瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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4 塩飽大工
  
前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
3  塩飽 戸籍$pg

もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。
ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒
②生ノ浜61%  43軒
③尻浜 58%  28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
 人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
備讃瀬戸沿岸地域の棟札調査からは、塩飽大工の活動地域が見えてきます。
4 塩飽大工出稼ぎ先

表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島  
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦  倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜  岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田  矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島    讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島   倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
 この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える
②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。
③浦によって、出稼ぎ先が固定している。
④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
  これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。
③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
 各浦の宮大工集団には、お得意先ができてテリトリーが形成されていたようです。それでは、讃岐を活動の舞台とした泊浦の山下家の動き追っていくことにします。
4塩飽大工 山下家

山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう

4 塩飽大工 極楽寺
牛島極楽寺 「無間(むげん)の鐘」
丸尾家と同じくこの島を拠点としていた長喜屋宗心が1677年に寄進したという梵鐘
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
 高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建
④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。
⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。
⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
 泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
 棟札による高瀬山下家の建造物
 氏名      居住 建造年     建造物      所在  
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教    1676 延宝4 八幡宮      高瀬町
山下七左衛門   新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂   三野町
山下七左衛門   新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂   三野町
山下利左衛門豊重    1696 元禄9 賀茂神社長常   仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿   仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛    新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1710 宝永7 森神社      高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村  1716 享保元 善通寺鐘楼堂   善通寺市
山下甚兵衛賞次  新名村  1718 享保3 宗像神社     大野原町
山下甚兵衛賓次  新名村  1718 享保3 中姫八幡神社   観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村  1722 享保7 賀茂神社長床   仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次  新名村  1724 享保9 千尋神社    .観音寺市
山下利左衛門   新名村  1724 享保9 千尋神社     観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村  1734 享保19 賀茂神社釣殿   仁尾町

ここから琴平移住?
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春      1823 文政6 石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824 1文政7 石井八幡宮    琴平町
                琴平綾へ改名
越後豊章    高藪町  1837 天保8 金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三      高藪町  1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三      高藪町  1877 明治10 金刀比羅宮本宮  琴平町
  (作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
 彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
 これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
 1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
4 塩飽大工 旭社

これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
 豊章という名前からは、豊春の子ではないかと研究者は推測していますが、確証できる資料はないようです。その子の豊矩がは、高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、金刀比羅宮本宮の棟梁を務めています。

4 塩飽大工 旭社2
  以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏
塩飽大工の系譜につながるようです。

  次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
4 塩飽大工 三野山下家

①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます 
4 塩飽大工 仁尾山下家

仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
 仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
 仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
最後に三野山下氏が残した本門寺の建物を見ておきましょう

4 塩飽大工 本門寺
  本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓  工匠    山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵  大工頭領  山下治良左衛門吉次 

1781天明元年 本堂  棟梁    汐木住人山下浅治郎
          旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
          後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
           丸亀住人  藤井善蔵近重
          大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清 
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
           後見 森田勘蔵喜又      
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
           後見 藤井善蔵近重      
しかし、この中で現存するのは本堂だけのようです。

4 塩飽大工 本門寺2
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。

 隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
 以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

  下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。

 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。
そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。


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