瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:増吽

  善通寺御影とよばれる独特な弘法大師像について興味を持っています。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
善通寺御影 香川県立ミュージアム

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(1449~52)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

善通寺御影は、弘法大師の背景に釈迦が描かれているのが大きな特徴です。

空海の捨身行 我拝師山

これは空海が真魚と呼ばれていた幼少の時に捨身行を行った際に釈迦が現れて救ったというエピソードに由来するとされます。このエピソードは中世善通寺の信仰活動の原動力になったともされます。これを描いたのが東讃の与田寺の増吽とされます。増吽には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 大般若経写経集団 + 仏画作成工房」など、さまざまな要素があったことは以前にお話ししました。増吽が弘法大師像を描くようになった頃の時代背景を知りたいと思っていました。そんな中で弘法大師像作成の変遷について、コンパクトにまとめられている文章に出会いましたので要旨をアップしておきます。テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。
 肖像には、生前に造られた寿像と、没後造られる遺像があります。空海の場合は、生前に造られた記録はないので、総て死後に作られたものになります。その中で一番古い肖像が高野山にあるとされます。それが空海が入定(生死の境を越えて永迎の眼想に入ること)の際に、佐伯直氏出身で空海の高弟・実恵(786ー847)が、真如親王(平城天皇の子で、空海の弟子)に描かせたという画像です。この真如親王筆とされる像が高野山の御影堂には安置されているとされています。この真如親王筆という画像は後世、弘法大師の肖像画の根本モデルとなるのもで、後世への影響は多大なものがありました。でも、実物を見た人はいないようです。しかし、それを写したというものがあります。

 高野山御影堂安置の根本画像第三伝(模写)として伝わるのは大阪・天野山金剛寺の弘法大師像です。
大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
                大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
この画像は承安年中(1171~74) に創建された金剛寺御影堂の本尊像で、平安時代最末期の作とされます。この像を元に真如親王様の図様を「復元」すると次の通りです。
①茶褐色の柄衣 (人が拾てたぽろを税って作った袈娑)を縫い、
②斜めに描かれた背もたれのある椅子式の座(方形の床に、短い四脚を設けた台座)に
③ 花文様の敷物を敷いて坐し、
④右手は体を返して五鈷杵(インドの武器で先が五つに分かれた密教法具)を胸前にもち
⑤左手は 数珠を執る
⑥椅子の前には木履と、横には水瓶が置かれる
⑦顔は、右向かって左に少し振る
⑧頭立ちはふくよかで、後頭部が出っ張っている
この空海像は、体を正面に向け、頭部のみを右に振る姿です。こうした描き方は、高僧が後頭部が出っ張っている異相を持つ者が多いので、それを強調する構図であるともされます。どちらにしても真如親王モデルを元にして、数多くの像が産み出されていくことになります。

 空海像 高野山と善通寺の2つの様式

 初期の弘法大師像は単独で描かれるよりも真言八祖の一人として描かれたものが多いようです。
   空海は真言宗の法脈を示すために祖師たちの画像を持ち帰りました。それは空海の帰国の際に、曼荼羅とともに、師の恵果が宮廷画家の李真(りしん)らに制作させたものとされます。

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              長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
これが『請来目録』には、金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)・大広智(だいこうち)(不空(ふくう)・恵果(けいか)・一行(いちぎょう)の五祖師で、各三幅一鋪(三枚の絹を継いだ画面に描かれた掛幅)とあります。教王護国寺に伝わる真言七祖像のうち五幅が、これにあたるとされます。

真言七祖像 不空(東寺 国宝)
さらに、龍猛と龍智は帰国後の弘仁十二年(821)に空海が補作します。これに空海の像が加えられたのがいつのころかは分かりません。しかし、先に真言七祖像の様式に似せて空海像が描かれたことはうかがえます。

真言八祖像 室生寺
真言八祖像 室生寺 右下が空海
 
 空海の肖像が真言八祖の一体として描かれたものとしては、延喜四年(904)に建立された京都・仁和寺円盤院の障子に描かれたものが番古いようです。東京国立博物館には、この障子絵の影響を受けた「先徳画像」という平安時代の白描画像があります。ここでは、空海の肖像画が真言八祖像の一人として描かれるようになったことを押さえておきます。
 奈良国立博物館の真言八祖像を見ておきましょう。

真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像のうち 金剛智
真言八祖像 金剛智(奈良国立博物館)

真言八祖像 恵果
真言八祖像 恵果

真言八祖像 空海 南海流浪記
真言八祖像 空海 奈良国立博物館 
 奈良国立博物館の真言八祖像について、研究者は次のように評します。
鎌倉時代のもので神護寺本に次ぐ大きさをもち、明快な象形と彩色による清爽な印象の作風を示し、保存も良好な一本として貴重である。恵果と空海は、椅子式牀座(しょうざ)に坐る真如親王モデルが普通であるが、ここでは他の六祖と同じ単純な形の四脚が付くのみの低い牀座に坐らせ、また履き物や水瓶の配し方についても、全体の統一感を重視する風が見受けられる。像をできるだけ大きく表そうとする点にも、構図の特色がうかがわれる。
香川県立ミュージアムの真言八祖像として描かれ弘法大師像を見ておきましょう。

真言八祖像の中の空海像 香川県立ミュージアム
        弘法大師像(香川県立ミュージアム) 真言八祖像のひとつ
香川県立ミュージアム本は室町時代の作とされます。この画像も真言八祖像の一福で、少し周囲が裁断されたところがあるようです。
 顔をやや右に向けて椅子式の座に坐し、右手に五鈷杵、左手に数珠をもつ姿です。真如親王モデルを踏襲しています。しかし、背もたれと肘掛けのない座に坐しています。 座面の濃紺の縁の四隅に方形布が描かれているので、座具は布製と研究者は推測します。その他の三祖師も布製座具です。敷物に坐す八祖像には實金剛寺(神奈川県)や洞光寺(長野県)のものがありますが、数は少ないようです。伸びやかなびやかな描線に穏やかな彩色、具の文様も丁寧に描かれ、室町時代初期までの制作と研究者は評します。
①全体的に真如親王様の図様を忠実に継承している。
②右手は掌を返して五鈷杵を胸前に構え、左手は数珠を執る
③右に振った頭部のふくよかで鼻や唇を小さく表した顔立ち
これを見ると、初期の大阪・天野山金剛寺像本の真如親王タイプをよく継承していることが分かります。平安末期までは、真言八祖像の一部として弘法大師像は描かれていたこと、それは真如親王様式を踏襲していること、そして真如親王モデル自体が真言八祖像の様式上にあることを押さえておきます。
ここまでを整理しておきます。
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 
             
真如親王様は真言七祖像の一部として生まれた。

ところが鎌倉時代後半期になると、様々な図様が描かれてくるようになります。

東寺 談義本尊 弘法大師像
東寺の談義本尊
その代表的なものが東寺に伝わる「談義本尊」像です。これは史料(「東宝記)から正和二年(1313)に後宇多法皇が東寺西院御影堂(弘法大師の肖像彫刻を祀る御堂)に施入されたものであることが分かります。姿は真如親王様と同じですが、背もたれのない椅子に坐っています。

水原堯栄「弘法大師御影」及び「宸翰英華」には次のように記します。

絹本着色。竪四尺五寸八分、横二尺五寸、
桐箱裏に寛延二巳巳年十月補修。于時年預。寶菩提院法印大僧都覺空。
軸の表装に後宇多院宸翰談義本尊。八祖様式、・・・線は潤達遒倒である。
念珠は百八果半装束様である。
床冗は四脚唐草模様金具附上に茵(しとね)をしいてある。
衣袈裟は香染衣である。
東宝記には「大師御影一鋪一幅、後宇多院宸筆、右談義本尊となして法皇施入これあり」等とあるによって明らかである。・

御影の上段には大師「御遺告」の中から後宇多院宸翰で次のように記します。

竊以大法同味興廢任機。師資累代付法在人。鷲峯視聽傳流中洲鐵塔傳教利見烏卯。探流尋源鑒晃討本。大唐曲成既有血脈。日本末葉何無後生。吾初思及于一百歳住世奉護教法。然而恃諸弟子等忩永擬即世也。但弘仁帝皇給以東寺。不勝歡喜。成祕密道場。努力努力勿令他人雜住。非此狹心護眞謀也。雖圓妙法非五千分。雖廣東寺非異類地。以何言之。去弘仁十四年五月十九日以東寺永給預於少僧勅使藤原良房公卿也勅書在別。即爲眞言密教庭既畢。師師相傳爲道場者也。豈可非門徒者猥雜哉・・・」

書き下し文では

ひそかにおもんみれば、大法は同味にして興廃は機に任せり。師資累代付法は人にあり。鷲峯の視聽(お釈迦様が霊鷲山で説法された法は)傳を中州(インド各地)に流る。鐵塔の傳教(南天の鉄塔からでた密教は)烏卯に利見す(すみやかにひろまった)流を探り源を尋ね晃を鑒みて本を討ぬ。(法の流れを探り、源泉を尋ね、暗夜に光の所在をよく考えてそのもとを求める)大唐の曲成に既に血脈有り。日本の末葉、何ぞ後生無んや(日本の真言宗の末徒としても、この教えを後世に伝えないことがあろうか)吾れ初めは思ひき一百歳に及まで世に住して教法を護り奉らんと。然而れども諸弟子等を恃んで永く即世んと擬す也。但し弘仁の帝皇給ふに東寺を以ってす。歡喜に勝えず。祕密道場と成す。努力努力他人をして雜住せしむる勿れ。此れ狹き心にあらず。眞を護るの謀也。圓かなる妙法なりと雖ども五千の分に非ず。廣き東寺といえども異類の地に非ず。何を以ってか之を言ん。去じ弘仁十四年正月十九日東寺を以って永く少僧に給預はる。勅使は藤原良房公卿也。勅書在別。即ち眞言密教の庭となること既に畢ぬ。師師相傳して道場とすべきもの也。豈に非門徒の猥雑すべきならんや。門徒数千万、併しながら吾後生の弟子等祖師吾顔を見ずと雖も心有る者は必ず吾の名号を聞き、恩徳の由を知れ。是吾、白屍の上に更に人の勞を欲するに非ず。密教寿命を護り継ぎ、龍華三庭に開かしめん謀なり。微雲間より見て信否を察すべし。是の時懃有る者は祐を得、不信の者は不幸ならん、努々」)」

 研究者が注目するのは、画像本紙の絹と肌裏紙の間に五輪塔の形の紙型が修理の際に発見されたことです。五輪塔は中世では「釈迦の遺骨=舎利(聖遺物)」とされていたので、弘法大師の姿そのものが舎利と同様に聖なるものとされていたことを示しています。弘法大師を神聖視する思想が、鎌倉時代後半にはますます深化していたことがうかがえます。
神野真国荘(こうのまくにのしょう)と呼ばれた高野山の根本寺領の一つにある遍照寺の弘法大師像です。
紀美野町津川の遍照寺
 遍照寺の真如様(しんにょよう)の弘法大師像

 謹直な描線で輪郭を描いた丁寧な作風から南北朝時代(14世紀)の制作とされます。高野山のまわりでは一番古い大師像になるようです。画像を本尊とすることは珍しいように思いますが、高野山壇上伽藍御影堂の本尊は真如自筆の弘法大師画像と伝えられるので、それを踏襲しているのかもしれません。この遍照寺弘法大師像からは、次のような情報が読み取れます。
①画面上部には、仏の姿を文字によって表す種子(しゅじ)という梵字が書かれていること。
②右から「アーク(胎蔵界大日如来)」「バン(金剛界大日如来)」「キリーク(千手観音)」「ソ(弁才天)」
③この種子は、高野山の鎮守の神である四社明神(丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神)を表したものであること
つまり、ここには「弘法大師 + 四社明神」で5人の神と人が描かれているということになります。弘法大師の方ばかり見ていると、四人の神を見落としてしまいます。しかし、この画像が表す内的世界は、高野山の象徴としての弘法大師と四社明神とが織りなす信仰世界、すなわち高野山浄土ともいえる大きな広がりを含んでいると研究者は指摘します。ここでは弘法大師像の新たな展開が始まっていることを押さえておきます。そして、次の段階になると四明神も姿を見せるようになります。
高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像と呼ばれている画像があります。

高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像
             高野山金剛峯寺の「問答講本尊」像
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

これは中央に真如親王様の弘法大師像、その前方の左右に高野・丹生の両明神像を配した三尊形式の絵図で、その後には奥の院院廟境内と天野社が描かれています。この絵図は天野社で正応四年(1291)に始められた問答講の本尊として描かれたものと伝えられています。空海がやってくる前の高野山の先住者が信仰していた地主神(その土地の主となって守護する神)や、丹生(朱水銀)採掘者の信仰する丹生神と空海の神仏信仰思想を基に作られたものとであることは以前にお話ししました。このような流れは讃岐へも伝わってきます。

延命院弘法大師四社明神像
       延命院(三豊市) 弘法大師四社明神像 縦136㎝ 横43㎝ 14~15世紀
①右手に五鈷杵 左手に念珠
③弘法大師像の四隅に、高野山の地主神である四社明神像
④上部の色紙形に兜卒天にいる空海が各地に影向することを述べた「日々影向文」
四隅の四社明神像は、向かって右上が丹生明神、左上が高野明神、下段は右が気比明神、左が厳島明神とされます。四神に比べて主人公の弘法大師を大きく描かれています。上段二神の本地仏を表す梵字や、空海を高野山に導いたという二匹の犬のほか、獅子・狛犬などが描かれます。これも鎌倉時代以降の弘法大師入定信仰が高野聖たちによって全国に広められた中で登場してくるものです。「日々影向文」をする弘法大師像と、聖地高野山を象徴する四社明神像を組み合わせた図柄で、弘法大師には生きていることを表すために髭が描かれています。これを見せながら高野聖たちは「大師は生きている、どこにも現れ救ってくださる」と弘法大師信仰を説いたのかもしれません。それが四国霊場成立へとつながります。
 繊細な描線や彩色などから制作時期は南北朝から室町時代初期と研究者は考えています。この時期、弘法大師信仰がさまざまな形で各地に広がり、人々の心に届いていったことを押さえておきます。

神仏習合思想の影響下で製作されたものとしては、「互いの御影」と呼ばれる弘法大師像が有名です。
互いの御影 弘法大師と八幡神

互いの御影の八幡神
互いの御影 八幡神(神護寺)

互いの御影 弘法大師 神護寺
互いの御影 弘法大師像(神護寺)
京都・神護寺の所伝には八幡大菩薩と弘法大師が互いに御影を描いたとものとされます。ここでは当時の真言僧侶や修験者たちは、八幡神と弘法大師を混淆して信仰したことを押さえておきます。この絵の弘法大師は背もたれのない座に坐し、胸元を大きく開けずに、 襟をしめ、衣の袖から筒袖状の内衣があらわれるように描かれています。これもそれまでの真如親王像とは異なっている新しいタイプの弘法大師像です。
四国霊場八栗寺のもともとの本山とされる六萬寺にも弘法大師との神仏混淆を示すものがあります。

香川・六萬寺 熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆
        六萬寺 熊野曼荼羅図 横103㎝ 横41㎝ 13~15世紀

熊野三山に祀られる祭神やその本地仏を描いたもので、85番札所八栗寺を奥院とする六萬寺に伝来するものです。三つに区画された部分に次のような仏たちが描かれています
A 中段 熊野十二所権現の本地仏と弥勒菩薩(満山護法)
B 下段 礼殿執(らいでんしつ)金剛を中心として、紅葉する自然景の中に九体熊野王子と座す弘法大師(右下隅の赤四角部分)
C 上段 岩山の中に役行者や大八大童子大威徳明王(阿須賀社)などが見え、右端に那智とその本地仏でる千手観音
 熊野曼荼羅にはモデルがなく信仰形態が変化すると、いろいろな図像が生み出してきました。この画中には弘法大師が描かれています。智証大師円珍を描いた天台系の聖護院本などに対して、真言系の修験に関わるもののようです。ここからは弘法大師信仰と熊野信仰が結びついていて信仰されていたことがうかがえます。一遍は熊野信仰と八幡信仰と阿弥陀信仰を混淆しようとしたことは以前にお話ししました。一遍の試みも、このような動きの上に立って立ってのことだったのかもしれません。
 「一部に補彩もあるが、張りのある的確な線で描かれており、南北朝時代から室町時代の作」と研究者は考えています。

日輪大師像 極楽寺
                 日輪大師像 極楽寺     
 赤い輪の中に紅蓮華の上に座した異形の空海御影です。姿勢や着衣、右手に五鈷杵をとるのは真如親王タイプの弘法大師像に同じですが、左手は掌に五輪塔ささげます。
研究者は次のように評します
日輪の上には小さな月輪、蓮華座の下には輪宝が敷かれ、さらに下方には蛇のようにうねる水波らしきものが描かれ、左右両袖に渦文を表すなど特異な図像である。画面上方に五字四行の文が隷書体で墨書されるが、今その判読は難しい。
 日輪大師は彫像も含めて数例で数は少ない。五輪塔は密教では万物を構成する地・水・火・風・空の五つを象徴的に造形化したものだが、弥勒の持ち物でもある。この図については、空海が高野山で永遠に瞑想を続け、弥勒が下生して生を救済するのを待っているという入定留身信仰を背景に作り出された物という説が出されている。
 密教の灌頂の影響を受けて神道でも灌頂が行われるようになります。その際に掲げられたのが日輪大師像でした。大師信仰の神道への波及という流れを示すものになります。

このような流れの中で登場するのが「善通寺御影」です。

善通寺御影(瞬目大師)善通寺
善通寺の瞬目大師像 
このタイプは先ほど見たように弘法大師自体は真如親王様と変わらないのですが、背景がちがいます。右上方に松山(我拝師山)が描かれ、その上に釈迦如来が現れています。これは弘法大師の我拝師山での捨身伝説が拡がりだしたあとに描かれるようになったものです。ここには善通寺の「弘法大師生誕地」の自己主張と布教戦略がうかがえることは以前にお話ししました。

こうした大師像とまったく異なるのが椎児大師像の出現です。

「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます。

「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」

意訳変換しておくと 
私が5、6際の頃に生まれた家にいた頃に、八葉蓮華の上に座って、諸仏と共に語る夢を見たものだ。しかし、そのことは父母は、もちろん他人に語ることはなかった。この間、父母はひとえに私をを慈しみ「貴物」と呼んだ。

ここに出てくる「諸仏と語る空海の姿」が映像化さたのが大師稚児像です。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)※高野山霊宝館寄託2
 稚児大師御影(ちごだいしみえ)清浄心院蔵 高野山霊宝館寄託

箱書に「童形大師」と墨書する。空海が入定する前に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言の「御遺告(ごゆいごう)」の中に「5~6歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」とあるのに基づいて図像化されたもの。
 袴を着けた垂髪(すいはつ:たれ下げた髪)姿の童形の空海が合掌し、蓮華座に座して、月輪を後背としている。稚児大師像と言えば、本図が普及しているが、中世以前の作例は少なく、清浄心院蔵の稚児大師御影は貴重である。


稚児大師像 兵庫・香雪美術館
             稚児大師像 十三世紀 兵庫・香雪美術館 
肩まで切りそろえた型の髪をきれいに揃えた小袖・袴姿の稚児姿の空海で、蓮華に座っています。蓮華は仏教では聖なる者を生み出す最も重要な花です。その台に座って合掌し、月輪の中に浮かぶ様子は、空海が幼少の頃から仏に近い聖性を備えていたことを象徴的に表したものです。
 また中世には童子を聖なる者とみなしていました。南無仏(なむぶつ)太子(聖徳太子二歳)像や稚児文殊像など童子が多く登場するようになります。こうした童姿の空海画像は「稚児大師」と呼ばれ、十数例が残されていますが、その中でも本作品は最も早い時期のものとされ重要文化財に指定されています。
 稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀
画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。

秘鍵大師
秘鍵大帥像
他にも「般若心経秘鍵」を根拠にして、空海が宮中で般若心経を講じる姿を表した図で、右手に剣、左手に念珠を持つ姿を描く秘鍵大帥像などいつかの型の弘法大師像があります。こうした様々な大師像は中世後期以後に製作されたものが多く、この時期になると多種多様な弘法大師像が描かれるようになります。
 さまざまな弘法大師の画像を見てきましたが、顔立ちや姿は真如親王様が大本になっていて、それを継承していることが改めて分かります。ここでは真如親王タイプの権威が、その後の弘法大師肖像の原形として影響力を持ち続けてきたことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①空海像死後に真如親王に書かれたという肖像画が一番古い
②初期の弘法大師像は真言八祖像の一つとして書かれたものが多く、その数は多くない。
③また様式は真如親王モデルを忠実に踏襲したものが多い
④鎌倉時代以後になって、新宗教の各教団が団結や布教のために教祖像を用いるようなる。
⑤この動きを受けて、真言教団でも弘法大師像が数多く描かれるようになる。
⑥それは真如親王モデルの枠を越えた広がりをもたらす。
⑦こうした中で、善通寺御影や稚児大師像、弘法大師の神仏混淆像などが現れる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海6
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム

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 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。

熊野参拝システム
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。

熊野信仰の全国展開と檀那権の売買
熊野信仰の全国展開と檀那売券

那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた那智の実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。

実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐担当
実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐の熊野詣での宿泊先
2018春、熊野の世界遺産(3/5):実方院跡、木斛の大樹、赤鳥居、那智山熊野権現扁額、狛犬』那智勝浦・太地(和歌山県)の旅行記・ブログ by  旅人のくまさんさん【フォートラベル】
実方院跡
実報院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでの那智山の経営維持は、皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切ります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順に並べたものを見ていくことにします。

②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀になると継続して発行が行われるようになります。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ない。三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、これらを拠点にして東から西へ信仰圏が拡がったことが推測できます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた最有力の武士集団です。有力武士団を旦那に持っていたことが分かります。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。ここでは、いろいろな修験者が熊野参拝の先達を行っていたことを押さえておきます。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったことは以前にお話ししました。その中には熊野先達を務めるものもいたことが分かります。こうしてみると、一人の修験者の中に「熊野信仰 + 天狗信仰 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀信仰」などが同居していたことになります。それが一遍の高野山詣でや熊野詣でにつながるのかもしれません。

熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券NO3
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)

⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が出されています。それを見ておきましょう。

「勝達房道秀檀那売権」から分かること
 
 最初は、「中郡スエ(陶)王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)の「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」は、「檀那売券」ではなく「借銭状」となっていますので、抵当に入れて借金したようです。        
 以上からは、もともとは勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持ちながら、この地域で活動を続けていたのでしょう。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと郷村ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。
 そんな中で私が注目したいのが、善通寺市の仲村城跡と木熊野神社の関係です。

仲村城と木熊野神社
善通寺市の仲村城跡と木熊野神社

仲村城は丸亀平野西部の有力な武士の居館です。そして、その南の湧水地帯の中に木熊野神社と若宮神社が鎮座します。この関係をどう考えればいいのでしょうか? 先ほども見たように、熊野詣で行った武士たちの中には、熊野神社を建立する者が現れます。ここでも天霧山の下で西讃守護代の香川氏に属する武士団棟梁が居館近くに熊野神社や若宮を勧進したことが考えられます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
これらの神社を拠点にしながら熊野行者たちは、空海が修行したとされる行場の聖地・我拝師山で活動します。そして退転していた善通寺の復興に関わっていくと私は考えています。
 佐伯直氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯直氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、讃岐各地に王子権現・熊野神社として記されるものが数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。
①早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)
②次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)に長徳寺の鎮守に勧進
③鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、約69社の熊野関係の神社があった。

伊予では
①一番古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社。
②その神輿鏡銘には貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘あり。
③ここから鎌倉時代初期には勧請され、銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ライン伸張
④さらに新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。
⑤四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、各地からの熊野参拝者が立寄った聖地。

阿波の場合は南部の那賀郡と吉野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐は、どうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。一方、先ほど見た讃岐の熊野系神社43社には確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。とりあえず社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士たちが、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣を行うようになります。彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。②の善通寺の木熊野神社の近くには、中世の武士居館もあります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。
そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いようです。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は、戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。ここでは熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)によるふたつの場合があることを押さえておきます。。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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 13世紀の蒙古襲来後、幕府によって一宮や国分寺をはじめとする全国の有力な寺社に異国降伏祈祷が命じらています。
荘郷鎮守1 
重要文化財「金光明最勝王経」
当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典

こうした幕府の政策は、諸国に寺社の修造ブームが巻き起こすことになります。鎌倉後半期の地方寺社の造営・修理の状況を見ると、文永の役から13世紀終末までに、地方では有力寺院の改築ラッシュが続いたことがこの表からはうかがえます。
荘郷鎮守1 現校長後の地方寺社一覧

讃岐では善通寺が上がっていますが、それ以外にも三豊の本山寺や観音寺本堂ははじめ、この時期の造営寺社は多いようです。この時の寺社修造ブームの背後には、修験者の活発な活動があったとされます。それを今までに見てきた讃岐での修験者や高野聖たちの活動に照らし合わせながら見ていきたいと思います。テキストは「榎原雅治 荘郷鎮守の地域的関係の成立  日本中世地域社会の構造 2000年」です。

中世寺院築造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
第一は、この寺社修造運動が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
第二は、地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していたこと
 正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

という条文があります。ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたようにも見えます。これも時代状況をよく反映した文言と研究者は指摘します。
 このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させたようです。聖や修験者の活動によって荘郷鎮守をはじめとするその地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。

 その代表例として研究者が挙げるのが西国三十三所観音霊場をコピーして、作られた巡礼ネットワークです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
2 長尾寺 境内図寂然

長尾寺

このような動きは、讃岐の高松周辺の後の四国霊場にも見られます。
例えばに、四国辺路に訪れた澄禅の「四国遍路日記」(1653)には、長尾寺について次のように記されています。

長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国ニ七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

ここには、長尾寺はかつては観音寺と呼ばれていたこと、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観と呼ばれていったことが記されています。
長尾寺 聖観音立像
秘仏本尊の前立像として安置されている長尾寺の観音様

また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
 また西讃地方では、雲辺寺・大興寺・観音寺・本山寺・弥谷寺・曼荼羅寺という寺も、七宝山をゲレンデにして辺路ルートを開き、修験道によって結びつけられていたことは以前にお話ししました。

修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。

浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後のころ、一宮、荘郷鎮守などの有力寺院が周辺の小規模な村堂を末寺化していくこと
②在地寺院同士が造営や写経などをめぐって「合力しあう地縁的な一種の連帯関係を有していた」こと、
③在地寺院の連帯関係が、自由信仰、石動信仰といった地域の村落の上層農民の信仰を基盤に成立していたこと
 有力寺院による寺院の組織化(末寺化)が同時進行で行われていたというのです。
道隆寺 中世地形復元図
中世堀江港 潟湖の奧に道隆寺はあった

周辺寺社の末寺化を多度津の道隆寺で見ておきましょう。
 道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江港の港湾管理センターとして機能していました。そのため海に向けて勢力を拡大していきます。戦略として塩飽や庄内半島の神社や寺院の造営や写経などに協力しながら、これらを末寺化していきます。それを示したの下の年表です。道隆寺が導師を務めた寺社一覧です。神仏混淆時代ですから神社も支配下に組み込まれています。
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことが分かります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門末の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮の導師はすべて当院(道隆寺)が執行してきた

とあり中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。
永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 このように室町期には、讃岐でも荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係が成立していたことが分かります。そして研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。そして、道隆寺も長尾寺の場合も、修験者や聖たちによって形成されたものなのです。これが「西国33ケ所廻り」のミニコピー版であったり、「七観音めぐり」「七ヶ所参り」であったようです。そして、「四国大辺路」へと成長して行きます。ここでは百姓の信仰に基盤をもった地域の寺社が、修験者らに導かれてネットワークを結ぶようになっていたことを押さえておきます。

讃岐でも寺院修造だけでなく、大般若勧進も連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
荘郷鎮守の「地縁的な合力関係」のありさまを、塩飽本島の正覚寺の大般若経に見てみましょう。
大般若経 正覚院巻571巻g

この大般若経の各巻からは、文二年(1357)11月から次のような寺院で写経されたことが分かります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷 西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
仲郡金倉庄金蔵寺南大門 大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するために、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
大般若経 正覚院 下金倉
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、後の四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。宗派よりも地域の連帯性の方が重視されたようにも思えます。
大般若経 正覚院道隆寺願主
正覚寺の大般若経 「道隆寺中坊祐業」の名前が見える

 この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
そして、これらの寺社はいずれも石動山系(石鎚)の修験と関わりの深い寺社のようです。

増吽 与田寺

金蔵寺で大般若経が書写されていた時代に、大川郡与田寺で活躍していたのが増吽(正平21年(1366)~宝徳元年(1449)です。
彼は中世の僧侶として、次のようないくつもの顔を持っています。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
  修験者・勧進僧・弘法大師信仰者として「荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係」を讃岐・阿波・備中・備前の数多くの寺との間に作り上げていました。まさに、時代の寵児ともいえます。増吽のようなスーパー修験者によって、各地域の寺院は国を超えて結ばれネットワーク化されていったのです。

増吽 水主神社と熊野三山
水主神社
  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社でその別当寺が与田寺でした。
 水主神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですが「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。坊舎をふくめると100を越える数になります。与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。これらは増吽に代表されるように修験者たちによって形成されたもののようです。

水主三山 虎丸山

以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

  増吽
倉敷市の蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人

戦前には「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽には、熊野信仰と弘法大師信仰が重なり、いくつかの別の顔が見えてきます。
①熊野信仰にも傾倒する熊野系の勧進聖 廻国性
②弘法大師を深く信仰する真言宗の僧侶
③写経・工房集団を束ねる先達
前回は③の姿を追いかけましたので、今回は①の熊野信仰との関係を見ていこうと思います。
関西の力】祈りの場(1)熊野詣で 上皇も歩んだ「霊性」宿る参道 - 産経ニュース

 院政期から鎌倉時代にかけて、熊野詣が大流行するようになります。この流行をもたらす役割を担ったのが、熊野先達や熊野系の山伏・聖たちの勧進・布教活動でした。讃岐大内郡の与田山への熊野三山勧請を、増吽の時代のこととする説もあるようですが、香川県史はこれを否定します。増吽以前の、南北朝から鎌倉末期に遡るものという立場です。まず、熊野権現の与田山への勧進時期について確認しておきましょう。
増吽 水主三山

与田山の熊野権現勧進由来は、次のように伝えます

元弘年中(1331)、後醍醐天皇が捕らわれの身となり皇子大塔言(激趾親王)は、熊野へ落ち延び難を逃れようとした。その時、主従別行動することになり、その離別の瞬間に一羽の烏が西に飛び立った という。その烏は、神の導きとして与田山に飛来した。

烏の飛来は、熊野権現の使いを意味するものでしょう。ここからは、南北朝初期にはすでに与田山に、熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。

水主三山の那智山上空からの瀬戸内海
 水主三山の那智山上空からの瀬戸内海

 背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)の活発な交易活動と布教活動が展開」されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。
水主神社 地図
水主神社やその神宮寺であった与田寺が熊野信仰関わっていたことを示す史料を挙げてみましょう
①与田寺縁起には、観応二年(1351)の預所沙弥重玄の寄進状があり、祝師阿闇梨苦海に免田畠が寄せられている
②貞和2(1346)年の銘文のある棟木がある 
③応永十七年(1410)に増件が作ったとされる「熊野水主大明神秘讃』には、熊野三所権現と大水主大明神は同一体であると記されている。
④水主神社の「外陣大般若経」巻第八十八には「敬白泰法山川市大水主社 五所大明神御賢治等」とあり、「為熊野権現」とある。大明神とは『大水、五所大明神和讃』から、熊野三所権現を指すようです。

そして、水主神社が熊野信仰の拠点であったことを示すのが「若王子大般若経」巻第二百二十八です。ここには次のように記されます。
真敬白 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥南無熊野権現当世成就、子時志永七年三月二十一日
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会)
ここには大般若経の書写成就を熊野権現に祈願しているのが分かります。増吽が言うように、当時の水主神社では、熊野三所権現と大水主大明神は、同一体であったことが裏付けられます。

 このほかにも若王寺の鎮守社与田神社には、平安後期から室町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わります。その後、文正年間や長亨年間に、大内郡の白鳥や引田の先達たちが檀那を導いて熊野詣でを行っている文書も残っています。以上からは、大水主社周辺では熊野信仰が人々の間に浸透していたことが分かります。
 大内郡に熊野信仰を持ち込んだのが熊野修験者たちでした。
その結果、水主神社周辺には修験道も浸透していたようです。それは以前にお話したように「内陣大般若経」が石鎚山から修験者によって運ばれたという「牛負い般若伝承」からもうかがえます。修験道の霊山・石鎚山から逮ばれたという伝承から、修験道との関係を読み取れます。
増吽(与田寺)
増吽(与田寺蔵)

 ここで増吽に再び目を向けましょう。
増吽は、このような熊野信仰や修験者が活躍する大内郡で生まれ、高野山で真言密教を学んでいます。当時の真言密教は山岳信仰と深く結びついていますから空海が行ったような山岳修行を僧侶達も行っていました。増吽もこの流れの中に身を投じたことが考えられます。その修行の中で、彼は多くの霊山や行場を巡り、人的なネットワークを形作って行ったのではないでしょうか。それは、増吽が勧進修験者への道を歩むことでもありました。
 
 「旧記』には、増吽が大水主・五社南宮を勧進活動により建立したと記されています。また熊野三山を水主に勧請したとも記されます。事実は別にして、当時周囲からは増吽が熊野系勧進僧として見られていたことがうかがえます。
茂木町の文化財「大般若経600巻他」
大般若経
 増件のもう一つの顔は、写経集団のリーダーであったことです。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、写経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの写経依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業の痕跡とも考えているようです。これが前回お話しした「北野社一切経」という大事業につながります。
 「北野社一切経」は、増吽の弟弟子の覚蔵院増範が大願主となっていますが、今見たように増吽を先達とする写経集団が背後にあったからこそできた事業でした。増吽だけでなく讃岐や阿波の僧侶たちがこの写経集団に加わっています。
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面

それでは、彼らと増吽を結びつけたものは何だったのでしょうか。
その精神的紐帯は熊野信仰にあったようです。増吽は、幾度となく熊野参詣を行い、厚く信仰したと伝えられます。彼が先達として行った熊野参拝の様子を伝える文書が、仁尾の覚城院文書の中に残っています。
先度、付使宣、進状候しに、預御返事候、乃熊野参詣之銭送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈疇候者哉、事繁候、篤志誠以喜存候、今日十九日舟出し候ハんと申居候へは、五月雨水々しく候て、末天陰に天気待居候、経衆ハ廿人、於阿讃両州調之候、伶人両三人同じく参候、彼是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参詣事被申下候、毎事計会、可被察候、露命之習、秋までも存命候者、下向候て、可入見参候、何事御助成大切候、恐々
五月十九日                                                     増吽(花押)
覚城院御返報
意訳変換しておきます
先日の進状にお返事をいただきました。熊野参拝の費用について送銭いただき喜んでいます。道中は費用がかかり、祈祷なども頻繁に行っていますがいただいた篤志は、誠に喜びに絶えません。本日19日に、出港予定でしたが五月雨で天気が悪く、天候待ちとなっています。
 経衆20人、伶人(楽人)2~3人は、阿波と讃岐で調え同行予定です。如法経百日管弦のために、伶人(楽人)を伴って参詣するようにと云われているので、それを適えて参拝することができます。秋まで熊野に留まる予定ですが、帰国後は、また出向きます。その時にお会いできることを楽しみにしております。最後になりましたが、御助成いただきありがとうございます。

最後に「覚城院御返報」とあります。熊野参詣に際しての仁尾の覚城院からの餞別への返礼のようです。内容は、熊野参詣のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めされているようです。
足止めされているのは、どこなのでしょうか? 
与田寺の外港の引田湊が第1候補です。先ほども述べましたが、当時の引田湊は熊野水軍の拠点湊でもあり、多くの舟が紀伊や熊野との間を行き交っていたようです。芸予諸島の大三島と熊野の間には「定期船」も運行されていたと考える研究者もいます。そのため引田湊は、伊予や讃岐からの熊野詣信者が舟に乗るために集まってくる集結地点であったと私は思っています。引田港の後にあったのが水主神社とその神宮寺の与田寺でした。増吽が先達として、経衆(書写スタッフ)20人、伶人(楽人)2人を引き連れて、熊野詣でに出発する湊にはふさわしい場所のように思えます。
 第2候補は、阿波の那賀川河口です。

水主神社 那賀川流域jpg
この周辺には、増吽の率いる経衆(写経スタッフ)が多数いたところでもあり、紀州との関係が深いところでもありました。増吽は逢坂峠を越えて、ここまでやって来て、紀州への船便を待っていたのかもしれません。その間に熊野詣でに参加するメンバーを整えていたことも考えられます。
 さらに、如法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参拝するとあります。「如法経」とは、法華教を写すことです。この行事に参加するために、20名もの書写スタッフを引率しているようです。このような「集団写経遠征」は、熊野だけでなく備中や阿波などに向けても行われていたのではないかと私は考えています。各地で行われる大写経事業に、大勢のスタッフを引き連れて応援に駆けつける増吽の姿が私には見えてきます。そして、そこで何ヶ月か泊まり込んで、写経を行い完成式典に参加して帰国する。そんな活動を増吽は重ねていたという仮説を出しておきましょう。これも勧進聖のひとつの活動パターンだったのかもしれません。このような活動を通じて、増吽の人的なネットワークは広く、遠くまで張り巡らされ、それに連れて名声も高まったのかもしれません。
水主神社2(讃岐国名勝図会)
江戸時代の水主神社周辺(讃岐国名勝図会)
後世の江戸時代前期になると、増吽と熊野を結びつけた文書が増えます。
『御領分中寺々山来』には、つぎのように記されています。
熊野三所大権現を以て同鎮守と為す。増吽僧正恒に熊野三所を信す。始め毎歳熊野に参詣。応永年中熊野新宮再興。増吽幸に参詣あり、祝等増吽に遷宮の導師憑。増吽曰汝等来る午日寅の一天に。新殿に於て神体を遷す可し。予は亦讃州誉田に於て開眼供養す可しと。契証有つて、当院に帰る。件の日寅の一人に当院に供養有り。其の時増吽檀上にて振鈴の声虚空に響いて熊野山に聞くと。村翁の伝説也。将、当所水主山にして三双の高嶺有り。
増吽後に、この山に熊野三社を勧請し。当寺中に於て塩水湧出の泉を掘る。毎朝塩水にて垢離あって医王山の嶺に踏。勧請の三社を伏拝。則伏拝の松並塩水涌出の泉今に之れ在る也。
意訳変換しておくと
 熊野三所大権現を勧進して、鎮守とした。増吽僧正は、熊野三所を信仰し、毎歳のように熊野に参詣し。応永年中の熊野新宮を再興の際に、増吽は参詣した。その際に新宮の祝が増吽に遷宮の導師を依頼した。そこで増吽は次のように応えた。「午日寅の一天、新殿に神体を遷すべし、私はそれを讃州誉田(与田寺)で開眼供養します」と。参拝が終わり、讃岐へ帰って来ると、約束した日に、与田寺で供養を行った。その時、増吽が檀上で鈴を振ると、その音が虚空に響いて熊野山に届いたという。これが村翁の伝説である。当所には水主山という三双の高嶺がある。増吽は後に、この山に熊野三社を勧請した。そして、当寺の境内中に塩水が湧き出る泉を掘った。毎朝塩水にて、垢離をとり、医王山の嶺に登り勧請の三社を伏拝する。伏拝の松と塩水涌出の泉は、今に伝わっている。

また『虚空蔵院・大水寺由緒』の「増吽僧正は常に熊野権現を信ず」には、つぎのように記されています。
応永年中熊野新宮再興あり。其節増吽熊野に参詣ある。社務・巫祝など増吽を以遷宮の導師と頼み奉る。増吽の曰く 我れ国に有り遷官の法執行す。来る午の日寅の一人に神を新殿に移し奉る可しと。契諾有って帰国せり。去れば契約の日に増吽遷宮の供養の法を之れ執行す。共の時供養法の鈴の声熊野由に於て虚空に聞こえるム々。増吽自筆の棟札など新宮に之有リム々。また水主村において一所の高山有り。増吽老年の後、熊野一所権現を勧請して当寺の鎮守と為す。塩水を以垢離を取り、当山自り毎日これを伏拝す。当山に於て其塩水涌出の泉あり、又伏拝の所の松とて古本今に之有り。

 さらに「讃岐国大日記』は、増吽が熊野に「毎月参詣」したと記し、『御領分中寺々山来』には「毎年参詣」とあります。参詣の回数については誇張があるとしても、熊野に度々参話していたことは事実のようです。ここからは増吽が強い熊野信仰を持ち、先達を勤めるなど熊野修験者であったことが分かります。
次に増吽が熊野三所権現を、水主三山に勧請したということについて見ておきましょう
『讃岐府志』には、
  水主三山権現。大内郡に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。以、三山権現と為す。
『讃岐国人睡譜』には、
  増吽、常に熊野三社を信じて、月詣す、故に彼の三社を水主山に移し、毎日参詣而怠らず云々。

とあります。しかし、増吽以前から熊野信仰の痕跡が見えることは、前述したとおりです。つまり、増吽以前から水主神社には、熊野権現が勧進されていたと香川県史は記します。
これに対しては、次の2つの考え方が研究者の中にもあるようです。
①江戸時代初期に「増吽の伝説化」と共に、増吽勧進説が流布されるようになった。
②水主山には若一王子権現が古くからあったが、正式に熊野三所を勧請・再興したのは増吽である。
さてどうなのでしょうか。それを証明する史料はありません。
虎丸城 - お城散歩

増吽との関係で資料に記されているものに「石風呂」があります。
『水主石風呂記』(寛保三年( 1743)には、石風呂が次のように記されます
  また一説に熊野権現の風呂とも云う。水主村三高山ありて、南最高嶽の嶺に新宮大権(本地薬師)石の社建つ。西高嶽本宮(本地阿弥陀)、北の高根那智(本地観音)なり、この一の麓に三の石風呂ありしに、ただ新宮山下の風呂のみを償し、自他の人あつまり人治養す風呂の谷と名つせく、二所の風呂はいつとなく破壊す、ゆえに今の世の人、是を知らず。

ここからは次のような事が分かります
①水主村三高山には、
南の嶺に新宮大権 (本地薬師)石の社、
西高嶽に本宮 (本地阿弥陀)
北の高根に那智 (本地観音)の三者が山上に鎮座している
②三高山の麓に熊野権現の風呂と呼ぶ石風呂がある。
③新宮山下の風呂は、多くの人が集まり、人々を治養するので風呂の谷と呼ばれている
④その他の風呂は、いつとなく途絶えていまい、今は誰も知らない
虎丸城 - お城散歩

『讃岐府志」にも、同じような内容が次のように記されます
水主三山権現大内部に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。三山を以、権現と為す。旧一石室有り。温泉に擬し、痢疾の徒を療す。其法生柴を以、石室の内に焼き、然れば灰炭を払い、洒たに塩水を用い後、瘤者を延べ、而して石室の内に坐じめ。炎気酷烈する寸は則ち出る。この如くすること一日二三次、或るは七日を期す。沈病の者十に六七を全。皆謂う増吽か行感至りこの如く。死者起きせしむ。俗に岩風呂と曰く。(中略)
按ずるに往苦より影行有りと雖も、中絶に依り、増吽再興す。諸人歩を運び石室を見ること、三嶺の麓に各之在り、今風呂は新宮風呂なり。
  意訳変換すると
水主三山権現は大内郡に鎮座する。明徳年中に、僧増吽が新宮本宮那智の三所神を勧進し、三山を権現とした。そこに古い石室がある。温泉のようで、様々な疾病の人々を癒やす。その使用法は、生柴を石室の内で焼いて、その後で灰炭を取り除いて、塩水をまく。そこへ瘤者を入れて、石室の内に座らせる。炎気酷烈なので長くは居られない。これを一日に二・三回、七日程続ける。そうすると沈病の者でも、十人の内の六・七人はよくなる。増吽さまのお陰で、死者も生き返ると皆が云う。俗に岩風呂という。(中略)
 この歴史を考える古くから岩風呂はあったが、いつしか途絶えていたのを、増吽が興したのであろう。かつては、、三嶺の麓に三つの石風呂があったが、今は新宮風呂だけになった。
ここでも三山の麓に風呂があったが、今は新宮のみであることが記され、増吽が再興したとされます。

では、この石風呂はどのような意味をもっていたと研究者は考えているのでしょうか。
  以前に湯屋と風呂のちがいについて次のように分類しました。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
讃岐で古来から見られるのは②の温室(風呂)です。瀬戸内海の海岸部の岩屋では、海藻をつかって蒸風呂として利用したところがいくつか知られています。水主の石風呂は、熊野権現の風呂と言う別称があるように、このエリアの中世以来の熊野信仰と関係があります。神仏への参詣の前には、精進・みそぎがおこなわれましたが、水垢離(コリトリ)・塩垢離による熊野精進を熊野修験者は行いました。

熊野本宮参詣では昌之峰温泉でコリトリを行いました。
これと同じような関係が、水主の熊野三山と石風呂にもあったようです。水主の風呂は、中世の大内郡の人々や熊野への参詣がかなわない人々が、水主の本宮那智新宮の山麓に設けられた石風呂に入浴して三山詣を行ったのでしょう。
 山岳宗教では女人を不浄としましたが熊野神社は、女人を嫌いませんでした。水主の三つの風呂でも江戸中期まで、新宮風呂に入る女性に、弘海寺(浄土寺)で水除けの符を配て入浴させていたといいます。これを見ても水主の石風呂の起源は、中世まで遡るようです。近世になると、これら石風呂の宗教的な起原は忘れ去られ、湯治目的の温室としてのみ引き継がれていくようになります。
 中世の石風呂は、現在のように衛生・娯楽よりも宗教施設であったことは以前にお話しした通りです。熊野三所と熊野権現風呂を再興したのが増吽という可能性も、大いにあるようです。
以上、増吽を熊野修験者として捉え、熊野詣での先達、熊野権現の勧進、石風呂の設置などについてみてきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
   唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       香川史学1989年
 香川県史 

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。

幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です
まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。
神宮寺とは、水主神社に対しての神宮寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

 研究者は風天図の構図を見て次のように記します。

「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。

空海像 高野山と善通寺の2つの様式
弘法大師像の2つのタイプ

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。これについて南海流浪記には次のように記します。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。

空海の捨身行 我拝師山
善通寺様式御影 安元年(一四四四)頃京都・智積院
京都智績院の善通寺御影 右後ろに釈迦如来が現れている

空海の捨身行を受けて、御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
この様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。これが「善通寺形御影」と称されるようになります。その中で上の京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同④多度津之御影供一衆流通物(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
③阿闍梨七十九而書之
②文安元年四月仏誕生日 ①大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓
①大願主平野弾正が、母妙厳の兜率天住生を願い、
②文安元(1444)年の四月八日に寄進したこと。
③本文に添えて「阿闍梨(増吽)七十九面書之」とあること
④「多度津の御影供一衆」による奉納物であったこと。
「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
④の「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。
ここからは与田寺に拠点を持つ増吽が瀬戸内海や阿波方面にまで教線を伸ばしていたうかがえます。増吽の活動は、仁尾や白峯寺・備中・備前に伸びていたようですが、多度津にも及んでいたことを押さえておきます。
 描かれているお姿を見ておきましょう。
後頭部が盛り上がって顔は少し上を向いています。後頭部が大きいのは「異才」の証しとされていたようで、高僧像には後頭部が盛り上がって描かれることが多いようです。
研究者は次のように記します。

衣文線の起筆に特徴があり、描線に力強さが感じられる。肉身や衣文のぼかしは控えめで、彩色は誇張なく穏やかにまとめられている。色の肉身が肉感的で、口の上下にうっすらと髭の剃りあとを残す。裏に貼られた施入状には「讃岐国多度津之御影供一衆流通物」とある。

 絵絹の縁を白線と朱線で囲むのはあまり例がないようで、増吽の描いたとされる善通寺タイプの御影にもいくつかのタイプがあったことが分かります。増吽一人によるものではなく、与田寺工房の作品と考えた方がよさそうです。
岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。

本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。

善通寺御影 仁尾覚城寺
仁尾・覚城寺の善通寺様弘法大師像
仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。
この弘法大師像について三好賢子氏は次のように評します。
肉身は薄墨で描いて宍(しし)色に塗り、衣は輪郭を墨、衣文線を茶色で描き、朱でぼかす。五鈷杵、水瓶、椅子の金具は金泥を塗る。全体に描線が細く、五鈷杵の形状や数珠などの細部も丁寧に描かれており、善通寺御影のなかでは優品と言える。旧箱書に「出釈迦大師御影、増吽僧正筆」と墨書される。覚城院には増吽による応永三十三年(1426)の再興願文「覚城院縁起」と書状がのこされ、増吽との直接的関係がうかがえる。平成九年度の修理により、画は絹目が非常に粗く、裏面からの黄土とみられる顔料の塗り込みによって安定が図られていることが確認されている。
増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は

熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
それは善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたと研究者は考えているようです。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
香川県立ミュージアム本の善通寺様弘法大師像
弘法大師御影 県立ミュージアム版
上図の拡大版
この弘法大師像について、三好賢子氏は次のように評します。

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(一四四九~五二)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。
以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
三好賢子 香川県立ミュージアム 弘法大師空海生誕1250年記念特別展
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水主神社 古代郡名

 旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。 
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
 南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。

水主神社 地図
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
肉筆 古写経 大般若波羅蜜多経 全600巻揃 室町 江戸初期 中国経典経本唐本 真言宗天台宗 仏教密教 大般若経  古筆仏書和本古文書写本仏画(掛軸)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
オークションに出されていた写経大般若経六百巻

まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
大般若経600巻を一気読み!日龍峯寺で大般若祈祷会が行われました! - 伝説ロマン溢れる津保谷(TSUBODANI)のブログ

旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院
②庵治町の願成寺
③観音寺市の宝寿寺
④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
秋の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ) | 成田山 東京別院 深川不動堂
経函に保管された大般若経

 この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
 本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳

  意訳変換すると
 次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳

  ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
 このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
   それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
 経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
   幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。

至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
水主神社 那賀川流域jpg

それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
 また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。

  大内郡における神仏習合
 旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。

水主神社 地図
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。
 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対
P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)

P1120167水主神社 女神3
女神像2(水主神社)

P1120169水主神社 女神4
女神像4(水主神社)
大水主神社獅子頭  松岡調
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。
  どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
 引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
 横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
 八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
 引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
  しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
 その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。 
  四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
 大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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