に水は来ません。しかし、問題がありました。それが四条川の存在です。この複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難です。
 そこで、西島八兵衛が行ったのが四条川のルート変更です。
満濃池水戸(みと)

流れを変えるポイントは吉野の吉井橋の少し上流の水戸大横井でした。ここで北上してきた流れを、西に流し現在の金倉川の流れを「放水路」に変えます。そして、この地点で水量調整を行い四条川を、直線化して用水路へ「変身」させます。新たに西に流されるようになった川は、買田川と合流させ琴平・神事場の石淵にぶつけて真っ直ぐに北上させます。この川が金倉川と呼ばれるようになります。

金倉川旧流路 吉野 
吉野周辺 四条川と金倉川の旧流路跡(国土地理院 土地利用図)

金倉川旧流路 神野
琴平町五条周辺の旧金倉川流路跡

そのため金倉川は、次のような人工河川の特徴を持つと言われています。
①吉野橋の上流と下流では川底の深さがちがう。新たに河道となった下流は浅い。
②琴平より北は河床が高く天井川で、東西からほとんど支流が流れ込まない。
③金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川なら、境界となることが多い。
④河口の州が、万象園付近だけで極端に小さく、川の歴史の浅いことを示している。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺市木徳町付近の金倉川と旧四条川
 以上が丸亀市史の「金倉川=人工河川」説の「根拠」です。
西島八兵衛は、満濃池再築前に事前工事として四条川の流れを換えて、金倉川に付け替え・改修を行った」というのです。しかし、これを裏付ける史料はありません。満濃池再築と共に四条川は水路に変身し、新しく金倉川が生まれたというのはあくまで仮説です。しかし、私にとっては魅力的な説です。

中又北遺跡 多度郡条里制と旧金倉川
金倉川の時代ごとの流域路
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 四条川と金倉川 新編丸亀市史


金蔵寺条里地図

丸亀市史には、金倉川について「近世に作られた人工河川」という説が載せられています。金倉川は満濃池の用水路整備に合わせて作られた流れで、それまでは「四条川」がまんのう町から善通寺に流れていたというのです。四条川については、以前にもお話ししました。
   今回は旧金倉川を追いかけて見ることにします。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫き下金倉に至り海に入る」
ここからは次のような事が分かります。
A 四条川が 源流の小沼峰 → 帆山→ 岸上 →四条  
 →元吉(櫛梨山)・与北山をめぐり西北流し → 上金倉で東に折れ → 金倉川と離れて土器川に合流する
B 金倉川は満濃池 → 五条 → 金毘羅山下から北流 → 西山 → 櫛梨 → 金蔵寺 → 四条川を貫き下金倉が河口だった。
金倉川 国土地理院

四条川と金倉川は、東の櫛梨山と西の磨臼山の間では、直ぐ近くを併流していたというのです。2本の川が現在の土讃線沿いに並んで流れていたことになります。これをどのように考えればよいのでしょうか?
 グーグルで、2つの川の痕跡を追いかけて見ましょう。
金倉川1 分岐点

琴平と善通寺を一直線に結んで国道319号と土讃線が並立して西側を走っています。国道から東側に少し入った所に四国計測の善通寺工場があります。その裏に現在の②金倉川は流れています。
そして、ここには④の井堰があります。この井堰が堤であったら金倉川は流路を西に取り、③の方向に流れていたはずです。現在の井堰から大麻・生野へ続く用水路を③旧金倉川としておきます。

一方、 象郷小学校方面から流れ出してきた①が旧四条川のようです。現金倉川の合流点から象郷小学校辺りまでの流路は、「大河?」の趣をいまでも感じる風景が続きます。かつての水量の多さがうかがえます。
 ④を開削することで、金倉川はそのまま北に流れ旧四条川に合流することになります。金倉川による旧四条川の乗っ取り(付け替え)工事が行われたことが推測できます。それまでは旧四条川と金倉川は隣接して併流していたことになります。
 金倉川2 大麻

丸亀平野は条里制跡がよく残っていて、グーグル地図を見ても長方形の水田跡が規則正しく並んでいる所が多いようです。さて、大麻から生野町にかけては、どうでしょうか。金倉川と国道319号・土讃線に挟まれた区間は、水田の並びが不整形なのにまず気がつきます。
グーグル地図を最大に拡大して見ると、
四国計測善通寺工場
楠原寺
南部公民館
旧自動車学校(旧池)
大麻郵便局西側
と周囲より一段低い所があるようです。これが②旧金倉川ルートの候補です。明治に作られた四国新道や讃岐鉄道の線路用地の買収について丸亀市史には
旧金倉川の廃川跡地が利用された。そのため用地取得が短期日で終わって工事に着手できた。それは、田畑でなくほとんど荒廃地だったからだ」

という話が紹介されています。確かに、この一帯は旧河川の上だったことがうかがえます。
金倉川旧流路 大麻
大麻町付近の金倉川流路跡(土地利用図)
 
一方、旧四条川は現在の金倉川だったのでしょうか。
どうもそうとは言えないのです。現地に行ってみると、現在の金倉川の西側100mあたりに、かつての堤防跡と思える連なりが畑や未開墾地として残っています。これが旧四条川の堤防だったとしておきましょう。 国土地理院の土地利用図には旧河道跡が載るようになりました。これで四条川の河川跡を追いかけてみましょう。 

  ①の旧四条川は、先ほど指摘したように現在の金倉川の左岸(西)に、かつての流れがあった痕跡があります。くねくねと曲がりながら北上します。これを真っ直ぐに付け替えたのが現在の金倉川のように思えてきます。その結果が、丸亀市史が
「金倉川は人工河川で、人為的に作られた物なので全体に河床が高く、天井川である。そのため、東西から支流がほとんど流れ込まない」

と指摘することになるのでしょう。確かにその通りです。金倉川に流れ込む支流は、ほとんどありません。

 旧金倉川は、土讃線沿いに磨臼山古墳のある山裾にぶつかるように北流していきます。

金倉川4 磨臼山古墳

「土讃線と四国新道は、旧金倉川の荒れ地にあったので買収しやすかった。それが工期の短縮につながった」
という話の通り、土讃線は旧河床沿いに敷かれています。
磨臼山を越えると壱岐の湧水があります。
以前に紹介した「善通寺一円保差図」に、善通寺領の水源地として描かれている出水です。丸亀市史は
「旧金倉川跡沿いに、出水(湧水)が点々と並ぶ」

とも指摘されます。確かに、この北には二頭湧水もあります。かつては、ここが河川跡であった可能性は高いようです。
 それでは、四条川が消されて、金倉川が現在のルートを流れるようになったのは、いつからなのでしょうか。

私は以前に、
「近世の西嶋八兵衛の満濃池の再築の際に、下流地域の農業用水路整備のために障害となる四条川は消されて、新たに金倉川が作られたのではないか」

という仮説をお話ししました。しかし、その仮説には、立ちはだかる「壁」があります。それが善通寺に残る「一円保差図」です。
金倉川5 壱岐湧水

この絵図についても以前に紹介しましたので、詳しくは話しませんが13世紀に作られたもので、当時の善通寺寺領への用水路が描かれています。条里制地割ラインに沿って、東の壱岐と柿股の湧水から導水されていたことが分かります。
 この絵図には金倉川も旧四条川も描かれていません。
つまり13世紀の時点には、河川流路はすでに変更し、壱岐や柿股は出水となっていたということが分かります。ここからは、13世紀には、旧金倉川は流れていなかったということになります。
  しかし「反論」はあります。
 下の地図は、旧練兵場遺跡の弥生時代から古墳時代の地形復元図です。
  かつての練兵場は「旧善通寺国立病院 + 農事試験場」という広大なスペースでした。その西エリアの国立病院の建て替えのために発掘作業が進められました。その結果、ここが弥生時代の善通寺王国のコア施設があったところだということが明らかになってきました。その中で、当時の地形復元も行われています。
金倉川 7旧練兵場遺跡

  西側隅(左)を迂回するように北上するのが旧弘田川です。現在の弘田川とあまり変わりないようです。しかし、現在と大きく違うのは国立病院と農事試験場の間には二本に分流して流れる河川があったということです。
   つまり、現在の看護学校あたりは、「旧河道2」で、宮川製麺所と仙遊寺は微高地の中島で、その背後には「旧河道3」があったようです。旧練兵場遺跡は、遺跡内を複数の自然河川が流れて、その間に微髙地がぽつりぽつりと島のように出ていたという情景になるようです。それをイラスト化すると下のようになるようです。
金倉川 8旧練兵場イラスト

   それでは、この「旧河道2・3」はどこから流れてきていたのでしょうか?
復元図は仙遊町の郵便局辺りでプツンと切れています。それはそうでしょう。ここからは発掘調査が行われていないのですから、書くことはできません。
周辺の遺跡報告書を見てみると、四国学院の図書館建設に伴う調査報告書に次のような記述がありました。

この付近(四国学院キャンパス)は旧金倉川の氾濫原西側の微高地上にあたり、生野本町遺跡や生野南口遺跡などの遺跡が連続する場所である。現在の地表面で標高は約31mを測る。北西約500mに立地する善通寺旧境内よりも約5m高い。
 遺跡の東端には、旧金倉川から派生する大規模な旧河道が存在することが判明しており、四国学院敷地内で収束する。四国学院敷地東側の市道には現在も暗渠にされた溝が流れている。遺跡の西側は、調査がなされていないため詳細は不明であるが、現在も学校敷地と西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1.5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れている。おそらくこの河川が遺跡の西端を示していると想像できる。

ここからは次のような事が分かります。
①四国学院の東側は「旧金倉川の大規模な河道があり氾濫原」だった。
② 西側の護国神社・善通寺西高校の間には約1,5mの高低差があり、川が流れていた。
③この東西の川に挟まれた微髙地に四国学院大学遺跡はある。
そして、この微髙地は南の「生野本町遺跡 → 生野南口遺跡」へと続いていきます。これらは多度郡の郡衙跡と考えられる重要な遺跡です。
DSC01741

善通寺王国の中枢が律令期には旧練兵場跡東部から生野本町周辺に移動してきたことがうかがえます。そして、以前にお話ししたように、四国学院のキャンパスに向かって東から南海道が伸びて来ていたことを考古学の成果は教えてくれます。 
金倉川 善通寺遺跡分布図

 四国学院の東側は壱岐湧水から善通寺東中学校のラインで伸びる「旧金倉川の氾濫原」だったようですが、その痕跡はグーグルでは分かりません。ただ、旧金倉川は磨臼山の麓付近で、不自然な曲がり方をしています。ここで流路が人工的に変更された可能性もあるように思えます。それを行ったのが、磨臼山古墳に眠る善通寺王国の首長ではなかったのかと、私は「妄想」しています。

  もうひとつは、尽誠学園付近で現金倉川は流れを東に少し振ります。
金倉川旧流路 与北町付近
金倉川旧流路 尽誠高校から真北に旧流路が見える

ここからは金倉川(旧四条川)が尽誠学園の東側で、大きく東に流れを変えていた痕跡が見えます。その線上に二頭湧水もあります。流路は変更されても地下水脈は、今も昔のままで流れ続けているようです。そしてこの流れは市役所前を通って、神櫛神社方面に伸びています。
  それでは、いつごろまで金倉川の氾濫原は善通寺旧市街の東部を覆っていたのでしょうか?
もう一度「練兵場遺跡調査報告書Ⅰ」を見てみましょう。
報告書には、古墳時代中期から終末期には、住居跡や建物跡のような居住遺構が全くなくなったことを報告しています。そして、周辺の旧河川の堆積作用が間断なく続いたとします。この時期は、集落がなくなり微髙地の周りの湿地堆積が進んだようです。そして旧練兵場跡を流れていた川が完全に埋まってしまった時期が、奈良時代になるようです。報告書には、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期(奈良時代)までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

として、凹地の堆積作用が進み、微髙地の高さとほぼ一緒になり、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んだ6~7世紀は、利用困難な低地として放棄されたようです。それが、8世紀の奈良時代になって平坦地になります。その結果、農耕地としての再利用が始まると研究者は考えているようです。さらに肥沃な土砂が河によってもたらされたことも、水田などへの変化の要因の一つに挙げられます。そして、奈良時代になると労働力の組織が可能になり、このエリアでも、条里制に基づく規則的な土地開発が行われていくことになります。その主役は、佐伯氏だったとしておきましょう。
  つまり、8世紀までには旧練兵場周辺での旧金倉川の堆積作用は終わったようです。その上流の四国学院の東側の氾濫原でも、同じだったのではないのでしょうか。

この図は土器川の今までの流路変更をしめしたものです。
金倉川 土器川流路変遷図
土器川は短く急流な川で、まんのう町炭所西常包付近から河口にかけて沖積扇状地となっています。洪水の度に大量の土砂が堆積して河床を上昇させたために、河道の変遷が激しかったようです。
 まんのう町木ノ崎で山間部を抜け出した土器川は、最初は
①の木ノ崎→五条→櫛梨→下吉田→庄を流れていたようです。
  地質学者によると土器川は、西方にある基盤岩の低い部分へ向かって流れていたものが、堆積作用で流域が隆起すると、低地を求めて流出先を東へ東へと段階的に移動させて行ったと云います。

 一番東まで行ったのは④の滝ノ鼻から大束川のコースだったようです。現在の位置へと流れを変えたのは、「和名類聚抄(和名抄)」(931~938年)の記録による地名から推定すると、約千年年ほど前と研究者は考えているようです。
 この流路変更図を最初に見たときには、ショックを受けました。
ゆく河の流れは絶えずして/方丈記/鴨長明/独断でおすすめの1冊

「ゆく川の流れは絶えずして・・」ですが、「ゆく川の流れは・・」は変化し続けて来たのです。
  土器川が堆積作用で流路変更した後を、旧金倉川はさらに堆積作用を勧め奈良時代には、善通寺周辺の土地の「平坦地化」をもたらしたようです。この調査報告書は
6世紀~7世紀に旧練兵場遺跡の旧河道でも堆積作用が進んだ

としています。ということは、古墳時代後期まで善通寺東部は氾濫原だったことになります。磨臼山古墳の首長が金倉川の流路変更を行ったという私の仮説は、「妄想」に終わりそうです。

とりとめもない妄想に最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
旧練兵場遺跡調査報告書Ⅰ 2009年
四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年
丸亀市史
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岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。テキストは「新修丸亀市史1 383P 四条川と金倉川」です。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

四条川=金倉川説1
金倉川=近世の人工河川説の根拠

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

旧金倉川河口跡2

旧金蔵川流路跡(四条川) 新修丸亀市史390P
多度津には、金陵多度津工場があります。ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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