「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」
とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
塩飽荘の立荘と塩生産
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女
そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
「塩二石 塩飽御荘年貢内」
とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。
海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。
『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

南海通記
ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻)
細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
上から2番目が塩飽です
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
積み荷についても見ておきましょう。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています。
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
児島合戦に見る塩飽衆の性格は?
戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。
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