瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:国料船

仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
前回は、守護細川氏の支配下の讃岐で、西方守護代を務める香川氏が在京せずに、讃岐に根付いて在地経営を強めていたこと、それに警戒感を抱いた細川勝元は、1445年に宇多津の港湾管理権を、香川氏から取り上げ東方守護代の安富氏に任せたことを見てきました。
今回は香川氏が、多度津港をどのように管理していたのかを見ていくことにします。
テキストは 「橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」所収です。前回は、香川氏や安富氏が管理運行する「国料船」や、その母港の管理権を「兵庫北関入船納帳」で見ました。「国料船」とは、京都にいる守護細川氏に対して、讃岐から物資を輸送する船に関しては、無税で海関を通過でる権利が与えられていた船のことです。その運行権を、安富・香川氏は持っていました。これは、いろいろと「役得」があり、利益があったことを前回お話しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

 国料船以外に「過書船」が「兵庫北関入船納帳」には出てきます。
「過書」として、これらも無税通行が認められていたようです。過書船については、研究者は次の3つに分類します。
①先管領・管領千石に代表される幕府関係者
②南禅寺などの禅宗寺院の有力寺社
③淀十一艘と美作国北賀茂九郎兵衛なる人物
讃岐に関係のある過書は①で、ここから京へ物資を運ぶ船が過書船とされたようです。
讃岐の過書船として登場する船は以下の15件でです。

讃岐過書船一覧
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐からの過書船一覧表

船籍は、11件を三本松が占め、塩飽・鶴箸(鶴羽)が2件で、この3港で計13件となり、讃岐港の85%以上を占めます。 一方、多度津を船籍地とする「香川殿十艘」が一件あります。過書船に関わっているのは、この4港に絞られるようです。
 先ほど見たように、国料船の母港とするのは「多度津・庵治・方本・宇多津」の4港でした。これに過書船の母港である「三本松・塩飽・鶴箸(鶴羽)」を加えた七港が、管領細川氏と関わる港と云えそうです。こうしてみると、多度津以西には国料船や過書船の母港がなかったことに気づきます。中讃・東讃に集中しています。
少し回り道をして、兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐船の船籍地一覧表を見ておきましょう。
3兵庫北関入船納帳2

この表からは次のようなことが分かります。
①宇多津が47、塩飽37、島(小豆島)・平山(宇多津)の4港合計数が128件、で全体の約半分を越える。
②東讃の引田・三本松・野原・方本(屋島の潟元)・庵治の5港合計数が75件
③東讃に比べると、多度津以西の三豊地区の港からの寄港回数は少ない。
各港から兵庫北関に寄港した讃岐船は何を積んでいたのかを、下表で見ておきます。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表

讃岐船の特徴は、塩輸送に特化した専用船が多いことです。
特に庵治や方本(潟元)には、その傾向が強く見られます。それに対して、①の宇多津や塩飽の船は、塩の占める比率は高いのですがそれだけではないようです。米・麦・豆などの穀類も運んでいます。
 瀬戸内海は古代から海のハイウエーで、塩飽はサービスエリア兼ジャンクションの役割を果たしてきました。備讃瀬戸エリアの人とモノが、一旦は塩飽に運ばれ、そこから畿内行きの船に乗り換えることが行われていました。西讃地方の港からの寄港回数が少ないのは、塩飽を中継しての交易活動が行われていたことがうかがえます。

宇多津地形復元図
 宇多津と平山についても同じような関係が見られると研究者は考えているようです。
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田港や三野港などは兵庫北関入船納帳には登場しないと考えられます。

そういう目で②の東讃の各港を見ると、野原・庵治・潟元を母港とする船は大型船で、塩の専用船です。それに対して三本松や志度は、小型船です。ここからは、東讃エリアは小豆島を通じて、中継交易が行われていたかも知れませんが、同時に小型船が直接に畿内との間を行き来していたことがうかがえます。
 
さて、概略はこれくらいにして、多度津船籍の過書船について見ていくことにします。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津船
多度津船は1年間で12回の入港数があります。その内訳は、国料船が7件、過書船が1件、 一般船が4件の計12件です。一般船の入関日時を見てみると、2月9日・3月11日・4月17日・5月23日と年前半に集中して、それ以後にはありません。前回見たように、香川氏の管理する国料船の宇多津から多度津への母港移動は4月9日でした。
 多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏によって、それまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。過書船の「香川殿十艘」というのは、十艘という船数に限って、無税通過が認められたことを表すようです。

 これが香川氏に何をもたらしたかを見ておきましょう。
2月9日船や3月11日船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。それまでは兵庫北関で、一般船として1貫100文の関税を支払って通過していました。ところが5月以後には国料船や過書船と扱われ、無税通行するようになったことが分かります。
 こうして、香川氏は多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことがうかがえます。この香川氏の経済力が、その後の西讃岐地方一帯を支配し、戦国大名化していく際の経済基盤になったと研究者は考えているようです。

 多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
先ほどの表からは過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐で、国料船時の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 問丸とは何かを「確認」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を持つ運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水主として使っていました。それが水主も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。ところが、問丸が荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていきます。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。
 このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたようです。兵庫港を拠点とする問丸の中には、法華衆の日隆の信徒が数多くいました。彼らは、讃岐の宇多津・多度津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われます。そうして姿をたというのが宇多津の本妙寺であり、観音寺港の西光寺なのでしょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
讃岐船の問丸一覧 道祐は超大物の問丸だった
多度津に拠点を置いた道祐は『入船納帳』に出てくる問丸の中では、卓越した存在だったようです。
上表を見ると道裕は、多度津以外にも塩飽など備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱い、備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域といった広い勢力範囲を持っていたことが史料からわかります。香川氏は道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
  ちなみに、兵庫北関入船納帳に多々津(多度津)はでてきますが、堀江港は出てきません。潟湖の堆積が進む中で堀江港は港湾機能を失ったのかもしれません。それに替わって、15世紀半ばまでには、香川氏は新たな港を居館下を流れる桜川河口に開き、多度津と呼んだとしておきます。
多度津陣屋10
多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

香川氏は輸送船団を、どのように確保したのでしょうか。

海上交易活動に進出するには「海の民」の掌握が古代から必要でした。香川氏は、どのようしにて国料船や過書船などに使用する船やその水夫たちを確保したのでしょうか。これは、村上水軍の中で見たように、海賊衆を丸抱えするのが、一番手っ取り早い方法でした。海賊衆を、配下に置くのです。
 香川氏の配下となった海賊衆として考えられるのが、以前にもお話しした山寺(路)氏です。兵庫北関入船納帳が書かれた頃から約10年後の康正三(1456)のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を荒らす海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理となっています。なお、小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人がもっていること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
東寺領であつた弓削島は、少泉・山路・両村上氏の四人によって押領されていたこと、この4氏の本拠地はちがいますが、海賊衆という点では共通するようです。
 讃岐白方の山路氏については、以前にお話ししました。
白方 古墳分布

 白方は、現在の多度津町白方で、弘田川河口の港があった所で、現在の白方小学校の下辺りまでは、湾が入り込んでいたようです。その地形を活かして、古代においては多度郡の港の役割を果たしていました。そこを根拠とした山路氏は、燧灘を越えて伊予の弓削島まで進出し、その地を押領していたことが分かります。また、山路氏は「細川氏の奉公衆」ともされています。これをどう理解すればいいのでしょうか?

白方 弘田川

手持ちの材料を手立てに、海賊衆山路氏の動きを私は次のように考えています。 
①弘田川河口の白方には、小さな前方後円墳がいくつも並び、後には盛土山古墳などの特徴的な方墳も作られている
②白方は善通寺王国と弘田川を通じて結ばれ、その外港として役割を果たしてきた。
③そのため港湾施設が整い、交易活動が活発に行われてきた。
④空海の生家である佐伯氏の発展も、白方を拠点とする瀬戸内海交易活動に乗り出したことにある。
⑤中世になると、白方は海賊衆山路氏の拠点となった。
⑥山路氏は、室町幕府の成立期に細川氏の下で働いたために「細川氏の奉公衆」となった。
⑦しかし、実態は芸予諸島の村上氏と同じで「海の民」が「海賊衆」となった勢力であった。
⑧彼らは海賊衆として、村上衆と連携し、芸予の塩の島弓削島を押領したりすることも行っていた⑨また熊野海賊衆との交流もあり、瀬戸内海を広域的に活動し、交易活動も展開していた。
⑩その先達(パイロット)となったのは、備中児島の新熊野の五流修験者たちであった。
⑪このため児島五流の修験者たちが白方にはやって来て背後の弥谷寺で修行を行うようになった。
⑫さらに、熊野行者たちは白方の熊手八幡の神宮寺を中心に、いくつもの坊を建立し修験者の拠点化としていった。

ここで押さえておきたいのは、香川氏が「細川氏の奉公衆」の海賊衆である白方氏を、配下に取り込んでいったことです。
香川氏は、在京せずに多度津に居残り、在地支配をこつこつと進めていきます。そして、三野氏や秋山氏を家臣団化していったことが、三野・秋山文書からは分かります。同じようにして、白方の山路氏も家臣団化したと研究者は考えているようです。

DSC03844
弘田川河口より見上げる天霧山
 これは、毛利元就が村上武吉の協力を得て、厳島合戦で勝利したような話と同じようにとらえることができるのかもしれません。どちらにしても、香川氏は海賊山路氏の協力を得て、独自の輸送船団を形成していた可能性はあります。

DSC03889
熊手八幡神社(多度津町白方)

 こうした輸送船が桜川河口の多度津港に姿を現し、国料船・過書船の名の下に畿内との交易活動を行うようになった。また、守護細川氏からの動員令があった時には、山路氏の船団によって畿内へ兵が迅速に輸送される体制ができていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


 3兵庫北関入船納帳.j5pg
兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
DSC03651
                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
関連記事


このページのトップヘ