瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:坂出市史

教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ
坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
関連記事

          
  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
関連記事

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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 P1150760
崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



坂出市史1
坂出市史

昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
 以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
坂出の復元海岸線4
国土地理院 土地利用図

これは以前に紹介したようにグーグル「今昔マップ」で検索すれば無料で見ることができます。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。
②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと
③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。

DSC04434
川津の貯水池と讃岐富士 
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江 
となります。
鎌田池2
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)

鎌田池の付近を拡大して見ます。
鎌田池
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
坂出の復元海岸線5 航空写真

上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。
②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
坂出の復元海岸線5 航空写真拡大
福江周辺の大束川河道跡
 福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。
 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
坂出の復元海岸線2
中世には大束川は現ルートに変更されているので描かれていない
DSC04505
金山方面から見た福江 背後は角山
福江のことをもう少し見ておきましょう
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
 そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
坂出の復元海岸線3

福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。

DSC04512
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。

 北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(

宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。

福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
 ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上
右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し
長禄四年卯月 日
  意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します
当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し
長禄四年卯月 日

ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。

瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
 兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。 

  以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編 
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 一ノ谷の戦い - Wikipedia
暦元(1184)年二月、源頼朝の弟範頼・義経らが一の谷で平氏を破ると、これを見て、讃岐国の武士たちの中には、いち早く京都に上って源氏の陣に馳せ参じた者達が出てきます。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、次のように記されています。

  元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
 在御判
 下 讃岐國御家人等
  可早隨橘公業下知。向西海道合戰事
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。
    元暦元年九月十九日
意訳変換しておくと
平氏一族は、二月に摂津国一谷の砦で敗北し、九州方面に撤退し、西国諸国を略奪・占領しました。逃亡した平氏を討つために、橘次公業を一方の先陣として軍隊を組織し出発させました。その際に橘次公業の祖先は、讃岐の国司名代だったので、その縁で讃岐国へ行き、平家討伐軍の組織化を行いました。源氏の御家人になっていない讃岐の武士達を勧誘し、討伐軍に参加させようと考えたのです。源氏に対して忠誠を誓い、共に戦おうとするものは、名簿を提出するように。橘次公成が呼びかけました。

この報告に対して、次のような頼朝様の命令と花押があります。
 命令する 讃岐国の御家人等へ
 早々に橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること 右の讃岐の武士達、平家に占領されていながら、源氏に味方するとの名簿を見て、頼朝様は、殊勝である。早々に橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとおっしゃった。これが証拠書である。
    元暦元年九月十九日
讃岐国の武士たちに対し、公業の命令に従つて九州へ向かい合戦に参加することを命じています。本文中に見える「交名折紙」に当たるのが、続けて掲げられている讃岐国御家人交名(名簿リスト)です。
  讃岐國御家人
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②藤新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

藤は藤原氏の略です。讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。
①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。
③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
④橘大夫盛資は、鵜足郷(現宇多津町)
⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町。行事は郡衙の役人。
⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子。
⑧大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。

ここには14名の讃岐武士の名前が挙げられています。讃岐武士団の中で、最も早い源氏の御家人となった人たちになります。今回は彼らの動きと、源氏方についた背景を追ってみたいと思います。
テキストは「坂出市史通史上 中世編2020年」です。

一ノ谷の戦い』 | The One and Only …

一の谷合戦での敗北後、平氏は讃岐の屋島を本拠として瀬戸内海を中心とする西国支配を行おうとします。これに対して頼朝は、まず北九州を攻撃させるために、範頼を平氏追討の指揮官として派遣します。範頼が京都から出発したのは9月1日のことです。これに先んじて、先陣として橘公業は讃岐国に赴いて味方になる武士を募ろうと動いています。実は、この橘公業の存在が大きいようです。

橘公業(きみなり)とは、どんな人物なのでしょうか?  
橘 公業は、橘公長の次男として誕生します。吾妻鏡治承(1180)年12月19日条には、この日に、右馬弁橘公長が子息の橘公忠・橘公成(業)を伴い鎌倉にやって来たと記します。父公長は、もともと平知盛の家人で、弓馬の道の達者で、戦場に望んでの智謀は人に勝っていたと記されています。しかし、平氏の運が傾き、故源為義への恩儀もあつて源氏に付くことにしたとされます。彼らは頼朝に認められて源氏の御家人となります。息子の公業は弓術に優れており、鎌倉将軍家の正月に行われる御的始や代替わりの御弓始などでしばしば射手を勤めていたようです。中世の武士のたしなみは、近世のように刀ではなく、乗馬と弓でした。壇ノ浦の那須与一に代表されるように、弓道にすぐれた武人がヒーローだったのです。弓道にすぐれた公業は、武士としての名声も、すでに得ていたようです。
周延「那須与一」 | 山田書店美術部オンラインストア

公業の経歴で注目されるのは、『吾妻鏡』の建久六(1195)年2月4日条の次のような記述です。
 東大寺再建の落慶供養のため上洛していた頼朝が、勢多橋を渡る際、比叡山の衆徒たちが集まつている中を通るとき下馬の礼を取る必要があるか心配します。頼朝は公業を召し、衆徒たちのもとヘ遣わして、事情を説明させます。
 公業は、衆徒の前に脆いて、次のとおり伝えます。鎌倉将軍家が東大寺供養に結縁するため上洛したところ、この群衆は何事か、神慮を恐れていらつしゃいます。ただし、武将の法にはこのような場所での下馬の礼はありません。そこで、乗馬のまま通るが、これをとがめてはなりません。
 こう言い残して、衆徒の返事を聞かずに通り過ぎ、衆徒の前で弓を取り直す姿勢を見せたら、かれらは平伏した。
 公業は武士ですが、平家出身者として小さいときから京都で暮らしていました。そのため色々な場面で、どのように対応するかのマナーを、身につけていたようです。京下りの平家出身者として、鎌倉幕府草創期の頼朝の側近で何かと重宝する人物だったようです。

 彼の祖先は衛門府や馬寮などの中央武官として活躍しています。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
一 二条院御宇 国司藤原秀(季)能、兵衛佐 七条三位殿
  内蔵頭俊盛御息 応保三年正月一十四日任
  御神拝御目代橘馬大夫公盛これを勤む、
長寛元年十月二十七日 甲申
次御神拝目代右衛門府橘公清これを勤む、
公盛息男なり、仁安二年十月一一十五日 己未
ここからは次のようなことが分かります。
①二条天皇の在位中の長寛元(1163)年正月24日に藤原季能が讃岐守に任じられたこと
②1163年10月27日に国司藤原季能の初任神拝を、讃岐国目代橘馬大夫公盛が勤めたこと
③仁安二(1167)年正月20日に藤原季能の父俊盛が讃岐国を知行したこと
④同年の10月25日に公盛の息子公清が初任神拝を勤めていること。国司は季能のままです。
 藤原俊盛は、保元二(1157)年から永暦元(1160)年の間、讃岐守を勤めています。その後は息子の季能が国司を務めたことになります。讃岐国は、保元二年以降、長期にわたって俊盛が国司や知行国主を務めていたようです。国司と同じように、目代の地位も父子で相伝されています。ここから橘公盛・公清父子は、藤原俊盛に仕えていた家司だと研究者は考えているようです。
讃岐国司 藤原家成
院生時代の讃岐国司一覧(坂出市史) 藤原家成の一族が独占している

「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。
1183年頃の勢力分布図 赤が平家

ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。

 京都に上つて公業の指揮下に入った讃岐国の武士たちは、在庁官人・郡司系の武士です。
彼らはかつて讃岐国庁で公業の祖父の下で、働いていた者達です。淡路島福良で平氏軍に敗れた讃岐国の武士たちが「讃岐国在庁」軍と呼ばれていることがそれを裏付けます。かれらは福良で敗れた後も、京を目指します。それは公業を頼りとしていて、公業ももとへ馳せ参じればなんとかなるという思いがあったからでしょう。
 公業が頼朝に提出した名簿について「度々合戦、源氏御方に参り、京都に候」と記しているのは、下津井と福良での平氏方との合戦を戦い、京都に上って来たことを念頭においているようです。
こうして、公業は讃岐には源氏の味方になる武士たちがいることを知り、それを組織化して平家討伐軍とするアイデアを思いついたとしておきましょう。京都にまでやってきた讃岐武士の拠点を見ておきましょう
参考①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
参考②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。
参考③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
参考④橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の宇多津周辺
参考⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
参考⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。
参考⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子?
参考⑧大麻藤太家人は、善通寺市大麻神社周辺で金毘羅山の隣。
これらの武士たち本拠地や特徴をまとめると次のようになります。
①本拠地は、香東・綾南北両条・鵜足・那珂・多度・三野で讃岐国の西半部に限られている。
②讃岐藤原氏や綾・橘両氏の本拠は、新居・羽床・大野・林田・鵜足津と国府の府中を取り巻くように分布している。
③ほとんどが在庁官人や郡司で、国府の中核を担っていた武士団である

①については阿波国は、在庁官人粟田氏の一族である阿波民部大夫重能(成良)が平氏の有力な家人で、その勢力下にありました。それに加えて、讃岐の屋島には平氏の本拠地である屋島内裏が置かれています。そのため東讃地域に本拠を持つ武士たちは、平氏の軍事力に圧倒されていたはずです。逆に西隣の伊予国は早くから源氏方についた在庁官人河野氏の勢力下にあって、平氏とたびたび衝突していました。ここからは、中西讃地域の武士達は、東讃地域の武士たちと比べると平氏による圧力が弱かったと研究者は考えているようです。

②③については、讃岐国衛の在庁官人の中でも重要なメンバーであったことが分かります。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。
讃岐藤原氏の蜂起

  まとめておくと
①平家は瀬戸内海の交易ルートを押さえて、西国を重視した下配体制を作り上げた。
②そのため讃岐も平氏支配下に置かれ、平氏の利益追求が露骨となり、在庁・郡司系の讃岐武士の中にも平家に対する反発が高まるようになった。
③そのような中で、中・西讃に拠点を置く古代綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏を中心に、平家を見限り源氏に寝返ろうとする武士達が現れる。
④彼らは、平家と一戦を起こした後に、都に駆け込み源氏方の陣に加わることを計画する
⑤その頼りとなったのは、かつて平家方にいたが今は源氏方についていた橘氏であった。
⑥橘氏は、かつては讃岐目代を30年間以上も務めており、在庁官人の武士達と親密な関係にあった。橘氏の子孫公業を頼って、源頼朝へ御家人となることの斡旋を依頼した。
こうして、先駆けて頼朝の御家人となった14人の武士達は、鎌倉幕府の支配下の讃岐において、恩賞や在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになる。
 綾氏が武士団化した讃岐藤原氏の繁栄も、この時に平家を見捨てて京都に駆け上がり、頼朝の御家人となったことが大きな要因と考えられる。
  「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。この話から綾姓から藤原姓への転換が行われたのも、讃岐藤原氏が反平氏の立場にある藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった坂出市史は指摘します。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「坂出市史通史上 中世編 2020年」

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