瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:土佐南光院

丸亀の西教寺で「金毘羅神の誕生とその後」というテーマでお話しした内容の第3部です。

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前回までに金毘羅発展の重要人物として、金毘羅神を布教拡大した金毘羅行者たちと、新しく金毘羅神を創造した宥雅と良昌について見てきました。宥雅によって、松尾山には新しく観音堂と三十番社と金比羅堂が姿を見せました。これらの宗教施設全体を松尾寺と呼びます。
宥雅の松尾寺・金比羅堂建立

新しく出発した松尾寺を襲うのが南海の覇王・長宗我部元親の讃岐侵攻です。
おおおお

讃岐西讃守護代の天霧城・香川氏は、事前に長宗我部元親に通じていたようで抗戦しません。1578年には三豊方面、1579年には長尾氏の西長尾城が降伏します。香川氏の和睦工作に応じて多くの国衆たちは、形ばかりの抵抗で軍門に降り、土佐軍の先兵として働く者が多かったようです。これに対して、宥雅はどのような対応をしたのでしょうか?
宥雅の出自 多聞院日記

この時のことを多聞院日記には、「(宥雅が泉州の堺に落ちのびたこと。その際に、寺宝と記録を持ち去った。だから歴代院主には入れない。」とありました。こうして新築されたばかりで主人のいなくなった松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れます。そして、ブレーンとして従軍していた土佐修験集団にあたえます。こうして、金比羅は、土佐修験の集団管理下に置かれることになりました。その後の経緯を年表で押さえておきます。
長宗我部元親と金毘羅

元親は金比羅を管理下に置いた翌年1580年に、四国平定の祈願して矢を奉納しています。そして、その4年後に四国平定が完了すると成就返礼として仁王門を寄進しています。その棟札の写しを見ておきましょう。
金毘羅大権現松尾寺仁王堂棟札 宥厳

①中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
②右に 天下泰平・興隆仏法 大檀那大梵天王(だいぼんてんおう)長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王(たいしゃくてんのう)権大法印宗仁
信長は「天下布武」印で天下への野心と示しました。元親は「天下泰平」と記します。これは天下、或いは四国平定の志を示したものと研究者は考えています。
③その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城に養子として入り、香川氏を継いだ長宗我部元親次男「五郎次郎」の名前も見えます。
④さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
⑤「天正十二甲申年十月九日」という日付は、金刀比羅宮の大祭日の前日が選ばれています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。
⑥「供僧」として地蔵寺・増乗坊・宝蔵坊・榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくるのは、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったのでしょう。そして、支配者としてやって来た土佐の修験者で、その「集団指導体制下」にあったことがうかがえます。
⑦その下には「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」とあり、これらが多度津や宇多津の職人であったことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門は、香川氏から長宗我部元親への「四国平定のお祝い」であったと私は考えています。
注目したいのは裏側の一番最後の行です。そこには次のように記します。(意訳)
「象頭山には瓦にする土は、それまでなかったのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

ここに出てくる宥厳とは何者なのでしょうか?

宥厳支配下の金毘羅

土佐の資料「南路志」には、宥厳(南光院)のことが上記のように記されています。ここからは宥厳は土佐では南光院と呼ばれた修験者で、元親の従軍僧であったこと。そして、金毘羅一山を拝領して宥厳と名前を改めたとが分かります。南光院は四国霊場延光寺の子院です。延光寺は足摺の金剛福寺などを傘下に持つ土佐西部の修験道の拠点でした。元親は、松尾寺はを南光院(宥厳)に与え、土佐修験道集団集団管理下に置かれることになったようです。その意味を考えておきたいと思います。
長宗我部元親はブレーンとして修験者を重用したといわれます。
宥厳による松尾寺から金光院への転換

真言系修験者たちの中には、前回に見た島田寺の良昌のように、高野山で修行と修学を重ね高い知識をもった学僧がいました。彼らは修行や高野詣でのために、四国を往来しています。それは情報交換や外交交渉を行うのにも適任でした。また戦死者をともらうための従軍・医療僧としても重宝です。また、四国平定がおわると占領地の占領政策を策定する必要も出てきます。そのためにも新たな宗教センターが求められます。それが讃岐では松尾寺になります。そこにブレーンとして従軍してきた土佐の修験者たちを集めます。かれらはそれぞれ子房をもちます。そして権力者元親の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。
 こうして見ると、この時点で松尾寺は長尾氏の氏寺的な存在から、四国平定を行った長宗我部元親の宗教施設にレベルアップしたことになります。そして、宥厳たちは、保護と寄進を求めるだけでなく、政策提言するだけの知識や胆力を長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが後に、やってくる生駒氏や松平氏との関係の中で活かされます。こうして金比羅は支配者にとって利用するのに値する宗教センターに成長したのです。それが金毘羅大権現の保護と寄進につながると私は考えています。
こんな長宗我部元親の期待と要求に応えるために、宥厳は次のような「シフト改革」を行います。

宥厳の経営転換

①観音信仰から天狗信仰へ
②中心建物は、観音堂から金毘羅堂へ
③松尾寺から金光院へ
 長宗我部元親から与えられた松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、それに宥厳はこのような形で答えようとしたのかもしれません。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺というどこにでもある宗教施設よりも、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が支配者には受けいれて貰いやすい判断したのではないでしょうか?松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に始まったようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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讃岐の近世城郭 西長尾城は、長宗我部元親によって讃岐最大規模の山城にリニューアルされていた。



 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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