以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。
中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)
中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。一 末寺ノ岡犬の基鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。一 中寺堂所コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。
甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。
意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。
もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。
ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。
左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。
石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。
ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。
こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。
この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。
以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐髙松藩の藩主巡視 西村家文書に見る大川山周辺の阿讃国境附近の巡視活動
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


