瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:地福寺

    剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺(神仏分離前の鳥居が残る)

現在の四国剣山の登山基地は、登山リフトがある見ノ越で、多くのお土産店や食堂などが建ち並んでいます。この地を開いたのは、円福寺の修験者たちだったことを前回は見ました。円福寺は別当寺として、剣神社を管轄下においていました。円福寺と剣神社は、神仏混淆下では円福寺の社僧によって、管理されていました。そして、見ノ越には、剣山円福寺と剣神社しかありませんでした。そのため、見ノ越周辺に広大な寺社域を持っていました。

剣・丸笹・見ノ越
剣山と丸笹山の鞍部の見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

 見ノ越にやってくる前の円福寺は、どこにあったのでしょうか?
今回は、剣山開山以前の円福寺を見ていくことにします。テキストは、「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」です。円福寺には寺伝はありませんが、その所伝によれば、次のように伝えられているようです。
①剣山円福寺は、菅生(すげおい)の円福寺の不動堂として出発し
②龍光寺の剣山開山と同じ時期に、菅生の円福寺も見ノ越に進出した
③東の木屋平の拠点が龍光寺、西の見ノ越の拠点が円福寺として、剣山信仰の根拠となった
④現在の本尊は安徳帝像を剣山大権現として祀り、その右脇に弘法大師像、左脇には倶利迦羅明王像を安置
円福寺 祖谷山菅生
菅生の円福寺本堂


この言い伝えを参考にしながら、円福寺の歴史を見ていくことにします。
 
 残された仏像などから創建はかなり早く、遅くとも鎌倉時代までさかのぼるものと研究者は考えています。この寺は南北朝時代に土豪菅生氏の氏寺として創建され、室町時代には「忌部十八坊」の一として活躍したとされます。寺名に福の字のつくのが十八坊の特徴と云われます。円福寺の現在の管理者は井川町地福寺(これも十八坊の一)となっていますが、その頃には、すでに関係があったようです。しかし、中世の歴史は資料に裏付けられたものではありません。
 「忌部十八坊」説は、高越山を中心とする忌部修験や十八坊の存在を前提とし、「当為的願望」による記述が重ねられてきました。しかし、それが根本史料によって確認されたものではないという批判が出されていることは以前にお話ししました。ここでは安易に「忌部十八坊」と結びつけることは避けておきます。

『阿波志』は、菅生・円福寺について「小剣祠(剣神社)を管す」と記します。
ここからは円福寺が剣神社を所管し、その社僧であったことが分かります。これは剣神社と同じ見ノ越にある剣山円福寺の所伝に「当寺は菅生の円福寺の不動堂として発足した」と一致します。
ここでは、菅生・円福寺がもともとは剣神社と剣山円福寺を管理する立場にあったことを押さえておきます。

 菅生の円福寺の仏像を「東祖谷山村誌620P」を、参考にしながら見ていくことにします。

弘法大師像 円福寺(祖谷菅生)
弘法大師座像(祖谷山菅生の円福寺)

本堂の須弥壇には、弘法大師坐像が安置されています。左手に珠数をとり、右手に五鈷を握る普通の姿で、像高41㎝。寄木造りではあるが内刳(うちくり)はなく彩色がほどこされています。八の字につりあげた眉、ひきしまった顔、両肩から胸にかけての肉どりに若々しい姿です。 一般に弘法大師像は、時代が下るにしたがって老僧風に造られるとされています。この像、は若々しい感じなので、室町時代にさかのぼると研究者は考えています。 なお、座裏面に次のように墨書銘があります。
享保四年八月吉日 京都仏師造之 千安政六年末吉良日彩色

ここからは、享保四(1719)年に、京都の仏師によって座が造られ、安政六年(1859)に彩色されたことが分かります。この弘法大師座像からは、室町時代には祖谷に弘法大師信仰が伝えられ、この像が信仰対象になっていたことが分かります。
次に阿弥陀堂本尊の阿弥陀如来立像です。この「阿波志」に出てくる像とされるものです。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
阿弥陀如来(菅生西福寺の阿弥陀堂)
像高79㎝、寄木造り、内刳、上眼で、漆箔は前半身と後半身とで様子が変っています。前半身は後補、両袖部には、エナメルのようなものが塗られていますが、これも近年のものと研究者は指摘します。全体を見ると飽満な体躯や繁雑な衣文等からみて室町時代の作、光背は舟形光背で114㎝高、台座47㎝高、ともに江戸時代の後補と研究者は考えています。
 以上からこの寺の中世に遡る弘法大師坐像や阿弥陀如来からは、「弘法大師信仰 + 浄土阿弥陀信仰」が祖谷山に拡がっていたことがうかがえます。そして、これらを伝えたのは、念仏聖達や廻国の修験者たちであったはずです。その教線の元には、井川町の地福寺があったのではないかと私は考えています。

 この像の左右に、脇侍として、不動、昆沙門の両像が置かれています。像高は不動像が27、5㎝と小さいのに対して毘沙門天は71㎝と左右の像のバランスがとれていません。ともに一木造り・彩色ですが、別人の作で、ありあわせのものを代用したものと研究者は推測します。
 なお阿弥陀堂には、賓頭盧(びんずる)像、像高71㎝、一木造り・内刳がなく彫眼、彩色のユーモラスな作品があるようです。

菅生の円福寺の今の本尊は、江戸時代の作品である不動明王像(剣山大権現)です。
しかし、これは当初からの本尊ではないようです。それは『阿波志』に、次のように記されているからです。

 円福寺 祖山菅生名に在り 元禄中繹元梁重造す 阿弥陀像を安ず

ここからは、菅生・円福寺は元禄年間には、菅生にあって阿弥陀如来像(室町時代)が本尊であったことが分かります。この阿弥陀如来像は、今は境内の阿弥陀堂に安置されている像のようです。

菅生円福寺2
菅生西福寺の阿弥陀堂
阿弥陀堂は、宝形造の堅牢な造りです。このお堂には阿弥陀像の外に、賓頭盧(びんずる)像もありますが、なぜか阿弥陀堂自体は部落の管理となっています。
 以上の経緯を推察すると次のようになります。
①中世のことはよく分からないが菅生円福寺は、元禄時代に再建された。
②その時の本尊は、念仏信仰に基づく阿弥陀如来であった。
③その後、修験者たちの活動が活発化し、祖谷山側からの剣山開山の前線基地となり、本尊も不動明王に替えられた。
④その間に地元信者との軋轢があり、以前の本尊は新たに建立された阿弥陀堂に移されることになった。
 
元禄年間(1688~1704)に、『阿波志』は、元梁という僧によって菅生・円福寺が再建されたとあることは、先ほど見たとおりです。しかし、再建者・元梁の墓は、この寺にはありません。
 宥尊上人以降の歴代住職の名は、次のように伝えられます。
「①宥尊上人―②澄性上人―③恵照上人―④宥照上人―⑤稟善上人―⑥井川泰明―⑦法龍上人―⑧宣寛上人」
しかし、江戸期のもので境内にあるのは、次の2基だけのようです。
「享和元年(1801)九月三日寂 阿閣梨宥尊上人
「安政四年(1857)巳九月十八日 阿閣梨法印宥照上人」
それも19世紀になってからの墓です。近世前半の墓はないのです。
これをどう考えればいいのでしょうか? 
  以上を整理して私なりに推察すると次のようになります。
①中世に、西福寺は菅生氏の氏寺として建立された。
②その後、念仏聖によって、阿弥陀信仰が流布され、阿弥陀如来が安置され、同時に弘法大師信仰も持ち込まれた。
③戦国期の動乱で、荒廃した伽藍を元禄時代に元梁が再建し、阿弥陀如来を本尊とした。
④その後、修験者たちの活動が活発化し、本尊が不道明王とされた。
⑤さらに修験者たちは木屋平の龍光寺の剣山開山の成功をみて、見ノ越に、新たな西福寺を建立し、剣参拝登山の拠点とした。

剣山円福寺は、幕末頃には本寺筋の菅生の円福寺よりも繁盛する寺となります。
 明治の神仏分離令によって、神仏混交を体現者する修験道は、厳しい状況に追い込まれました。しかし、剣山の円福寺と龍光寺は、それを逆手にとって、先達の任命権などを得て、時前の組織化に乗りだします。こうして生まれた新たな先達たちが新客を勧誘し、先達として信者達を連れてくるようになったのです。つまり組織拡大が実現したのです。剣山円福寺傘下の先達は一万人を越え、香川、愛媛、岡山の信者も含んでいます。
 ところが明治以後の円福寺の阿波の先達は、三好、美馬両郡に集中して、麻植郡以東の人が始どいません。これは、藤ノ池の龍光寺と参拝客を分けあう紳士協定を結んだからのようです。つまり
①円福寺 三好・美馬郡の先達
②龍光寺 麻植郡以東の先達
そして、①の先達達が讃岐・伊予・岡山への布教活動を展開し、信者を獲得していったようです。①の先達(修験者)の拠点が池田の箸蔵寺になります。箸蔵寺が、近代になって隆盛を誇るのも、円福寺の剣山信仰と結びついて、発展したことが考えられるようです。

 そして明治維新をむかえると、見ノ越を中心とする登山ルートの開発もあって、出先の剣山円福寺の方が主になり、本家の菅生・円福寺は荒廃するようになります。こうして、明治から昭和にかけては専住の住職のいない時期も続くようになります。その期間は、井川町地福寺が兼務しています。こうしてみると、円福寺は井川町の地福寺の末寺的な存在であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」

            東祖谷の峠一覧
旧東祖谷村の峠一覧
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」 阿波学会紀要 第53号より引用
前回は中世の祖谷地方の峠と交通路を、次のようにまとめました。
①南北朝時代には祖谷地方の峠を越えてつながる山岳道が割拠する「山岳武士」たちを結んでいたこと、
②そして、南朝吉野側の情報・指令を伝えたのが熊野行者に代表される修験者や聖達であったこと
③このような山岳道と道路・通信網があったからこそ、紀伊・阿波・伊予の南朝方は半世紀にわたる抵抗活動がおこなえたこと
こうして、中世の峠や交通路は近世にも引き継がれて行くことになります。今回は近世の祖谷の峠と交通路を最初に見ていきたいと思います。そして、それが近代に道路整備が行われることによって、どう変化したかを押さえたいと思います。テキストは「福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷」です。

東祖谷の峠とお堂2

 私には祖谷地方は、剣山西北方面の山脈に囲まれたすりばちのように見えます。ここに入っていくには、どこかで摺鉢のふちを越えるために峠を越えなければなりません。祖谷地方に入るための峠を見ておきましょう。まずは落合峠からです。

2018.8.14 落合峠から落禿と前烏帽子 * 徳島県三好市東祖谷 - Do you climb?
落 合 峠(1520m) 
   三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山三庄と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っています。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換したようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
  阿波西部の三好郡は、古くから讃岐から運び込まれる塩を使っていました。
塩の踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。ここでは、讃岐の塩の道を次のように。押さえておきます。

丸亀・坂出の塩田 → 塩入(まんのう町) → 東山峠・ → 昼間 → 貞光・辻の塩問屋史→ 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム尻) → 落合峠 → 名頃

   落合峠地蔵
落合峠の地蔵尊(大歩危橋東詰めの墓地に移転
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰  阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7は、落合峠の石造物のことについて次のように記します。

深渕,桟敷峠を経て加茂に通じる落合峠は,落合集落から峠までの道に,地蔵尊4基,大師像と不動明王各1基の石造物があった。現在3基の地蔵尊が残っているが,大歩危橋東詰めの墓地に移転された「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊(図2)は,「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれている。これは道標を兼ねたもので,200年前は落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことを示す貴重な資料である。峠道は県道開通によって廃道となり,石造物も半数が移転された。

  ここでは落合峠が「里谷峠」と呼ばれていて、祖谷への「塩の道」であったことを押さえておきます。

風呂塔-石堂山 稜線歩き
風呂塔から石堂山は、修験者の行道でもあった
私が気になるのは、桟敷峠から落合峠に至るルートの東の山々です
ここには修験者の霊山とされた石堂山があります。そして、多くの信者達が「聖地巡礼」をおこなっていた山であることは、以前にお話ししました。落合峠越えのルートは、修験者が行道に使っていた「風呂塔~石堂山」の行道ルートと併行して伸びています。この両者は、何らかの関係があったのではないかと思えてきます。熊野行者が熊野参拝のために、山岳連絡道を大切に守ってきたことは知られています。そして修験者たちも祖谷と周辺をつなぐ峠道を管理・保護する役割を果たしていたのではないかという「仮説」が湧いてきます。

次に井川町からの水口峠です。
水の口峠地図
井川から水の口峠へのルート
桟敷峠の西の「水ノロ峠」は、西祖谷の「小祖谷」の人々が利用した道筋でした。
辻 → 井内 → 地福寺 → 水ノ口峠(1116m) → 小祖谷 → 寒峰峠 → 東祖谷大枝

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍を負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

  小祖谷というのは、聞き慣れない地名ですが、松尾ダムの下流になるエリアです。小祖谷に運び込まれた塩は、ここで仕分けされて祖谷各地に運ばれました。「東祖谷にいも1升と弁当で、煙草をと取りに行った(輸送した)」と話していますので、小祖谷は物資の集積拠点の機能を果たしていたことが分かります。

四国百名山 阿波の石堂山に山伏たちの痕跡を探す : 瀬戸の島から
地福寺

 井内の地福寺から水の口峠には2つの道がありました。
一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていくルートです。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、このルートを通じて交流があったようです。
 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、讃岐からの米や塩が運び込まれたり、祖谷の煙草の搬出路として重要な道で、多くの人々が行き来したようです。この峠のすぐ下には豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)までは、凍り豆腐の製造場があったようで、知行の老人は次のように懐古しています。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」

水の口峠 新聞記事jpg


 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。

寒峰峠.2JPG
寒峰峠から大枝・奥の井へ(「阿波の峠歩きより」)
水の口峠からは、寒峰(かんぽう)峠を経て東祖谷の大枝への道もありました。 
平国盛の後裔と云う阿佐名の阿佐家系図には、元暦2年に讃岐屋島の壇ノ浦の闘いで敗れた後に、次のように記します。

「井川の庄から水ノロ峠を城え寒峰の嶮を打越えて大枝の窟で越年した」

ここからは、「井川 → 水ノ口峠 → 寒峰(かんぽう) → 大枝」というルートが古くから使われていたことがうかがえます。

     寒峰峠(1495m)は、寒峰の南西約400mにある峠です。
『峠の石造民俗』には、昔は大師堂が建っていたとありますが、今はありません。草付きの広場と囲炉裏の石組二基が残っているだけです。水の口峠とこの峠が井川町の辻と東祖谷山村の大枝を結んでいました。そして、栃ノ瀬を経て土佐へと抜ける交通路でした。
大師堂にあった手水鉢が、お堂を管理していた奥の井の谷家に残っています。楕円の青石製で、正面に「奉水」と刻まれ、辻や大枝の地名が刻まれているので、この街道の出発地と終点の有力者達が寄進したものでしょう。険しい峠道を往来した人々が、手水鉢で手を浄め、旅の無事を析っていた姿が見えて来ます。

まーくつうの登山アルバム 寒峰 登山
福寿草の里 寒峰
 峠から寒峰頂上へは、わずかの距離です。ミヤマクマザサにおおわれた寒峰の山頂からは、剣山、三嶺、天狗塚、牛の背、矢筈山等の360度の大パノラマが楽しめます。今は福寿草の里として、登山者に大人気の山となり、花と展望と伝説に人気コースとなっています。

東祖谷の東北方面には、見の越(1,403m)と小島(おじま)峠(1,380m)があります。

剣・丸笹・見ノ越
見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

「見の越」は、近世に剣山参拝拠点として修験者たちによって開かれたことは以前にお話ししました。現在では、登山ケーブルがあり、剣山登山の表玄関になっています。ここを東に越えると麻植郡木屋平に出ます。見ノ越は、もっとも古く開かれた峠で、古くから多くの人々に使われていたと研究者は考えています。ちなみに、見ノ越に円福寺が開かれ、剣への参拝拠点になるのは近世後半になってからです。

剣山(1955m) ・見ノ越駐車場より | Bodhisvaha
剣山見ノ越の円福寺

小島峠
小島峠(「阿波の峠歩きより」)

小島峠を利用したのは菅生・名頃の人々たちでした。
落合よりも東の人々は、小島峠で半田・貞光地方と結ばれていました。菅生から池田へは約60㎞ですが、貞光へは28㎞で、距離的に半分以下の上に、峠が低くて雪も少ないようです。そのため日常的に児島峠が使われたようです。

文政八年に祖谷に人った阿波藩士太田章三郎信上の『祖谷山日記』には、次のように記します。
「小島峠にいたる。 一宇山といえる所のさかひ也。」

ここからは、この峠が近世には祖谷に入る主要路であったことがうかがえます。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」にも、「郡里・吉野川を渡つて、一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」の道順で廻ったことが記されています。祖谷へは、小島峠が使われています。

この峠に行くには、貞光より国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号をひたすら登っていきます。
黒笠山が見えてくるようになると、現在の小島峠に着きます。この峠は1981年に県道菅生伊良原線の開通で出来た「新」小島峠です。ここにも地蔵尊が祭られていますが、その裏の山道を西へ登って行くと、20分ほどで旧峠に着きます。ここにも小さなお堂があります。中には天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれ,氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。円福寺は、先ほど見た見ノ越の剣参拝登山をになっていた修験者の寺でもありました。峠の管理などに、修験者の姿が見え隠れします。
小島峠の地蔵
旧小島峠の地蔵尊
 研究者がもうひとつ注目するのは、地蔵尊は右手に錫杖を持つ姿が普通です。しかし、この像は右手に大師が持つ五鈷杵を握っていることです。珍しい地蔵尊です。この地蔵尊にはお参りに来る人があるようで、お酒やお菓子、花などが供えられています。
 お堂横のスギの古本は、風格があります。この峠を行き交った人達を見守っていたのかもしれません。静かに耳を傾ければ、いろいろな話をしてくれそうな気にもなります。
   お堂の前には広場になっていています。峠に着いた人々が腰を下し、ひと息入れた場所だったのでしょう。お堂の脇から、黒笠山への縦走路が伸びています。峠から黒笠山山頂まで4時間ほどです。かつては、修験者の霊山であった石堂山をめぐる修験者の行道ルートであったことは以前にお話ししました。
 新小島峠が開通した時に、コンクリートの新しいお堂と造ったそうです。そして、旧峠のお地蔵さんを下す予定でした。ところが旧峠のお地蔵さんが、新しい峠に下りにるのはどうしても嫌だと言うので、話し合った結果、新しい地蔵尊を下に造ることになったようです。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2

 新小島峠では、毎年6月第4日曜日に、 一宇、東祖谷両村の地元の人々により、地蔵祭りが行われ柴灯護摩が焚かれます。いつもは訪れる人の少ない峠が、大勢の人で賑い、カラオケと歌声が響き、手作りの料理が振舞われ、新・旧のお地蔵さんの前にも沢山のお供物がまつられます。
 
祖谷街道 開通後 百年。1920年(大正9年)開通 - 趣深山のJimdoページ
祖谷街道
東祖谷山に「輸送革命」をもたらしたのが、大正9(1920)年に完成した祖谷街道でした。

約百年前のことになります。祖谷川の「白地の渡し」から久保までの51kmを巾3mの「大道」が完成したのです。これが祖谷川沿いに村内を東西に走る幹線道路の役割を果たすようになります。バスとトラックが輸送の主役になり、輸送量も増えます。そして、峠道を越える人やモノは激減します。人ともモノの動きが一変したのです。これは大正3年の徳島ー池田間の鉄道開通や、大正9年の讃岐土佐間を往復する自動車の新設とリンクして、祖谷に「輸送革命」をもたらしたのです。
 この道路建設は、祖谷川沿いの電源開発計画を呼び込む起爆剤ともなります。若林には大正9(1920)年7月発電所建設が始まります。そして、大正12年から380kWの電力が讃岐に向けて送電されるようになります。大正14年には、下瀬に煙草収納所が設けられ、煙草栽培が広がり、農村の換金作物となり「貨幣流通市場」の中に入っていきますた。
明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。

徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。

これが祖谷街道が伸びてくると、大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞もその日の午後には読めるようになります。
 昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。

明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。
これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
 祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
これとともに祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります
 戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると、
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫
祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は「脇町」中心の美宮郡から、三好郡の池田へと比重を移し、昭和25年1月1日をもって、美馬郡から三好郡へと編入するのです。そして、平成の合併では三好市の一部となりました。
ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
阿波の峠歩き : ふるさとの峠50選
参考文献
  福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷
徳島民俗学会 民俗班 橘 禎男・坂本 憲一「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」    阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
阿波の峠を歩く会 阿波の峠歩き 平成13年
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石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

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笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

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正面が石堂山


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  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
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振り返ると白滝山です。
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白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
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矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

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近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

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中に入ってみましょう。
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巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

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北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

石堂山6
 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
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お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

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御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

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石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

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お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

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石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

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しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。
①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
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地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す

地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 → 
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。

それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
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石堂山山頂
石堂山

石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。

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石堂山のお塔岩

頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。

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         石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。

この山には、もうひとつ巨石が稜線上にあります。
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阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。


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石堂山の石堂

ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
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大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。

「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
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また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。

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石堂山方面からの白滝山

 白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
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              白滝山山頂
 白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
 火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から

ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。

 最後に石堂山から東に伸びる標高1200mの稜線に鎮座する石堂神社を見ておきましょう。
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石堂神社

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東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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馬岡新田神社の石垣と玉垣
   前回は剣山信仰の拠点となった地福寺にお参りしました。地福寺の参拝を済ませて井内川の対岸を見ると、高く積み上げられた石垣に玉垣。それを覆うような大きな鎮守の森が見えます。これが地福寺が別当を務めていた馬岡新田神社のようです。行ってみることにします。

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馬岡新田神社の石垣と鳥居
青石を規則正しく積み上げた石段の間の階段を上っていくと拝殿が見えてきます。
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馬岡新田神社 拝殿

正面に千鳥破風と大唐破風の向拝が付いています。頭貫木鼻や虹梁上部の龍の彫刻の見事さからは、匠の技の高さがうかがえます。
ここまで導いていただいた感謝の気持ちを込めてお参りします。
お参りした後で、振り返って一枚撮影するのが私の「流儀」です。

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拝殿から振り返った一枚
川筋・街道筋に沿って鎮座する神社であることが改めて分かります。祖谷や剣山参拝に向かう人達も、ここで安全祈願をしてから出立していたことでしょう。拝殿で参拝した後は、本殿を拝見させていただきます。境内の横に廻っていくと見えてきます。

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拝殿と本殿

一見して分かるのがただの本殿ではないようです。本殿と拝殿を別棟に並べる権現造りで、その間を幣殿と渡り廊で結んでいます。近づいてみます。

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馬岡新田神社 本殿
本殿は明治16年(1883)建立で、当初は桧皮葺の建物でした
が、昭和28年(1953)に銅板に葺(ふ)き替えられました。
屋根が賑やかな作りになっています。入母屋造の正面に千鳥破風が置かれ、さらに唐破風向拝が付けられています。これは手が込んでいます。宮大工が腕を楽しんで振るっている様子が伝わってきます。そんな環境の中で、作業に当たることができたのでしょう。

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馬岡新田神社の本殿は、権現造り

八峰造りという総桧作りで、上部の枡組、亀腹(基礎の石)と縁下の枡組(腰組)や向拝に彫られた龍も精巧と研究者は評します。

馬岡新田神社 本殿2
馬岡新田神社の彫刻

徳島県の寺社様式は圧倒的に流造様式が多いようです。
その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
神 社 建 築 の 種 類
流造と権現造

 本殿でもうひとつ研究者が注目するのは、組物の肘木と頭貫の木鼻部分です。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。

馬岡新田神社 本殿4

帰ってきて調べると、馬岡新田神社以外の「三社の杜」の他の2社も、同じ時期に、同じような造りで作られているようです。棟札には、大工名は千葉春太(太刀野村)と佐賀山重平と記されています。三社の杜の社殿群は、明治前期に同じ大工の手によって連続して建てられたものなのです。明治16年以降に、太刀野村からやってきた腕のいい宮大工は、ここに腰を落ち着けて今までにないものを作ってやろうという意欲を秘めて、取りかかったのでしょう。箸蔵寺の堂舎が重文指定を受けていることを考えると、この社殿類は次の候補にもなり得るものだと私は考えています。
本殿のデーターを載せておきます。
木造 桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝一間唐破風 銅板葺 〈明治16年(1883)〉
身舎-円柱 腰長押 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(寸切り) 台輪(留め) 三手先(直線肘木) 腰組二手先(直線肘木) 二軒繁垂木
向拝-角柱 虹梁型頭貫木鼻(寸切り) 出三斗 中備彫刻蟇股 手挟 刎高欄四方切目縁(透彫) 隅行脇障子(彫刻) 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床
千木-置千木垂直切 堅魚木-3本(千鳥及び唐破風部の各1本含む)
馬岡新田神社 本殿平面図

馬岡新田神社 本殿平面図
  この馬岡新田神社は、井川町内では最も古い神社のようです。
この神社は『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社の論社になります。論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社があります。もともとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていたようです。
埴安神(埴山姫・埴山彦)の姿と伝承。ご利益と神社も紹介
農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)

埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。

農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)
埴安姫命

同時に出した尿は、水の神で「罔象女神」で、式内社「彌都波能賣神社」に相当します。その論社は、馬岡新田神社の北200mに鎮座する武大神社になります。この2つと、そして馬岡新田神社の境内南側にある八幡神社をあわせて「三社の杜(森)」と呼ばれているようです。
 これに中世になって、「平家伝説の安徳天皇」や「南朝の新田義治」が合祠しされるようになり、「波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神」と呼ばれるようになります。

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剣山円福寺別院の看板が掛かる地福寺

 この別当寺が地福寺です。
 地福寺は、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったとされます。境内の鐘楼前の岩壁には不動明王が祀られ、そこには今も野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 この寺は、井内だけでなく、祖谷にも多くの有力者を檀家としてもち、剣山西域に広大な寺領を持っていたこと、そして近世後半に、剣山見残しに大剣神社と円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺となるなど、活発な修験活動を行っていたことは前回にお話しした通りです。  地福寺が別当寺で社僧として、「三社の杜」の神社群を管理運営していたのです。それは地福寺に残された大般若経からもうかがえます。地福寺が井内や祖谷の宗教センターであったこと、三社の杜は神仏混淆の時代には、その宗教施設の一部であったことを押さえておきます。
馬岡新田神社大祭 | フクポン
 
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
秋の祭日では、元禄の頃から、先規奉公人5組、鉄砲4人、外に15名の警固のうちに始められます。本殿の祭礼後、旅所までの御旅が始まります。道中は300mですが、神事場の神事を含めると往復4時間をかけて、昔の大名行列を偲ばせる盛大な行列が進みます。
 井内谷三社宮の祭礼について
三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」によって行われます。井内谷の頭屋組は次の6組に分かれています。
奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落
奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落
中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落
中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落
下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落
下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
 頭屋組は東西が一つのセットで、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡します。上表のように各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されていて、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たります。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは、十数年に一度です。地元の人達にとって頭屋に当たることは栄誉なこととされてきたようです。
井内谷三社宮の祭礼について
 頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」が選出されます。
 氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串を奉納したり、「お旅」(神輿渡御)のお供をしたりします。
井内谷三社宮の祭礼について
 ここからは、次のようなことが分かります。
①「三社の杜」の3つの神社が井内郷全体の住民を氏子とする郷社制の上に成り立っている。
②頭家組の組み分けなどに、中世の宮座の名残が色濃く残る。
③頭家は、各集落を代表する有力者が宮座を組織して運営した。
明治の神仏分離前までは地福寺が別当寺であったことを考えると、この祭りをプロデュースしたのは、修験者であることが12人のお役の中に「天狗」がいることからも裏付けられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築  
 岡島隆夫・高橋晋一  井内谷三社宮の祭礼について
阿波学会研究紀要44号





原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

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③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
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剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
宿泊施設 | 剣山~古代ミステリーと神秘の世界~

  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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