前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。 テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。
「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固」
小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。
小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏山路方 =讃岐白方の海賊山路(地)方、能島 =能島村上氏両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。
戦国時代の能島村上氏の居城 能島城
能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説
①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に
「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城
来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。
ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。
ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年