瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:土佐藩

     琴平に置かれた四国会議とは?
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明治の神仏分離令で「象頭山から金刀比羅山」に変更
四国にあった十三の藩は、明治維新後に諸藩の情報交換・連絡調整という名目で「四国会議」という定期的な会合を開くようになります。この会議をリードしたのは土佐藩でした。土佐藩の現状分析としては

「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
と考えていたようです。
金刀比羅宮3
 その戦略下に四国十三藩に呼び掛けて「四国会議」が開かれる事になりました。
 場所は「四国の道は金毘羅さんに通じる」という交通の利便性や、旧天領であったことの中立性、大阪・京都への利便性、そして、土佐軍が駐屯していたことなどから琴平に自然に決まったようです。そのため琴平には、各藩からは「代表団」がやって来て、各旅館に駐在する事になります。代表団が夜な夜な繰り広げたどんちゃん騒ぎの記録が、地元の旅館などには残っていて、これはこれで読んでいて面白いのです。「会議は踊る」という言葉がありますが、四国会議は「会議の前に飲み、会議の後に詠い・・」という感じです。それはまた別の機会にして・・・・
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 ここではいろいろな情報交換が行われています。
例えば、神仏分離令に対しての各藩の対応なども報告されて情報が共有化されます。
その中で「廃仏棄釈運動」への対応タイプを整理すると
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩、
②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩、
③一貫して微温的な徳島藩
の三藩が特徴的な動きでした。
前回は、この内の①の高知藩の過激な動きを見ましたので、
今日は弱小1万石の多度津藩の動きを見ていくことにします。
 多度津藩は、丸亀京極家の分藩で一万石という小藩です。

多度津陣屋2
 それまで親藩の丸亀藩のお城の中に間借り住まいしていた殿様が、幕末になって多度津に陣屋を構え、その勢いで小藩にふさわしくないような大きな港を多度津に完成させてしまいます。
porttadotsu多度津
これが多度津湛甫と呼ばれる新港です。この新港は西回りの九州や北前航路からの金毘羅参拝客を惹き付けて、人とモノと金が流れ込むようになり、大盛況となります。このような経済活況を背景に多度津藩は、小藩にもかかわらず兵制改革を行い近代的軍隊を持つようになります。そして、幕末には土佐軍と行動を共にし戦果を挙げます。こうして明治の御一新に、小藩ですがその存在意味を果たしていこうとする意欲が家中には生まれてきます。

多度津陣屋5
多度津陣屋(模型)
神仏分離令が出されると、多度津藩は次のような改革案を発表します。
             達
従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺に縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小
    十月二十八日          民政掛
  その内容は、藩内の寺院を整理・統合して「藩内一宗一寺」にするというものです。つまり、各宗派は一つにして、他は廃寺にするという超過激な内容です。本家藩の丸亀藩や高松藩は模様眺めなのに、なぜ多度津藩は素早く過激な廃仏政策案を実施しようとしたのでしょうか

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 西からの金毘羅参りの受入港となった多度津から金毘羅へ伸びる街道図
多度津藩の家臣で四国会議にも出席していた人物は、次のように回顧しています。
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」

 つまり、見習うべきは土佐藩であって、土佐藩が寺院整理政策を実施しているので、多度津藩も時流に乗りおくれまいと「一宗一ヶ寺に縮合」案を出したというのです。それもあったでしょうが、ここでも寺領没収=財政収入源の確保という経済的な側面もあったように私は思います。しかし、高知藩のようにはすんなりとは進みませんでした。

tadotujinya_01讃岐多度津陣屋
 藩の過激な布令に対しては、まず藩内の寺院からの存続要求運動が展開されます。
     奉歎願口上願                        
此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、
然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候 
以上
                                     多度津 法中連中
 ここにはに「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に各寺院が当惑していること、今は殿様がいないので、非常に格外(重要)なことなので今しばらく延期して欲しいこと請願しています。
 さらに、檀家である領民達も次のような嘆願書を提出します。
 此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
  意訳すると
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」

 と、領民達は改革案を取り下げることを求めています。寺院の嘆願書よりも一歩踏み込んだ内容です。百姓等は、自分たちの寺を守ろうと立ち上がっていることが伝わって来ます。この辺りが高知藩とは違うところです。高知の農民達は、真言宗が多数をしめる寺院を守ろうとはしませんでした。ところが多度津の農民は浄土真宗の多い自分たちの寺を守ろうとしています。この辺りに、真言宗と浄土真宗の日常における宗教活動の差があったのかもしれません。
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多度津藩の当時の担当者であった後の元香川県代議士伊東一郎氏の回顧談をもう一度見てみましょう
 多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
 以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
 こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)

 しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、
また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。
又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
 ここには西覚寺常栄と光賢寺幽玄が中心になって「全住職が「青竹爆弾」を背負って強訴」するとテロ行為まで考えていた事が分かります。そして、反対の中心にあったのは「西覚寺(丸亀市綾歌町岡田)の常栄と光賢寺(琴平町苗田)の幽玄」と記されています。この二人は多度津藩内の僧侶ではありません。隣接する丸亀藩の僧侶が「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に反対し支援しているのです。藩を超えた真宗興正寺派の支援を受けていたようです。
 
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 強行手段に訴えても廃仏政策の撤廃を要求するという動きは、下層民だけでなく、庄屋・富商層の支持も得ていました。このような団結した領民と僧侶の要求に対して、廃仏政策を強行するということは、農民一揆を誘発させる可能性もあります。それは小藩の多度津藩の幹部達にとっては、絶対に避けなければならないことです。こうして、寺院の統合縮小案は撤回されます。
多度津藩紋
そして、次のような告示を藩内に出します。
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事
   閏十月五日            民政掛
以上のように、寺院統合案については調査・研究不足な点もあるので撤回する。他の良策を検討するので、心得違いをして軽はずみな行動を起こさないようにという内容でした。
こうして多度津藩は、実にあっさり寺院縮小案を撤回したのです。
 研究者は、これについて次のように指摘します。
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
 このように多度津藩の場合は、藩内の一部少数の過激派が、高知藩という雄藩の傘の下にで、新政府の信頼を得ようと、「藩内一宗一寺」案を出します。しかし、それは土佐藩の歓心を買いたいという弱小藩の苦しい立場を代弁する行為であったのかもしれません。
参考文献
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 
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新政府によって出された神仏分離令を発火点として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がっていく藩には共通する3つの要因が揃っているように思います。
① 平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
② 廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
③ 庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
d0187477_16023307廃仏毀釈の展開
この3つの視点で、高知藩を見ていきましょう。
まず①についてですが、幕末の高知藩には、寺社係であった北川茂長などをはじめ、平田篤胤の門下生や同調者が多かったようです。藩の宗教政策の担当者が平田派同調者であったことは、明治政府の神仏分離令をきっかけにして、政府の意図を越えた過激な廃仏運動を政策化し実行していくことにつながります。
②については、幕末以前に廃仏政策を実行していた藩主達がいます。
 例えば水戸藩では、徳川斉昭と彰考館関係者が次のような廃仏運動を藩内で推進します。常磐山東照宮をはじめ神社は全て唯一神道に改め、一村一社制の採用、宗門改め廃止、氏子帳作成、僧侶・修験の還俗、家臣の仏葬などの廃止、神儒折衷の葬祭式の採用、廃寺、村々の辻堂小祀石仏庚申塚などの廃棄、梵鐘の徴収などが行われ、年中行事の中に東照宮・光圀・楠正成・天智天皇を祀る行事などが組み入れられて行きました。処分寺数は190ケ寺で、寛文年中の1/5程度ですが神仏分離・廃仏を通して神道への統合を試みています。これは明治の廃仏・神道化への先鞭と云える運動でした。この政策は行き過ぎたものとして、幕府による斉昭の処分で 頓挫しますが、水戸学に影響を受けた領主の中は、このような動きに心情的に共感する者もあったようです。
 さて、高知藩の場合はどうだったのでしょうか。
 高知藩でも執政として野中兼山が行った改革の中に、南学の奨励策がありました。その一貫として寺院、僧侶の淘汰をすすめ、寺院の数を減らしています。これは寺院削減、寺領没収など財政政策ともリンクしていたようです。そのような「廃仏経験」を持っていた高知藩では、当時の領主にも抵抗感はなかったようです。
 さらに領主である山内家で、明治3年11月10日に次の文書を、菩提寺に通達します。
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
 「仏式祭礼は一切廃止とするので、精進日など行事は行わない」と、まさに絶縁宣言です。これで、山内家と菩提寺であった真如寺、要法寺、称名寺との仏縁は絶たれます。そしてこの菩提寺の住職の中からは、直ちに神職に転じて、後の高知県の神道界の指導者に転じていく者も現れます。殿様は明治4年2月には、「葬祭心得書」を示して、領民に仏葬から神葬に改めることも奨励しています。
 ここには殿様が廃仏毀釈の流れに反対し、棹さす動きを見せる事は考えられません。急進的な担当者の廃仏毀釈案がすぐにでも実行されていく体制が高知藩には整っていたようです。
 こうして版籍奉還後の明治3年(1870)4月2日に藩は、次のような布告を出します。
     覚    
一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。
一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。
一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。            
一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。               
一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし
右之通被仰付候事午四月二十三日         藩 庁
 この史料は、文章上には「廃仏」という言葉は出てきません。しかし「僧は・・・土地山林を占得するの途あるべからず」と僧侶の土地の所有を禁止し、寺地の没収や境内の縮小を宣言します。また、一向宗は妻帯を許しているが、僧侶であるとして例外扱いをしないこと、僧侶の還俗を奨励する内容になっています。
 こうして藩からの保護と、経済的基盤を失った寺院は、住職が未来に希望を持てなくなり次々と還俗して主がいなくなり廃寺となります。その状況を数字で示すと次の表のようになります。

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この表の見方は
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。
②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます
③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。
④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。
 当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
 高知県の廃仏運動のその後は?
 江戸時代を通じてお寺は「葬式仏教化した」と批判を受けますが、寺院と檀家である庶民は意外に強く結ばれていたことを、知らされることが起きます。旦那寺がないのは、一般庶民にとって葬式や法事に当たって不便なのです。元領主は神道に改修し、神道式の葬儀を行えと云いのこして東京へと去りましたが、庶民にとっては慣れ親しんだ宗派がいいという声は高まります。つまり廃仏毀釈の反動化といいましょうか揺り戻し現象が起きるのです。
 高知県としてもそれを放置でず、寺院再興策を取るようなります。それでもまだ不足で、寺院のない町村があったり、僧侶がいないという現状を打開するために、県外の寺院、僧侶を誘致するより方法が取られます。県外からの寺院の誘致は、明治4年からはじまり、埼玉県北足立郡与野町から高知市一宮に移ってきた真言宗智山派の善楽寺を第一陣として、大正15年に幡多郡白田川村に真言宗智山派の観音寺が転入してきたことで終わっています。これら県外転入寺院のうち、徳島県からの移転が七か寺でもっとも多いようです。
 どんなお寺が徳島からやってきたのでしょうか?
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。
②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。
③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。
このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
高知県では過激な廃仏毀釈運動で、その後の寺院数の不足状態を招きました。
これに対して、徳島県では廃仏棄釈が発生しなかったので、ほとんどの寺院が存続しました。その結果、檀家の少ないお寺は自然淘汰され、廃寺化かすすんでいったようです。この七か寺は、そのようなかで新天地を高知に求めたチャレンジャーだったようです。高知県におけるお寺不足が、これら寺院にとって唯一の活路であったのかもしれません。そのような見方をすれば、高知県が他県の寺院を受入て救済するということになったといえるのかもしれません。

三好昭一郎 四国各藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩 所収

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