瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:塩飽信長朱印状

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
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ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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