瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:塩飽諸島

大般若経 正覚寺
塩飽本島正覚院の大般若経 1巻巻頭
香川県には、大般若経がいくつかの寺や神社の残されているようです。このお経は全部揃えると600巻にもなり、かなりの分量になります。常備するためには写経する必要があります。以前に、平城京の都で行われていた国の写経所で行われていた工程を見ましたが、人手と資材のかかる大事業でした。中世になると地方の有力寺院でも大般若経の写経が行われるようになります。例えば、大川郡の与田寺は増吽よって「瀬戸内の写経センター」として機能していたことは、以前にお話しした通りです。増吽に周辺には、日頃から写経に携わっていた僧侶のネットワークが形成されていていました。そして写経依頼が出されると、瀬戸内海沿岸や阿波の僧侶達が宗派を超えて「結衆」し、担当を任された巻の写経を行っていたことを以前に見ました。
 それでは、寺や神社に納められた大般若経は、どのように「活用」されていたのでしょうか。
大般若波羅蜜多経(略して大般若経)は、この経を供養するものは諸々の神によって、護られると説かれました。そのために多くの人々に信仰され、災いを除くためにその転読が盛んに行われてきました。転読とは、一体何なのでしょうか?
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
そこで、いろいろな「省略」法が考えられます。例えばチベットのラマ教では、お経を納めた経蔵のまわりを回るとを読んだのと同じ功徳があるとされるようになります。わが国でもお経が収められた六角経蔵や八角経蔵をぐるぐる回っていたようです。そして、大般若経の場合は、お経を一巻一巻広げて、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくという転読スタイルが出来上がったようです。
 地方では「ショーアップ化」されたいろいろな転読スタイルが行われるようになります。
例えば、紀州の山間部では、お経の巻物を本堂の床に転がし、巻頭部分だけを読み巻き戻すというスタイルも登場します。熱が入ってくると、巻物は投げたようで、かなり手荒に扱われたようです。当然、傷みます。そういう意味では、大般若経は破損する経典だったのです。そのため補修修繕が欠かせなかったようです。しかし、このような目に見える形の祈願を庶民は好みます。中世になると転読に便利なように巻物から「折り本」に、形が変えられます。
大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
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正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

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正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。
大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

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木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
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   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
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正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

IMG_4849
朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

                         
  現在の塩飽諸島の範囲は本島・牛島・広島・手島・与島・岩黒島・情石島・瀬居島・沙弥島・佐柳島・高見島の11島で、これは江戸時代もほぼ同じです。江戸時代は、塩飽諸島全体を「塩飽島」と呼んでいたようです。それでは、それ以前の中世は、どうなのでしょうか。中世の史料には「塩飽嶋」は、出てきますが「本島」は、登場しません。そこから研究者は「塩飽島=本島」だったのではないかという説をだしています。今回は、この説を見ていくことにします。テキストは、「加藤優   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です。

 1 塩飽本島
本島は「塩飽嶋」と表記されている

 「塩飽」が史料に最初に現れるのはいつなのでしょうか。まずは塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の年中行事の支度料物に塩飽荘からの塩二石の年貢納入
保元死年(1156)七月の藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
元暦二年(1185)三月十六日に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退したこと。
建長五年(1253)十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
建永二年(1207)三月二十六日に法然が土佐にながされる途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
康永三年(1344)十一月十一日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
この時には、すでに現地支配をともなう所領ではなかったようです。また「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっていることに研究者は着目して、すでに荘園としての内実が失なわれていたと考えているようです。以後は「塩飽荘」は荘園としては消滅したようです。

それでは中世の「塩飽嶋」とは、どこを指していたのでしょうか?
 仁安二年(1167)、西行は修行のために四国にやって来る道筋で備中国真鍋島に立ち寄ったことを「山家集」に次のように記しています。
1 塩飽諸島

「真鍋と申島に、京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申けるをききて 真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡る成けり」
   意訳変換しておくと
「真鍋という島で、京からの商人達は下船し、運んできた商品の商いを行いった。その後は塩飽の島に渡って、商いを行うと云う。真鍋島から塩飽へ通う商人は、積荷を積み替えて渡って行く」

 西行の乗った船は、真鍋島に着いたようです。商人の中には、そこで舟を乗り換えて「しわくの嶋」に向かう者がいたようです。塩飽は真鍋島への途上にあるので、どうして寄港して下ろさなかったのかが私には分かりません。しかし、ここで問題にするのは、西行が「真鍋と申島」に対して「しわくの島」と表記していることです。「しわくの島々」ではありません。「しわくの島」とは個別の島名と認識していることがうかがえます。「塩飽嶋」をひとつの島の名称とした場合、塩飽諸島中に塩飽島という名の島はありません。ここからは、後世に地名化した「塩飽荘」は、本島を指していたことがうかがえます。つまり、塩飽島とは本島であったと研究者は考えているようです。

 その他の中世史料には、どのように表記されているのかを研究者は見ていきます
①正平三年(1348)四月二日の「大蔵大輔某感状」に、伊予国南朝方の忽那義範が「今月一日於讃岐国塩飽之嶋追落城瑯」とあります。これは「塩飽之嶋」の城を攻め落とした記録ですが、これは、古城跡の残る本島のことです。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
『兵庫北関入船納帳』
②『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)2月~12月に兵庫北関を通過した船の船籍地が記されています。それによると塩飽諸島地域では「塩飽」「手嶋」「さなき」(佐柳島)の三船籍地があります。そのうち「塩飽」が圧倒的に多く37船で、その他は「手嶋」が1船、「さなき(佐柳島)」が3船です。塩飽船の多くは塩輸送船に特化していて、塩飽が製塩の島であることは古代以来変わりないようです。「塩飽」船籍の船頭に関して「泊」「かう」という注記が見られます。「泊」は本島の泊港、「かう」は甲生で同じく本島の湊です。ここからも「塩飽」は、本島であることが裏付けられます。
 塩飽諸島に含まれる「塩飽」「手嶋」「さなき」の3地域が異なる船籍として表記されていることは、互いの廻船運用の独立性を示すものでしょう。
 比較のために小豆島を見てみましょう。
塩飽諸島の島々よりはるかに大きく、港も複数あった小豆島の船籍は「嶋(小豆島)」の一船籍のみです。これは島内の水運業務が一元的に管理されていたことを示すようです。このことから推せば、「塩飽」の船籍に手島・佐柳島は含まれないのだから、江戸時代の「塩飽島=塩飽諸島」のような領域観は中世にはなかったことになります。
 それでは広島・牛島・高見島等の島が『入船納帳』に見られないのはどうしてなのでしょうか。
①水運活動をしていなかったか、
②「塩飽」水運に包摂されていたか
のどちらかでしょうが、②の可能性の方が高いでしょう。そうだとすれば当時の「塩飽=本島」の統制範囲が見えてきます。

家久君上京日記」のブログ記事一覧-徒然草独歩の写日記
島津家久の上京日記のルート

天正三年(1575)四月の島津家久の上京日記には、次のように記されます。
「しはく二着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿」し、翌日は「しはく見めくり候」と見て歩き、翌々日は「しはくの内、かう(甲生)といへる浦を一見」し、福田又次郎の館で蹴鞠をしています。
「しはく二着」というのは、島津家久が「塩飽=本島」に着いたことを示しているようです。その島に「かう(甲生)」という浦があることになります。これも「本島=塩飽」説を補強します。
1 塩飽諸島

近世以前に塩飽諸島のそれぞれの島が、どこに所属していたかを史料で見ておきましょう。    
①備前国児島に一番近い櫃石島は「園太暦』康永三年(1244)間二月一日の記事(『新編丸亀市史4史料編』60頁)によれば備前国に属しています。13世紀には櫃石島は、塩飽地域ではなかったことになります。
②応永十九年(一四一二)二月、四月頃、塩飽荘観音寺僧覚秀が京都北野社経王堂で、 一切経書写供養のため大投若経巻第五百四を書写しています。その奥書の筆者名には「讃州宇足津郡塩飽御庄観音寺住侶 金剛仏子覚秀」と記しています(〔大報恩寺蔵・北野天満宮一切経奥書〕『人日本史料 第七編之十六)。この観音寺は本島泊の中核的寺院であった正覚院のこととされています。ここからは、本島は宇足津郡(鵜足郡)であったことが分かります。
③弘治二年(1556)九月二十日の「讃州宇足郡塩飽庄尊師堂供養願文」(『新編九亀市史4史料編』九)は、本島生誕説のある醍醐寺開基聖宝(理源大師)のための堂建立に関する願文です。その中に
「抑当伽藍者、当所無双之旧跡、観音大士之勝地、根本尊師霊舎也」

とあり、これも正覚院に建立されたものであることが分かります。ここでも本島の所属は「宇足郡」です
④正覚院所蔵大般若経巻第四(天正十二年(1585)六月中旬の修理奥書には、次のように記されています。
「讃州宇足郡塩飽泊浦衆分流通修幅之秀憲西山宝性寺住寺」

泊浦は本島の主要湊のひとつです。
②③④からの史料からは、中世後期の本島は鵜足郡に属していたことが分かります。
次に、塩飽諸島西南部の高見島について見ておきましょう。
⑤享禄三年(1530)八月ニー五日の「高見嶋善福寺堂供養願文」(香川叢書)の文頭には「讃州多度郡高見嶋善福寺堂供養願文首」と記されます。ここからは高見島は多度郡に属していたことが分かります。佐柳島は高見島のさらに西北に連なります。佐柳島も多度郡に属していたと見るのが自然です。
尾上邸と神光寺 | くめ ブログ
広島の立石浦神光寺
④延宝四年(1676)一月銘の広島の立石浦神光寺の梵鐘には「讃州那珂郡塩飽広島立石浦宝珠山神光寺」とあります。広島は那珂郡に属していたようです。

以上を整理すると、各島の所属は次のようになります。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡
ここからは今は、中世には櫃石島と本島、高見島や広島の間には、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があったことが分かります。近世には塩飽諸島と一括してくくられている島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったようです。つまり「塩飽」という名前で一括してくくられる地域は、なかったということです。
 以上から、「塩飽嶋」は近世以前には本島一島のみの名であり、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったと研究者は指摘します。それが本島がこの地域の中核の島であるところから、中世以後に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったのではないかという「塩飽嶋=本島」説を提示します。
3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所)
「塩飽島=塩飽諸島」と認識されるようになったのはいつからなのでしょう。
それは、豊臣秀吉の登場以後になるようです。秀吉が、塩飽の人々を御用船方衆として把握するようになったことがその契機とします。この結果、天正十八年に地域全体の検地が行われます。これによって「塩飽島」の範囲が確定されます。検地に基づき朱印状を給付して1250石の田・屋敷・山畑を船方650人で領知させます。この朱印状が「人名」制の起源になります。「塩飽島」と称するようになったのは、それ以後なのです。
 しかし、それでは本島を区別するのに困ります。そこで「塩飽島」を本島と呼ぶようになったと研究者は考えているようです。そうだとすれば、戦国時代に吉利支丹宣教師が立ち寄り、記録に残した「シワク(塩飽)」は、本島のことになります。
3塩飽 秀吉朱印状

以上をまとめておくと
①中世は現在の本島を「塩飽嶋」と呼んだ。「塩飽島=本島」であった
②本島周辺の備讃の島々は、国境や郡境で分断されていて「塩飽諸島」という一体性はなかった。
③秀吉の朱印状で水主(人名)に領知されて以後、「塩飽嶋」が周辺島々にも拡大されて使用されるようになった。
④そのため中世以来「塩飽嶋」と呼ばれてきた島は「本島」とよばれるようになった。
⑤キリスト教宣教師の記録に記される「しわく島」は本島のことである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優
   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

6塩飽地図

西行が備中真鍋島で詠んだ中に
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
 時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
       塩飽荘の立荘と塩生産 
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
 摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女 

そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
 鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
塩二石 塩飽御荘年貢内」

とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
 また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
 塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
 また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。

3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
 
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
 讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。

 『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

3 香西氏 南海通
南海通記

 ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
  以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。
②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた
③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた
④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

3  塩飽  山城人名墓

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

3 香西氏
 
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
 以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
 足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
 15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
 香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
 讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
                  
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
 仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻) 
 細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
 
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
  いつものように兵庫関入船納帳で、塩飽船の入港数と規模を見ておきましょう。
兵庫北関2
上から2番目が塩飽です    
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
   ②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
  積み荷についても見ておきましょう。
3 兵庫 
③ 塩が飛び抜けて多く「塩輸送船団」とも呼べるようです。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
 細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。
②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
 大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配 
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
  これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
 村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
 児島合戦に見る塩飽衆の性格は? 
 戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
 香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
 塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
 「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
  塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
 児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
 また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
 村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。

 






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