下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。

 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。
そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会