瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:坂本郷

阿野郡の郷
鵜足郡坂本郷(現丸亀市飯山町+綾歌町+垂水町周辺)
寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村 乗正坊
C 南条郡羽床村  乗円坊
D 南条郡羽床村  弐刀
E 北条郡坂出村  源用坊
F 宇足郡岡田村  了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村  源勝坊
これらの各坊が寺号を得て、その後になんという寺になったのかを探ってみることにします。
「由来書」には郡名だけで村名がないので、特定しにくいようです。それに対して、前回に紹介した鎌田共済会図書館所蔵の「國中諸寺拍」には村名まで書かれています。その内の那珂郡垂水村には、真宗寺院が五ヶ寺あって他宗の寺はありません。そのうち西坊については「常光寺末那珂郡円徳寺末西之坊」で、「Gの仲郡たるミ(垂水)村西坊」であることが分かります。

常光寺末寺 円徳寺
垂水の西坊をめぐる本末関係

それでは垂水村のもうひとつの「A明雲坊」は、どうでしょうか?
現在の垂水には、願誓寺・善行寺・西教寺(下表60)・浄楽寺があります。

真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の高松藩内の末寺(高松藩御領分中寺々由来書)
このうち三木郡常光寺末の善行寺(上表59)は「僧明誓の開基」とあります。明誓と明雪は音が近いので、明誓坊が明雪坊なのではないかと想像できる程度です。明誓坊が善行寺になったかどうかの確証にはなりません。あとはよくわからないとしておきます。

岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
現在、上の航空図のように岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。
尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末寺の木仏付与時期

坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。
つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。
ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
E 北条郡坂出村の源用坊については、
「國中諸寺拍」には坂出村には教専寺が記されているだけです。それが「由来記」には教善寺、「本末帳」は教専寺になっています。この寺は寛永年中の開基で、「讃岐国名勝図会」では玄諦の草創と記します。玄諦のころには源用坊と呼ばれ、それが教善寺 → 教専寺と変化したことが推測できます。

長尾氏 居館
慈泉寺と超勝寺は長尾氏の居館跡と伝えられる
現在のまんのう町長尾には、西長尾城主の館跡とされる慈泉寺と超勝寺があります。17世紀末の「由来書」と幕末の「讃岐国名勝図会」ともに、次のように記します。
①慈泉寺は大永年中(1521~28)に僧祐善の開基、
②超正(勝)寺は永正年中(1509~31)僧玄了の開基
玄と源が同音だから玄了は源勝坊であったことが想像はできます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、長尾村には慈泉寺と超勝寺があり、共に阿州安楽寺末と記されています。 ここからは源勝坊が寺号を得て超勝寺になったことが推測できます。もしそうなら超勝寺が寺号を得たのは、17世紀半ば以降のことになりますが木仏付与の書類は残っていません。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺末寺(17世紀末の御領分中寺々由来)

寛永21(1644)年の「坂本郷吉利支丹御改帳」に出てくる真宗の九坊を観てきました。
しかし、確かなことは何も分からないと研究者は考えているようです。ただ生駒騒動後に成立した高松藩や丸亀編では、この頃は真宗道場の寺院化がすすむなかで坊号・寺名の改変が頻繁に行われていたこと、そして、寺号を得て坊から寺へと成長して行くのも、この時期が多かったことはうかがえます。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩の真宗寺院に木仏付与された時期一覧
また、坂本郷で行われた宗門改めに寺号をもつ14ヶ寺と同じように、寺号を持たない各坊も参加してたことが分かります。本願寺からは寺号を許されない坊でも、高松藩は寺として認め、宗務に参加させていたようです。寛文・延宝期になっても、そのことに変わりがなかったことは「本末帳」に貼付された次の記事からも分かります。
寛文元年丑ノ壬八月吉□
山田郡林之郷吉利支丹御改出家帳
人数三人内    弐人男 壱人女 了遊 印
一 了遊    歳五拾五 
一 くりもり  年五十三
一 男子小大郎 歳十九
右之了遊家内男女共拙僧旦那二御座候以上
山田部十川村
真宗 高木坊 印
高木坊は「由来書」では安養寺末山田郡光清寺となり、「文明年中高木坊与申僧」の開基だと書かれています。寛文元年にも寺号はなく高木坊のままですが、宗門改を行っていることが分かります。ここに記された了遊も「一くりもり」という女と一緒に生活し、妻帯していて「拙僧旦那二御座候」とあるので高木坊の檀家であることを保証しています。高木坊が宗門改めに加わっていたことが分かります。

今回はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」

中学生の使っている歴史の資料集を見せてもらうと、中世の武士の居館を次のように説明しています。
飯山国持居館1
武士の居館
武士は、土地を支配するために、領内の重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館を造り住みました。武士が住んでいた屋敷のことを「居館」と呼んでいます。居館は堀ノ内・館・土居などとも呼ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑用の用水を引いた方形の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲んだ中に、館を構えました。

 ここからは中世の武士たちが用水が引きやすい川の近くに堀を掘って、土塁を築いた居館を構えていたことを子ども達に伝えています。しかし、居館はその後、土に埋もれて忘れられたものが多いようです。そんな中で「丸亀平野の中世武士の居館捜し」を行っている論文を見つけました。その探索方法は、航空写真です。
飯野山の麓の今は忘れられた居館を見に行きましょう。
もちろん航空写真で・・  
飯野山の麓の飯山北土居遺跡
飯山国持居館2航空写真
クリックで拡大します
この写真は1962年に撮影された丸亀市飯山町西坂元付近の写真です。北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。写真中央に南から北へ北流する旧河道が見えます。その流れが飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。この南東側に、周りの条里制遺構とは形が違う小さい長方形地割がブロックのように集まって、大きな長方形を造っているのがよく見ると見えてきます。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mになります。

飯山国持居館2地図

 この長方形の北辺と東辺の北部には、縁取りのような地割が見えます。また、地割ではありませんが長方形の西南部には周囲よりも暗い色調の帯(ソイルマーク)が白く写る道路の南側と東側にあります。これは、城館の堀だと研究者は考えているようです。この堀で囲まれた長方形部分が居館になります。
 北辺はこの撮影後に道路造成で壊されたようですが、その後の水路改修工事の際には、この部分から滞水によって形成されたと考えられる茶灰色粘土質によって埋った溝状遺構がでてきたようです。水路工事は、この下部まで行かなかったので発掘調査は行われなかったようですが、中世の土器片が採集されています。ここからも細長い地割は、中世のものでかつての堀跡と考えられます。周囲に堀を巡らした中世の長方形の区画は、居館跡のようです。この遺跡は飯野山北土井遺跡と呼ばれることになったようです。
 この地域は敗戦直前に、陸軍飯山飛行場が造成されました。
昭和20年5月に国持・西沖を中心とした地に陸軍の飛行場建設が始まり、田畑借上げとともに家屋の立退きが命令されます。借上田畑の面積21町余・立退家屋16で、建設は動員により突貫工事で進められます。8月に敗戦となり、立ち退きを命じられた農家は、滑走路を元の姿に返す作業に取り組まなければなりませんでした。昭和21年に国営開拓事業飯野山地区として指定され、復旧工事は進められ昭和30年頃までには、ほぼもとの水田にかえったようです。かつて滑走路になった所は航空写真からは、その痕跡をみつけることはできません。人々の記憶からも忘れ去られていきます。土地所有者の変動などで旧地名や字名も忘れ去られてしまったようです。ちなみに、この飯山北上居遺跡の所在する小字は「土井」です。
飯山国持居館3グーグル地図

グーグルで飯野山北土井遺跡が、現在どうなっているのかを見てみましょう。
①居館跡の西側はダイキとセブンイレブンの敷地。
②居館跡の北側には町道が通っている
③居館跡の南東角をバイパスが通っている
④旧河道はいまでもはっきりと見える。
ダイキが出来る前には、発掘調査が行われたはずですから報告書がでているはずです。読んでみたくなりました。  私が興味があるのは、この旧河道です。中世城館跡は川の近くに立地し、川筋を軍事用の防衛ラインとして利用していた例が多いようです。この飯野山北土井の城館遺跡も西側と北側は、旧河道が居館を回り込むように流れていきます。川が外堀の役割を果たしているように見えます。
 もうひとつは、この川の源流がどこなのかという点です。
飯山国持居館3グーグル地図2

河道跡ははっきりしていて、グーグルで上流へと遡っていくことができます。行き着く先は、旧法勲寺跡です。ここは大束川の支流が不思議な流れをしている所です。なにか人為的な匂いを感じますが、今は資料はありません。今後の課題エリアです。
5法勲寺images (2)

ここに居館を構えていた武士団とは、何者なのでしょう?
 居館のある飯野山の南麓は、現在は西坂本と呼ばれています。ここは「和名抄」に載せられた阿野郡の8つの郷のうちのひとつ坂本郷のあったところです。

飯山国持居館5鵜足郡郷名
角川地名辞典 香川」は、西坂本について次のように記します。
土器川の右岸,飯野山(讃岐富士)の南に位置する。地名の由来は,坂本郷の西部に位置することによる。すでに「和名抄」に坂本郷とあり、昔,坂本臣がこの地を領していたのに始まるといわれている。地内の国持については、天正19年1日付の生駒近規知行宛行状に・当国宇足郡真時国持村と見えている(岩田勝兵衛所蔵文書 黄薇古簡集」
ここからは次のような事が分かります。
①坂本郷は、古代の「坂本臣」に由来するという伝来がある
②坂本郷が東西に分かれ、近世初頭の生駒藩時代には「国持村」があった。
確かに地図には「西阪本」や「国持」という地名が見えます。
さらに地名辞典には近世の項に次のようなことを記します
③江戸時代は西阪本は、「坂本西分」と呼ばれ、高柳村と国持村に分かれていた。
④神社は坂元神社ほか2社。庄屋は天保9年真鍋喜三太の名が見えるが、多くは川原村か東坂元村の兼帯であった
と記されます。地図に出てくる「国持」は名主名で、戦乱の中で武装化し「武士」になって行くものが多いようです。居館がある所と「国持」は、ぴったりと一致します。我田引水的で申し訳ありませんが、手元にある情報は、今はこれだけなので
飯山北土居遺跡に居館を置く武士団が周辺を開き、その周辺を当時の棟梁名「国持」でよばれるようになった
としておきましょう。
大束川旧流路
飯野山南の土地利用図 旧大束川の流路が記されている
 もう少し、想像を飛躍させて「物語」を創作すると、こんなストーリーになるのかもしれません。
①古代豪族の綾氏が坂出福江湊から大束川沿いに勢力を伸ばし、坂本郷へ入ってきた
②綾氏の一族は、坂本郷に開拓名主として勢力を築き、武士団化
③彼らの結束の場となったのが綾氏の氏寺法勲寺(後の島田寺)
④島田寺の真言密教の修験者は、神櫛王の「悪魚伝説」を創作し、綾氏一族のルーツとする。
⑤その綾氏一族のひとりが「国持」で、彼は飯野山南麓の旧大束川支流の屈曲点に拠点を構えた。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
 木下晴一       中世平地城館跡の分布調査 香川県丸亀平野の事例                      香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995
 

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

       

 
柞田荘 四方標示

前回は柞田荘の立荘が、どんな人たちの手で進められたのかをみてきました。今回は、荘園の境界を見ていくことにします。この荘園は柞田郷がそのまま立荘されたようです。だから、柞田郷の境界が分かると荘園のエリアも分かることになります。
柞田荘 地図

それでは、まず柞田荘の「四至」をもう一度確認しておきましょう。
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
 一、四至
東は限る、
 紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。
南は限る、
 姫江庄堺 西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
膀示四本                                             
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
 次のような手順で境界が決められ、東西南北に膀示四本が打たれたことが分かります。
①東の境界線は「紀伊郷境」、北の境界線は「坂本境」で北と東の郷境線が交わる「艮(うしとら)角に「膀示」が打たれます。
②そして、この場所は苅田郡の条里制の「五条七里一坪」の「田地」の中だと記します。
三豊の条里制研究の成果は「五条七里一坪」が現在のどこに当たるかを教えてくれます。現在の柞田上出東北隅、西部養護学校の南側にあたります。地図に艮「五条七里一坪」を書き入れてみると次のようになります。
柞田荘 郡境12

 艮膀示は現在の西部養護学校の東側になります。
この地点の説明が
「紀伊郷並びに山本郷、坂本郷、営庄(柞田荘)、四の辻これを打つ」
です。ここは確かに辻(十字路)になっています。ここに膀示が建てられたのです。どんなものだったのかは分かりませんが、石造のかなり背の高いものだったと勝手に想像しています。

柞田荘 艮付近

艮膀示が打たれた場所は、南海道に面した地点であったようです。
四国の条里制については、次のようなプロセスで作られたことが分かっています
①南海道が一直線に引かれる。
②南海道に直角に郡郷が引かれる
③郡郷に沿って東から順番に条里制の条番が打たれる
④山側(南)から海側(北)に、里番打たれる
三豊においても南海道に直角に三野郡と苅田郡の郡郷が財田川沿いに引かれます。そして、この郡郷に平行に条里制工事は進められていったと研究者は考えているようです。どちらにしても南海道や条里制、そして郷の設置は、非常に人為的で「自然国境的」な要素がみじんも感じられません。

柞田荘 艮付近2
南海道が通過していた艮ポイントとは、どんな場所だったのか探ってみましょう。  
南海道は本山付近で財田川を渡ると、国道11号と重なるように南西へ進みます。国道はパチンコダイナム付近で向きを少し変えますが、南海道はあくまで一直線に進んでいき、現在の西部養護学校付近の艮ポイントまで続きます。地形的には東から伸びてくる舌状の丘陵地帯をいくつも越えて行くことになります。近世の新田開発やため池工事で南海道は寸断され、姿を消していきます。ただ、観音寺池と出作池の間の堤防は、かつての郡郷で南海道跡のようです。この堤防には鴨類が沢山やって来るので、よく鳥見に出かけた思い出があります。この堤防からの景色は素晴らしく、古代の三豊の姿を思い描くには最適の場所です。ここからは東に母神山がすぐそばに見えます。その裾野には、三豊総合運動公園の背の高い体育館があります。公園の中には、以前お話しした6世紀後半の前方後円墳・ひさご塚古墳や横穴式円墳の鑵子塚古墳を盟主とする多くの古墳群が散在するのです。仏教伝来以前の古墳時代の人たちは、死霊は霊山に帰り、祖霊になり子孫を守ると考えたようです。母神山もその霊山であったと私は思っています。
 一ノ谷の青塚 → 母神山のひさご塚・鑵子塚 → 大野原の3つ巨大横穴式古墳
は、同一系統上に考えられ、同一氏族によって造り続けられたと研究者は考えているようです。そうだとすれば、先祖の作った古墳を眺めるように南海道は母神山のすぐ側を通り、そして、大野原の3つの古墳の中を縫うようにルート設定が行われたことにもなります。
 この地域の南海道工事に関わった氏族として考えられるのは・? 現在の所最有力は、紀伊氏ということになりそうです。紀伊氏の先祖が造営してきた古墳に沿うように、南海道があることの意味を考える必要がありそうです。話が飛んだようです。ここでは柞田荘のエリア策定にもどります。

   東南コーナーは「巽(たつみ)角井下村」
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。

巽角は井下村の姫江荘との境の路に打った。路は柞田荘のものである。巽膀示が打たれた場所を上の地図で見てみましょう。分かりやすくするために近世の柞田村の境界線がと南海道が太線で入れてあります。なお、高速道路が出来る前の地図です。
柞田荘 巽

  土井池をぐるりと囲むように旧柞田村と旧大野原村の境界は引かれていたようです。しかし、古代の境界線は直線です。ここから北西の坤角に向かって伸びていきます。
柞田荘 境界3

  巽角(東南)の境は大野原十三塚と柞田の接する辺り

「その境路の巽角これを打つ」とは、どういう意味なのでしょうか。「路は営庄(柞田荘)内なり」と、道の内側に打った、つまりこの道が杵田荘のものだと主張しているようです。この「境路」とは、どんな道なのでしょうか。私は、艮角と同じように、南海道であったと思います。南海道が艮ポイントからからこの巽ポイントまで、真っ直ぐにつながっていて、これが紀伊郷との境界になったのではないでしょうか。南海道の外側に境界線を打てというのは、
南海道はこっち側だとの主張が通ったように思えます。
柞田荘 巽1

南海道は、ここから大野原の3つの古墳に向かってまっすぐに伸びていきます。
  乾(北西)膀示 浜辺にどうやって境界を引いたのか?
一本 乾(いぬい)角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を記しこれを打つ。
 乾(北西)膀示(北西コーナー)は、鈎洲浜に乾膀示を打たと記されます。鈎洲浜(カギノスハマ?)は、当時は何もない砂浜の上で海岸線だったようです。現在、ここがどこに当たるのかも分かりません。
柞田荘 乾20
ここは当時の海岸線だったようです。「海面は参里を限る」とあり、燧灘の海の領有権が認められています。一里がほぼ四キロですから三里で十ニキロでおおよろ伊吹島までになります。この記事から、作田荘は、沖へ三里まで領海を持ち、独占的な漁業が営めたことになります。
次の記述は私には意味不明でした
「ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。」
 研究者は次のように説明してくれます。
畷ナワテは、四条畷というように畦道のこと。浜上の鈎洲浜(カギノスハマ?)は、古作と呼ばれている昔耕作されていた田畑の海側にある。そのため坂本郷とこの荘園との境界に、標識を打ちたいが何も目印がない。そこで行ったのが、次の作業で
①艮膀示(本)と古作畷(末)は坂本郷と杵田荘の境界になっている。
②そこで、本末の両方で狼煙をあげる。
③そして鈎洲浜(カギノスハマ?)の海際を南北に歩く
④陸の方を見ながら移動するとふたつの狼煙の煙が重なりる地点がある。
⑤ここが艮膀示と古作畷の延長線上になるので、ここに乾榜示を打つ。
⑥こうして鈎洲浜に乾膀示が打たれた
この方法は「見通し」といわれて古墳時代にはすでに行われていた測量方法のようです。その「見通し」技法が使われたことが分かります。
   柞田荘は、海にも領有権を持っていた。
 四至では、
「西は限る、大海 海面は伊吹島を限る。」
とあります。乾については
「海面は三里を限る。」
と注記されて、西に広がる燧灘の沖合3里の伊吹島までの海面が立荘されています。
 さらに「実検田畠目録」には、9町余りと5町余りの「網代寄庭二所」が設定されています。ここから「地先水面が四至内として領有されていたこと。そこには「網代」=漁場が設定されていたと、研究者は考えているようです。そうだとすれば柞田は、燧灘に特権的な漁場を持っていたことになります。貢納品を日吉神社に運ぶには海路が使われたでしょうから湊も整備されていた可能性が出てきます。
 なお、伊吹島については、「八幡祀官俗官并所司系図」には、鎌倉時代には石清水社領となっていたことが記されています。さらに、燧灘に面して北から賀茂神社領の仁尾湊、琴弾神社の観音寺湊があったことが分かっています。これに加えて、日吉神社領の柞田湊が交易・漁労の拠点として機能していたことになります。
柞田荘 地図

  東西南北の「角石」(コーナーストーン)をもう一度確認しておきます
時計回りに見ると、①艮(北東)・②巽(南東)・③坤(南西)・④乾(北西)の4ポイントです。
①艮ポイントは、紀伊・山本・坂本3郷と柞田荘との四つ辻に当たる刈田郡5 条7里1坪に
②巽ポイントは、井下村のうち、姫江荘との境界となっている道のさらに東南の角に打たれている。
③乾ポイントは、北側の坂本郷と南側の柞田荘の境となった鈎洲浜に打たれた。
④坤ポイントは、姫江荘内埴穴と園生村との境となっている浜の上に打たれた。

柞田荘 境界
  坤は野都合辺りで埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境。

しかし、疑問がひとつ浮かんできます。
「東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。」
ここには「苅田川」と聞き慣れない川の名前が出てきました。和名抄に出てくる刈田郡と同じ名前です。しかし、今は苅田川という川はありません。あるのは柞田川です。どう考えればいいのでしょうか?
  研究者は次のように考えているようです。
 柞田川というのは、もとはその郡名にちなんで苅田河と呼ばれていた。しかし、平安時代末期成立の『伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」と見え、「苅田郡」から「豊田郡」に郡名が変わった。そのため苅田郡という呼称が使われなくなると共に、「苅田河」も、いつの時代かに柞田川と呼ばれるようになった。
  つまり今、柞田町のど真ん中を流れている川が古代は苅田川だったということです。そして、この柞田川流域に、ほぼ真四角な形で柞田荘は広がっていたようです。もちろん海のエリアを除くとですが・・・
  以上をまとめておくと
①柞田荘は、古代の柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域内では里界線や官道が用いられている
⑤条里制外の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられている。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。


  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

「銭形砂絵」の画像検索結果

観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 

  丸山古墳2
 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
concat

 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 副葬品には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があり、円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は、南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳石室実測図
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
例えば石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室のようですが、その特徴である石障はありません。
丸山古墳 石棺
丸山古墳の石棺と石室
石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳はないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです

この古墳の変わっている点は?

 「阿蘇溶結凝灰岩 石棺」の画像検索結果
         刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南の丘陵にある青塚古墳

次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
「観音寺市 青塚古墳」の画像検索結果
                     青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。

青塚古墳測量図
青塚古墳測量図

 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。


 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

瀬戸内海の紀伊氏拠点

瀬戸内海における紀伊氏関係図
三豊の坂本郷や紀伊郷は、紀伊氏の瀬戸内海ルートの支配と関係があると研究者は考えています。         紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、特に吉備氏牽制のために、瀬戸内海南ルートの讃岐や伊予に勢力を培養し、朝鮮半島からの交易ルートを握っていたこと、空海の生家である善通寺の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、紀伊氏の下で海上交易を行っていたという説は以前にお話ししました。 こうして見ると「紀伊の紀直氏=善通寺の佐伯直氏=三豊の紀伊氏=肥後のX氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。このルートに乗って、先ほど見た阿蘇の石棺は運ばれてきたと私は考えています。

和歌山・大谷古墳
大谷古墳(和歌山市)の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されています。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。

大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港がでてきます。そうした海上交通の拠点地を経て、船で肥後から讃岐にもたらされたとしておきます。五世紀後半の阿蘇山の石棺は、そんな瀬戸内海交易を伺わせてくれます。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や
作山古墳が姿を見せます。
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。

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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

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こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでのヤマト政権の
都はヤマトとその周辺に置かれていました。ところが古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
 瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




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