瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:塩飽人名

 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
 009-1.gif
現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
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 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
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3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

塩飽勤番所
「1150石の領主」となった塩飽人名には、どんな里役(義務)があったのでしょうか?
 戦時においては船を持って参戟し、この軍隊や城米を目的地まで運ぶのが、御用船方を命じられた塩飽の役目でした。注意しておきたいのは「水軍」ではなく「輸送部隊」であったことです
 この外に長崎奉行の送迎があります
 長崎は江戸時代には、唯一外国に開いた貿易港です。その長崎奉行は長崎の市政や貿易を担当し、九州大名の監督や密貿易の取締りにあたる長官です。定員は二人で任期は一年、交替で長崎に赴任しました。塩飽は承応三(1654)年以来、交替する奉行を大坂から小倉まで送り、さらに任期を終えた奉行を待って、大坂まで送迎するのも御用船方の任務でした。これには50人前後の水主(かこ)が、2ヶ月近く動員されています。
 また、朝鮮通信使400人ほどの使節団が、将軍の代替わりごとに来日します。
江戸時代を通じて12回来ていますが、この使節団を大坂川口から淀まで、川船で輸送することが塩飽に命じられました。塩飽か実際に出動したのは、享保4年、延享5年、宝暦14年の三回です。享保のときには、大坂で5671の水主を雇い、延享には銀三八貫目余、宝暦には銀四〇貫目余が支出されています。その外、城普請の資材の運搬とか、幕府が派遣する上使の運送などの御用を務めています。
   北前船 塩飽廻船の栄光
  当時の「大量輸送」の主役は船です。研究者の計算によると、千石石の米を輸送するのに、
①1000石 ÷ 馬一頭の積載量四斗(俵二俵) 
          =12500頭の馬と同数の馬子
②1000石 ÷ 千石船 =1艘
という計算になります。千石船は、乗組員が十数人で動かせます。食事・宿泊費を考えると、輸送距離が長くなっても、船の方が断然経済的です。酒田港で船積みされた城米は、日本海、瀬戸内海を通って大坂へ、更に江戸へとつなぐ西廻り航路によって輸送されるようになります。この航路は、約1300キロの長距離です。しかし、太平洋側の東廻り航路より安全で、運賃も米百石について
①東廻りの22両2分
②21両
1両ほど安かったので、日本海側の物資は西廻り航路が選ばれるようになります。これらの船が金になる物資を積んで瀬戸内海を上っていくのです。一艘の北前船が寄港するだけで、その港は潤いました。
塩飽廻船の最盛期を過ぎていますが、正徳三年(1713)の記録によれば、
①当時の塩飽船数総数   476艘で、
②150石積~200石積 112艘
③200石積~300石積 360艘
で、毎年7万石の東北の城米を運んでいます。往路には塩、砂糖、織物など瀬戸内の産物を積み、帰路には、米以外に魚肥、塩干魚、昆布などを買い入れています。
 当時の塩飽の人口は10723人、そのうち船稼者3460人です。それでも船乗りが足らなかったようで、北岸の備中児島から多くの水主を雇っています。
3  塩飽人口と船数MG

     しかし、塩飽廻船の全盛期も元禄年間くらいまででした。
諸国廻船を使って、町人が塩飽廻船よりも安い運賃で城米の運送を請け負い始めたのです。享保五年に幕府は、北国・出羽・奥州の城米の東廻りによる江戸への廻米を江戸の廻船問屋筑前屋作右衛門に命じ、翌年には越前の城米も西廻りによる運送も彼に命じます。つまり城米の運送を町人に請け負わせることにします。これまでの城米の「雇直送方式から請負雇船方式」へ切り換えられたのです。城米運送の御用船として塩飽廻船の持っていた特権はなくなります。船賃競争に破れた塩飽の廻船数は、西回り航路の舞台から時代に「退場」していくことになります。
 牛島の廻船は享保六年は43嫂ありました。しかし、7年後には約半分の23嫂に激減しています。この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
と急激に減っています。これは塩飽の地域経済に大きな影響と変化をもたらします。
明和二年(1765)に勘定奉行に差し出した書状には
 島々の者浦稼ぎ渡世の儀、先年は廻船多くご座候に付、船稼ぎ第一につかまつり候えども、段々廻船減じ候に付、小魚猟つかまつり候者もご座候、元来、小島の儀に候えば、島内にて渡世つかまつり難く、男子は十二三歳より他国へまかり越し、廻船、小船の加子、または大工職つかまつり、近国へ年分渡世のためまかりいで候、老人妻子ども畑作渡世っかまっり候
 とあり、
①かつては、廻船が多く船稼ぎで生活していたこと
②ところが廻船業が衰退し、漁場を行う者や
③島には仕事がないので、島外に出て水夫や大工になること
など、かつての塩飽の栄光も影を失って、寛政期の困窮の時代を迎えることが分かります。
塩飽の人名制度について、もう一度見ておきましょう
 秀吉は塩飽領1250石を650人の船方に与えました。人名と呼ばれた人たちは、もともとは本島・牛島・与島・櫃石島・広島・手島・高見島の七つの島に住んでいましたが、後に沙弥島・瀬居島・佐柳島や石黒島を開拓移住したので、最終的には11の島で暮らしていました。
 人名が最も多いのは本島の305人で約半数が本島にいました。本島と広島は浦毎に配分し、その他の島では、島毎に配分しています。その保有状況は、地区によって違っていて、一人一株の所もあれば、地区全体で共有している所もあります。また、分家や譲渡によって、一株をいくつにも分割している例もあるようです。つまり人名株を持っている人は、650人よりも多いことになります。
 これについて、享保六年に支配役所へ差し出した書付に
 役水主六百五拾人の事 役水主の儀、先年より家きまりおり申す儀はご座無く候、役目勤めかね申す者は、段々差し替え申し候、この儀常々年寄、庄屋よく吟味つかまつる事にご座候、人数の儀は浦々高に割符つかまつり、何拾人と申す儀相きまりおり申し候
とあるように、非常時の動員に対して、650人分の水夫を準備しておくことが第1に求められたことのようです。
人名組織の年寄について
 4名の年寄は、泊浦と笠浦のそれぞれの名家が世襲したようです。彼らは朱印状を守り、大坂奉行所からの通達などの政務を行いました。非常時には年寄が庄屋を集めて協議し、決定し難い事項は大坂奉行所へ申し出て指示を受けました。
 年寄の下に浦毎に庄屋・組頭が置かれていたようで、次のような文書があります。
 島中の庄屋拾八人ご座候、組頭と申す儀は浦々にて百姓の内二三人宛 組頭と定め置き、庄屋に相添え御公用ならびに浦の用事相勤め申し候 但し、二三年宛順番につかまつり候、右組頭共相替わり候節は、庄屋方より年寄共方へ相断り申し候、庄屋共の儀は、先年より代々家相続相勤め居り申す者共多くご座候、是又、よんどころなき儀ご座候て、庄屋役指し上げ候者ご座候節は、年寄共吟味の上指図つかまつり候
意訳すると次のようになります
 庄屋は18人、組頭は浦毎に2,3人で庄屋を助け、協議しながら浦運営に当たっている。ただし、2,3年毎の輪番制で、交替する場合は庄屋より年寄りに相談がある。庄屋はほとんどが世襲しているが、やむを得ず庄屋役を召し上げる場合は、年寄りと協議の上で行っている。
さらに次のように記します。
① 年寄職は、本島で一番大きい笠島浦、泊浦のどちらかから出すのが慣例になっている
② このふたつの浦には組頭は置いていない。
③ 庄屋には役料をだしているが、組頭は無給である。
 天領としての支配は、大坂川口奉行、大坂町奉行が交互に行っていたようです。これらの支配所からは毎年、見聞使が視察に来て、諸島を巡見しています。
塩飽の人名組織の財政については?
塩飽の表高は1250石ですが朱印状により幕府には、一文も納める必要はありません。全て島内で裁量に任されていたようです。それらは積み立てられて、つぎのような項目に支出されました。
①長崎奉行役の賃金
②島中の者が御用のため大坂へ出張雑用、
③島内の会合の必要経費
この他に「小物成」収入として、山林からの山手銀、塩浜年貢、網の運上銀があります。この中で最大の収入となったのは、島外からの入漁者や島内の人名網元への運上銀でした。
3 塩飽運上金

この額が年を追って増加し、幕末頃には銀96貫と、総収入の7割を越えるようになったことは前回お話ししたとおりです。
 年と共に幕府からの総員命令で支出は増え、赤字財政が続き、人名からの臨時徴収によって補てんするようになります。廻船業が順調なときならある程度の負担は、本業のもうけで埋め合わせが出来ました。しかし、その本業が成り立たなくなった状態では、負担が増えることに絶えられなくなる人名たちも出てきます。こうして、人名の間で財政問題をめぐる保守派と改革派の対立が顕在化するようになります。
 改革派が直訴で要求したことは?
 巡見使がやって来ることを知った改革派の人名達は、笠島浦の小右衛門、惣兵衛を中心に、泊浦の来迎寺に集まり、この機会に島中の窮状を訴え、人名組合の公費削減や年寄の不正支出について巡見使に直訴することを申し合わせます。
 1789年4月19日、御料巡見使一行が、丸亀から笠島浦の宿舎に入ります。翌日から船で塩飽諸島を巡回し、25日には巡見を終えて、次の巡見の地直島へ向かって出港していきました。当日の船数は、御召船一般、御先乗船一般、漕船六般、御供船三般、御荷物船三般、台所船一般、合計15艘と記録されています。この時の巡見使は、天領である塩飽 → 直島 → 小豆島という巡検が予定されていたようです。巡見使の後を追った小右衛門、惣兵衛の二人は、小豆島の土庄で面会を求め、塩飽の庄屋、水主百姓惣代の連印による「乍恐奉願上口上」と題された願書を提出します。その内容は、
①島入用の支出を抑えること、
②年寄による島入用の流用を禁ずること、
③島財政を圧迫する年寄の大坂への出向を減らすこと
などで、年寄の不正流用追求や、人名の負担を軽減するために人名組織の改革を求める内容でした。この願書は、巡見使の取り上げるところとなり、塩飽の年寄をはじめ庄屋、年番が大坂へ呼び出されて取り調べを受けます。そして、3年後の寛政四年(1792)5月3日「御仕置御下知書」が出されます。下知書は、関係者に以下のような処分を下しました。
①塩飽の四人の年寄は「役儀取り上げ押し込み」
②大坂支配所の与力二人は「追放」、同心四人は「切米取り上げ」
③塩飽の庄屋達は「過料」。
これに対して直訴した二人は
「直訴は不埓であるが、個人の身勝手に行ったものではないからと「急度叱り置く」
と微罪に終わりました。
 当時は松平定信による寛政の改革が進行中です。「政治刷新」を標榜する当局は、不正役人の処分を厳格に行ったようです。また、訴えた二人に越訴の罪を問わなかったことは、年寄りたちの不正を認め、訴訟の正当性を認識したもので、改革派寄りの「判決」だったと研究者は考えているようです。
 「判決」の中で、四人の年寄役については、財政実状を把握せずに無駄な支出を増やし濫費を行った責任が問われています。つまり、訴願の発端は財政問題でしたが、その人名組織の運営ををめぐる年寄役の行動が問われる内容となっています。この直訴事件の「判決」を受けて、人名組織の改革案が話し合われ次のような新ルールが決まります。
①いままで年寄の自宅で政務をとっていたのを、新しく役場を建て、年寄はここで執務する。
②年寄役場の中に「室蔵」をつくって織田信長以来の朱印状を保管する
③年寄の四人制を二人制の年行司に改め、会計担当の庄屋を常勤させて年寄の相談に応じ、決裁し難いことは、惣島中の会合で決める。
④年寄の世襲制を廃止し、一代限りで退役する。
そして新しい年寄(2名)と会計担当に次の3名が入札(選挙)で次のように選ばれます。
牛島の丸尾喜平治              塩飽きっての船持
笠島浦 高島惣兵術            困窮直訴の代表者
泊浦  石川清兵衛            人名の最も多い泊浦の年番
新しい「年寄役場」は寛政十年(1798)6月4日に落成式を迎えます。これが現在の塩飽勤番所で、事件中に仮安置していた郷社八幡宮から、朱印状を移して年寄が勤務することになります。朱印状は御朱印庫と呼ばれる石の蔵に保管されるようになります。勤番所の建物は、新政を象徴するモニュメントでもあるようです。しかし、その後の人名組織の辿った道のりを見てみると、疑問に思えてもきます。
 当時の風潮の中では、旧年寄たちは、旧来の伝統に守られた権威と保守派の人脈の上に立っていました。しかし、入札(選挙)によって選ばれた新年寄には、権威もなければ組織だった人脈もないのです。
 以後、人名組織の中では庄屋や年番の発言力が増し、後ろ盾を持たない年寄を軽視した訴訟事件や、年番招集の会合が公然と行われるようになります。これを「民主的」と呼ぶことも出来るでしょうが、年寄に対抗する人名達の発言力が強くなり、対立含みで運営が行われていくことになります。地域の有力者による「密室政治から開かれた政治」への代償を支払うことを余儀なくされるのです。
 参考文献  木原教授(香川大学)塩飽廻船と勤番所
 (『受験講座・社会』第110号。福武書店、1985年)
                                                

        
  中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海から離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆でした。その上、「人名」という特権も手に入れます。
3  塩飽地図
 豊臣秀吉は、650人の軍役負担の代償として、2150石(塩飽諸島全体の石高)の領地権を保障する朱印状を出しました。この特権は人名権と呼ばれ、以後家康にも継承されます。こうして、塩飽諸島は大坂町奉行所に直轄する天領ですが、人名権をもつ島民によって自治が行われるようになります。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
3 塩飽境界図
塩飽(涌)は、塩(海流)が涌き、魚が豊富な備讃瀬戸に位置します。その広い海域の漁場占有権を、塩飽は同時に手に入れていたのです。この塩飽の独占的な漁場エリアが上の地図です。「山立て」の技法で、遠くの山など目印になるものをいくつも組み合わせる形で塩飽の漁場権は設定されています。そのため非常に複雑で、私は何度見ても理解できません。まあ、それは別に置いておいて、今回は塩飽人名の独占漁場をめぐる問題を見ていくことにします。
        塩飽の人名は、漁業はやらなかった。
 塩飽の周りは好漁場が広がる海でしたが、人名達は当初は漁業を行っていませんでした。それは人名達が海民として、航海技術を武器に廻船業で莫大な富を手にしていた経済的優位が背景にあります。
 彼らは、島中(とうちゅう)と称する自治組織を作って島の政務を行いました。「人名」たちは、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで差別しました。間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島の自治に関わる権利もありません。一方で、人名は水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもしています。
「人名たるものは魚を獲ったりはしない」
というヘンなプライドが漁業への進出を妨げていたようです。

元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
この口上には、塩飽の人名650人の内に、漁師の船は2艘しかない。残りは、商船や大工である。されば人名の漁業権は、600以上あまっているはずだと云っています。
 そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
   それでは、豊かな海はどう利用されていたのでしょうか。
3  塩飽漁場地図
それは、下津井の漁民が申し出たように、周りの漁民から入漁料を取って使わせていたのです。
   廻船業の衰退と漁業運上
3 塩飽運上金

 これは「塩飽島中請払勘定帳」で、漁業運上金(入漁料収入)の人名組合の財政収入に占める割合を示したものです。享保年間には、わずか6%だったものが19世紀の天保年間になると約50%、そして幕末の慶応年間になると70%を越える比重になっています。
  漁業運上収入(入漁料収入)が、大きく増えた背景は何なのでしょうか。
 そこには、塩飽を取り巻く経済状況の変化があったようです。享保期の幕府による廻米政策の転換が引き金でした。これによって、塩飽に繁栄をもたらした廻船業は、急速に衰退します。これは、人名達に大きな打撃を与えます。
明和二(1765)年の次の史料に、当時の塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、
意訳すると
①島々の人名達は、かつては廻船業で稼ぎも多かった
②最近は、廻船は少なくなり、漁業を生業とする者も出てきた
③小さな島なので仕事がなく男は12、3歳になると他国へ出て行く
このような状況が、人名たちがそれまで見向きもしなかった漁業への進出背景にあったようです。
    人名達は、どのようなかたちで漁業に参入したのでしょうか
塩飽の領海では、次の四種類の漁業が行われるようになります。
 ① 人名による大網(鯛・鰆)    、   `
 ② 人名を中心とした小漁業
 ③ 小坂浦(本島)の手繰漁業
 ④ 下津井四か浦など他領漁民の領海内操業
  まず①の人名の大網経営を見ておきましょう
3 塩飽 鯛網3

①は、高級魚の鯛・鰆網漁です。これは何隻もの船や何十人もの労働力が必要な漁法でした。そのため家族経営的な家船漁民が手が出せるものではありません。そこで、人名による入札請負制が行われたようで、有力な人名が落札します。しかし、実際に操業するのは、熟練したよその業者たちが請け負ったようです。人名が落札した物件を、下請け業者にやらせるシステムです。幕末の史料からは落札人として手島の人名・藤井家の名前が見えます。
  藤井家に伝えられる「大漁覚帳」からは、人名の網漁経営が分かります。
①漁の期日や番船の手配についてたびたび寄合が開かれた
②漁獲物をどのように分配したか
などが詳しく記されています。漁獲物の配分は次のように行われています。
①本方(請負人)は、役魚・本方分を合計した66%
②網方(直接操業者)は34%パーセント
③本方の40%(全体の26、4%)が番船(監視船)費用
番船は漁場での違法操業者の摘発や、漁獲量のチェックなどを任務としています。番船の監視で漁獲高が正確に把握され、魚一匹まで正確に記録して配分されています。番船は、下請け業者を監視する役割も果たしていたようです。
 こうして人名は落札すると自分の手は使わずに、下請けさせるという方法で「漁業に進出」する方法をとるようになります。人名としての特権を、充分に活用していると云えるのかもしれません。そして、入札金は人名組合に入漁料収入として納めます。許可する漁場と網を増やせば増やすほど人名組合の収入は増えます。
        幕末の塩飽漁業の問題は?
 当時最も高価に取引されたのは鯛・鰆でした。そのため人名達は、この鯛・鰆網の操業の邪魔にならない限りで、その他の入漁を許してきたようです。しかし、幕末になると鯛・鰆網の優先待遇を脅かす動きが出てきます。
① 塩飽人名の新規漁業の出現・発展と、漁業者の増加
② 小坂浦漁業の新しい動向と人名漁業との対立
③ 他領漁民との紛争、とくに下津井大畠村との相論
 廻船業の衰退は、人名達の中から大工や他廻船の乗組員に転職をさせる一方、漁業をほとんど行わなかった人名の浦々にも、一部半農半漁の漁場に従事する者が増えてきたことは、お話した通りです。
 嘉永二(1849)年の塩飽の浦別漁船数の総数は811艘ですが、これは百年前と比べると大幅に増加しています。新規参入の入名達が小漁業を始めたことがうかがえます。
  
3 塩飽 流瀬網
 問題は新規参入漁民の漁法でした。「打流瀬網漁」という網を使うのが当時の主流でした。
これは袋網の両方に袖網をつけ、風力や潮力を利用して引く底引網の一種のようです。安友5(1858)には塩飽島内で200以上の流し網を行う船があり、その中心は瀬居島と佐柳島でした。そして、この運上金も人名組合の大きな財源になってきます。
 そうなると「流瀬網」VS「鯛・鰆網」という漁場での新たな紛争が多発するようになります。
これは「小資本の人名」 VS 「大資本の人名」という構図でもあります。人名間でも両極分解が進み、両者の対立が目に見える形で現れ始めました
寛政七(1795)年には、高見島の鯛網漁場を侵犯したということで、佐柳・高見両浦漁民の間で紛争が起きます。これに対して島中年寄り達は、流瀬網は鯛網代場に入らぬようにとの裁定を下しています。
 
3 塩飽  鯛網2

  以上をまとめておきます。
①塩飽には土地以外にも好漁場の漁業権が認められいた。
②人名達はそこで漁業をすることはなく、他地域の漁民から入漁漁をとって資金としていた。
③幕府の廻船政策の変更で、塩飽の優位が崩れる塩飽廻船業は苦境に陥った
④そこで、漁場が見直され、新規に漁業に参入する人名が現れる
⑤資本を持つ人名は、鯛・鰆網漁の操業権を落札し、業者に下請けさせた。
⑥資本を持たない人名は、新漁法である流瀬網漁を行うようになった
⑦流瀬網と鯛・鰆網は操業場所や時期が重なり人名同士の対立も招くようになった。
   参考文献  浜近仁史 近世塩飽漁業の諸問題   丸亀市史
 

 

               

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