瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:塩飽勤番所


  前回までに、塩飽の信長への従属関係を示す「信長朱印状(塩飽勤番所)見てきました。今回は、もう少し広い視野で塩飽を巡る瀬戸内海の勢力関係を見ておきましょう。

最初に、塩飽と能島村上氏の関係を見ておきましょう。いつから塩飽は能島村上氏の傘下に入ったのでしょうか?
永正五年(1508)、能島村上氏は、周防の大内義興が前将軍足利義植を擁して上洛した時に海上警固役を勤めた恩賞として、次のように細川高国から塩飽島代官職を与えられています。
就今度忠節、讃岐国料所塩飽嶋代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申候、謹言
卯月十三日         高国(花押)
村上官内大夫殿
この文書からは、16世紀初頭から塩飽は能島村上氏の支配下に入っていたことが分かります。この支配が戦国後期にも続いていたことは、永禄十三年(1570)6月に、村上水軍の統率者であった村上武吉が塩飽島廻舟に宛てた次の文書から裏付けられます。

豊後の戦国大名大友宗麟の家臣本多鎮秀の上方への航行に対して「便舟之儀、不可有異乱候」と命じていること、

ほぼ同じ頃、大友宗麟が村上武吉に対して、堺港まで家臣を差し上すについて、塩飽津における公事銭徴収を免除してくれるよう依頼していること

 その後、能島村上氏は毛利氏に従うようになるので、塩飽も村上氏を通じて毛利氏の支配下にあったことになります。
「毛利氏 ― 能島村上氏 ― 塩飽衆」という関係が大きく変化するのは、元亀二年(1571)になってからです。
この年の五月に、阿波三好氏の重臣篠原長房は、阿讃の兵を率いてふたたび備中児島に侵攻します。前回と異なるのは村上武吉が、豊後の大友氏と通じて毛利氏に背いていたことです。 一方、備前の浦上氏も大友氏の支援を受けて毛利氏に対して挙兵します。次の書状は大友宗麟が、村上筑後守らに宛てたものです。
今度村上武吉被申候、至塩飽表有現形、各被顕心底之段感悦候、弥至武吉以入魂堅固之御覚悟肝要候、猶自杵越中守可申候、恐々謹言、
二月十二日           宗麟
村上筑後守殿
村上内蔵太夫殿
村上源左衛門尉殿
村上輔三郎殿
村上平右衛門尉殿
村上丹後守殿
この宗麟書状からは、村上筑後守ら村上水軍が塩飽島(本島)を拠点に、塩飽衆を率いて備前の浦賀氏を支援していたことが分かります。この時の塩飽は村上武吉の反毛利勢力の拠点の一つであったようです。
 一方、三好方の篠原長房は宇多津に在陣して、児島に侵入した阿讃軍の総指揮に当っています。長房の子長重は、元亀二年正月に、宇多津西光寺に禁制を発した文書が残っています。これは、阿讃勢の字多津集結を示すものと研究者は考えています。これをまとめておくと次のような構図になります。
 塩飽本島 大友氏方 村上水軍ー塩飽衆
 宇多津  毛利氏方 阿波三好・篠原長房 

  能島村上氏が毛利氏と争っているときに、塩飽衆は能島に水と兵糧を送り込もうとします。その時の記録が毛利藩に残されています。
態申遣候、(中略)、沖口之儀能嶋要害為合力、阿州衆岡田権左衛門塩飽者共相催、以船手水兵糧差籠候処、沼田警固井来嶋・因嶋衆懸合、敵船八端帆三艘切取、宗徒之者数十人討果之由候、相残舟之儀務司麓繋置之、(下略)
七月十七日           輝元御判
内藤彦四郎殿
其外番衆中
意訳変換しておくと
報告いたします。(中略)村上武吉の能島は要害で、なかなか攻略が出来ない。そんな中で阿州衆の岡田権左衛門と塩飽衆が、船で兵糧を運びこもうとしたのを、沼田警固や来嶋・因嶋村上水軍が見つけ、敵船・八端帆三艘を拿捕し、乗組員数十人を討果した。残舟も務司城の麓に係留した、

これは毛利方の史料だから、割り引いてみなければならないものでしょう。それにしても、一方的な敗北だったようです。ここにも前回お話ししたように、塩飽衆の性格が現れているようです。つまり塩飽船の任務は、能島に水・兵糧を搬入することで、毛利水軍と合戦するための軍事行動ではなかったのです。塩飽は水軍ではなく、輸送部隊であったことが裏付けられます。

また、この文書の「阿州衆岡田権左衛門、塩飽の者共相催し」に研究者は注目します。
塩飽船は、村上一族の者によってではなく、阿波三好氏の岡田権左衛門に率いられて、兵糧輸送に出発したと読めます。ここでは、塩飽衆が次第に阿波の篠原長房の支配下に置かれ、それが、阿波三好氏、香西氏らの強い影響下に留まることになっていったと研究者は推測します。そして、香西氏が信長に着くと、その影響下にあった塩飽も信長傘下に入っていくという道筋が見えてきます。

1565 5・19 三好義継・松永久秀ら,足利義輝を攻め殺す(言継卿記)
1567 6・- 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
1568 11・- 香西氏,阿波衆とともに,備前の児島元太の城を攻める.
       香西又五郎配下のもの,児島元太勢によって討たれる(嶋文書)
   6・- 阿波の篠原長房,讃岐国人を率いて備前で毛利側の乃美氏と戦う
   9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1569 6・- 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1570 6・15 能島の村上武吉が塩飽衆に対して,大友義鎮配下本田鎮秀の堺津への無事通  行を命じる(野間文書)
   9・- 石山本願寺の顕如が,信長に対し蜂起する(石山戦争開始)
1571 1・- 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
   5・- 篠原長房,備前児島に乱入する.
 6・1 足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡ることを請する     
   7・- 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが,沼田警固衆   
       並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数十人討たれる
   8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国援助を毛利氏に要請する.
   9・17 小早川隆景が岡就栄らに,讃岐へ渡海し,攻めることを命じる        
   10・3 足利義昭が吉川元春に,阿波・讃岐を攻めることを命じる(吉川家文書)
1573 5・13 三好長治が大内郡引田に船で襲撃し、篠原長房・長重父子を討つ
   8・- 宣教師がカブラルが塩飽島で8日間滞在。この間,宿の婦人がキリシタンとなる 7・4 足利義昭,山城槇島城で織田信長に対し再度挙兵する.ついで同月18日,信 長に降伏する〔室町幕府崩壊〕
1574 10・- 三好長治が三好越後守・篠原入道らに,勝賀城の香西氏を攻めさせるが,墜とせず退く
   10・- 三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1575 4月、 河内高屋城に拠っていた三好康長(笑岩)が信長に服従
5・13 宇多津西光寺が石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する
   5・25 備前の浦上宗景が安富盛定に書を送り,宇喜多直家との合戦の状況を伝え,協力を求める
1576 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
 5月 淡路の安宅信康が、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じらる。
7・13  毛利軍が,第一次木津川の戦いに勝利し,石山本願寺に兵粮を搬入する   
  8・29 宇多津西光寺が,石山本願寺顕如より援助の催促をうける
   この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める
1577 2・1 奈良玄蕃助が三好越後守より,鵜足郡津郷内皮古村を与えられる
   2・ 宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃される。
   3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
    3・  三好長治が死亡
   7・- 元吉合戦 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
   11・- 毛利氏が讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方および讃岐惣国衆と和す
1578 1        三好長治死亡後に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐ
   この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
   この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する
  11・16  第2次木津川の戦いで、織田信長の水軍が毛利水軍を破る

1575年4月に三好康長(笑岩)は信長側につきます。その後信長の意を受けて、康長(笑岩)は阿波・讃岐の諸将への懐柔工作を行い、信長に従うように勧めます。翌76年には、その誘いに応じた天霧城の香川之景や勝賀状の香西佳清は信長に服します。以後、香川之景は信長から一字を与えられて信景と名乗ります。東讃の安富氏も羽柴秀吉を通して信長に従うようになります。これらは『南海通記』に記されていることなので、そのまま信じることはできませんが、香川之景がこのごろから名乗りを信景に変えているのは事実ですから、『南海通記』のこの記事も認めておくことにします。そうすると1577年2月に、宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃されていることと辻褄は合います。信長方についた多度津の香川氏が、配下の水軍山路氏などに毛利船攻撃を命じたことがかんがえられます。その反撃として、村上水軍による信長方の船舶への「無差別攻撃」も行われるようになった可能性はあります。そのような中で信長が堺代官に命じたのが、「3・26の堺に至る塩飽船の航行保証(塩飽勤番所文書)」ということになります。
また阿波では、強硬な反信長派であった篠原長房が、1573年5月に三好長治によって討たれます。そしてその4年後の1577)3月には、その長治も亡くなってしまいます。翌78年1月に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐことになります。存保は、それ以前から信長支配下の堺にいて、その影響下にあったようです。さらに淡路の安宅信康も信長に属していたようで、天正4年5月に、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じられています。このような情勢のなかで、塩飽も信長方に強く引き付けられていったと研究者は考えています。

塩飽が信長方に引き付けられていた過程を見てきました。
しかし、注意しておきたいのは、塩飽水軍が信長の水軍に組み込まれたことを意味するものではないことです。信長の松井友閑宛の朱印状にあるように、塩飽船は塩飽と堺とのあいだを往来し、通商活動行っていました。また、塩飽衆が信長方にがついた時期を年表で見る限りは、塩飽船の軍事的輸送力を必要とするような軍事的緊張は見当たりません。塩飽船が上方と讃岐を結んで軍兵や軍事物資を輸送した様子はないようです。
 では、何のために塩飽船が堺港に出入りしていたのでしょうか?
それは主に通商のためだったとであろうと研究者は考えています。
塩飽本島笠島の年番を務めた藤井家に伝わる「塩飽島諸訳手鑑」の中の「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」には、信長の朱印状について次のように記されています。
信長様御代之時塩飽嶋中な方々材木薪万事御用御使被成候御ほうひ廻船之御朱印塩飽嶋中堺之津にて被下候其刻御取次衆宮内卿法印以御取次頂戴仕候御事
意訳変換しておくと
信長様の時代には、塩飽嶋の方々は「材木薪万事御用御使」として、木材や薪を海洋輸送して、その褒美に廻船朱印状を堺湊でいただいた。その時の取次代官が衆宮内卿法印である。

 ここでは、塩飽船が材木・薪を廻船で運んだ、その恩賞に朱印状をもらったと記されています。塩飽船が運んでいた材木・薪は、 一部は軍事用に使われたかもしれませんが、多くは「方々より」の御用に使用された商品だったと研究者は考えています。
 『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)の一年間に兵庫北関を通った船は1900隻あまり記されています。その船舶は、塩、米や麦・胡麻などの雑穀、海産物、材木、そのほか膨大な量のさまざまな物資を西日本各地の港から上方へ運んでいます。そのうち材木の量は37000余石〆で、塩の10600余石につぐ量になります。これらの品々は上方の人々の生活にとって欠かせないものでした。阿波の三好氏の上方での成長も材木輸送と販売を経済的な基盤にしていたことが知られています。
 毛利水軍が、天正四年七月に木津川の戦いで信長水軍を破ったことによって、東瀬戸内海の制海権を掌握したと云われてきました。
 その制海権は、軍事物資を石山本願寺に搬入するルートを確保したという点では、その通りかも知れません。しかし、商品輸送をも含めた上方への流通路を手中に納めたとまではいえいようです。毛利氏は赤間関・尾道・鞆など主要な港町を直轄地や一門領として支配しました。しかし、領国内の港の船だけで瀬戸内海の商品流通をカバーするのはできません。また領国を超えて毛利氏の勢力下にない備前・播磨・讃岐などの東瀬戸内海沿岸諸国の港や船まで統制して、それらを毛利氏の流通支配下におくようなことはできるはずがありません。瀬戸内海沿岸諸国の船は、今まで通り内海を往来し、上方へ商品を運んでいたはずです。塩飽船もそのなかに交じって、材木その他の品々を積んで堺港に出入していたのでしょう。
 しかし、天正四年の木津川での信長水軍の敗北以後、東瀬戸内海エリアでの反信長派水軍(村上水軍)による海賊行為が活発になったことは想像できます。信長方とみなされた船への襲撃、掠奪は、頻繁に行われたでしょう。村上方を寝返って信長方に付いた塩飽船などは、眼をつけられて狙われたでしょう。こうした情況に対して、信長政権としては、塩飽船の航行の安全を保証することが必要となり、発したのが松井友閑宛の信長朱印状であったと研究者は考えています。
この時期は、木津川の戦いで信長水軍が一時崩壊した時期です。そんな時に海賊停止を命じた信長朱印状が、どれだけ実際の効力を持ち得たかは疑問です。これに対して、国島氏は次のように指摘します。

 封建権力は自己の支配下にあるもの、あるいは支配下に入れようとするものに対して、実効性の有る無しにかかわらず、その権利や安全を保証することを宣言しなければならない。眼前の情況にとらわれてそれをためらうなら、彼の権力は支持者を失って崩壊するだろう。またその保証がいつまでも空手形のままであっても、支持者が離反して権力は衰退する。信長政権は九鬼水軍を用いて、毛利水軍・紀州一揆水軍を壊滅させたことによって、保証を現実のものとし、権力の強大さを誇示した。

  塩飽は、その後も信長の配下に在り続けたように私は思っていました。
ところが、そうではないようです。その後の史料をみると、塩飽は再び毛利氏―能島村上氏の支配下に取り込まれています。どうして信長から村上武吉側に再び、立場を変えたのでしょうか
天正七年(1579)の2月から3月にかけて、毛利氏は、信長方とみられる備前児島や姫路の商船が九州へ下るのを阻止するため、備中鞆から周防柳井・大畠に到る領海で海上封鎖を行います。
  この時、鞆の河井源左衛門尉が鞆と塩飽の間の警備を命じられています。ここからは、塩飽がこの時期には毛利氏の海上警備の一翼を担っていることが分かります。
 また1581年3月(日本暦天正九年二月)、イエズス会巡察使バァリニャーノ一行を乗せて豊後を出発した船が、バァリニャーノとの約束に反して塩飽の泊に入港します。その時の塩飽には、能島村上氏の代官と毛利氏の警吏がいて、一行の荷物を陸に引き揚げて、綱を解きこれを開こうとして騒いだと宣教師の記録にはあります。ここからは塩飽が、村上武吉の支配下にあったことが裏付けられます。
 当時の東瀬戸内海をめぐる信長と毛利氏との争いを年表で見ておきましょう。
天正6年2月、播磨の別所長治が、10月には摂津の荒木村重が、本願寺に通じて信長に背く。
天正7年9月 荒木村重が伊丹城をすてて尼崎へ移って没落
   10月 毛利氏に属していた備前の宇喜多直家が信長に降伏、
  8年1月 別所長治が羽柴秀吉の攻撃をうけて播磨三木城で滅亡
    3月、石山本願寺が信長と講和し、法主顕如は大阪を去って紀州雑賀に退く。
天正9年10月 吉川経家の守る因幡国鳥取城が羽柴秀吉の包囲を受け、経家が開城。
このような背景の中で、塩飽の信長方から毛利方への転換したことになります。毛利氏は塩飽を、どのようにして取り込んだのでしょうか
研究者が指摘するのは、天正5年間7月の毛利氏の讃岐侵攻である元吉合戦です。元吉合戦については以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
 多度郡元吉城にいた三好遠江守が、阿波三好氏に背いて毛利氏に寝返ります。これに対して阿波三好氏は配下の中讃の武将長尾・羽床氏らに元吉城攻撃を命じます。これに対して元吉城を護るために、毛利輝元は乃美宗勝らの警固衆を援軍として送り、毛利勢は多度津に上陸し、元吉城の西南摺臼山に着陣します。こうして天正五年間7月20日、毛利軍と長尾・羽床・安富・香西・田村・三好などの阿波・讃岐勢が激突し、後者が敗れ去ります。勝利した毛利軍は毛利一族の穂田元清を大将とする軍勢が派遣し、阿波・讃岐勢を威圧します。戦後の緊張関係が続く中で、鞆に亡命していたいた前将軍足利義昭が和平調停に乗りだし、毛利軍は11月には、長尾・羽床氏から人質をとって讃岐から引き揚げていきます。鞆の足利義昭の思惑は、毛利と三好を結ばせて信長に対抗させることでした。
  この合戦によって、毛利氏の勢力が讃岐におよぶことになったと研究者は考えています。
  『香川県史』はこの事情を次のように記します。
  「元吉合戦は、毛利氏の本願寺救援と瀬戸内海制海権奪回をめざす目的をもった戦いであった。讃岐を押えることにより、信長の制海権を破壊しようとしたのであった」

  讃岐を押さえると同時に、塩飽の支配を回復しようとするのは、毛利側にとっては当然の戦略です。だとすれば、塩飽は天正6年11月の第2次木津川の戦いでの毛利水軍の敗戦以前に、毛利側に取り込まれていたことになります。
 もし、そうだとすると塩飽の立場は強固に信長を支援するような立場ではなく、状況に応じての信長支援だったことが考えられます。信長からすれば「塩飽は信用ならぬもの」として猜疑心をもって塩飽の行動を見ていたことが考えられます。そのように見てくると、信長朱印状(塩飽勤番所)について、次のように解釈した橋詰茂説は妥当性をもつことになります。

塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したもの

 この解釈によれば「違乱之族」とは、密かに本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。

塩飽勤番所に保管されている信長朱印状をめぐる謎と疑問は、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。どちらにしても貴重な史料です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 
『香川県史2・中世』446P
山内譲著『海賊と海城・瀬戸内の戦国史』114P

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
 サーフK - 村上海賊の娘。 - Powered by LINE
ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優


3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

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