瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:国家的祈雨の成立

「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
御遺告 10世紀半ば成立
 空海の請雨伝承を伝える史料は『御遺告』と『大師御行状集記』が代表的なものとされます。このふたつは成立年代がちがうので、空海請雨伝承に違いが出てくるのは当然です。しかし、それ以上に両者の内容は隔たりがあり、全くちがう話と言ってもよいほどです。どうしてこんなに内容が異なるのでしょうか。今回はこのふたつを比較しながら見ていくことにします。テキストは「籔元晶   国家的祈雨の成立」です。
   『御遺告』は、空海の遺言を記録したものというスタイルなので、成立は空海が没した承和二年(835)ということになっています。しかし、それを信じる研究者はいません。実際は百年後の10世紀半ばと研究者は考えています。御遺告は、空海の祈雨祈願について次のように記します。
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 従爾以降帝経四朝奉為国家建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺御願祈雨霊験其明。上従殿上下至四元。此池有竜王名善如。元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心。以何知之。御修法之比托人示之。即敬真言奥旨従池中・現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色長八寸許蛇。此金色蛇居在長九尺許蛇之頂一也。見此現形弟子等実恵大徳并真済真雅真照堅慧真暁真然等也。諸弟子等敢難覧着。具注言心奏聞内裏。少時之間勅使和気真綱御幣種種色物供二奉竜王。真言道崇従爾弥起也。若此池竜王移他界浅い池減水薄世乏人。方至此時須不火知公家私加中祈願上而已。

  意訳変換しておくと
神泉苑での祈雨が行われる理由は、この池に天竺の無熱達池にいた善如竜王が棲んでいるからである。その姿を空海は、正月の後七日の御修法の時に人々に示した。その姿は八寸ばかりの金色の蛇で、九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っており、その姿を見ることができたのは七人の弟子に限られており、他の弟子は見ることができなかった。そのことを天皇に奏上すると、和気真綱が勅使となって竜王を祀ることとなった。このことによって、真言宗はますますさかんとなったのである。そして、もしこの竜王がよそへ移るようなことがあったならば、公家に相談せずともすぐに真言宗の僧侶が祈願をしなければならない。

読んで気がつくのは、空海による祈雨が話の中心に据えられていないことです。中心は、善如竜王が神泉苑に棲んでいるという所にあります。作者の一番伝えたかったのは神泉苑で祈雨を行うことの意味だったようです。なぜ神泉苑という場所で祈雨を行うのか、神泉苑が祈雨の場所としてなぜふさわしいのか、その理由を善如竜王が棲むということ説明しています。ここでは、話の中心は善如竜王で、空海ではないこと、そういう意味では御遺告の雨乞祈願は「善如竜王出現譚」とも云えることを押さえておきます。

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神仙苑に現れた善女龍王
 この内容は神泉苑での祈雨を行うことについての理由付けです。この話が生まれてくる前提を考えると、実際の神泉苑で祈雨が行われるようになってから出来上がったことが推測できます。つまり、真言宗が神泉苑での祈雨を行うようになってから作られた話であることを押さえておきます。それでは、その説話の成立はいつ頃のことなのでしょうか 。
真言宗による神泉苑での祈雨が定着するのは延喜8年(908)以降のことのようです。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
被綸旨云。炎気日増。雨雲永隠。田水忘溝。農業納鍬。皇情御歎。相同湯代。爰聞無熱池水通神泉。阿御竜類移法水。加之祈請者弘法祖師之慈悲願力応化者。善如竜王利生誓力。仰而仰之。憑而憑之。但任先例。〔率〕廿口伴僧。於大師霊験古跡。可被勤修請雨経法也者。綸旨如此。悉之。
長暦二年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
意訳変換しておくと
 炎気は日増しに高まり、雨雲は見えない。田に水はなく、農民は鍬をおさめたままで旱魃に苦しんでいた。天皇はこれを嘆き、救済したいと願った。ある時に①無熱池水が神泉苑に通じていること。龍が雨を降らせること、②祈請者の弘法大師の慈悲願力によって③善如竜王に祈雨を祈祷して雨を降らせた先例があることを聞き及んだ。そこで20人の高僧を引き連れて、④大師霊験古跡の神仙苑で請雨経法を襲封させた。綸旨如此。悉之。
 長暦二(1038)年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
ここには次のような事が記されています。
①無熱池水が神泉苑に通じていること。
②空海の験力のこと、
③善如竜王のこと
大師霊験古跡の神仙苑
これを書いた人が『御遺告』をベースにしていることが分かります。つまり『御遺告』記載の空海請雨伝承の成立年代は、延喜八(908)年から長暦二(1038)年までの間と研究者は推測します。
 
 次に、『大師御行状集記』(以下『行状集記』)の空海請雨伝承を見ていくことにします。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。

 又或曰。淳和帝御即位天長元年甲辰。依旱災 奉勅於神泉苑。可修請雨之法者。爰守敏大徳奏状僊。守敏已上陽也。同修之。須先勤仕。而令雨西京者。依請早修者。即以勤仕。七箇日結願之朝。西京如暗夜 雷響尤盛也。其雨成洪水 衆人感嘆也。但遣使令検地之処。雨界内不及山外云々。亦大師勤修 雖経七日無雨。大師入定思惟。守円大徳駈取諸竜 既入水瓶已云々。即出定 延修二ケ日夜。大師告曰。池中有竜王 号曰善如 元是無熱達池竜王之類所勧請也云々。乃至結願之日。重雲覆天雷鳴於四方急降膏雨・池水涌満。至于大壇之上 自是以後。三箇日之間普雨三天下 自然傍佗。水愁已以絶。賀其功一任小僧都慶賀之間不好有威勢出入之処自然施面目・云々。
意訳変換しておくと
天長元年(824)に旱魃があり、神泉苑で請雨経法を修するように勅が下った。そこで、守敏は自分が上陽であることを主張し、先に西の京に雨を降らすことになった。そして、西の京が洪水になる程雨が降った。しかし、検分したところ、狭い範囲でしかなかった。
 次に空海が祈雨を行ったが、七日たっても雨が降らなかった。そこで入定して考えたところ、守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めていることが分かった。そこでインドの無熱達池の善如竜王を神泉苑に勧請して雨を祈った。そうしたところ、三日間雨が広く降ることとなり、その功績によって空海は少僧都に任じられた、という。

 このように『行状集記』では、神泉苑での空海の祈雨は守敏との験比べという形で書かれています。この話は「空海の守敏との祈雨の験比べ譚」とも云える内容です。先ほど見た御遺告の内容と大きく違います。これと同じモチーフが天永二(1111)年成立と言われる『本朝神仙伝』や元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』にも載せられていて、伝承として定着していったことがうかがえます。
2善女龍王 神泉苑2g
 ところが、同時期の成立とされる『今昔物語集』には、この「守敏との験比べ」のエピソードは出てきません。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。

今昔、□□天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ尽たるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此れを歎かずと云ふ事無し。其の時に、弘法大師と申す人在ます。僧都にて在しける時に、天皇、大師を召て、仰せ給て云く、「何(いか)にしてか、此の旱魃を止て、雨を降して、世を助くべき」と。大師、申て云く、「我が法の中に、雨を降す法有り」と。天皇、「速に其の法を修すべし」とて、大師の言ばに随て、神泉苑にして請雨経の法を修め給ふ。七日に法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。見れば、五寸許の金の色したるを戴けり。暫許(とばかり)有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。而るに、廿人の僧、皆居並たりと云へども、其の中に止事無き伴僧四人こそ、此の蛇を見けれ。僧都はたら更也。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有て、僧都に申して云く、「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。僧都、答へて宣はく、「汝ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池と云ふ池有り。其の池に住む善如竜王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて、現ぜる也」と。而る間、俄に陰(くもり)て、戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆な普し。此れに依て、旱魃止ぬ。此より後、天下旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へたる人を以て、神泉苑にして此の法を行なはるる也。而るに必ず雨降る。其の時に阿闍梨に勧賞を給はる事、定れる例也。于今絶えずとなむ語り伝へたるとや。」

ここには弘法大師の神仙苑での雨乞祈祷は記されますが、「守敏との験比べ」の話はありません。詳しく見ると『行状集記』と今昔物語を比較すると細かな点に多くの違いがあります。これは、時間経緯と共にかなり口承化が進んでいたことをうかがわせるものです。

2善女龍王2
神仙苑に招来された善女龍王と空海

 また、「今昔物語集」には別な話として、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語 第四十」があります。
その内容は修円が加持をして生栗を煮て天皇に献じますが、空海がそれを妨害したことによりお互いに呪咀するようになります。そこで、空海は死をよそおって修円を油断させて、呪咀して殺すという話です。この二つの話と非常に関係が深い守敏との祈雨の験比べ譚が、『今昔物語集』にはないのです。これについて研究者は次のように記します。

「当時一般に口承化されていた空海の請雨伝承は、『御遺告』に見られる善如竜王出現譚が主流であった。『行状集記』に見られる守敏との祈雨の験比べ譚は、まだそれほど一般に広まっていなかった」 

守敏との祈雨の験比べ譚が初めて登場した『行状集記』の時点では、口承伝承としてはこの話はあまり知られてなかったことが推測できます。そうだとすると『行状集記』の成立した寛治三(1089)年を余りさかのぼらない時期に、この説話が誕生したことになります。
実はこれと関係する出来事が、永保二年(1082)7月16日の範俊と義範の神泉苑の祈雨をめぐる事件なのです。『祈雨日記』は「大蔵卿為房記」を引用して次のように記します。
 今日神泉苑以阿闇梨範俊匹被行請雨経法。先例先被仰一宗長者。次及此門徒云々。一宗長者信覚僧正一門 上陽義範律師也。義範隠居山門之故欺。人以相傾云々。範俊奏云。義範吾弟子也。越吾不可修此法云々。但宣下修之。爰義範難思登上醍醐山真言参龍居発願云。仰願大師三宝。吾若彼弟子者。雨必降給。若又彼奏虚妄者。不可雨降。心誓願祈念三宝。遂雨不降。範俊此間於真言院勤修愛染王云々。
 ここには神泉苑で範俊が請雨経法を行ったことが最初に記されます。しかし、先例からすると義範が行うべきものであったようです。そこで、義範は範俊に対抗して、醍醐寺にこもって止雨の法を行ったというのです。これを読んで気がつくことは、空海と守敏との祈雨の験比べ譚と次のように類似点が多いことです。
①神泉苑での請雨経法をめぐっての対立であること
②実施者の決定に際して上屋などの理由がうんぬんされていること
③一方が祈雨を行っている時に、もう一方が止雨を行っていること
ここからは、この事件を元にして「空海と守敏との祈雨の験比べ譚」が生まれたことが推測できます。そうだとすると守敏との祈雨の験比べ譚は永保二(1082)年から寛治三(1089)年の間に成立したことになります。

弘法大師雨乞祈願伝承


 次に『御遺告』の善如竜王出現譚と『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚が空海請雨伝承の展開の中でどのように位置付けられているのかを見ていくことにします。
 空海請雨伝承の成立期の内容は、『贈大僧正空海和上伝記(寛平七年(895)成立』にあるように、天長年中に空海が神泉苑で祈雨を行い、その成功によって少僧都に任じられたというシンプルなものでした。それに続いて、十世紀に『御遺告』の善如竜王出現譚が成立します。御遺告は『贈大僧正空海和上伝記』の伝承をもとにしていること、そして直接的には祈雨場面について語っているものではないことは、先ほど見てきた通りです。空海の遺言という形を取りながら、神泉苑が祈雨の場としてすぐれている理由が述べられていて、その重点は神泉苑と真言宗の深い関係にあります。つまり、空海の祈雨そのものを説いた説話とは言えず、空海請雨伝承から少し離れた位置にある説話であったと研究者は考えています。 ここでは『御遺告』の善如竜王出現譚は、厳密には空海請雨伝承とは言えないことを押さえておきます。
2善女龍王 醍醐寺2
唐服姿の善女龍王
しかし、時間とともに空海の祈祷場面の方が重視されるようになります。
空海の伝記の一つで『御遺告』より成立が後とされる『金剛峯寺建立修行縁起』は、次のように記されています。
天長元年甲辰依旱災奉勅於神泉苑請雨経法 長八寸許金色竜王。現在二九尺許蛇頂是無熱池河女危
 
①天長元年の祈雨の場面となっていて、そこに善如竜王が出現したこと
②『贈大僧正空海和上伝記』などの初期の空海請雨伝承に、『御遺告』の善如竜王出現譚が挿入・接ぎ木されたもの
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること

神仙苑の祈雨法一覧
上表を見ると神泉苑での祈雨については、初期の段階では請雨経法と孔雀経法の両法が行われています。また請雨経法がまさっているとは書かれていません。いろいろな流儀で雨乞が行われていたのです。それが延長七年(929)からは、請雨経法だけが行われるようになります。この時期に、空海の祈雨法が請雨経法へと限定されたことが分かります。それは醍醐寺の聖宝から観賢の時期にあたります。この二人によって弘法大師伝説は作られていったとされます。
 こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
 また「結願之日(中略)自然傍詑水愁已絶」の文は、これは『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚の中の文とほぼ同文です。ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚が、『弘法大師伝』を参考に書かれたことが分かります。
 以上のように、『御遺告』から『行状集記』までの期間は、『御遺告』の善如竜王出現譚を取り込む形で空海請雨伝承の発展が見られ、そこに天長元年のこと、請雨経法のこと、善如竜王勧請のことが盛り込まれていったことになります。その中心にいたのが聖宝や観賢ということになります。

観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージア

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   前回は、国家による祈雨が天武朝から行われるようになったことを見てきました。そこでは、律令などの政治制度を取り入れる中で、国の祈雨祈願システムも整備されたことが見えてきました。
 ところで、当時の人たちは旱魃などの自然災害が、なぜ発生すると考えていたのでしょうか。今回は、その疑問を探って見ようと思います。テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。
   持統天皇が亡くなった翌年の慶雲(けいうん、きょううん)2年のことです。
「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、大宝4年の持統天皇の葬儀の後に、この雲が藤原京の空に現れます。これを契機に改元されたようです。当時の政治情勢は、実際に施行されはじめた律令と、現実運用とのギャップが至る所から吹き出してきて不協和音を奏で始めていました。そのため現場に即した細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになります。また、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)には連続的に飢饉が発生し、税体系の不備と重なって貧窮・没落する農民が急増しました。その救済策も求められます。

このような中で文武天皇は、次のような詔勅を出します。
『続日本紀』慶雲二年(七〇五)四月三日の記事です。
 詔して曰はく、「朕非薄(ちんひはく)の躬(み)を以て、王公の上に託(つ)けり。徳、上天を感(うごか)し、仁、黎庶(れいしょ)に及ぶこと能はず。遂に陰陽錯謬(あやま)り、水旱(すいかん)時を失ひ、年穀登(みの)らず、民をして菜色多からしむ。此を念ふ毎に、心に闘但(いた)めり。五大寺をしてて金光明経を読み、民の苦しみを救ふことを為さしむべし。天下の緒国、今年の挙税(こぜい)の利そ収むること勿(なか)れ 併せて庸の半を減せ」
意訳すると前半部で
「自分は非薄の身で王位にあるが、その徳は天帝の心をうごかすことも、その仁は民に及ぼすこともできない。ために凶作をまねき、民に飢者が多い。それを思うと悲しみにたえない」

とあります。つまり、水旱の発生を自分の不徳に原因があるとしています。そのための対応策として、五大寺に金光明経を輪読させ、民の苦しみを救うと共に、本年度の租税免除と庸の半減を打ち出しています。
続いて元正天皇は、続日本紀』養老六年(722)七月七日の詔勅で、次のように述べています
  詔して曰はく「陰陽錯謬(あやま)り、災旱(さいかん)頻(しきり)に至りぬ。是に由りて幣(みてぐら)を名山に奉りて、神祇を尊祭す。甘雨降らず、黎元業を失へり。朕が薄徳、此を致せるか。百姓何の罪ありてか、樵萎(ぞうふ)すること甚しき。天下に赦して、国郡司をして審(つばい)らかに冤獄を録し、屍(かばね)を掩ひて荷(死体)を埋み、酒を禁めて屠(ほふ)りを断たしむべし。高年の徒には、勤めて存撫を加へよ。(中略)」とのたまふ。

意訳すると
 旱魃に対して、祈雨の奉幣を各地の名山に奉ったが雨は降らない。これは私の徳が薄いことによるのであろうか、百姓には何の罪もないとして、国司や郡司にたいして、特赦の実施を命じています。さらに、死体処理や高齢者慰撫など具体的な指示も出しています。
 ここでも、天皇の薄徳が旱魃の原因ではないかと考え、その対策として大赦等を行っています。
 このように、天皇の不徳によって水旱の災が生じるという記述が、持統亡き後の天武朝の天皇たちには見られるようになります。これは聖武天皇にも引き継がれ、その打開策として鎮護仏教導入政策をとり東大寺・国分寺造営に繋がっていきます。
「旱魃=天皇の不徳」とする認識は、どこからきたのでしょうか?
どうやらその源は、中国のありそうです。『後漢書』「粛宗孝章帝紀第三」の五年(八〇)甲中条には、旱魃に対する皇帝の対応が次のように記されています。
 詔して曰わく「「春秋」に麦苗無しと書するは、之を重んずればなり。去秋、雨の恵みは適わず、今野亦旱(ひでり)し、炎の如く焼くが如し、凶年は時無く、而して備えを為すこと未だ至らず。朕の不徳、上は三光を累わせ、震慄とうとうとして心を痛め首を病む。前代の聖君、博く思いて、災の咎めを降すと雖も、即ち函を開いて風を返すの応有り。今、予(われ)小子、徒に燦々たるのみ。其れ二千石をして牢獄を理(おさ)め、五岳四徳及び名山の能く雲を興し雨を致す者に祈って崇朝ならずして、遍く天下に雨ふらすの報いを蒙らんこと請願わしめよ。務めて粛敬を加えよ」

とあります。この後漢の孝章帝の詔の中には、旱魃の発生を「朕の不徳」とする言葉があります。そして、その対策として、裁きを公正にし天下の名山や五岳などで祈雨を行うよう命じています。このような記事は、当時の中国の史書には数多く見られます。当時の日本は
「政治的には律令、宗教的には鎮護仏教、文化的には漢字」
を移植させる「中国化政策」が、国策として展開中でした。そのような「中国ブーム」の中で天皇のブレーンも、唐から帰国した人たちが多くなります。自然と中国の史書の表現を手本にして、公文書や詔勅も作られるようになります。中国の皇帝思想も、ストレートにそのまま文章化されたようです。
 この時期、天皇が中国思想に大きく傾倒している様子は、『続日本紀』和銅八年(七一五)六月十二日の条にも見えます。
ここには、中国の故事が紹介され、中国の皇帝が旱魃に対して熱心に関わっていたことが紹介されています。そして、諸社奉幣の後に数日を待たずして雨が降ったことから
「時の人以為へらく、聖徳感通して致せるなりとおもへり」
と記します。天皇の徳が天帝に通じて雨が降った、と人々が理解していると記されています。ここにも儒教の徳治主義思想がもてはやされ、全面的に受け入れられようとしている姿がうかがえます。同時に「先進国中国」への強い憧れのようなものが感じられるのです。

 水旱の原因を天皇の不徳とする見方も、中国伝来のようです。
 お上は「旱魃=天皇の不徳」を「公式見解」としていたかもしれませんが、当時の庶民感覚と一緒だったとは云えません。それは明治の文明開化を先導する西欧帰りの福沢諭吉と庶民の意識の差に似ているかもしれません。そして、奈良時代の終わりになると「旱魃=天皇の不徳」説を原因とする記事は激減します。まるで、一時的なブームであったかのように・・・。
    
  「旱魃=天皇の不徳」説に代わって登場してくるのが、神の崇(たたり)とする考えです。

「旱魃=神の祟り」説の記事は、紀記にはありません。これの初見は『日本紀略』大同四年(809)七月三日の次の記事です。
遣使於吉野山陵(井上内親王)。掃除陵内、併読経 以几旱累旬山陵為也。

 井上内親王の吉野山陵に使いを遣わし、陵内の掃除と読経を行わせたとあります。その理由は旱魃が長期間にわたっているのは、山陵が崇をなしているからだろ云うのです。
 これ以後、旱魃を神の崇とする記事が増えます。20年ほど後の天長九年(832)5月19日には、『釈日本紀』に次のようにあります。
  令卜巫充旱於内裏。伊豆国神為崇

旱魃の原因を内裏で占わせたところ、伊豆の国の神が崇をなしていることが判明しているというのです。
『続日本後紀』承和八年五月十二日の条には、
「旬にわたって雨が降らないので、崇ではないかと占わしたところ、山陵に遣わせた例の貢ぎ物がなされていないことによる崇であると結果が出た。また、香椎廟も同じく崇をなしているという卜が出た。驚いて調べさせると、所司が言うには、去年よりこの二年間荷前を安易に陵戸人にさせたので、きっと供えていないこともあったであろうということである。今、恐れかしこまって先々そのようなことがないようにして奉ります。香椎廟にも専使を遣わせて謝罪します。和気真綱を遣わせて謝罪し祈願しますので、お聞きになって直ちに甘雨を降らせていただきますように慎んで申し上げます」
とあります。
   以上のように、平安時代になると、旱魃を崇によるものとする記事が増えます。それまでは国家の公式見解としては、「旱魃=天皇の不徳」説がとられてきました。ところが「崇」へと急速にシフトしていくのです。その背景には何があったのでしょうか?
それをある研究者は次のように説明します
 平安時代になって、急に墳墓(山陵)の崇りを云うようになって来た。(中略)皇太子(平城天皇)による病気の原因が崇道天皇の崇りであるといったのは「卜」であった(793年)。柏原山陵の崇りを指摘したのも「卜」であり(806年)、大極殿失火のことをいったのも「卜」であった。
 そうすると、神祇官の下で出された「卜」による山陵の崇りに苦しめられた天皇の姿がここにあるということになるであろう。このような点から見るとき、荷前制は神祇官を掌握した人の嵯峨天皇・淳和天皇、引いて空海らへの攻撃であったということになるのではなかろうか。
 神祇官によって「卜」という形で、山陵の崇が作り出されるようになったと研究者は考えているようです。さらに視野を広げると、この時期に登場する崇(たたり)事象は、旱魃だけでなく、天皇の不徳を始めとして、地震・災異・火災などいろいろなものに及んでいます。それらの崇事象は、宝亀年間(770~)頃から増えているようです。そこには、卜部の組織化を行った大中臣清麻呂の姿が垣間見えると云います。彼が、権力闘争の道具として神祇官の卜部による亀卜をもとに崇現象を広めたという見方ができるようです。
 ともかく、旱魃も含めてさまざまな災の原因を崇によるものとする考えが、奈良時代末から平安時代にかけて、神祇官によって増幅させられたようです。その流れの中で、旱魃原因も崇によるものとされるようになっていったのです。
そんな中で注目されるのが、『続日本紀』天平宝字七年(763)九月一日条の記事です。
 勅して曰わく「疫死数多く、水旱時ならず、神火屡至(しばしばいた)り、徒(いたずら)に官物を損ふ。此は国郡司等の国神に恭(うやうや)しからぬ咎(とが)なり(中略)」とのたまふ。

 ここで初めて災害の発生を「国郡司等の国神に恭しからぬ咎なり」という新しい見解が出されています。これは「災害を加えているのは、天帝でなく国神」という新見解です。それまでは「咎」といえば、中国風に天帝によるものとされてきたのです。中国の「天人相関思想を、そのまま受けいれる形で「旱魃=天皇の不徳」説として、公式見解としていたことは先に見た通りです。このような流れの中に「国神に恭しからぬ咎」説が登場してきます。これは視点を変えると、土地神に対して国司や郡司が十分に祭らなかったために起こった災害ということになります。もう少し進めるとこれは崇現象に近づいていきます。つまり国神による崇とも云えます。同時に視点を変えると「天皇の不徳による旱魃」説から天皇は解放されることになります。朝廷にとっては、魅力的な説であったかもしれません。   
以上をまとめておくと
①奈良時代は中国の影響を受けて「旱魃=天皇不徳」説が国の公式見解となっていた
②奈良時代の終わり頃から神祇官によって「旱魃=崇」説が広まられようになる
③これは権力闘争の道具としても使われ、神祇官の地位の向上につながった。
④結果的に平安時代を通して祈雨祭祀に関わる人たちが重視されるようになった
⑤その後には、旱魃が崇によるものかどうかを卜う卜占に、陰陽寮も参加するようになる
  このような動きは陰陽道に仕える人たちの社会的な「地位の向上」をもたらしたことは、容易に想像ができます。

  旱魃の際に、丸亀藩が善通寺に対して雨乞祈願を命じています。藩の正式な命を受けて、善通寺は雨乞祈祷を行っています。そのことを最初に知ったときには不思議に感じました。なぜなら雨乞いは旱魃に苦しむ庶民が自発的に、村々で行うものという先入観が私にはあったからです。
 しかし、考えて見ると王権と治水灌漑が密接な関係にあったことは中国の禹伝説に見る通りです。治水灌漑を行い、水をコントロールし、それを水田に提供できる者が「治者」として、支配の正当性を得てきました。そこからは
「水を治めるものが、国を治める」
という概念が生まれます。
 江戸時代の讃岐生駒藩で、大干ばつが頻発し、藩政が危機的な状況に陥ったときに、その保護者であった藤堂高虎が命じたことは大規模なため池を各地に作らせることでした。難局打開のために藩が汗を流している姿勢を見せ、そこに百姓を動員し関わらせることによって藩内の求心力の核を作り出そうとする政治的な思惑もあったかもしれません。ため池築造や河川工事のために藤堂高虎が派遣していた西嶋八兵衛は、その際に「禹」碑を建立しています。ここからは藤堂高虎や西嶋八兵衛にも「水を治めるものが、国を治める」という統治意識が心に刻まれていたことが分かります。
 しかし、ため池ができても、水は確保できるとは限りません。
雨が降らなければ、貯めようがないのです。雨を降らせる力も王たる者には求められたようです。王は「レインメーカー」であり、雨を降らせる能力を持つ者こそが,王権を維持できたと云えるのかもしれません。そして、古代国家の成立と共に、王の呪術的力による雨乞いから、国家による組織的な雨乞いへと変化、成長するようです。今回は、その過程を見ていこうと思います。
 テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。

旱魃そのものが『日本書紀』に記載されるは、推古天皇36年(628)のことです。その四月の条に、次のように記されています。
  春より夏に至るまでに、旱(ひでり)す。
 この記事の後は、舒明天皇八年(636)・皇極天皇元年(642)と連続して見られます。舒明天皇八年の条には、
  是歳、大きに旱して、天下飢す。
とあり、皇極天皇元年六月の条には、
  是の月に、大きに旱る。
とあります。そして、この年の7月に初めて祈雨の記事が登場します。大化の改新の直前になって、国家にとっての異常気象や災害の意味を受け止め、記録しようとする意識が形成され始めたようです。
祈雨の初見記事である皇極天皇元年(642)の記事を見てみましょう。7月から8月にかけてのことです。
 秋七月(中略)戊寅に、群臣相語りて曰はく、
「村村の祝部の所教(おしえ)の随(まま)に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市を移す。或いは河伯(かわのかみ)を祷る。既に所敷(しるし)無し」といふ。

7月の末から雨が降らず旱魃が続きます。そこで、まず群臣が神祇的な方法でいろいろと祈雨を行います。 祈雨のために民衆がどんなことをやっているかを見てみると
①村々の祝部の教えるところに従って、牛馬を殺して諸社の神を祀ったり、
②何度も市を移したり、
③河の神に祈ったり
しています。その方法は、中国の史書に出てくる祈雨と、殆ど同じのように思えますが、ともかく神に対していろいろな方法で祈雨を行っています。しかし、効果がありません。
   蘇我大臣報(こた)へて曰はく、
「寺寺にして大乗経典を転読みまつるべし。悔過すること、仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈(こ)はむ」といふ。庚辰(27日)に、大寺の南の庭にして、仏菩薩の像と四天王の像とを厳(よそ)ひて、衆の僧を屈(いや)び請(ま)せて、大雲経等を読ましむ。時に、蘇我大臣、手に香炉を執りて、香を焼きて願を発す。辛已(28日)に、微雨ふる。壬午(29日9に、雨を祈(こ)ふこと能はず。故、経を読むことを停む。
続いて、蘇我大臣蝦夷が「寺寺に命じて大乗経典を転読」させるという仏教的な方法で降雨祈願を行います。その結果、わずかに雨は降りますが、水不足解消には至りません。そこで女帝皇極天皇の登場です。

 八月の甲申の朔(一日)に、天皇、南淵の河上に幸して、脆(ひざまづ)きて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。溥(あまね)く天下を潤す。或本に云はく、五日連に雨ふりて、九穀登り熟めりといふ。是に天下の百姓、倶に称万歳びて曰さく、「至徳まします天皇なり」とまうす。
 
そこで、皇極天皇が南淵の河上で祈雨を行うと、たちどころに5日間にわたり雨が降り、水不足は解消します。これに民衆は「至徳まします天皇なり」と、讃えたというのです

 ここには、蘇我蝦夷が行うと小雨で、天皇が行うと大雨という対比の仕方から、天皇の呪力の方が蝦夷の呪力よりも勝っていたことを伝えることに書紀の重点は置かれているようです。
そのことを配慮しながら焦点を当てたいのは、祈雨行為を誰が行っているかです。
 祈雨は、どうも群臣がそれぞれ別個に行っているようです。祈雨について話し合われた場には、群臣が集まり、蘇我蝦夷もいます。ここは朝議の場のようです。そこで「群臣相語りて曰はく」と、政権要人たちがそれぞれに自分の所で行った祈雨についての報告をしているシーンととれます。朝議で、祈雨のことが話されているとしておきましょう。これは旱魃への対応(=祈雨の実施)が国の政治的な検討課題となっていることがうかがえます。
 この記事からは、朝廷が音頭を取って祈雨を行っているようには見えません。
群臣たちがばらばらに、それぞれの神々に対して祈雨祈願(祭)を行っているのです。このようなあり方が、この時期までの国家の祈雨のあり方であったと研究者は考えているようです。
敗者の日本史(蘇我蝦夷) - 慶喜
 それに対して、国家的見地に立って祈雨を行おうとしたのが蘇我蝦夷です。
 彼は、寺々に大乗経典を転読させています。いかにも、仏教を重んじた蘇我氏らしい方法です。ここにある寺々というのは、豪族たちの建てた氏寺を含めてのことでしょう。それらの寺々に対して、具体的な祈雨の方法を命じて行わせている様子が見えてきます。別の視点から見ると、蝦夷は国家レベルでの祈雨を計画し、自分がその主導者として命じているように思えます。古代国家体制の構築を推し進める蘇我氏らしい対応です。蝦夷が実際に、自分自身で香炉を手にして祈雨を行ったかどうかは別にして、蝦夷が国家レベルでの祈雨を命じる立場にあったことはうかがえます。
皇極天皇|乙巳の変、譲位、重祚を経験した歴史上2人目の女帝 | 歴代天皇
 最後に、皇極天皇が登場し祈雨を行います。
 その方法は、天皇自らが南淵の河上で四方拝を行っています。
 実は、この時点で天皇が行える祈雨の選択肢は、あまりなかったようです。仏教的な方法は、蝦夷がすでに行っています。天皇が普通に神を祀るのであれば、それは天皇家が私的に祈雨を行っていることにしかすぎません。後世に見られるような諸社に奉幣するという形での祈雨も、この時代には不可能だったようです。なぜなら、当時の豪族たちは、自分の支配する地域に対して絶対的な宗教的権威を持っていました。そこへ奉幣するということは、一種の宗教的な介入ともなりかねません。この段階でそこまですることは無理と研究者は考えているようです。
 そうすると選択肢は、次のふたつしかなかったようです。
①中国風の方法をとるか、
②あるいは神祇的でも特異な方法をとる
 そこで皇極天皇は「四方拝」というスタイルで、自分自身で祈雨祈願をおこなったようです。
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蝦夷と皇極天皇のやり方を比べると、蝦夷が国家が命令を下す形で組織的に祈雨を行おうとしたのに対して、皇極天皇の動きは個人プレー的な傾向が強いように思えます。大王が自ら天に祈るというのでは、卑弥呼の時代と変わりません。
 紀記の中には、扶余の国の話として、旱魃で五穀の実らないのは王の咎であるとして、王を取り替え、あるいは、王を殺そうとしたと記されています。ここからは
①大王にも、レインメーカーとしての性格が備わっていた
②祈雨祈願の霊力を持たない王は「革命」されたり、殺された
ことがうかがえます。
もし、大王が祈願し雨が降らなければ、どうなるのでしょうか?
大王の威信は落ち、面目は丸つぶれです。国家の安泰を図るためには、大王自身が祈雨するのは、避けなければならない時代がやってきていたのです。そのためのシステム作りが課題であったはずです。
 その政治的な課題を蝦夷は認識していたとも考えられます。これは、当時の両者の置かれた政権内部での位置とも関係するのかもしれません。国家的祈雨への動きは、蘇我氏の主導で進められていたようです。
 国家的祈雨の成立
   テキストでは次に、日本書紀に見える異常気象の略表を示します。
一番左欄の○が旱魃が記された年、◎が祈雨が行われたことが記された年です。
2番目欄は祈雨の効能で、△が少々の雨、△(内側に○)が大雨、3番目欄は、その他の天候です。

2  古代祈雨年表

先ほど見た642年に行われた「皇極天皇の祈雨祈願」は、○→◎と示されます。これが書紀の最初の祈雨祈願行事になります。これ以前の推古朝から旱魃や霜・大風など天候異変の記事が数多く記録されていることが分かります。テキストは、この期間を「第1グループ」としています。
 しかし、第1グループの後30年ほど旱魃などの天候不順記事は見られなくなります。この空白期は、何を意味するのでしょうか?
 この期間は、霖雨についての記事が二例ばかりあるだけで、旱魅についての記事がありません。この時期には旱魃が起こらなかったのでしょうか? それはないでしょう。
第ニグループの天武朝・持統朝の約30年間には、20件以上の祈雨を行っているのです。この当時は旱魅に悩まされていたことがうかがえます。謎の空白期にも、旱魃には見舞われていると考えた方が自然です。
 なぜ日本書紀には「異常気象」が書かれなかったのでしょうか?
考えられることは2つです
①『日本書紀』の編纂段階で、この期間だけ故意に旱魃の記事を省いた
②『日本書紀』の編纂に用いた原史料に、この時期の旱魃の記事がなかった
①について、中国では天候不順は、皇帝の支配力のなさを示すもので「革命」の要因とされました。大化の改新クーデターの正当化のために、天候不順記事をその前に並べることで、蘇我氏政権を否定的に示そうとしたのかもしれません。そして、中江大兄の権力掌握後には、天候不順記事を減らしたというのは考えられることです。この期間にには霖雨の記事が2つあるだけです。

 ②については、①と関連して、天智天皇の記録者たちが旱魅の記事を記録していないために、書紀編纂者は、書こうにも書けなかったのかもしれません。第一グループと第ニグループの間の空白期間は、旱魃も含めて異常気象に対する記録化の態度が弱まっていたようです。
 天武朝以後の神祇的祈雨は?
 表を見ると第ニグループになると、旱魅と祈雨の記事が急激に増加します。同時に、その他の天候についての記事も増えています。この時期は、異常気象全般に対しての問題意識が高まってきたことがうかがえます。
   その中でも、特に増えているのが旱魅と、その対応です。
表を見ると、この期間23年間の内の半分を超える14年に旱航や祈雨の記事があります。そして、以前とは違って、旱勉の記事があれば必ずそれに対する祈雨の記事があるという風にペアになっています。それとは逆に、旱魅の記事は漏れていても、対応策としての祈雨の記事のみが記されていることも増えます。
 ここから考えられることは、旱魅が起こった場合には、必ず国家としてその対応策として祈雨を行うようになったことがうかがえます。つまり、国の政治的行為としての祈雨が確立したと研究者は考えているようです。このような祈雨を国家行うようになるのは、この図からは天武朝の第2グループの時期からのようです。
それでは、どんな方法で祈雨を行っていたのでしょうか。
第2グループの祈雨の記事初見は、天武天皇五年(676)です。

 是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛(みてぐら)を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。然れども雨ふらず。是に由りて、五穀登(みな)らず。百姓飢ゑす。

 ここでは、諸神に奉幣するとともに、僧尼が三宝に祈るという方法をとっています。
ところが、翌年の天武天皇六年の五月になると、
   是の月に、旱す。京及び畿内に(あまごい)す。

 というように、「零」という文字が使われるようになります。「零」とは、中国で雨乞をさす言葉だそうです。残念ながら、それらのいずれも「零」の一文字なので、具体的な祈雨内容は分かりません。『続日本紀』になると、表現に変化が現れます。文武天皇二年(698)五月一日の条に、
  諸国旱(ひでり)す。因て幣帛(みてぐら)を諸社に奉る。

 とあり、諸社に対して奉幣を行うという具体的な行為が記されます。表現はいろいろと変わりますが。行われていた祈雨行為は、奉幣という形で祈雨が行われていたと研究者は考えているようです。

御幣の奉製 - 座間郷総鎮守 鈴鹿明神社ブログ「社務日記」
幣帛(みてぐら)

 この諸社奉幣というスタイルは、以後何百年と続いていくオーソドックスな方法です。これは祈雨だけでなく、さまざまな祈願の場でなされるものです。しかし、記録としては天武天皇五年が初見で、それ以前には見られないようです。このことから、諸社奉幣というスタイルは、天武天皇五年前後に、初めて登場したものと研究者は考えます。
 さらに問題となるのは、「諸社奉幣」です。
「奉幣」そのものは以前から見られる祭祀方法の一つですから抵抗はなかったでしょう。しかし、「諸社」に奉幣するのは、問題が多かったようです。諸社ということになると、天皇家が祀る神々だけでなく、有力豪族が祀る神々も入ってきます。国家が各豪族の祀る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を祀るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭祀権をゆさぶりかねない行為です。重大な宗教的介入と反発する豪族もいたはずです。そういう影響力を考えると「諸社奉幣」は、重大な政治的意味と背景をもって成立したと研究者は考えています。
 その背景に国家による強力な政治的・宗教的主導権の発揮がなくてはできないことです。
 天武朝というのは、それが行われるにはふさわしい時期です。天武朝は、壬申の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、相対的に天皇の地位が高まった時です。天皇による専制的な政治が実現した時期に当たります。この時期に、国家による祈雨祈願は、「諸社奉幣」という形で成立したとしておきましょう。まさに、律令的な国家体制へと向かおうとする時期の所産とも言えるようです。ここには、大化クーデター前の皇極天皇のように天皇自らが祈雨を行う姿はありません。天皇が祈願の主体者であることには変わりはありませんが、神祇的な制度の上で神々に祈願を行うようになっています。天皇の持つ個人的な霊力に、頼る必要はなくなりました。祈雨がシステム化されたと云えます。レインメーカーとしての、天皇の役割は終わりを告げたのです。同時にそれが古代における国家祈雨の始まりだったようです。
 これが生駒藩が善通寺へ祈雨祈願を行うように命じることへと繋がっていくようです。
参考文献 藪元晶 国家的祈雨の成立 
     飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」

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