以前に古地名から綾川河口の歴史を探ろうとするアプローチを紹介しました。今回は用水路を探ることで、讃岐国府に通じる綾川河口エリアの歴史を紐解こうとする試みを紹介します。これは、香川県の埋蔵文化センターのが平成22・23年度にボランティア調査員と現地調査を行った研究成果として報告書にまとめられたものです。水田ごとの取排水口の確認、基幹用水路からの導水経路の確認を現地で行い、水利慣行についての聞き取り調査を行ってまとめられています。膨大な手間と時間を掛けて作られたものです。
まずは対象エリアと前回の地名調査から分かったことを確認しておきましょう。
綾川が府中に流れ落ちてきて不自然なドックレックを繰り返すあたりが讃岐国府の推定地で、いまも発掘が続けられています。そこから綾川は西に傾きながら北流していきます。


古代は高屋町と林田町の境になる雄山・雌山あたりが海岸線で、高屋町に国府の外港・松山港、林田町の総社神社辺りに交易港が置かれていたと研究者は考えているようです。そして、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたようです。
前回の地名調査で分かったことを確認しておきましょう
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された③大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた
①加茂町南東部(字杉尾付近)では五色台山塊麓にある溜池から灌漑する②加茂町の大部分は鴨用水、氏部井口用水から灌漑する③林田町では氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、新開。与北用水、大番・横井用水、鞍敷用水から灌漑し、溜池灌漑はない。④神谷町・高屋町の一部の地域は神谷川と新池から灌漑するが、大部分は三ケ庄用水から灌漑する。
現在は、鴨用水、氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、三ケ庄甲水は府中ダムを水源とする北條幹線用水路から取水しています。この北條幹線用水路は府中ダムからトンネルで坂出市立府中小学校の東まで導水して、地上に水路として現れます。水路は綾川右岸沿いを走り、林田町字東梶乙の西梶用水と濱用水の分岐点で終点となります。この区間の長さは4,097mです。この用水路は、府中ダム完成7年後の昭和48年(1973)に使用を開始しています。それ以前は、綾川町にある北條池を水源とし、綾川を経由して取水していたようです。
かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
これらの用水路は、いつ頃み開かれたのでしょうか?
上図は鎌田共済会郷土博物館が所蔵する模写図で、江戸時代の絵図を昭和12年(1937)に鎌田共済会が模写したものです。現在の坂出市林田町・加茂町・王越町をはじめとする坂出市北部が描かれています。作成年は記されていませんが、ある程度推測ができるようです。
研究者が、どのように年代推定を行うのか見てみましょう
A手がかりにするのは塩田です。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
B 文政9年(1826)に干拓工事を開始し、天保4年(1833)に完成した③坂出墾田は描かれていません。以上から『阿野郡北絵図』に描かれた姿は、文化元年(1804)以降天保4年(1833)以前のものと研究者は考えているようです。
絵図を拡大して見ましょう。
この絵図には山・川・池、村名・村境のほかに、道や用水路が描かれています。山裾の池の名まえはすべて記されていますが、用水名は一部のみです。絵図に描かれている用水路は鴨用水、三ケ庄用水、氏部井口用水、今井用水、郷佐古用水、新開・与北用水、濱用水のようです。山裾沿いに鴨用水が北流し、雄山の南の条里制区割り地区に導水されていたことがよく分かります。この絵図が書かれた天保4年(1833)以前には、これらの用水路は機能していたようです。
また、神谷川から出る用水路は描かれていません。絵図の成立時期には大番・横井用水はまだなかったようです。明治維新後の名東県時代(明治6~8年)に成立した壬申地券地引絵図には、大番・横井用水が描かれています。そこから大番・横井用水が出来たのは、明治維新前後だったと研究者は考えているようです。
一方、雄山ラインから北部には用水路は、あまり伸びていないようです。幕末期になっても、綾川河口の北部エリアの水田化は遅れていたことがうかがえます。
しかし、地名調査からは林田町北部には、新たに開発された田畑が広がっていることがわかってきました。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
そこで次に研究者は、水田化の状況から見きます。
その際の手がかりは、以前に紹介した検地帳に記された古地名を調査の成果です。
検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
上図の各用水路の灌漑域をみると、濱免は大香・横井用水と濱用水の灌漑域、古川免は西梶用水と新開・与北用水の灌漑域に当たります。
濱免の田畑の古地名には「元禄六酉新興」というように、「新興」の前に「元禄六酉」という年紀が付けられたものが多いようです。この年紀は、田畑として開発した後で、初めて検地をした時に付けられたもののようです。そのため濱免の田畑は、元禄6年酉年(1693)の少し前に開発されたことが分かります。
古川免では年紀の付くもの少ないのですが「延宝二寅新興」・「宝永六巳新興」。「安政二卯新興」がありますので、延宝2年寅年(1674)・宝永6年巳年(1709)・安政2年卯年(1855)頃に開発された田畑があることが分かります。
西梶用水の灌漑域の北部は、古川免の東部に当たります。
この付近の古地名には「新開」が付いています。ここから新しい開発であることが分かります。しかし、年紀がないので開発時期は分かりません。
新開・与北用水の灌漑域は古川免の西部になり、灌漑域は延宝2年(1674)、中部は宝永6年(1709)、南部は安政2年(1855)頃と数回に分けて開発されたようです。延宝2年(1674)に開発された田畑は新開・与北用水の幹線に西接しますので、新開・与北用水は延宝2年(1674)頃に開削された可能性が高いようです。
大番・横井用水と濱用水の灌漑域は濱免に当たります。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
また、「阿野郡北絵図』をよくみると濱用水は途中で2本に分岐します。


1本は海岸近く、もう1本は弁財天の北を走り、大番・横井用水の灌漑エリアのほうまで延びています。現在、弁財天は林田町にある惣社神社に合祀されていますが、元は惣社神社の200m北西の県道太屋富・築港・宇多津線の路線内にあったと伝えられます。現在、濱用水は元弁財天のあった場所の北方に北東方向に走る2本の幹線用水路があります。これらの2本の用水路が絵図に描かれた用水路の可能性が高いようです。以上から推定すると、このあたりは元禄6年(1693)頃に開発され、賓用水だけで灌漑していたのが、水量が不足したので、江戸時代末頃神谷川を水源とする大番・横井用水が開削されたのではないかと研究者は考えているようです。
三ケ庄用水が開かれたのはいつのなのでしょうか。
それは平成23年度の竹北遺跡の発掘調査が手がかりを与えてくれるようです。ここからは南東から北西に走る河川跡が出てきて、埋没時期は平安時代から鎌倉時代とされています。この河川と三ケ庄用水が重なるとすると、三ケ庄用水は河川が埋没後の鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
また、鴨用水と三ケ庄用水、今井用水と総社用水が開かれた順番を考える材料に「用水管理の既得権」へ配慮があります。古い用水路が優先され、後発用水路はすでにある用水路に影響を与えないように設計されます。先発組優先なのです。
そのような視点で鴨用水と三ケ庄用水を見ると、
①鴨用水のほうが上流で取水する。②加茂町南部で両用水路が交差する際には、三ケ庄用水は鴨用水の下をくぐり、鴨用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。③今井用水と総社用水の関係をみてみると、今井用水のほうが総社用よりも上流で取水する。④総社用水は林田町南部の坂出市立林田小学校の北東部で今井用水の下をくぐり、今井用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。
先発する用水路の上から水を導水することは、水利用の既得権に反することで騒動のもとになります。用水が交差する際には、後発組が下を通過するように設計されます。ここからは
鴨用水 → 三ケ庄用水今井用水 → 総社用水
という前後関係がうかがえます。
以上のことから、現在みられる加茂町・林田町・高屋町付近の用水路は江戸時代末までには作られていたことになります。
この中でも、
①新開・与北用水は延宝2年(1674)頃、②濱用水は元禄6(1693)頃、③大番・横井用水が最も新しく江戸時代末頃
に開かれた用水になるようです。その他の用水路の開かれた時期は不明ですが、鴨用水よりも三ケ庄用水、今井用水よりも総社用水の方が新しいようです。このなかで、三ケ庄用水は一番古いのですが、それでも古代に遡ることはないようです。鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
加茂町、神谷町西部、高屋町南部、林田町南部には条里地割が広がります。
条里地割は西に24度傾き、N-24°Wを示します。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。
三ケ庄用水は綾川から取水して、鴨用水の灌漑域の中を北方向に直線的に走ります。鴨用水の灌漑域の中でも三ケ三用水が走る場所は最も低い場所であり、用水路は深く、鴨用水の排水を集めながら北方に走ります。
三ケ庄用水は灌漑域に達すると数本に分岐し、条里地割の間を基本的に北方向に流れます。やはり頁西の水路へは、堰板を利用して分水します。ここでも大部分の水田の平面形は細長く、取水吉は短辺に設置されています。氏部井口用水は、綾川の右岸沿いに走る基幹水路から東西に樹形状に再水路を分岐させ、条里地割に沿って北方向に走り、神谷川に至ります。
かつては、現在に残る条里制区割りを古代にまで遡らせて考えていました。例えば次のような主張でした。
「綾川河口エリアの条里制ラインが引かれたのは白鳳時代で、それと同時一斉に、造成工事が始まった。それを行ったのが新宮古墳に代表される地域の有力豪族だ」
しかし、その後の丸亀平野や高松平野の考古学的な発掘調査で分かってきたことは、南海道が直線的に設置され、それに直角に条里制ラインは引かれた。しかし、それと土木工事の時期は一致しないということです。ラインが引かれたままで、その後は長らく放置され、中世になってから水田化が進められたような実例が数多く出てきたのです。この綾川河口においても、用水路を見る限り、水田化は中世に始まるエリアもあると研究者は考えているようです。
条里制中央部を南北に貫通していた「馬さし大貫」道があった?
出石一雄氏は、綾川河口エリアの中央を、南北に通る農道(馬さし大貫)を南北の基準線として条里地割が施行されたのではないかと推定しています。
この道は、雄山の南から綾川の南の府中まで延びていたと伝えられます。これを「馬さし大貫」と、呼んでいたと云います。道幅が広いので馬を走らせる練習をしたり、加茂から林田へ行くのに使われていたようです。この農道に隣接して用水路が走りますが、この農道は加茂町と林田町との町境であり、坂出市立白峰中学校の北側では氏部井口用水と三ケ庄用水の灌漑域の境界にもなっています。中学校の南側の三ケ庄用水の灌漑エリアが、馬さし大貫の西側にあたると研究者は考えているようです。ここは元来、氏部井口用水の灌漑エリアですが、末端であるため水が不足し、江戸時代後半の寛政年間(1789~1801)に水争いが起こり、その後三ケ庄用水の灌漑エリアになった経緯がある地域です。このように、馬さし大貫は灌漑エリアの境界にもなっています。南海道などの大道が古代の行政区画の境界になっていたことを思い出させます。
三ケ庄用水の灌漑エリア全体が開発されたのは鎌倉時代以降で、鴨用水の灌漑エリアよりは開発が遅れた可能性もあるようです。その場合は、雄山から綾川まで走る馬さし大貫は少しずつ作られたことになります。条里地割ともに馬さし大貫ができた時期についても、今後の検討課題のようです。
以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。
古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。
以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。
古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。
参考文献 讃岐国府跡探索事業調査報告 平成23・24年度 地形・地名調査











