教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。
香川叢書
師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。
高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
郷居武士の分布(1751年)
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。
続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。
続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。
このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。
牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。
次に、一代帯刀者を見ていくことにします。
高松領郷中帯刀人別 一代帯刀
一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。鵜足郡上法勲寺 葛井 三平7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。
一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。
一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理」④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」
阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。
郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。
郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者②代々刀指③郷騎馬④郷侍⑤御連枝大老年寄騎馬役⑥其身一代帯刀之者⑦役中帯刀之者⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士⑨年寄中出来家来
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史
参考文献
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