瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:坂出市福江町

   製塩と木簡
木簡 讃岐国阿野郡の調塩
塩の産地であった讃岐では、調として塩が貢納されていました。
 平城京から出てきた木簡の中に
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

と記されたものがあります。
ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょうか。今回は、坂出周辺の古代の製塩地捜しに出かけて見ることにします。テキストは「坂出市史 中世編  海を取り巻く様相  107P」です
製塩木簡 愛知
愛知県知多から平城京への塩の送り状
奈良や京都の有力寺社は、塩を手に入れるために、瀬戸内海に製塩地を持っていました。いわゆる「塩の荘園」と云われる荘園です。その中でも。伊予弓削島は「塩の島」と呼ばれるように東寺の重要な塩荘園でした。讃岐でも有力寺社の製塩地がありました。坂出市域の北山本新荘(後の西庄)や林田郷をはじめ、志度荘・三崎荘(庄内半島)・肥土荘(小豆島)などです。 
当時の塩は、どのようにして造られていたのでしょうか?
 瀬戸内の海浜や島々には、弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡が200か所以上あります。中でも、吉備と讃岐に挟まれた備讃瀬戸地域は、最も分布密度の高く、このエリアでが製塩の発生地域であることが明らかにされています。
 弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
製塩土器
製塩土器
 6世紀後半~7世紀前半になると、丸底で今までにない大型品の製塩土器が使用されるようになります。その容量は2,000ccにもなり、これまでの製塩土器に比べると2~3倍になります。この土器を「師楽式土器」と呼んでいます。
製塩 喜兵衛島〈きへいじま〉

直島の北にある喜兵衛島〈きへいじま〉遺跡群で発見された炉は、それまでのものよりも大型化し、丸底の土器にあわせて底面に石が敷かれています。使用済の製塩土器廃棄量も大量になり、喜兵衛島遺跡群の土器捨て場には実に厚さ1mにもなる製塩土器層が出てきています。

製塩 製塩土器

 また瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。専業化した専門集団がいて、備讃瀬戸地域の海岸部分や島嶼部分に製塩拠点を構えていたことがうかがえます。まさに備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期とも云えます。そのような影響が塩飽や坂出の海岸部にも伝播してきます。

本島では早い時期から塩作りが行われていました。
7月14日の御盆供事として、「塩三石 塩飽荘年貢内」と藤原摂関家領であった塩飽荘の年貢として塩が上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています(執政所抄)。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事に使われています。なお近世以前には、「塩飽=本島」と認識されていたことは以前にお話ししました。

塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
製塩 大浦浜遺跡

 櫃石島の大浦浜では弥生時代から製塩が行われていました。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り 製塩土器を使用している

仁和二(886)年に、讃岐国司として菅原道真がやってきます。       
赴任した冬に詠んだ『寒早十首』(古代篇Ⅲl3‐田)の中に、「塩作人」について、次のように記されています。
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民     お役人訴えたくて、港で待っているんだ。
(塩焼きには給料をほんの少ししか渡さず、有力者たちが大もうけしていることを訴えたくて)
ここには塩を作る人の労苦が記されています。周囲を海に囲まれた島々では、生活の糧を得る手段としては海に携わるしかありません。特殊技術をもつ「海民」の活躍の舞台でもあったのです。製塩も古代以来、海民によって担われてきたようです。「塩焼きは手馴れているけれど」、しかし、流通面を塩シンジケート組織に押さえられていたことがうかがえます。中国の塩の密売ルートも同じです。流通組織がシンジケート化し、力を持つようになり生産者(海民)を圧迫します。そのため彼らの生活は、決して楽ではなかったことが、ここからはうかがえます。中世になっても、塩の生産は向上しますが、そこに従事する海民の生活は、あまり変わらなかったようです。
製塩 自然浜
中世の自然浜
中世になると、塩の需要が高まり、塩を多く生産するために塩浜が開発されていきます。
陸地部では、阿野郡林田郷に塩浜が開かれていました。暦応二(1340)年の顕増譲状には、次のように記されています。
潮入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪付等これあり」

と、記されています。ここからは、祗園社執行の一族である顕増が大別当顕賀に譲った所領に塩浜五段があったことが分かります。「潮入」とあるように、満潮の時には潮が入り込み、干潮時に潮が引いて干潟になる地形が利用されていたのでしょう。
3坂出湾4
オレンジが古代の坂出海岸線
  林田郷を上空から見ると、綾川の流域の平地に田地が広がっていて、少し小高くなった微髙地に集落があります。治水工事が行われない古代中世は、洪水のたびに平地は冠水しました。そこで人々は、一段と高くなった微髙地に住居を建てて集住するようになります。これは弥生人以来の「生活防衛手段」でした。中世になると、洪水から田地を防ぐために堤を築き、新たな土地を切り開いていくようになります。

3綾川河口条里制
阿野北平野の条里制 条里制施行されていない所は海
 綾川平野の南部は条里制跡がありますが、北部にはありません。つまり条里制施工時には、北部は耕地でなかったことを示しています。綾川北部は、その後に開発新田として成立したのです。その際に塩浜も開発された形跡があるようです。具体的には、綾川の河田部の干潟を利用して塩浜を開いていったと研究者は考えているようです。

弘安三(1279)年の京都の八坂祇園社の記録に、次のように記されています。
「讃岐国林田郷梶取名内潮入新開田」

林田郷内の梶取名にも潮人新開田が開発され、半分が祇園社領となっていたことが分かります。「潮入新開田」からは、塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことがうかがえます。
「梶取名」という地名が出てきます。

梶取は、荘園所属の「年貢輸送船」を運行する海運従事者(船頭)のことです。梶取名から「梶取」がいたことが推測できます。
3綾川河口図3
       綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開

 
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」

このあたりが船の「舵取り」たちの居住区だったとされるエリアです。船頭・船乗りや蔵本たちが生活し、蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。
 このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、
京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。

坂出 中世の海岸線

京都崇徳院御影堂領であった北山本新荘福江(坂出市福江町)にも、塩浜があった次の記事が残されています。
「讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五斗五貫文内半分検校尊道親王御知行、半分別当法輪院御恩拝領塩浜塩五石、当永享十年よりこれを定、京着」

地形復元して、坂出の古代の海岸線を西からたどると、聖通寺山・角山束麓~文京町二丁目~笠山北麓~金山北麓~下氏部付近~加茂町牛の子山北麓付近と推定されるようです。

坂出の復元海岸線3
現在の坂出高校グランド南西角付近の文京2丁目遺跡からは、多数の製塩土器が出ています。ここからは、福江湊の砂州上では古代から中世にかけて塩浜が造られ、塩作りが行われていたことが分かります。島嶼部の沙弥島のナカンダ浜でも弥生時代の製塩土器が大量に見つかっていることと併せて考えると、坂出の旧海岸線では古代・中世にも、盛んに製塩が行われ、それが京都の荘園領主の寺社に年貢として届けられていたことが見えてきます。平城京本簡に記された阿野郡の塩は、これらの地域で生産されていた坂出市史は記します。
どれくらいの塩が、中世には生産されていたのでしょうか。
塩の生産量を統計したような史料は、もちろんありません。しかし、手がかりとなる史料はあります。以前に紹介した『兵庫北関人船納帳』です。兵庫沖を通過する船は、通行料を納めるために兵庫湊に入港し、通行税を納める義務がありました。その通行料は東大寺や興福寺の修繕費や運営費に充てられました。徴税のために一隻一隻の母港や船頭名(梶取)や積荷とその量まで記録されています。

製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
 北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されています。讃岐船の特徴は、積荷の8割は「塩」であること、大型の塩専用輸送船が用いられていたことです。
以前に、屋島の潟元(方元:かたもと)の塩を積んだ輸送船のことについてお話ししました。ここでは坂出周辺の塩輸送船について見ておきましょう。船籍一覧表からは、坂出周辺の湊として、宇多津・塩飽・平山が挙げられます。
製塩 兵庫北関 讃岐船積荷一覧

塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
 ここからは宇多津や塩飽は、塩のターミナル港としても機能していたことが分かります。そのため出入りの船が数多く行き交うことになったのでしょう。もうひとつ考えられるのは、塩飽船が生産地近くの港まで出向いて積み込んだこともあったかもしれません。近世になると、小豆島の廻船は、小豆島の塩だけでなく、引田や三本松に立ち寄り、そこで塩を買い入れて、九州方面に出発していることを以前に紹介しました。そのような動きが中世からあったことも考えられます。
 どちらにしても、讃岐の中世海上運送は塩の輸送から始まったと云えそうです。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
 新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。

 もうひとつ白峰寺との関係で押さえておきたいのは、備讃瀬戸対岸の五流修験との関係です。
五流修験は以前にお話したように、「新熊野」と称し、熊野からの亡命者であるとします。そして、大三島や石鎚などでの修験活動を行います。同時に小豆島や塩飽本島へも進出してきます。讃岐の海岸沿いには、五流修験者の痕跡が残ります。多度津の海岸寺や道隆寺、聖通寺、白峰寺などです。白峰寺が五流修験を通じて、瀬戸内海の修験者たちとつながっていたことは押さえておきたいと思います。そして、林田湊や福江・御供所港は、その寺領であったのです。かつての四国辺路の霊場であった金山権現も、そういう五流や白峰に集まる修験者の行場であり、辺路ルートの上にあったと私は考えています。
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
①備讃瀬戸一帯は、弥生時代に始まる小型製塩土器を用いた製塩発祥の地であった。
②古代には大型の製塩土器である師楽式土器が使われるようになり、生産量は増大する。
③中世になると、入浜を用いた製塩業が行われるようになり、朝廷や大寺社は塩を安定的に手に入れるために、「海の荘園」を設けるようになった。そこからは本領の専用船で畿内に輸送された。
④当時の讃岐船の積荷の多くは、塩であった。
⑤塩飽・宇多津・平山などを母港にする輸送船は、周辺生産力からの塩を集荷して、大型船で畿内に輸送した。
⑥これらの輸送船を経営する海民たちは、シンジケートを形成し、商業資本化していくものも現れた。
⑦塩を生産した坂出周辺の塩浜は、本島・沙弥島・御供所・福江・林田が史料では確認できる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

        

福江 西庄
坂出市史より

 白峯寺の経済的基盤は、松山荘と西庄にあったことを前回は見てきました。今回は西庄が白峰寺の寺領になるまでを追って見たいと思います。「西庄」という荘園名は、中世には出てきません。出てくるのは「北山本の新荘」で、これがいつの間にか「西庄」と呼ばれるようになりました。
 建長年間に筆写されたという「讃岐国白峯寺勤行次第」(白峯寺所蔵)には、正月修正会という法事興行のための費用料所として「西山本新庄」が充てられています。
 最初からややこしい話になりますが、これは西ノ山本新荘という意味で、より説明的に言うと「西ノ北山本ノ新荘」です。西山本ノ新荘という意味ではありません。この西ノ(北)山本郷内に、新たに設定された荘園が「(北)山本新荘」で、これが京都の崇徳院御影堂に寄進されたもののようです。

西庄の前身である「北の山本の新荘」は、いつ、どこに成立した荘園なのでしょうか?
北山本新荘の荘名は、鎌合時代後期の徳治一(1207)年2月25日の洞院公賢奏事事書に「北山本新庄預所職事」と見えるのが初見のようです。次に建武三(1336)年12月18日の光厳上皇院宣案に、「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄」と出てきます。これだけ見ると、白峰寺の御影堂の寺領のように思えます。しかし、そうではないようです。崇徳院御影堂は、京都にもあったのです。

白峯寺 御影堂の説明文
京都の崇徳院御影堂と粟田社についての記述

京都の崇徳院御影堂を見ておきましょう。
崇徳上皇が神に祀られたのは、元暦元(1184)年4月15日のことです。吉田経房の日記『吉記』(『史料大成』)同日条は、次のように記します。
崇徳院・宇治左府、仁祠を建て遷宮こと
今日、崇徳上皇・宇治左大臣、霊神に崇めんがため、仁祠を建て、遷宮有り、春日河原をもってその所となす、保元合戦の時、かの御所跡なり、当時、上西門院御領たり、今、申請せられこれを建てらる、津々材木を点じ、造営す、遷官の間儀、尋ね注すべし、院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣奉行す、社司僧官等を補せらること、神祗大副卜部兼友宿祢、社司に補せられその事に備う、また僧官を補せらる、
意訳変換しておくと
崇徳院・宇治左府(藤原頼長)の追善のために、仁祠を建て遷宮したことについて
今日、崇徳上皇・藤原頼長の慰霊のために、仁祠(崇徳院御影堂)を建て、遷宮が行われた。場所は春日河原で、保元合戦の時に戦場となった御所跡で、当時の上西門院(鳥羽上皇の第二皇女)の領地にあたるので、用地提供の申請を受けてここに建立された。院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣が建立責任者となり、社司僧官等を選任し、神祗大副卜部兼友宿祢が社司に任じられた。また僧官も置かれた。
  ここからは、保元の乱の時に戦場となった春日河原に、崇徳院と藤原頼長の追善のために社殿が建立されたことが分かります。これが京都の崇徳院御影堂です。崇徳院廟と頼長廟が東西に並んで設けられ、粟田に位置したので、「栗田廟」・「粟田宮」と呼ばれるようになります。祠官には神祗官の卜部兼友が選ばれ、僧官については、頼長の升教長の子である延暦寺の玄長が別当に、西行の子慶縁が権別当に補任されたと「源平盛衰記」にはあります。
 つまり、崇徳院御影堂は京都の春日河原にも建立され、その寺領として寄進されたのが「北山本の新荘(西庄)」ということになります。当時は、讃岐には山本荘と同名の荘園が豊田郡(石清水八幡宮領山本荘)にもありました。そこで混同を避けるために、坂出の山本荘は「北山本新荘」と呼ばれるようになったようです。「北山本新荘=山本荘」だと坂出市史は記します。
白峯寺の史料は、西庄がどのように白峰寺の寺領になったと述べているのでしょうか
 『白峯寺縁起」には、次のように記されています。
「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり」

つまり、文治年間(1185~90)に源頼朝が北山本新庄を白峰寺に寄進したというのです。これに対して坂出市史は次のように指摘します。
「京都の崇徳院御影堂領として荘園を本所である栗田官に頼朝が返付した事を主張したもので、史実とはやや事情が異なる。しかし、この事実を根拠にして、崇徳院御影堂の肩代わりを担った白峯寺が右の荘園支配の裏付けとすべく、鎌倉時代から寺領であったと宣言しているのである。」

ここからは「白峯寺縁起」が書かれた15世紀初頭には、白峰寺は松山荘を本荘と見なし、綾川対岸に広がる北山本新庄を西(の北山本新)庄、あるいは、松山荘の西(方にある)荘園、すなわち、 西庄と呼ぶようになっていたことがうかがえます。他人の物を、自分のものだと主張するようになっていたということです。

次に北山本新庄の広さとエリアを見ておきましょう
 現在の西庄は「坂出市西庄町」ですが、中世の西庄の荘域は現在の倍以上の広さだったようです。
西庄町

寛永十(1633)年幕府へ提出した「寛永の国絵図」の稿本とみられる「讃岐国絵図」は、3つのものが伝来しています。そのどれもが北山本新庄全域を西庄と記しています。そのエリアは「醍醐・原・天皇・江尻・福江・坂出・古御供所」を白い線で括り、肩書きに西庄と注記しています。
 また、それから30年以上経た寛文九(1669)年になっても西庄(当時の表記は西之荘)内には、福江村以外は分村されておらず西之荘村として一括して扱われています。
 その中に「古御供所」とあるのは、生駒時代に、御供所集落が丸ごと丸亀城下の三浦に強制移住させられ一時廃村化したことを記入しているようです。移住先の丸亀市三浦には、現在も御供所町の地名が残っていて、崇徳天上社(白峰宮、西庄町)への神事奉祀の伝統が続いているようです。これは、御供所が崇徳院御影堂領の北山本新庄内の一部であったことを裏付けます。
次に福江について見てみましょう
坂出の復元海岸線2

『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここには「讃岐国北山本ノ新庄福江村」とあるので、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また、その年貢として塩5石や鯛40を納めています。鯛をどうやって運んだのかは気になりますが、生きたまま運んだのではないでしょう。沙弥島周辺で捕れた鯛の内臓等を取り除いて、地元産の大量の塩で包みそのまま塩焼きにした「鯛の浜焼き」を研究者は考えているようです。塩釜焼きよりも高温の焼き塩で処理した方が、日持ちするようです。ここには福江村の半農半漁的な姿がうかがえます。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
宝徳元(1449)年の史料には阿野郡北山本新荘の年貢輸送の福江丸に、管領細川勝元から次のような下知状が発給されています
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)が登場します。福江丸と名付けているので、福江を母港とする交易船であることがうかがえます。福江には、瀬戸内海交易に携わる交易集団がいたことが浮かび上がります。北山本新庄の年貢など以外にも様々な物産を畿内に向けてはこんでいたことが想定できます。
坂出市史に載せられた北山本新庄の俯瞰図を見てみましょう
 以前にもお話したように、古代の坂出には大束川が流れ込み、深く湾入した海に注いでいました。その河口付近にあったのが福江です。福江は、瀬戸内交易の拠点であると同時に、大束川による川津方面への川船輸送の入口でもありました。古代綾氏の大束川流域への進出拠点とも考えられています。中世には、大束川は流れを変えて宇多津方面へ流れ出るようになりますが、福江は「北山本新庄=西庄」の湊としての地位を保っていたことは先ほどの史料で見たとおりです。
福江 中世
坂出市史より

 この想像図で笠山の麓に製塩の釜屋と民家があり煙が上がっているのが福江です。福江村の上(北側)に深く入り海が湾入しその奥にも釜屋がある辺りが御供所です。そこから右(東)へ外海に面して続く砂州が続きます。旧大束川の堆積物で造られた砂州です。その上に西から順に西洲賀・中洲賀・東洲賀・鳥洲さらに入り江の対岸が江尻となります。また、沖には右に瀬居島、左に沙弥島があります。これら入り海と砂州、そして沖の二島を結ぶまでの外海すべてが北山本新庄だったと坂出市史は考えるのです。海を荘園のエリアに内包する例は、以前に三豊の柞田荘の立荘作業で見たとおりです。

 現在の坂出市西庄町は、この想像図のさらに東側の地域になりますが、「西庄」と「荘」いう小字地名が残るので「北山本新庄」に含まれていたようです。そして、新庄の中心部は「北山本新庄」の東側(現西庄町)にあったのではないかと坂出市史は推測します。

京都の崇徳院御影堂の荘園・北山本新庄が、どのようにして白峯寺の寺領になったのでしょうか?
「文治年中、号山本庄、後年分二、号本庄・新庄、本庄は八幡知行、新庄は御影堂領」

意訳変換しておくと
「文治年間(1185~1190)年には北山本新庄と呼ばれていたものを、後年に本庄と新庄の2つに分けた。本庄は(岩清水)八幡神社の知行で、新庄は(白峰)御影堂領となった。

「後年に二分し」たとあるのは、「山本郷内にある山本庄を後年に二分割し」たということです。そして、新荘は(白峰)御影堂領になったというのです。ここからは、北山本新庄の京都から白峰寺への「所有権転換」があったことがうかがえます。しかし、それがいつかは分かりません。
 
白峯寺の隆盛と地主化への道
   白峯寺の権威と名声を高めたの、もうひとつの原動力となったのが、崇徳院法楽関係文芸作品群の崇徳院御影堂(頓証寺)への奉納であることを坂出市史は指摘します。その最初の奉納物は、今は明治の廃仏毀釈の時に金刀比羅宮に移った「崇徳院御影堂同詠二首和歌」だったようです。成立年は分かりませんが、崇徳院二百年遠忌(貞治四(1365)年)の時に、細川頼之の勧進によるもの(『白峯寺調査報告書』香川県2013年)とされています。
 これに続くのが「頓証寺法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮蔵)で、応永11(1414)年4月17日に讃岐守護細川満元邸で催された和歌会の作品集です。この催しは、崇徳院遠忌250年(応永20(1413年)のことです。
頓証寺額
後小松天皇からの「頓証寺」銘の額(複製)

その翌年の12月には後小松天皇から「頓証寺」銘の額が白峰寺に届けられます。崇徳院法楽文芸作品群にしろ頓証寺額にしても、すべて白峯寺宛に届けられ、社僧等によって崇徳院の霊前に奉納されています。こうした慣行の積み重ねで、頓証寺をトップとする白峯寺の地位は格段に上昇していったようです。これは、江戸時代も続けられます。
以上から北山本新庄が白峯寺に「押領」されていく過程を想像力も交えながら小説風に記してみます。
北山本新荘の本家である京都の崇徳院御影堂は、応仁の乱以降の戦乱で荒廃します。その結果、地方の荘園を維持管理する組織や施設すらも消滅してしまい、荘主のいた京都からは何の音沙汰もなくなります。その隙を狙う在地の武士団(悪党)たちの狼藉・圧迫に歯止めがきかなくなっていきます。その先頭にいたのが白峰寺の門徒勢力です。彼らが崇徳院墓寺という金看板をバックに絶大な支配力を行使していきます。後光厳天皇綸旨案に崇徳院御影堂領北山本新庄の押領を行う「林田入道井高継以下の輩」とは、実は白峯寺と手を組んだ地元の武士団であったのかもしれません。
 白峯寺は、崇徳院山陵の墓寺の地位を確保し、次に山陵に附属して建立された崇徳院御影堂を山内に取り込んで発展していくようになります。崇徳上皇の慰霊・追善の寺という「錦の御旗」を掲げて、周辺の荘園に対する「狼藉・押領」を繰り返すようになっていったのではないでしょうか。そう考えると、「ミニ延暦寺化」した地方の有力寺院は暴力装置としての僧兵集団を持つようになるが常です。それは善通寺でも出現した板ことを見ました。院坊がいくつも並ぶ白峰寺には、僧兵もいたと私は考えています。そして白峰寺は、地元の武士団を配下に入れて、有力な軍事集団を構成していたとしておきます。そのためこの周辺には、有力寺院が白峯寺以外には見られなくなります。それは近世の象頭山金毘羅大権現が、周辺の寺社を取り潰した上に成長して行った姿と重なります。

相模坊
白峰の相模坊権現
 白峰寺の社僧達は天狗たちだったことも金毘羅大権現とよく似ています。
崇徳上皇は「天狗となって恨みをはらさん」と、言い放って亡くなります。崇徳上皇が葬られた白峰寺は、その後は相模坊に代表されるように天狗たちの住処となります。天狗とは修験=山伏たちです。白峯寺は松山荘と西庄という経済基盤を手に入れて、白峰山上には数多くの院房が建ち並ぶミニ高野山の様相を呈するようになります。つまり白峰寺は象頭山と同じ、天狗道の聖地でもあったのです。

白峯 解説文入り拡大図
白峯寺古図 中世の白峯寺には多くの堂舎が見える 

以上をまとめておくと
①北山本新庄(西庄)のエリアは、現在の西庄町よりもはるかに広いもので、綾川から聖通寺山に至るエリアであった。
②北山本新庄(西庄)は、後白河上皇が京都に建立した崇徳院御影堂に寄進されたもので「海の荘園でもあり、長い海岸線を持っていた。
③御供所や福江は、海の特産品の集積地であり加工場でもあり、出荷湊でもあった。
④福江は国料船福江丸の母港で、交易港でもあった。
⑤中世後半になると、京都の寺社の荘園は悪党の狼藉・押領に苦しめられるようになる。北山本新庄もその例に漏れず、次第に白峯寺に「押領」され乗っ取られていった。
⑥白峯寺は北山本新庄を西庄と呼ぶようになり、松山荘とならぶ経済基盤となっていった。
⑦このような経済力を背景に、白峰山上にはミニ高野山のように堂舎が立ち並ぶようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

   
5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
5HPTIMAGE
下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



         
3古代坂出湾地図

古代の遺跡を見る場合に、その当時の地理環境を復元することが大切なようです。例えば古代と現在の海岸線では大きく変わっています。川も流れを変えられている場合もあります。まず巨視的に古代の坂出湾を見ておきましょう。
 この地図は標高3m以下にグラデーションを付け「海の下に沈めて」古代の海岸線をよみがえらせたものです。五色台の先端を境に備讃海峡の東西両側の平野部に、大きく湾入する低地が浮かんできます。東側では、高松市街地と屋島の間に大きく湾入する低地で、近世の干拓の範囲と重なります。屋島は陸と離れた島で、この地域の中心は現在の古高松とその外港である方本(かたもと)湊です。そして現在の高松市街地は郷東川の河口で、野原村がありました。これが中世以前に存在した海域「古・高松湾」です。このエリアについては以前紹介しました。

3坂出湾1
 目を西側に転じると、坂出市街地にも深く湾入する低地があります。

大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所

と集落が連なる旧海岸線と、その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川が浮かび上がってきます。西には宇多津、東には木沢・王越があります。これらの海域世界を研究者は「古・坂出湾」と呼んでいるようです。古・坂出湾には、港がいくつかありました。

坂出・丸亀の古代海岸線復元
坂出市周辺の古代海岸線復元

この中で中世史料に登場するのが松山津と福江です。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子が山家集に次のように記されています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]
これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。これら以外は「津」がなく「松山」とのみ記す史料ばかりで、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などがあるようです。
  ここから中世に「松山津」があったことは確かなようです。
しかし、菅原道真の「菅家文草」には「津」と記されただけですので、これを「松山津」と同一視するのには研究者は慎重なようです

3坂出湾2
  古・坂出湾拡大図 島は津山と聖通寺山
もう一方の福江は、私は初めて聞く名前でどこにあるのか分かりませんでした。
  福江は現在の坂出市街の南側にそびえる金山の麓にあった湊で、
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
 また、『玉藻集』(1677年、延宝5)には、天正7年の香川民部少輔(西庄城主)の讃岐復帰の際のこととして、次のような記述があります。
 讃州宇足津の浦にわたる。香川、潮を計て遠干潟の坂出の浜魚の御堂より八町計沖の方を一文字に渡し、西ノ庄へ押着ける。(中略)
 彼中道と云は、聖通寺山より西ノ庄の間一里なり。外は道なく、陸路の方より八町計は歩の者足も立たざる深江なり。沖は満汐にてなけれ共、猶足入なり。
 ここには戦国時代末期に香川民部が西ノ庄の城に帰る際に、宇多津から角山(津の山)の北から西の庄に向けて「潮を計り」って干潟になった「海の中道」を押し渡ったと記されます。海の中道は、現在の坂出市寿町2丁目、本町2丁目、元町2・4丁目の砂堆のことです。これが戦国末期には形成途上で、福江の浜との間はまだ水深があり、福江の港湾機能は維持されていたことがうかがわれます。確かに福江の街並みを歩いてみると、石組みの古い井戸が残されたりしていて瀬戸の島の港町の雰囲気が感じられます。この地域が中世までは、古・坂出湾の西部の湊町だったようです。
古・坂出湾の東側=「松山津」と、西側=福江浦(のち御供所・平山・宇多津)の対抗関係は?
砂堆形成、潟湖埋積、河道変化などの地形環境の変化を背景に、各時代ごとの湊の盛衰の推移を簡単に見ておきましょう。 図式としては、
  両者の並立(7世紀)→「松山津」の優勢(8~12世紀)
→宇多津・平山・御供所の優勢(13~17世紀)→坂出浦の興隆(18~19世紀)

という流れを研究者は考えているようです。
2 レベル2:備讃海峡》
 海峡の西側(古・坂出湾)と東側(古・高松湾)は、讃岐国内での港湾機能をめぐる対抗関係がありました。それは政治拠点がどこにあったかということと結びついています。
 図式としては、
両者の並立(7世紀)→古・坂出湾の優勢(8~14世紀)→
両者の並立(14~16世紀)→古・坂出湾の優勢(16世紀末葉)→古・高松湾の優勢(16世紀末葉~17世紀中葉)→古・坂出湾外周地域の拡張・丸亀城下町建設)と、両者の並立(17世紀中葉~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
 大まかな全体像は、これくらいにして具体的に見ていくことにしましょう。
3綾川河口復元地図
綾川河口の総社神社遺跡は林田津?
 まず総社神社の由来です。古代、国司にとって「国祭り」重要な任務の一つでした。そのためは各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたといいます。しかし、これは手間暇が掛かるので国府近くに国内の神を集めて合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになったようです。この総社神社は、もともとの讃岐国の総社だと、この神社の由来は伝えます。確かに、府中に近く松山湊にも近い地理的にはふさわしい場所に鎮座する神社です。
 社殿では、旧林田村の郷社であり、926年に国府近くにあったものが現在地に移ってきたといいます。戦国末期の1597年(慶長2)に新社殿が建てられ、江戸時代には現在のような状況になったようです。どちらにしても讃岐一国の総社として存在したのは10世紀以降のことと研究者は考えているようです。
5讃岐国府と国分寺と条里制
 境内には総社神社遺跡があり、弥生時代中期中葉の壷形土器がほぼ完形で出土していることから、これまで弥生時代の遺跡とされてきました。しかし、改めて遺跡の立地を見ると、総社神社境内と東側・北側にまとまる総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地です。最初に見た国土地理院「5mメッシュ標高データ」でも、このエリアが小高い場所であることが確認できます。つまり、総社神社周辺の微高地は、自然堤防もしくは砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所で、8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡といえるようです。
 この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出てきます。ここからは、外部との交易活動を行う港湾機能をもった湊ではなかったのかと推測できます
 古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります
ここも古代は漁労活動(飯蛸漁)を行っていたのが8世紀後半頃から交易機能へ転じていったことが分かっています。これは総社神社遺跡の活動と、同じ時期のようです。

3綾川河口条里制

3.菅原道真が「寒早十首」を詠ったのは林田湊?
 讃岐に国司としてやって来た菅原道真は、庶民の生活に視線を注いでいます。『菅家文草』巻第三の「寒早十首」には「賃船の人」(206)・「魚を釣る人」(207)・「塩を売る人」・「商(塩商人)」(208)が、津頭(港のたもと)に集い売買や廻漕の請け負いをする姿が詠われています。

3菅原道真が「寒早十首」
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早釣魚人    寒さは釣魚人に早く来る
陸地無生産    陸地じゃ何にもできないから
孤舟独老身    じいさん一人で舟の上
撓絲常恐絶    釣り糸切れそうで心配し
投餌不支貧    魚とれても貧乏のまんま
売欲充租税    税金ばっかり取られっぱなし
風天用意頻    風空まかせのその日暮らし

何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民攉    お役人に訴えたくて、港で待っているんだ。
886年(仁和2)に作られたと見られるこの漢詩を通して、たくましい庶民の暮らしが見えてきます。  讃岐人にとって、先祖に当たるこの人達を道真が見かけた湊はどこなのか?というのは古くから興味の的でした。まず最初に思い浮かぶのは、
「予れ近会、津の11る客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」
との自註(234)があり、別の詩(222)で「小松を分かち種ゑて」と詠んだ「官舎」=「松山館」に程近い「松山津」です。しかし、松山津は現地に立ってみると分かるとおり雄山・雌山の東側に広がる入江に面した閉鎖的な港湾です。そのため
「松山館の主要機能は要人の接待・逗留であることから、限られた人的な移動(交通)を前提にするものであり、一般的な流通とは一応切り離される
と考える研究者が今では多いようです。
 これに対して林田郷周辺は、綾川の河川交通と海運が結びつく結節点です。「石清水八幡宮文書目論」(石清水文書)の1023年(治安3)の文書で讃岐国の石清水領として見える「林津」が、林田巷湾(林田津)とも考えられます。
 したがって「寒早十首」のいう「津頭」とは、林田(林津)の一角と捉え、総社神社遺跡周辺が最もふさわしい場所と多くの研究者は考えているようです。
 また、この漢詩には「津頭」には、「塩を売る人」が塩商人を訴えることを考えた「吏」がいたことが詠われています。ここからは、港湾の管理を行う役人と役所が存在したことがうかがえます。このような機能を持っていたのが総社神社遺跡のようです。
3綾川河口ezu JPG
 
次は林田町の綾川右岸に鎮座する総倉神社を見てみましょう。
先ほどの総社神社とよく似ていますから混同しないでください。
この神社の近くには西梶と東梶という地名が残っています。梶は「舵」で中世の船舵たちの拠点であったと考えられている地域です。
 ここには地元で「碇石」と呼称される石造物が2基あります。西碇石は総倉神社の西約150mの水田の中に、東碇石は同神社の東約100mの宅地にあります。
これらは『綾北問尋紗』(1755年、宝暦5年)には次のように記されています。
  攬(ともづな)石 〔神功〕皇后御船の梶取し石とて東西にあり。其間十町計り。
 神功皇后がここに着岸したのは、「三韓征伐」の際に強風が吹き航行が危険になったためと、同書の「東梶・西梶」の項で記されています。同じような説話は、幕末の『讃岐国名勝図会』にもあります。また、総倉神社境内の石製注連柱(1888年、明治21)の片側には「霊区碇石表神威」と刻されていて、総倉神社との関わりをうかがわせます。しかし。これは明治の神仏分離以前には牛頭天王(惣蔵天王)と呼ばれていたこの神社が神功皇后の船の右揖を守護したとする伝承(『綾北問尋炒』「東梶・西梶」「牛頭天王」の項)に由来するもののようです。
 「綾北問尋炒」では、両碇石(徴石)の間隔は10町(約1,100m)とされていますが、現在は約250mです。この違いはどこから来るのでしょうか。
同書が書かれた時には、東の碇石が東梶神社周辺にあったのではないかと研究者は考えているようです。ちなみに西碇石から東梶神社旧境内地までは800m程度であり、字「城ノ角」の東限までは約1,100mであることから、この推測は距離の点では整合します。
 東碇石が現在の石造物になったのは、神社郷士運動が進められる明治末期頃に東梶神社が総社神社に合併され、拠るべき伝承地がなくなってしまったためのようです。その時に、東碇石が東梶から移されたのか、新たに西梶の石造物が東碇石とされたのかは分かりません。
 東西の碇石を考古学者は次のように分析しています
西碇石は五夜ケ嶽産の凝灰角傑岩で作られた六角石憧であり、東碇石は五夜ヶ嶽産凝灰角傑岩の五輪塔水輪と考えられる。両者ともに15~16世紀の所産と思われ、伝承で語られるような係船石柱ではないことは明確である。
 つまり、碇石(緻石)というのは事実無根な伝承ということになります。しかし、この地域の石造物の多くが総社神社や薬師院(総倉神社)に集められたのに、西碇石だけは、ぽつんと水田の中に斜めに埋まって残されたのでしょうか。その不思議さは消えません。

3綾川河口条里制
2.中世の梶取名と「潮入新開」
 先ほど述べたように中世の東梶・西梶は、八坂神社文書や「昭慶門院領目録案」、薬師院所蔵の鰐口銘(1390年、明徳元)には「梶取名」と呼ばれていたことが記されています。
 京都の祇園社は、文永年間(1264~74年)に林田郷内の「湖(潮力)人新開」を寄進され、開発を進めていました。この「新開」はどこなのでしょうか?
 祇園社関係の史料を見ると、 1340年(暦応3)の「顕増譲状」に次のような記載があります。
 讃岐国・(潮力)入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪附等在之
 「塩浜5反のうち、3反分に条里の坪付がある」というのです。ここから塩浜(塩田)の一部は条里制の中にあったことが分かり、条里型地割の広がるエリアに近接して塩田があったうかがわれます。ここで祇園社領の新開田が、「湖入新開」あるいは「潮入新開」と記されていることを再確認すると「湖入」というのは、綾川旧河道と砂堆の間のラグーン状の水域と推測できます。以上から八坂神社領として新田・塩浜の開発が行われたのは、東梶・西梶・川向(以上、林田町)、東条・南条(以上、江尻町)付近のエリアの範囲内であったと研究者は考えているようです。
 条里型地割を伸ばしての開発と、地形に応じた不定形な開発単位。この二者が、綾川河ロエリアの中世開発パターンであったようです。京都の祇園社は、そうした土地や飛び地を少しずつ開発したことが見えてきます。
以上をまとめると
①古代讃岐には五色台を挟んで「東の古・高松湾と西の古・坂出湾」のふたつの大きな湾入があった。
②古代の古・坂出湾では、林田津と福江津が並び立っていた
③総社神社遺跡が古代林田津であると考えられる
④菅原道真が「寒早十首」を詠ったのも林田湊ではないか?
⑤総倉神社周辺は、京都の祇園矢坂神社の荘園があり周辺の開発を行っていた。
参考文献
西村尋文・佐藤竜馬  綾川河口域における開発史一古代から中世の林田郷周辺-
                    香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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