瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:土器川河口

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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