瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:因支首

伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつに分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。そんな視点で、今回は『円珍系図』を見ていきたいと思います。  テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

この系図は次の三つを「接ぎ木」して、つなぎ合わせたものと研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり伊予別公系図です。
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
 最初に円珍系図(和気氏系図)の全てを載せておきます。
円珍系図冒頭部
円珍系図冒頭部2
円珍系図5
円珍系図6 忍尾
円珍系図 7 忍尾と身の間
円珍系図8 身
円珍系図9 身のあと
円珍系図3

  円珍系図は、始祖を景行天皇の皇子である武国凝別皇子に求めていたことを前回は見ました。
それでは、現実的祖先であるCの讃岐・因支首氏の始祖は誰にしているのでしょうか。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、忍尾を始祖としていたことが分かります。
円珍系図6 忍尾

忍尾は円珍系図にも出てきます。忍尾の注記には、次のように記されています。

「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」

意訳変換しておくと

この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った

 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったということのようです。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。
讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれていると研究者は指摘します。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の所伝によって系図を作った疑いがあると指摘します。
 和迩乃別命を「一」と注記し、以下、左側の行の人名に「二」、「三」、右側の行の人名に「四」、「五」、「六」と円珍自身が番号をつけています。円珍系図が作られた頃には、その順はあいまいになっていたようです。というのは、世代順を示す番号の打ち方に不自然さがあるからだと研究者は指摘します。この部分の系図自体が、世代関係の体裁を示していません。この背景として考えられる事は、前回お話しした「系図作成マニュアルのその2」のノウハウです。つまり、自分の祖先を記録や記憶で辿れるところまでたどったら、あとは別の有力な系図に「接ぎ木」という手法です。
それが今は伝わっていない『伊予別(和気)公系図』かもしれません。接ぎ木された系図には、その伊予の和気公の重要な情報が隠されていると研究者は指摘します。

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系図の伊予和気氏の部分統合版

忍尾以前の系図には、武国凝別皇子の子・水別命から始まって、神子別命、その弟の黒彦別命の代までは「別命」となっています。ところが、倭子乃別君やその弟の加祢古乃別君の兄弟以下の人名は、すべて「別君」を称しています。ここからは「別」から「君」への推移のあったことがみえてきます。地方豪族が「別」から「君」や「臣」「直」へと称号を変えたことは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に、次のようにあることによって証明されたようです。

「其児名二己加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半二比。其児名加差披余。其児名乎獲居臣(直)

「別」から「君」への称号変化が、いつごろ行われたのでしょうか。
「別」が付いている大王を系図で見ておきましょう。
円珍系図 大王系図の別(ワケ)


「別」という称号は、上の系図のように応神から顕宗までの大王につけられています。応神の時代は、4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろです。そうすると、大王や皇族が「別」(和気)を称していたのはその頃だったことになります。
 熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した大刀には、次の銘文があります。
「□因下獲囲□図歯大王世」
 
この「図歯大王」は雄略天皇であるとされます。ここからは雄略天皇の時代のころから、ヤマトの王は「別」を捨てて、「大王」と称しはじめたことが分かります。
 「大王」は、「君」のうえに位置する超越的な権力をあらわしている称号です。つまり、この時期にヤマト政権が強大化して、それまでの吉備等との連合政権から突出して強大な権力を手中におさめつつあった時期だとされます。
①ヤマトの王は、「別」から「大王」へと、その称号を変えていった
②地方の豪族が、「別」から「君」へと称号を変えていった
これは、ほぼ同時進行ですすんだようです。つまり、この系図上で別を名前に付けている人物は 4世紀の後半の後半の人物だと研究者は考えています。
 ところが「別」には、もうひとつ隠された意味があるようです。
「別」は「ワケ」で「和気」なのです。
「別」から「君」へと称号改姓が進む中で、伊予国の別(和気)氏や、備前国の別氏のように、古い称号の「別」を氏の名「和気」としてのこした氏族もあったようです。ここでは、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちであることを押さえておきます。

Cの讃岐の因支首氏の系図の実在上の最も古い人物は誰なのでしょうか

円珍系図8 身

  それは系図の「子小乙上身」の「身」だと研究者は考えています。
その下の註に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは身が難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。身は7世紀後半の白村江から壬申の乱の天智帳で活躍した人物で、因支首氏では最も業績を上げた人で、始祖的な人物だったようです。
 しかし、系図が制作された9世紀後半は、二百年近く前の人で、それよりも前の人物については辿れなかったようです。つまり、身が
当寺の因支首氏系図では、たどれる最古の人物だったことになります。しかし、それでは伊予和気氏との関係を主張することができません。そこで求められるのが「現実的系譜を辿れるところまでたどって、そのあとは他家の系図や伝説的系譜に接ぎ木する」という手法です。実質的な始祖身と伊予の和気氏をつなぐものとして登場させたのが「忍尾別君」です。
 忍尾別君は「讃岐国司解」の中では、「忍尾五世孫、少初位上身苗裔」とあります。因支首氏が直接の祖先とした「架空の人物」です。

つまり、忍尾は伊予の国から讃岐にやってきて、因岐首の女を娶ったという人物です。忍尾の子が母の姓に従って因支首の姓を名乗ったという「創作・伝承」がつくられたと研究者は考えています。しかし、先ほど見たように忍尾別君は「別君」とあるので、5世紀後半から6世紀の人物です。
 一方の「身」については、 「小乙上身」とあり、その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。
「身」は「小乙上」という位階から7世紀後半の人物であることは先ほど見たとおりです。彼は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられたと系図には記されています。
因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。
①  忍尾別君は5世紀末から6世紀の人物で、伊予からやってきた和気氏
② 身は7世紀後半の人物で、天智朝で活躍した人物
そして忍尾から身までは三世代で結ばれています。
  実際はこのような所伝は、因岐首から和気公へ改姓のためのこじつけだったのかもしれないと研究者は考えているようです。そして、伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことです。それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  系図Cの因支首氏系図については、讃岐因支氏に関した部分で、信用がおけると研究者は考えています。

 活動年代が分かる人物をもう一度『円珍系図』で比較してみましょう。
伊予の和気公の系図部分で「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、評造や小山上の称号を持つので大化の改新後の人物であることは、先ほど見たとおりです。同時に「身」も孝徳朝(645年- 654年)の人物とされるので、両者は同時代の人物です。
ところが、「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、はるか前の世代の人物として系図に登場します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 このような矛盾は、『和気系図』の作製者が、伊予の和気氏系図と、自己の因岐首系図をつなぐ上で、年代操作の失敗したため研究者は考えています。
両系図をつなぐ上で、この部分を省略して、因支首氏の身以前の世代の人々も省略して、和気氏系図の評造の称号をもつ宮手古別君や意伊古乃別君と、Cの部分で孝徳朝の人物とされる身を同世代の人とすればよかったのかもしれません。しかし。身以前の世代の人々は、因岐首氏の遠祖とされていた人々だったのでしょう。円珍系図』の作製者は、これらの人々を省略することに、ためらいがあったようです。そして、そのまま記したのでしょう。
  以上から円珍系図は、伊予の和気氏系図と讃岐の因支首氏系図を「接ぎ木」した際に、世代にずれができてしまいました。しかし、これを別々のものとして考えれば、Bは伊予別公系図として、Cは讃岐因岐首系図として、それぞれ正当な伝えをもつ立派な系図ともいえると研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
和気氏系図 円珍 稲木氏
      円珍の和気氏系図制作のねらいと問題点

①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

佐伯有清氏は、Bの伊予別公系図(和気氏)について次のように結論づけます。
  和気公氏たちが、いずれも景行天皇を始祖とするのは、もちろん歴史的事実であったとは考えられない。和気公氏の祖先は、古くから伊予地域において「別」を称号として勢力をふるっていた地方豪族であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(智証大師) 金倉寺蔵  

円珍(智証大師)は因支首(いなぎのおびと)氏の出身です。因支首氏は改姓を許され後には、和気公を名乗るようになります。その系図が、『円珍系図(和気公系図)』と呼ばれている和気公氏の系図になります。この系図は、円珍の手もとにあったもので、それには円珍の書き入れもされて圓城寺に残りました。そのため『円珍俗姓系図』とも『大師御系図』とも呼ばれます。家系図ではもっとも古いものの一つで、国宝に指定されています。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 この系図には讃岐古代史を考える上では多くの情報が含まれています。この円珍系図について詳しく述べているのが佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。この本も私の師匠から「これくらいは読んどかんといかんわな」と云われて、いただいたままで「積読(つんどく)」状態になっていたものです。これを引っ張り出して見ていくことにします。 今回は、改姓申請に関わって発行された文書を中心に、因支首氏(後の和気公)のことを見ていきます。

 菅原道真が讃岐守としてやってくる20年前の貞観八年(866)10月27日のことです。
那珂郡の人である因支首秋主・道麻呂・宅主らと、多度郡の因支首純雄・国益・臣足・男綱・文武・陶道ら九人は、和気公の氏姓を賜わります。この記事が載っている『三代実録』には、賜姓された人名につづけて、「其先 武国凝別皇子之苗裔也」とだけしか記されていません。ここからは秋主らが、どんな理由で氏姓を改めることを申請したのかは分かりません。ところが、因支首氏の改姓関わる文書が、もうひとつ伝えられています。
それが貞観九年(867)二月十六日付に、 当時の讃岐国司であった藤原有年が 「讃岐国戸籍帳」1巻の見返し(表紙裏)に記したものです。
讃岐国司解
有年申文
有年申文」です。国司の介(次官)である藤原有年が草仮名で事情を説明した申文です。
讃岐国司解3


この申文は「讃岐国司解」という解文の前に添えられています。
内容的には次のような意味になるようです。

「因支首氏の改姓人名禄の提出について、これはどのようにしたらよいか、官に申しあげよう。ご覧になられる程度と思う。そもそも刑大史の言葉によって下付することにしたので、出し賜うことにする。問題はないであろう」

「讃岐国司解」には「讃岐国印」が押されていて、まぎれもなく正式の文書です。因支首氏のうち和気公氏へと改姓した人物の名前を報告する文書であるこの「讃岐国司解」は、讃岐守の進言にしたがって太政官に提出されなかったようです。

讃岐国司解2
讃岐国司解

讃岐国司解には、賜姓請願のいきさつだけでなく、因支首から和気公に改氏姓したのは、上記の九名の者にとどまらず、那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三姻と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三姻のあわせて六親族であったことも記されています。この讃岐国司解に記されている人名と続柄とによって、研究者が作成した系図を見てみましょう。
  円珍系図 那珂郡
那珂郡の因支首氏
円珍系図2
 多度郡の因支首氏

この系図の中にみえる人名で、傍線を引いた7名は  『三代実録』貞観八年十月二十七日戊成条の賜姓記事に記されている人々です。確認しておくと
(一)の那珂郡の親族には、道麻呂・宅主・秋主
(二)の多度郡の親族では国益・男綱・臣足・純男
しかし国司が中央に送った「讃岐国司解」には、那珂郡では
道麻呂の親族8名、
道麻呂の弟である宅主の親族6名、
それに子がいないという金布の親族1名、
多度郡では
国益の親族17名、
国益の弟である男綱の親族5名
国益の従父弟である臣足の親族6名、
あわせて43名に賜姓がおよんでいます。
 ここからは、一族意識を持った因首氏が那珂郡に3軒、多度郡に3軒いたことが分かります。因支首氏は、金蔵寺を創建した氏族とされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。この周辺からは稲城北遺跡のように正倉を伴う郡衙に準ずる遺跡も出てきています。金蔵寺周辺から永井・稲城北にかけての那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったとされています。
 また、円珍家系図の中に記された父宅成は、善通寺を拠点とする佐伯氏から妻を娶っていたとも云われます。因首氏と佐伯氏は姻戚関係にあったようです。そのため因首氏は、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったと各町誌などには書かれています。その因首氏の実態がうかがい知れる根本史料になります。

「讃岐国司解」には改姓者の人数が、43名も記されているのに、どうして『三代実録』には9名しかいないのでしょうか。
大倉粂馬氏は、「讃岐国解文の研究」と題する論文で、この疑問について次のような解釈を示しています。
「貞観八年十月発表せられたる賜姓の人名と翌九年二月の国解人名録とが合致せざるは何故なりや」

そして、次のような答えを出しています。

太政官では、遠くさかのぼって大同二年(807)の改姓請願書を採用し、これに現在戸主である秋主、および純雄の両名を加えて賜姓を行なったものであろう。また賜姓者九名のうちの文武・陶道の両名は、貞観年間に、おそらく死亡絶家となっていたものであろう。大同年間、国益・道麻呂の時に申告したものであったので、そのまま賜姓にあずかったものと認めてよいであろう

 ここでは二つの史料の間に時間的格差ができて、その間に「死亡絶家」になった家や、新たに生まれた人物が出てきたので食い違いが生じたとします。納得の出来る説明です。
それでは、正史に記載されている賜姓記事の人数と、実際の賜姓者の数が大きく増えていることをどう考えればいいのでしょうか?
改氏姓を認可する「太政官符」には、戸主だけの人名だけした記されていなかったようです。
賜姓にあずかるすべての人々、すなわちその戸の家族全員の人名は列記されていなかったことが他の史料から分かってきました。
改姓申請の手続きは次のように行われたと研究者は考えているようです。
①多度郡の秋生がとりまとめて、一族の戸主の連名で、郡司・国司に申請した。
②申請が受理されると中央政府からの「太政官符」をうけた「民部省符」が、国府に届く
③国司は、改氏姓の認可が下ったことを、多度・那珂郡の郡司を通して、各因支首氏の戸主たちに伝達する。
④同時に、郡司は改氏姓に該当する戸口全員の人名を府中の国府に報告する。
⑤それににもとづいて国府は記録し、太政官に申告する
こう考えると『三代実録』の賜姓記事にみえる人名と、「讃岐国司解」の改姓者歴名に記載されている人名との食い違いについての疑問は解けます。
 『三代実録』の賜姓記事にあげられている那珂郡の秋主・道麿(道麻呂)・宅主の三名と、多度郡の純雄・国益・臣足・男縄・文武・陶道の六名は、それぞれの因支首一族の戸主だったのです。
「讃岐国司解」の改姓者歴名の記載にもとづいて研究者が作成した系図をもう一度見てみましょう。
円珍系図2

道麻呂(道麿)・宅主・国益・男綱(男縄)・臣足は、それぞれの親族の筆頭にあげられています。
円珍系図 那珂郡

那珂郡の秋主は、円珍の祖父道麻呂と親属関係にあり、また多度郡の純雄(純男)は、国益の孫になります。秋主や純雄(純男)が、因支首から和気公への改氏姓を請願した人物だと研究者は考えているようです。また、申請時の貞観当時の戸主であったので『三代実録』の賜姓記事には、それぞれの郡の筆頭にあげられているようです。

「讃岐国司解」は、四十三名の改氏姓者の人名を掲げたうえで、次のようなことを書き加えています。
右被民部省去貞観八年十一月四日符称。太政官去十月廿七日符称。得彼国解称。管那珂多度郡司解状称。秋主等解状称。謹案太政官去大同二年二月廿三日符称。右大臣宣。奉勅。諸氏雑姓概多錯謬。或宗異姓同。本源難弁。或嫌賤仮貴。枝派無別。此雨不正。豊称実録撰定之後何更刊改。宜下検故記。請改姓輩。限今年内任令中申畢上者。諸国承知。依宣行之者。国依符旨下知諸郡愛祖父国益。道麻呂等。検拠実録進下本系帳。丼請改姓状蜘復案旧跡。
 依太政官延暦十八年十二月十九日符旨。共伊予別公等。具注下為同宗之由抑即十九年七月十日進上之実。而報符未下。祖耶己没。秋主等幸荷継絶之恩勅。久悲素情之未允。加以因支両字。義理無憑。別公本姓亦渉忌諄当今聖明照臨。昆虫需恩。望請。幸被言上忍尾五世孫少初位上身之苗裔在此部者。皆拠元祖所封郡名。賜和気公姓。将始栄千後代者。郡司引検旧記所申有道。働請国裁者。国司覆審。所陳不虚。謹請官裁者。右大臣宣。奉勅。依請者。省宜承知。依宣行者。国宜承知。依件行之者。具録下千預二改姓・之人等爽名い言上如件。謹解。
意訳変換しておくと
右の通り民部省が貞観八年十一月四日に発行した符。太政官が十月廿七日の符。讃岐国府発行の解。管轄する那珂多度郡司の状。秋主等なの解状について。太政官大同二年二月廿三日符には、右大臣が奉勅し次のように記されている。
 さまざまな諸氏の雑姓が多く錯謬し。異姓も多く本源を判断するのは困難である。或いは、賤を嫌い貴を尊び、系譜の枝派は分別なく、不正も行われるようになった。実録撰定後に、何度も改訂を行ったが、改姓を申請する者が絶えない。そこで今回に限り、今年内に申請を行った者については受け付けることを諸国に通知した。その通知を受けて諸郡に通達したところ、祖父国益・道麻呂等が実録の本系帳に基づいて、改姓申請書を提出してきた。
 太政官延暦十八年十二月十九日符の趣旨に従って、伊予別公などと因支首氏は同宗であると、同十九年七月十日に申請してきた。しかし、これは認められなかった。
 申請した祖父が亡くなり、孫の秋主の世代になっても改姓が認められなかったことは、未だに悲しみに絶えられない。別公(和気公)の本姓を名乗ることを切に願う。「昆虫」すら天皇の「霧恩」を願っている。忍尾の五世孫の子孫たちで、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願する。
 このように申請された書状は、郡司が引検し、国司が審査し、推敲訂正し、謹んで中央に送られ、右大臣が奉勅した。ここにおいて申請書は認可され、改姓が成就することなった。
 引用された「太政官符」によると、改姓を希望する者は、大同二年内に申請するように命じられていたことが分かります。この命令が出されたのは、延暦18年(799)12月29日です。そこで本系帳を提出させることを命じてから『新撰姓氏録』として京畿内の諸氏族だけの本系帳が集成されるまでの過程で、改氏姓のために生じる混乱や、煩雑さをさけるためにとられた措置であったと研究者は考えています。
 因支首氏は、「讃岐国司解」に記されているように、延暦18年12月29日の本系帳提出の命令にしたがって、翌年の延暦19年8月10日に、本系帳を提出します。さらに大同2年2月23日の改姓に関する太政官の命令にもとづいて、秋主の祖父宅主の兄である道麻呂、および純雄(純男)の祖父である国益らが、本系帳とともに改姓申請を行います。ところが、この時の道麻呂らの改姓申請に対する認可は下りなかったようです。
そこで60年後に孫の世代になる秋主らが再度申請します。
「久悲二素情之未フ允」しみ、「昆虫」すら天皇の「霧恩」っていることを、切々と訴えます。そして「忍尾五世孫少初位上身之苗裔」で、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願したのです。
 秋主らが改氏姓の申請をしたのは、貞観七年(865)頃ころだったようです。こうして貞観八年(866)10月27日に、秋主らへの改氏姓認可が下ります。祖父世代の道麻呂らが改氏姓の申請をしてから数えると60年近い歳月が経っていたことになります。

実はこれに先駆ける4年前に、空海の一族である佐伯直氏も改姓と本貫移動をを申請しています
 その時の記録が『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。ここからは、佐伯直氏の成功を参考に、助言などを得ながら改姓申請が行われたことが考えれます。

以前にもお話ししたように、この時期は讃岐でもかつての国造の流れを汲む郡司達の改姓・本貫変更が目白押しでした。その背景としては、当時の地方貴族を取り巻く状況悪化が指摘できます。律令体制の行き詰まりが進み、郡司などの地方貴族の中間搾取マージンが先細りしていきます。代わって、あらたに新興有力層が台頭し、郡司などの徴税業務は困難になるばかりです。そういう中で、将来に不安を感じた地方貴族の中には、改姓や本貫移動によって、京に出て中央貴族に成ろうとする者が増えます。そのために経済力を高め。売官などで官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海やその弟真雅が中央で活躍したのを梃子にして、甥の佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が「貞観三年記録」です。ここにはどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
 「貞観三年記録」の前半には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1空海系図2
空海系図

 これを因支首氏と比較してすぐ気がつくのは、佐伯氏の場合には空海の世代からは、位階をみんな持っていることです。しかも地方の有力者としては、異例の五位や六位が目白押しです。加えて、空海の身内は、佐伯直氏の本家ではなく傍系です。
 一方、因支首氏には官位が記されていません。政府の正式文書に官位が記されていないと云うことは官位を記することが出来なかった、すなわち「無冠」であったことになります。無冠では、官職を得ることは出来ません。因支首氏は、郡司をだせる家柄ではなかったようです。
また、佐伯直氏の場合は、改姓と共に平安京に本貫を移すことが許されています。
つまり、晴れて中央貴族の仲間入りを果たしたことになります。それ以前から佐伯直氏一族の中には、中央官僚として活躍していたものもいたようです。この背景には「売官制度」もあったのでしょうが、それだけの経済力を佐伯直氏は併せて持っていたことがうかがえます。 
 一方、それに比べて、因支首氏の場合は和気氏への改姓許可のみで京への本貫移動については何も触れられていません。本貫が移されることはなかったようです。
 佐伯直氏と因支首氏(和気)の氏寺の比較を行っておきましょう。
  佐伯氏は白鳳時代に、南海道が伸びてくる前に仲村廃寺建立しています。そして、南海道とともに条里制が施行されると、新たな氏寺を条里制に沿った形で建立します。その大きさは条里制の四坊を合わせた境内の広さです。この規模の古代寺院は讃岐では、国分寺以外にはありません。突出した経済力を佐伯直氏が持っていたことを示します。

IMG_3923
金倉寺

  一方因支首氏の氏寺とされるのが金倉寺です。
  この寺は、円珍の祖父である和気通善が、宝亀五年(774)に、自分の居宅に開いたので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じパターンです。これは近世になってからの所説です。先ほど系図で見たように、円珍の祖父は道麻呂です。また、この寺からは古代瓦などは、見つかっていないようです。
因支首氏から和気公へ改姓申請が受理された当時の因支首一族の状況をまとめておくと
①全員が位階を持っていない。因支首氏は郡司を出していた家柄ではない。
②改姓のみで本貫は移されていない
③因支首氏は古代寺院を建立した形跡がない。
  ここからは、因支首氏が古代寺院を自力で建立できるまでの一族ではなかったこと、旧国造や郡司の家柄でもなかったことがうかがえます。
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参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師(円珍)坐像 根来寺
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。系図を見る前に、次の事を押さえておきます。

 伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつの部分に分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり、これは①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。研究者は、接ぎ木された部分(人物)を「継いだ」と云うようです。この継がれた人物を見分けるのが、系図を見る場合のポイントになります。

さて、この系図からは何が分かるのでしょうか?

円珍系図5

まず①の伝説部分からみていきます。この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことを記します。
それでは一族の始祖になる武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?
 武国凝別命は豊前の宇佐国造の一族の先祖で、応神天皇や息長君の先祖にあたる人物になるようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。 
この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか
 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって因支首氏は和気氏に連なろうと試みたようです。その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 改姓申請で稻木氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

 円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀が経っています。
  智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵 江戸時代の模写)

円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。
   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。
この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

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