瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:坂本念仏踊り

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
  しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。

意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。

 ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。

滝宮念仏踊り1

その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。

坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
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一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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