まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
綾子踊り 由緒
鳥籠
絵の提供は石井輝夫氏です。
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しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンーさかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん四、君は十七 俺ははたち 年もよい頃よい寝頃五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く○塩飽の浜をも今朝出して ヤア今は宇多津の浜へつく
①積載品は塩が主体であること②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定されるB8・9月も台風シーズンで運航が少ないことC11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。①太郎兵衛のような有力船頭②水沢のような船主と船頭を兼ねた者③太郎左衛門に雇われた雇船頭④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。天正五年三月廿六日 (朱印)天下布武宮内部法印 (松井友閃)
堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、四月五日 (信長朱印)平野荘惣中
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、七月三日細川兵部太輔殿(信長朱印)
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。天正五年三月廿六日 (朱印)天下布武宮内部法印 (松井友閃)
「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。天正五年三月廿六日 (朱印)天下布武宮内部法印 (松井友閃)
「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。
1575 天正3 (乙亥)① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)1576 天正4 (丙子)②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)1577 天正5 (丁丑)④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)1578 天正6この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
①1549年 最初に使用したのは島津氏②1557年頃に、毛利氏が使い始め③1565年の合戦に大友氏が使用
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行